第209話 大賢者③
今まで何の魔力も感じられなかったのが嘘のように。
右手を空へ掲げるその存在の手に、あまりにも膨大な魔力が渦巻いた。
目の前の将軍ナツヒへ集中していたレナさんは、その時初めて彼女の存在に気付く。
慌てて防御しようとするレナさん。
だが、それは絶望的に遅すぎた。
レナさんが、特急で作った魔法障壁は、一瞬の判断で作ったにしては厚く強固で。
四魔貴族が至近距離から放つ魔法を防ぐには、あまりにも脆かった。
膨大な魔力が込められた強力な風の渦が、レナさんの魔法障壁を、豆腐でも切り裂くかの如く簡単に切り裂く。
ーーズザザザッーー
鮮血が宙を舞い、辺りに撒き散らされる。
血みどろで倒れるレナさん。
すぐにでも助けに向かうべき私は、一歩も動けなかった。
あまりにも膨大な魔力。
あまりにも圧倒的な存在感。
以前、一度だけ見た時には感じ取れなかった強大さが、そこにはあった。
「魔王様がお越しになったと聞いて、急いで来てみれば、家畜相手に何をやっている」
私の存在など、視界にすら入れずに四魔貴族スサは将軍ナツヒを問い詰める。
私は凡人だ。
それは元の世界でもこの世界でも変わらない。
その頭に小が付くとはいえ、賢者の名を与えながらも、私には到底、その名に相応しい賢さはなかった。
その結果がこれだ。
エディさんを取り戻す戦いを少しでも楽にしようとして。
決して必ずしも戦う必要があったとは言えないスサを相手にすると決め。
倒すだけならもっと早くに決着をつけられたはずのナツヒの配下との戦いも、いたずらに長引かせた。
その結果、劇的に成長し、貴重な戦力となるはずだったはずのレナさんは全身血だらけで地に伏し。
私は、一人だけでも手に余る四魔貴族を、将軍や他の配下がいる中で、たった一人で相手しないといけなくなった。
これなら、王国を見捨て、一人でミホちゃんのところへ乗り込んだほうが良かった。
同じ死ぬなら、せめてエディさんの側で死にたかった。
私は、せっかくお父さんとお母さんの命で拾った大切な命を、無駄にしようとしている。
そんな私など、ないものとして扱い、ナツヒがスサへの恐怖を隠せずに言い訳を始めた。
「ス、スサ様がこんなに早くお越しになられるとは思わず、運動不足の解消にと、遊んでおりました」
そんなナツヒをスサは厳しい目で見る。
「他の者を連れては遅くなるから飛んで来たのだ。遊んでいたという割には、私の大事な配下がなぜこんなに死んでいる? テラ兄との王選を控えた大事な時期にこの不始末。もしそこの家畜どもにやられたとでも言うのなら、監督責任でお前の首を飛ばすぞ?」
スサにそう脅されたナツヒは、引き攣った笑みを浮かべながら答える。
「こ、これは魔王様がなされたのです。アレスの娘と子供を産ませるために生かしておいた人間のオスを、なぜか魔王様がご存知でして。アレスの娘とともに叛逆を企てようとしたそのオスを我々が殺そうとしていたところ、魔王様がそれにご立腹されたのです。その後、一旦は落ち着かれましたが、落ち着かれた後の様子はまるで、待ち焦がれた想い人に会われたかのようでした」
その言葉を聞いたスサの顔から血の気が引いていく。
「魔王様が王位を降りられたのは、想い人を探すためだと聞いている。まさかとは思うが、もしその想い人がそのニンゲンだったとしたなら……」
スサの言葉を聞いたナツヒの顔からも血の気が失せる。
「お前だけでなく、私も後で殺されかねない。クソッ。せっかく王位につくチャンスが巡ってきたかと思えば……」
スサはナツヒに告げる。
「魔王城へ行くぞ。魔王様のご機嫌を損ねていたならば、次期魔王どころか明日の命すらない」
スサはそう口にした後、私の方を見る。
「その前に腹ごしらえでもするか。全力でここまで来たら、腹が減った」
そう言って笑うスサは、おやつを目の前にした子供のように無垢で獰猛な笑みを見せる。
このまま私の存在などないものとして扱ってくれるかと思ったが、やはりそうはいかないようだ。
「スサ様。このニンゲン。ニンゲンの割にはそれなりに戦えますので、お気をつけください」
ナツヒの言葉を聞いたスサが鼻で笑う。
「誰にものを言っている? アレス亡き今、私とまともに戦えるような人間など存在しない」
ナツヒから視線を私に戻したスサは、ニヤリと笑う。
「おいニンゲン。黙って食われるなら苦しまないように殺して食ってやる。抵抗するなら、死んだ方がマシだと思えるような苦痛を味合わせたあと、生きたまま己の体が食われる恐怖を体感させてやりながら食ってやる。好きな方を選べ」
私はこめかみを流れる汗を拭いもせずに答える。
「私なんかより、そこで転がっているアレスの娘を食べたらどうです? そちらの方が良い血筋で栄養がありますよ」
人として最低な発言をしながら、私は対応を考える。
私はエディさんと違って賢くない。
そんな私が選ぶ作戦は失敗ばかりだし、裏目に出てばかりだ。
どれだけ考えても無駄なのかもしれない。
それでも私は考える。
賢くなくても。
また間違うのかもしれなくても。
それでもほんの僅かでも可能性があるのなら、私は生き延びてエディさんを助け出すために、できることは何でもやる。
醜く。
意地汚く。
汚泥に塗れても。
私はエディさんのためなら、どんな鬼畜にでも成り下がれる。
……仲間だって見捨てられる。
私の言葉に、スサは馬鹿にしたように笑う。
「このガキは当然食べる。だが、こいつの親には煮湯を飲まされたから、こいつにはできる限りの屈辱を与えた後で、じっくり味わいながら食べる。だからすぐには食べない」
私は、スサの話を聞いて、驚いてしまったことを表情に出さないように気をつけた。
もちろん、レナさんも食べて私も食べるというのは、想定の範囲内なので、残念に思いはするが、驚きはしない。
驚いたのはレナさんが生きていたことに、だ。
スサの攻撃で血塗れになった姿から、死んでしまったものだと思っていた。
つまり、この場を乗り切れさえすれば、レナさんを回復させ、もう一度戦力に加えることができるかもしれない。
……この場を乗り切れれば。
それがどれだけ難しいかは、よく分かっていた。
この世界の歴史上、人間が四魔貴族を倒した記録はない。
一対一に限らず、複数人でも、軍を挙げても、ただの一度も倒したことはない。
そんな相手を。
たった一人で倒さなければならない。
しかも、私と同程度の力を持つであろう将軍と、決して侮ることのできない配下たちも相手にしながら。
私は深呼吸する。
普通に考えて勝つのは無理だろう。
目の前にいるスサは明らかな格上。
彼女に勝てる気配を、かけらも感じることができない。
それでも私は絶望してはいなかった。
エディさんの気持ちをカレンさんからこちらへ向かせることに比べたら。
ミホちゃんからエディさんを取り戻すことに比べたら。
四魔貴族とその配下の将軍たちを倒すことなんて、比べるまでもなく簡単だ。
「私はリン。歴史上初めて四魔貴族を倒す人間の名です」
私の言葉に、スサの表情から笑みが消える。
「身の程を知れ、ニンゲンが。お前には、死んだ方がマシだと思えるような苦痛を与えた後、生きたまま食ってやる」
スサの言葉を聞き、今度は私がスサの代わりとばかりに微笑む。
「セリフが低俗ですね。そんなのだから、いつまで経ってもミホちゃ……魔王を倒せず、何百年も四魔貴族に甘んじているんですよ」
私の言葉を聞いたスサの怒りが臨界点を越えたのが見ていて分かった。
スサの身の回りを覆う魔力が変質し、周りを暴風が吹き荒れる。
「お前たちは手を出すな。このニンゲンは私が直々に切り刻んでやる」
私はそんなスサを見て、スサを挑発するこのに成功したのを確認した。
私は、何も考えずにスサを煽っていたわけではない。
スサは、ミホちゃんを除けば最高位である四魔貴族に、長期間在位している。
そんなスサを挑発する者など皆無に近かったはずで、スサの煽り耐性は低いと踏んだ。
挑発に乗ってしまえば、確実に勝てる方策より、自身の傷付けられた自尊心の回復を優先させるはずだと私は考えた。
ナツヒや他の魔族と一緒に戦う方がより確実なのに、一人で私を殺そうとする。
実に非合理的な判断だが、頭に血が上った状態ではそれに気付けない。
そして、怒り狂ったスサへものを申せる配下も存在しない。
何か言いたそうな顔をしていたナツヒも、結局口を開けずにいた。
私は賢くない。
考えに考え抜いた作戦も失敗ばかりだ。
でも、だからといって、それは何も考えなくてもいい理由にはならない。
考えてもうまくいくかは分からないが、考えなければ間違いなく殺されるだけだ。
最後の最後まで、考えに考え抜いて戦い抜くのみだ。
結果として、これで一対一に持ち込むことができた。
ナツヒたち配下が、最後まで絶対に手を出さない保証はない。
でも、いきなり全員から総攻撃を受けるという最悪の事態は免れた。
今、目の前にいるのは怒り狂った四魔貴族が一人。
吹き荒れる暴風が、彼女の内心を表すかのように、猛威を振るっている。
「楽に死ねると思うなよ」
そう言ってこちらを睨むスサ。
そんなスサ相手に右手を向ける私。
「そんなこと思いません。だってここで死ぬ気はありませんから」
私の言葉についに堪忍袋の尾が切れるスサ。
「……死ね」
スサがその右手を無造作に振り上げた。
私は、集中してそれを見る。
右手には濃縮された魔力が込められていたが、その魔力は何層もの空気に遮断され、こちらに気配を感じさせない。
魔力を感じながらの戦いに慣れている者ほど気付かないであろうトラップ。
目に見えず、魔力を感じることすらできない攻撃ほど恐ろしいものはない。
しかもそこには、最上級魔法並の魔力が秘められている。
初見殺しの攻撃。
でも、私には通用しない。
空気の層で封じ込められた魔力も。
そこに込められた魔力量も。
私の目にははっきりとみえる。
触れれば吹き飛ばされてしまうであろう、圧縮された空気の塊を、私はヒラリと躱した。
「何っ?」
驚きを隠せないスサへ、私はすかさず攻撃を加える。
『劫火(ごうか)!』
無詠唱で放たれた燃え盛る豪炎が、スサを襲う。
最上級魔法に相応しい威力を誇る炎。
でも、その炎は、魔法障壁も用いないスサに、火傷すら負わせることができない。
私はその様子も、集中して見た。
一見、スサは無防備に私の攻撃を受けているように見える。
ただ、本当に無防備なわけではなかった。
炎を注ぎながら見ていると、スサは炎が接している部分へ濃厚な魔力を集中させ、体の内側から魔力を押し出すことで炎を防いでいた。
圧倒的な魔力量を持つからこそできる芸当。
私がスサと同じことをやって魔法を防ごうとしても、数秒と持たず焼け焦げてしまうだろう。
相手に気付かれないよう、魔力を隠す、精密で高度な技術。
内側から押し出すだけで、最上級魔法を難なく防ぐ膨大な魔力量。
どちらかだけでも厄介なのに、その二つを持ち合わせるスサは、四魔貴族の名に相応しい実力の持ち主だ。
もし私に『観察者』の称号がなければ、初めの一撃で大きなダメージを受け、なす術なく倒されていただろう。
スサの恐ろしいところは、無造作に振る舞っているように見せて、相手に自分が行っていることを気付かせないようにする計算高さだ。
称号の力でなんとかなっているだけで、スサと私の間の実力差がどれほど離れているかは、このたった一回ずつのやり取りでよく理解できた。
私の魔法を受け、少しだけ冷静さを取り戻したスサが私は尋ねる。
「……お前は何者だ? なぜ私の攻撃が見える? なぜ人間のくせに呪文も唱えずにこれほどの魔法が使える?」
スサの問いに、私は答える。
「私は『小賢者』リン。名前以外の質問には答えられません。貴女が降参してくれるなら別ですが」
スサは私の言葉に対し、鼻で笑う。
「ふんっ。減らず口を。口を割らないと言うのなら、力ずくで割らせるまで。それにしても、お前ほどの実力を持ちながら『小賢者』とは笑わせる。アレスを除けば、お前ほどの人間には会ったことがないのに、大や中はお前以上とでも言うのか?」
スサの言葉に、戦闘中ながら私も苦笑してしまう。
「確かに私もアレス様以外で、単独で私より強い人間に会ったことはありませんね。貴女を倒したら、大賢者とでも名乗ることにします」
私の言葉を聞いたスサは、機嫌を良くしたのか、獰猛な笑みを浮かべる。
「アレスが死んで、退屈していたところだ。私は口だけの雑魚は嫌いだが、強い者はたとえ人間でも嫌いではない。テラ兄との王選に向けたいい実戦だ。簡単に死んでガッカリさせてくれるなよ」
スサはそう言うと、右手を上げる。
ーーシュッーー
振り下ろした右手からは、空気の壁に隠れた高密度の魔力を纏った風の刃が飛んでくる。
私はそれをひらりと躱す。
「クククッ。やはり見えているようだな。将軍たちの中でも初めてで見抜ける者は少ないのに、なぜ見えるのか。食す前に聞かせてもらおう」
私は右手を前に向けながら答える。
「先ほども言いましたが、それは無理です。貴女はここで、私に殺されるのですから」
そして、小手調ではない、本当の戦いが始まった。
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