第206話 黒龍

 ドラゴンという生物は、かなり特殊だ。


 同じドラゴンでも、階位が異なると、それは別の生物と言って過言ではない。


 生殖行為で子孫が残せるのは、一階位差の相手とまで。

 二階位違うと、類人猿と人ほどに異なる。


 だから、個体数の多い下位のドラゴンならともかく、個体数が極端に少ない上位のドラゴンとなると、交配相手と巡り会うのも一苦労だ。

 特に、人語を解し、人の姿を模すことのできる第三階位以上のドラゴンともなると、伴侶と巡り会うのは奇跡に近い確率となる。


 後にリカと名付けられることとなる第二階位のドラゴンも、例に漏れることなく、長い年月を一人で過ごしていた。


 彼女の両親は、ともに第二階位のドラゴンだった。


 銀色に輝く美しい鱗を持った彼女の両親は、彼女が独り立ちできるほどに成長した後、役目を終えたとばかりに、すぐに自殺した。


 上位のドラゴンの死因の一位は自殺だ。


 第二階位の時点でかつての魔王と同等の力を持つが故に天敵もなく、数千年の時を超えても寿命の尽きない彼らは、その長すぎる人生に飽きて自殺してしまう。


 両親が死んでからの彼女の日々は、孤独との戦いだった。


 来る日もくる日も繰り返す、代わり映えのない日々。


 初めのうちこそ、その巨大な翼で大空を駆け、世界を旅して回ったが、それにも数十年で飽きた。

 己を狩ろうと挑んでくる人間や、己を隷属させようとする魔族との戦いも、何十回も繰り返せば刺激もなくなる。


 それでも両親が死んでからの数百年は、世界の変化を感じるべく、数年に一度は世界をまたにかけて、空を駆けていた。


 だが、何度世界を回っても、この世界には大きな変化は起きなかった。

 人間と魔族の縄張りが多少大きくなったり小さくなったりはしたが、文明に革新は起きず、数百年を生きる彼女へ、刺激を与えてはくれない。


 千年を超える頃には、彼女は生に飽きていた。


 魔族の領域と人間の領域を分つ大深林の中央にて、静かに座してただ時が過ぎるのを待つのみ。

 いつの間にかそんな生活を送っていた。


 数ヶ月に一回、身の程を弁えずに挑んでくる魔物を狩って食すだけが、変わらない日々の数少ない変化点だった。


 それでも座っているだけでは、美しく輝く銀色の鱗に苔が生すだけなので、仕方なしに空を駆けることはある。


 そんな日々の中、数年ぶりに翼を開き、神国と呼ばれる人間の国でも眺めようと空を駆けていた時、奇跡的に出会ったのは第一階位のドラゴンだった。


 金色に輝く鱗は、彼女のものより美しく、その魔力量も、彼女を遥かに凌駕していた。

 圧倒されそうな存在感。

 生物というより神と言われた方が納得できる存在が目の前にいた。


 彼女は、生まれてから千年以上、一度も感じたことのない衝動に駆られる。

 体温が上昇し、呼吸もままならず、胸が締め付けられ、下腹部に疼きを覚えた。


 彼女は直感していた。


 この目の前の存在を置いて、己が交配を望む者はいないだろうと。


 彼女は思わず尋ねる。


「我は第二階位の龍。我に是非貴方の子を産ませて欲しい」


 いきなり過ぎるのは分かっていた。


 だが、千年を超える時を生きる彼女も、恋愛についてはど素人。

 そもそも、一階位以内の異性と話をするのは、遥か昔に自死した父親以外、初めての経験だ。


 この期を逃してはなるまいと思った彼女を責めるのは酷だろう。


 そんな彼女を見て、金色の龍は侮蔑の目を向ける。


「……これだからトカゲは」


 彼女は分からない。


 金色の龍が、なぜ急にこの場にいないトカゲのことを話すのか。

 まさか自分のことをトカゲ呼ばわりされたとは露ほどにも思わない。


 それ以降何も言わない金色の龍に、第二階位のドラゴンは尋ねる。


「すまぬ。何かしら返事が欲しいのであるが……」


 そんな彼女へ、金色の龍は、忌々しそうに言葉を返す。


「私はトカゲと会話する言葉は持ち合わせていない。私に穢らわしいトカゲを抱けというのか? 私とお前は別の生き物だ。人間だって猿を抱けと言われれば断るだろう? 私も同じだ」


 あまりにも辛辣な金色のドラゴンの言葉に、彼女は次の言葉が出てこない。


「すぐに発情して子種を欲しがる。これでは本当に動物と同じだな。私はお前のような下等生物とは違い、相手を選ぶ。種が欲しいだけなら、下等生物同士で探せば良い」


 初めて出会った子供を産みたいと思える相手。

 初恋と言ってもいいだろう。


 その彼女の初恋は、あまりにも無惨なものになった。


「消えろ。そして二度と私の前に姿を見せるな。下等生物が」


 金色のドラゴンは、それだけを言い残すと、くるりと背を向けて飛び去っていった。

 後に残された彼女は、しばらく呆然とした後、肩を落とし、項垂れながら、飛んできた道を引き返し、大森林へと戻る。


 森の中のいつもの場所へ戻った彼女は、それまでにも増して、外に出なくなった。

 自ら外に出ることなく、ただその場に座して過ごした。


 鱗が苔むし、くすんでいっても、彼女にはもはや、再び翼をはためかせる気力がなかった。


 ただ、そんな彼女の気持ちとは関係なく、いつも通りの魔物や、時には魔族や人間が訪れることもあった。


 そのような時だけ、仕方なく彼女は己の身を動かす。


 魔王と呼ばれる者が腕試しと称して戦いを挑んできたこともある。

 命の危機を感じる五分の戦いを演じたが、昂ったのは一瞬だけで、すぐにいつもの通りに戻った。


 人間にしてはそれなりに強い者が訪れ、己の血が欲しいとせがんできたこともある。

 踏み潰しても良かったが、人間にとっては強力な魔物ばかりのこの森を、命をかけて抜けてきたのだと思うと、何となくかわいそうに思え、血を分け与えたこともあった。


 だが、森から動かずに過ごすうちに、そのような記憶に残る出来事もほとんどなくなってくる。


 生きたままに死んでいるような生活。


 子孫を残すまでは死ねないという、生物としての本能だけが、辛うじて彼女を生かしている日々。


 あまりにも長い年月が経つうちに、彼女は最早、どれほどの時、自分が生きてきたのかも分からなくなっていた。


 ただ子孫を残すその時だけを待ち、無駄に命を長引かせる日々。


 あまりにもすることのない彼女は、ある日から想像するようになる。

 ただ交配相手と恋人として愛し合うことを。


 その想像は甘美で。

 ただ交配し、子孫を残すより遥かに楽しく、憧れる想像だった。


 愛した相手と子孫を残す。

 ただ、それだけを想像し、彼女は目を閉じながら日々を過ごした。






 さらに気が遠くなるような長い年月が経ったある日、彼女のもとを魔族の女が訪れる。


 久しぶりの魔物以外の来訪者に、彼女はやりとりするのさえ面倒に思った。


 三階位以上のドラゴンと交配し、願わくばその相手と愛し合い、子孫を残す。

 それ以外の出来事にカケラも興味を抱かなくなっていた彼女は、魔族の女を脅す。


「我が領域に立ち入る愚かな虫はお前か?」


 言葉にそれなりの魔力を込め、並の相手であればそれだけで気絶しかねないだけの威圧。


 だが、魔族の女は全く意に介さず、それどころか彼女のことを馬鹿にしたように答える。


「トカゲさん。私は急いでいるの。土下座してそこをどけば許してあげるから、さっさとどきなさい」


 彼女は、長い間森に篭っていたことで、世界の情勢に疎くなっていた。

 また、半分眠っているような状態だった為、相手の強さにも鈍感になっていた。


 彼女は知らない。


 己の知る魔王の強さが、もはや過去のものとなっていたことを。

 かつての魔王の強さは、今では四魔貴族程度のもので、その四魔貴族が束になっても敵わない者が存在することを。


 寝起きのような状態で虫の居所が悪かった彼女は、普段の彼女なら取らないような行動を取る。


「虫が。あの世で後悔するがいい」


 吐き出したのは全てを焼き尽くす高温のブレス。

 自らの暮らす森を焼き尽くしながら放ったその攻撃は、目の前に立つ魔族の女に火傷一つ負わせることができない。


 ブレスを吐きながら段々と感覚が戻ってきた彼女は、この魔族の女が只者でないことには途中で気付いた。

 魔力は抑えているようだったが、一人でこの森を抜けてきた時点で、それなりの実力を持っていることは必然だ。


 だが、自身ですら簡単には防ぐことのできない高温のブレスだ。

 難なく防げる存在なんて、第一階位のドラゴンか、もしくは存在するのかも分からない神くらいしかいないはずだった。


 この女は何者なのか?


 彼女は疑問に思ったが、その正体はあっさりと分かった。

 魔族の女が自ら魔王だと名乗ったからだ。


「ま、まさか! 魔王がなぜこんなところへ一人で……」


 この森の魔物は強力だ。

 特に彼女が暮らす中心部付近には、彼女ほどではないが、三階位のドラゴン並の力を持つ魔物もいる。

 魔王といえど、単身で来るには危険すぎる場所だ。

 遥か昔、当時の魔王が彼女のもとを訪れた際も、強力な配下を何人か連れていた。


 森を抜けるのには魔物が少ない場所を通るのが常識で、彼女の座する森の中心を抜ける道を選ぶ者のは、無知か無謀のどちらかだ。


 彼女の問いかけに、何かを思い出す魔王。


「そうだった。私は急いで人間の国へ行かなきゃいけない。こんなところでのんびりしている暇はないの。とりあえず、私の邪魔をした貴方には消えてもらうわね」


 そして、彼女を消すという魔王。


 彼女は、命の危機を感じながらも、一方でこの魔王を名乗る存在に惹かれている自分に気付いた。


 第一階位のドラゴンにこれ以上ないくらいに無惨にフラれて以来、誰かに惹かれることなどなかった彼女。

 数千年の時を経て、初めて出会う規格外の存在。


 かつての魔王と同等の力を持ち、強大な魔力と知性を兼ね揃えた自身のことを、トカゲ呼ばわりする女。


 強く美しく尊い存在。

 それが目の前にいた。


 この人のことをもっと知りたい。

 この人のそばにいたい。


 彼女をそんな気持ちが支配する。


 数千年のほとんどを一人で暮らし、誰かと過ごすことに飢えた彼女にとって、目の前の魔王は神が与えた奇跡のような存在だった。


 子孫を残すこと。


 それだけを頼りに生きてきた彼女に、それ以外の気持ちを抱かせてくれた魔王を名乗る女へ、彼女は自然と頭を垂れていた。


 せっかくつまらなかった生に、輝きをもたらしてくれそうな存在に出会えたのに、このまま殺されるわけにはいかない。


 この出会いは運命だ。

 この出会いは奇跡だ。


 この存在と共に過ごすことが、数千年生きてきた己の使命なんだ。


 彼女はそう考えた。


「お、お待ち下さい。お急ぎで人間の国へ向かわれたいということなら、私がご案内します」


 そして、彼女は魔王の僕となった。






 その後、途中で邪魔が入って数ヶ月足止めされたものの、無事人間の国の王都へ辿り着いた彼女と魔王。


 眩い銀色だった彼女の美しい鱗は、いつの間にか、まるで魔王の所有物であることを示すかのように、魔王の魔力の気配と同じ漆黒に変わっている。


 そんな漆黒の鱗を眺めながら、彼女は魔王が用を済ますのを王都の外で待っていると、彼女の主人は、一人の人間の少年を連れてきた。


 虚な目でがっくりと項垂れた白髪の少年。


 人間にしては魔力はあるし、外見もそれなりに整ってはいるが、彼女にはその少年が特別には見えなかった。

 だが、数千年を生きた彼女の心を動かしたたった二人のうちの一人である魔王がその少年に向ける視線は、間違いなく特別なものだ。


 彼女はその魔王の視線を見て、少年にも興味を抱く。


 二人を背中に乗せて、魔王の城へと飛び立つ漆黒の龍。


 背中で感じるのは、虚無に陥った少年を愛しむ魔王の、狂気の愛。


 数千年生きた彼女にも、分からない事は多々ある。

 その一つが異性への愛だ。


 交配ができる一つ上の階位の龍には、完膚なきまでにフラれてしまったし、一つ下の階位の龍は同性だ。

 それより下の階位の龍は、人と猿ほど離れているので、恋愛感情の抱きようがない。


 彼女は、背中で少年に対する魔王の愛を感じながら、じっくりと愛について考えた。






 魔王の城に着いてからは、彼女は人の姿を模した。

 かつて戦ったことのある当時の魔王の姿を真似たのは、彼女の主人である今の魔王を除き、最も記憶に残っていた人だからだ。


 少年を観察してみるが、彼女にはやはり分からない。


 かつての魔王と等しい力を持つ己を、軽くあしらう力を持つ彼女の主人。

 種族の違う己の目から見ても、思わず心奪われる美しさを持つ彼女の主人。


 そんな最高の女性から全霊の愛を向けられる白髪の少年。


 なぜこれほどに、魔王はこの少年に愛を向けるのか。

 そして、なぜこの少年は魔王に気がある『フリ』をするのか。


 その理由が分からない。






 白髪の少年が考え、魔王によってリカという名前を与えられた後、魔王の命でリカは、二人を連れて再び空を舞った。


 空を飛んでいる間も、魔王は少年へ愛を向ける。

 だが、少年は決して愛を返さない。


 人の心の機微に疎い彼女ではあったが、高位の龍である彼女は、その仕草から感情を悟ることに長けている。

 それは違う種族である人間や魔族に対しても同様だ。


 リカには分からない。


 人間のオスとは、性欲の塊だったはずだ。

 かつて人間と接する機会がそれなりにあった頃、美しい人間の女性の姿を借りたリカへ発情してきた人間のオスは数知れない。


 美しい女と見れば、誰彼構わず犯そうとするのが人間のオスだ。

 少年を愛する魔王は絶世の美女で、その美女から、在らん限りの好意を寄せてきている。


 少年は思春期。

 人間の思春期は発情期のようなものだとリカは聞いたことがあった。


 なぜこの少年は、これほどの想いを寄せてもらってなお、その気持ちに応えようとしないのか。


 リカは魔王の命で、その日一日彼女たちを案内する予定だった。


 だが、リカは耐えられなくなった。

 数千年の時を経て、初めて仕えた自身の敬愛する主人が、たかが恋愛などで空回りする様をずっと見ていることなどできなかった。


「我はこれで失礼する。夕刻には迎えに伺う故、お二人の時間を楽しまれると良い」


 リカは逃げることにした。


「あら? 貴女も一緒にいていいというお話をしたわよね? 他にも行きたい場所があるから、貴女がいた方がいいんだけど」


 魔王の言葉に、リカはうんざりしたような顔をして答える。


「お二人の愛し愛しみあう姿に、千年以上独り身で過ごした我の精神が耐えられぬ。これ以上、お二人の姿を見ると、我も番が欲しくなる。命令だと言うなら従うしかないのであるが、お願いというのであればご遠慮したい」


 嘘のコツは、本音を混ぜることだと聞いたことがあったリカ。

 別の意味ではあるが精神が耐えられないのと、番が欲しいという本音を混ぜたリカの言葉に、魔王は納得し、リカはその場を離れることができた。


 二人を残して飛び立ったリカは、空を飛びながら考える。


 魔王は、数千年生きる己が、これまで出会ったことのある全ての存在の中で最高の存在だ。

 これまで最高だと思っていた第一階位のドラゴンすら超える存在だ。

 第一階位のドラゴンは、神の使いとなったとも魔王の僕となったとも噂で聞いたが、今代の魔王の僕にはなっていないのは間違いない。

 ただ、仮に僕にしていたとしてもおかしくないだけの存在感が魔王にはある。


 リカはそう感じていた。


 そんな魔王が人間にしては少し強いというだけの少年に片想いし、弄ばれているという事実が信じられなかった。


 魔王と少年の力の差を考えれば、魅了も支配も可能なはずだ。

 ただ、魔王はそれをしない。

 純粋に少年を愛するのみ。


 リカには理解できない。


 自分より遥かに劣った者を愛する魔王も。

 自分より遥かに優れた者からの愛を受け入れない少年も。


 一瞬で失恋した一目惚れを除き、誰かを愛したことのないリカには分からなかった。


 上位のドラゴンは獣ではない。

 異性のことを単なる生殖の相手とは看做さず、愛という感情も備わってはいる。

 備わってはいるが、出会いの機会のほぼない彼女たちに、異性への愛を理解するのは難しかった。


 それが、気が遠くなるほどの長い年月の間、想像していたものとかけ離れていれば尚更だ。






 しばらく空を旅し、夕日が傾く頃、魔王と少年を迎えに行くリカ。


 遥か上空からでもよく見える目で二人を捉えたリカは、その光景に驚く。


 その瞳に映ったのは、口づけを交わす二人の姿だったからだ。

 明らかに朝とは違う二人の雰囲気。

 数千年の間、リカが頭で思い描いた恋人同士の姿がそこにはあった。


 リカは歓喜する。


 これが己の望む姿だ。


 誰かに惚れるのに理由なんてない。

 相手が己より遥かに弱くても、劣っていても関係ない。


 お互い愛し合えるのであれば、そこに幸せがあるのだ。

 自身と釣り合う相手としか愛し合えないなんてことはないのだ。


 二人の姿を見て、リカの悩みは吹き飛んだ。


 魔王もきっと、この時のために生きてきたのだろう。


 そうだ。

 愛とは自由なものなのだ。


 リカの感情が羨望へと変わる。

 愛を堪能している魔王への羨望に。


 己も誰かと愛し合いたい。

 愛した相手の子を産みたい。


 自らの背中でお互いを思いやり会う二人を感じながら、リカは羨ましく思う。

 どうやっても相手のいないリカの心は、気付かぬうちに二人への羨ましさで胸がいっぱいになっていた。






 魔王の城に戻っての食事。


 相変わらず幸せそうな様子の魔王と、そんな魔王に対し、照れた様子の少年。


 そんな二人を羨ましそうに見ていたリカの平穏はすぐに崩れる。


 ナミと呼ばれる四魔貴族が裏切り、裏切っただけでなく、魔王に対し、少年が魔王以外の者に惚れていると告げたのだ。


 今は仲良く見えていたが、今朝まで少年は魔王に惚れていないと思っていたリカは驚かない。

 先程まで少年が見せていた魔王への愛情と言ってよい感情も、少年から消えている。


 ただ、魔王にとってはそうでないはずだった。

 他の女を好きな男に、あれだけの愛を向けられるはずがない。


 だが。


「ユーキくんがもう、私のことを好きじゃないのは知ってたわ」


 そう告げる魔王。


 ナミも驚いていたが、リカも同じくらい驚いていた。


 人の感情が分からない。

 なぜ魔王は、自分のことを好きでもない相手に、あれだけの愛を向けることができたのか。


 高位のドラゴンとしての己の感覚は、魔王の少年への愛は本物だと伝えていた。

 魔王は間違いなく少年を愛している。


 その後、ナミが夫であるナギを殺し、数千年生きていても知らない超常の力で転移させられ、数万の敵が待ち構える罠に嵌められても、リカには魔王の愛の方が衝撃だった。


 愛とは何だ?


 リカには分からない。


 目の前に神を名乗る女が降臨し、魔王を超える魔力を発している中、リカはまだ混乱の中にいた。


 絶体絶命の窮地。


 そんな窮地の中、未だ混乱するリカへ魔王が命じる。


「ユーキくんを連れて安全な場所まで行きなさい」


 魔王の言葉で我に帰ったリカは、魔王の目を見る。


 そこには、死を覚悟し、愛する者を守るために犠牲になろうとする、強い意志を秘めた目があった。


 その場には、神を名乗る女以外にもリカと同等の魔力を持つ者が数名いる。

 戦っても負けるのは必至。


 リカには、魔王も一緒に連れて逃げるという選択肢もあったが、その目を見たリカにはその選択肢は選べない。


 弱いくせに残ろうとする少年を無理やり掴んで、リカは翼を広げる。

 己の主人を見殺しにして。


「放せ!」


 己の手の中で暴れる少年。


 魔王の最後の願いでなければ、言われるがままにその手を放してやりたいところだった。

 魔王からはこの少年のことも己の主と同じように扱えとも言われていた。


 だが、リカにはそれが納得できない。

 大切な主を見殺しにしてまで、主の愛に応えもしなかった少年を助けることに納得がいかない。


 先程、せっかく己の理想の愛を見つけられたと思ったのに。

 それがやはり幻想だったと結論づけさせたこの少年に対して快く思えない。


「うっ……」


 思わず手に込める力を強め、暴れる少年を締め付ける。


 己の手の中で大人しくなった少年を冷たい目で見ながら、リカは空を駆けた。





 十分離れたところで、リカは一度地へ降り、少年を手から離すと、人の姿へと戻る。


 地に立った少年は、すぐにリカへ掴みかかる。

 褐色の美しい裸体を晒すリカの体には目もくれず、真っ直ぐにその目を睨みつける少年。


「俺を今すぐあの場へ戻せ!」


 そんな少年を冷めた目で見るリカ。


「旦那様のような弱者があの場に戻っても何もできないのである。それどころか魔王様の気が散り、ただでさえ皆無に近い勝率が更に下がる」


 リカは淡々と事実を述べる。

 そんなリカへ、少年は涙を浮かべて膝をつき、懇願する。


「頼む……お願いします。俺はどうしてもミホを助けたい。ここでミホを見捨てたら、俺に生きる価値はない」


 そんな少年を見下ろしながら、リカは尋ねる。


「旦那様には他に惚れた女がいるのであろう? 魔王様のことは忘れ、その者と暮らせば良いではないか」


 リカの言葉に少年は首を横に振る。


「ここでミホを見捨てた俺に、カレンと結ばれる資格はない」


 そう語る少年をじっと見つめながら、リカは語る。


「何度も申し上げるが、旦那様が行っても邪魔になるだけだし、すぐに死ぬ。魔王様に仕える身として、今の旦那様を連れて行くわけにはいかないのである」


 リカの言葉に、少年はなおも懇願する。


「それでも連れて行ってくれ。たとえ足を引っ張ることになっても、犬死することになっても、せめて一緒に死んであげたい」


 リカには分からない。

 無謀なだけのこの少年を愛する魔王のことも。

 他の女を愛しているにもかかわらず、魔王のために死のうとするこの少年のことも。


 リカは考える。


 どうすれば魔王やこの少年のことがもっと分かるようになるのか。

 数千年生きてきて、自身が持った数少ない興味。

 その一つを解き明かすためにはどうしたら良いか。


 そしてリカは思いつく。


 自身のもともとの願いと、この疑問の両方を解決する方法を。


「旦那様。貴方の願いを聞くには条件がある」


 リカの言葉に、少年エディは目を輝かせる。


「条件を教えてくれ! 俺にできることなら何でもやる」


 リカはエディの目を見ながら答える。


「一つは、我に力を示すこと。我は旦那様の力が分からぬ。魔力量を見る限りでは厳しい気がするが、最低限の力があるかは確認したい。そしてもう一つは……」


 そう言ってリカは笑顔を作る。

 妖艶で、獲物を絡め取る蛇の目をした笑顔を。


「旦那様の力次第だ。旦那様の力が我の目に敵うものだった時、改めて話そう」

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