第193話 魔王の奴隷⑤

 城に戻った俺とミホは、それぞれ自室に入った。


 俺は、ベッドに仰向けになりながら考える。


 ミホといるのは楽しい。

 ミホの笑顔を見ると幸せな気持ちになる。


 もし俺の心にカレンの存在がなければ、改めてミホに恋をし、ミホと結ばれる未来もあったのかもしれない。


 今日一日、ミホと過ごして、俺はミホと一緒にいるのも悪くないと思ってしまった。

 俺のことを忘れているカレンのことを、俺も忘れて、ミホと生きるのも悪くないと思ってしまった。


 こんなにも自分のことを愛し、尽くしてくれる女性は、いないだろう。

 誰よりも強く、誰よりも美しいミホと過ごす人生は、何不自由なく、楽しくて幸せなものになるだろう。


 ミホも俺も幸せになり、世界にとってもそれがいいのかもしれない。


 ……でも。


 俺の頭から離れないカレンの姿。

 心に突き刺さったままのカレンへの想い。


 俺はそれを無視できない。


 カレンの声。

 カレンの笑顔。

 カレンの唇。


 その全てが、俺の心を掴んで離さない。


 それは、ミホと過ごしても変わらなかった。

 むしろ、俺の心に鋭く食い込んできた。


 ミホの想いを裏切れば、俺は殺されるかもしれない。

 世界も滅びるかもしれない。


 それでも俺は、カレンへの想いを断ち切れない。


 一日一緒に過ごしても俺の中の結論は変わらなかった。


 ミホに正直に伝える。

 ミホ以外に、愛する人がいることを伝える。


 それを許してもらえないなら、俺の命と引き換えに、世界は滅ぼさないでもらえるようお願いする。


 ……俺は最低な男だ。


 俺のこの結論が、どれだけミホを傷つけるかは分かっている。

 千年以上想い続けてきた初恋の相手が、実は裏切っていただなんて、その衝撃は図り知れないだろう。


 俺は地獄に落ちるかもしれない。


 ……それでもカレンへの想いは譲れない。


 俺は覚悟を決めた。


 二度とカレンとは会えなくなるかもしれない。

 それでも俺はカレンへの想いは変えない。


ーーコンコンーー


 扉をノックする音が聞こえる。


「どうぞ」


 俺の返事を聞いたノックの主が扉を開ける。

 現れたのはナミだった。


「お食事の時間です」


 ミホを殺そうと持ちかけてきたことについては全く触れず、ナミがそう告げた。


「ありがとう。今行く」


 もしミホに殺されなかったとしても、ミホを殺そうとしていることを知っている俺は口封じに殺されるかもしれないな、と思う。


 ミホの想いに応えるかどうかだけを考えていた俺は、この問題に対して答えを出せていなかったことに、今更ながら気付く。


 だが、ミホの想いの強さと深さを知った今、ミホを殺すという選択肢は俺にはない。

 そして、想いには応えられないが、せめて生きていてほしいとも思う。


 そうなると、ミホを殺そうと目論むナミは敵だ。


 ミホを殺すために与えられた剣。

 ナミも魔族ならきっと効果はあるはずだ。


 ミホがもし俺を生かしてくれるなら。

 俺はこの四魔貴族を殺さなければならないかもしれない。


 この問題に対する自分なりの答えも出し、ナミを見つめる俺に、ナミは笑顔を返す。

 これまでのよそよそしい笑顔ではなく、口が裂けんばかりに、にいっとした笑顔を。


「どうかされましたか?」


 その笑顔になぜか恐怖を感じていた俺は、ナミの言葉にドキリとしながらも、平静を装って返す。


「いや。何でもない」


 俺の言葉を聞いたナミは笑う。


「ふふふっ。それならいいのですが」


 微笑むナミに違和感を覚えながらも、これから殺すことになるかもしれない相手と、これ以上会話をすることができずに、立ち上がる。


 俺を先導するナミの背中は、なぜか嬉しそうに見えた。

 何か喜ばしいことがあったのか疑問に思いながらも、黙って後ろをついていく。


 食事の間に着くと、朝と同じメンバーが、朝と同じ配席で座っていた。


 俺が到着すると、ミホは心の底から嬉しそうに手を振る。

 そんなミホに軽く手を振って応えると、俺はミホの隣に腰掛けた。


 ミホは、人目を憚ることなく俺に体重を預けるように寄りかかってくる。


「えへへっ」


 そう言って微笑むミホは、あまりに幸せそうで、あまりに愛おしく、だからこそもうすぐこの笑顔を曇らせることになることに、胸が痛む。


 そんな俺とミホを見て、ナギは嫉妬の目を向け、リカは羨ましそうにし、ナミは先ほどと同じ、ゾッとするような笑みを浮かべていた。


 食事が運ばれてくると、ミホは俺の皿を自分の手元に寄せる。

 疑問に思う俺の口元へ、ミホが食事を運ぶ。


「はい、あーん」


 その様子を見たナギの目はますます嫉妬で燃え上がり、リカはさらに羨ましそうにし、ナミは変わらず笑顔を浮かべていた。


「ミ、ミホ。さすがにそれは……」


 戸惑う俺を見て、突然大きな声で笑い出すナミ。


「ふふふっ。あははははっ」


 その笑い声は普段のクールさとは異なり、異質な色を孕んでいた。

 そんなナミへ殺気の込められた視線を送るミホ。


 緩んでいた空気が一瞬で緊張し、ナギとリカの表情が強張る。


 その中で嘲笑としか取れない笑いを止めないナミ。


「……何がおかしいの、ナミ?」


 ミホの凍りつくような冷たい声。

 実際に、周りが凍てつくかのような空気の中で。

 安全なはずの俺でさえ、息を吸うのが辛くなるような状況で。

 ナミは笑みを崩さない。


「何って、その茶番以外にあるわけないじゃないですか」


 そう言ってケラケラと笑うナミ。


 茶番。


 確かにミホと俺の本当の関係を考えれば、今のミホとのやりとりは、茶番以外の何ものでもない。


 千年以上俺に想いを寄せてくれてきたミホ。

 僅か数ヶ月離れただけで別の女性と生涯を誓った俺。


 そんな俺へ全力の愛情表現を示すミホと、曖昧な態度で答える俺の様子を見れば、事情を知っているナミが笑いたくなるのはおかしなことではない。


 ただ、それは、ミホの反感を買ってまでやるべきことではないだろう。

 何より、俺がミホへ想いを寄せていないことがバレてしまうと、俺にミホを殺す手伝いをさせようとしているナミも困るはずだ。


 俺にはナミの言動の真意が分からなかった。


「茶番?」


 一方で、なぜナミが茶番などと言い出したのか分からないミホは、首を傾げる。


 ミホにそのことを伝えられては困る俺は、ナミを睨みつけた。


「あんた、どういうつもりだ?」


 俺の言葉に、ナミがニヤリと笑い、見下したような目を向ける。


「ふふふっ。まあ一番可哀想なのはミホ様ね。貴方みたいなクズに引っかかって。全てが完璧なミホ様も、男を見る目だけはなかったってことね」


 俺の言葉には答えず、一人で納得し、笑い続けるだけのナミ。


 そんなナミへ、明確な怒りをぶつけるミホ。


「貴女……。私はともかく、ユーキ君への侮辱は絶対に許さない。千年一緒に過ごしてきたけど、楽に死ねるとは思わないことね」


 ひしひしと伝わる殺意に、空間が軋むのを感じる。


 そんな殺意を向けられてなお、笑顔を崩さないナミ。


 明らかにおかしい状況。

 弱らせもせずに、ミホをこんなに怒らせて仕舞えば、ミホを殺すどころか自分が死ぬだけになることを分からないナミではないはず。


 にもかかわらず、ナミには、もうすぐ死ぬかもしれない絶体絶命な状況にいる悲壮感も緊張感もなかった。


「だってそうでしょう? それはその男が一番分かっているはず」


 ナミはそう言うと、相変わらずの嘲笑を浮かべながら、俺を見る。


 そんなナミへ、俺は言い返せない。


「ミホ。俺は……」


 次の言葉が言い出せない。


 実はもう、俺はミホのことが異性として見れていないなんて。

 別に惚れた相手がいて、その人と生涯を誓っているだなんて。

 ミホを殺すための武器を与えられ、それを今も持っているなんて。


 言わなきゃならないのは分かっている。

 でも、言えなかった。


「ユーキ……くん?」


 怪訝そうな顔を見せるミホ。

 そんなミホと俺を見て、ますます笑うナミ。


 そんなミホと俺にトドメを刺すように、ナミは告げる。

 高らかな笑いを部屋中に響かせながら。


「ふふふっ。あはははっ。本当に面白い。ミホ様。貴女の千年以上に及ぶ月日は無駄だったの。その男はね、ミホ様。貴女には相応しくないわ。だってその男は……」


「やめろ!」


 続きを話そうとするナミを、俺は止める。

 俺はそのままミホの方を向いた。


「ミホ。俺はミホに伝えなければならないことがある」


 そんな俺を見てくすくすと笑うナミを無視し、俺は覚悟を決めてミホの目を見つめた。


 真っ直ぐに俺を見つめるミホの視線に、揺らぎそうになる決意をなんとか奮い立たせて、俺はミホに告げようとする。


 だが、そんな俺を今度はナミが遮る。


「……つまんないですね。私にバラされて慌てふためく様を見たかったのに」


 ナミはそう言うと、席から立ち上がり、不敵な笑みを浮かべながら、ミホの方を向く。


「魔王様。ただ今をもって貴女に頂いたお名前を返上します」


 突然の宣言に困惑する一同。

 その中で、一人ミホだけが、困惑ではなく厳しい目線をナミへ向けていた。


「どういうつもりか知らないけど、名前を返上するってことは、私に楯突くってことを意味するけど、間違いないかしら?」


 普通の生物ならその視線だけで気を失いかねない、ミホの視線を浴びながら、ナミはケラケラと笑いながら答える。


「他にどんな意味があるっていうの? わざわざそんなことを尋ねるなんて、色ボケし過ぎて、脳が沸いちゃったんじゃない?」


 圧倒的な強者であるはずのミホに対する、無礼という言葉では片付けられないほどの態度。


 俺が懐に隠した剣でミホを刺さなければ、ナミはミホには敵わないはず。

 それなのにこのような態度を取るナミの真意が分からない。


 今にもナミを殺してしまいかねないミホに対し、もう一人、口を開く者がいた。


「魔王様。母上にならい、私も一度名前を返上させていただきます。母上から言われたことでどうしても気になることがありましたので」


 そう言葉を発したのは、和服で帯剣しているヨミだった。


「待ちなさい!」


 そう叫ぶミホの声も虚しく、ヨミが言葉を発した途端、ヨミの視線が鋭く険しくなる。

 ミホへ向ける目が、親愛に満ちたものから憎悪に満ちたものへと変わった。


「よくも私の人生をねじ曲げてくれたな、魔王よ」


 ミホを睨みつけるヨミを見ながら、面白そうに笑い続けるナミ。


 そんなナミを睨みつけるミホ。


「……それで、貴女の目的は何?」


 空間が歪むほどの真っ黒な魔力を滲み出させながら、ミホがナミへ尋ねる。


「私に殺されたいなら、こんな回りくどいことをせずにそう言いなさい」


 ミホの言葉に、ケラケラと笑う声をさらに大きくするナミ。


「やっぱり脳が溶けてるんじゃないの、ミホ様。殺されるつもりならこんなこと言いません」


 そう言ってケラケラとした笑いを止め、真剣な顔をした後、改めて微笑むナミ。


「死ぬのは貴女です」


 ナミはそう言うと、俺の方を侮蔑に満ちた表情で見る。


「その前に、ミホ様にはもっとどん底に落ちた後で死んで欲しいんですよね」


 ナミが何を話そうとするか分かった俺は、せめて自分の口から言おうと試みるが、なぜか口を開けない。


 ナミがこちらへ右手を差し向けているのを見るに、何かしら魔法的な制限をかけられているのだろう。


「この男はね、ミホ様。千年以上も貴女が想い続けていたのに、別の女に惚れちゃったの。それを隠して、貴女のものになるふりをしていたの」


 ナミはそう言うと、心底楽しそうに、ミホの方を向く。


「残念でしたわね、ミホ様。貴女の千年は無駄だったの」


 ナミの言葉を聞いたミホは、真面目な表情のまま無言になり、そして呟くように口を開く。


「……てたわ」


 あまりにも小さい声で聞き取れなかった。


「えっ?」


 ナミも同様だったのか、ミホに対して聞き返す。


「知ってたわ」


 今度は聞こえるようにミホがそう呟いた。


 そして、俺の方へ笑顔を向ける。

 今にも消えてしまいそうな儚い笑顔を。


「ユーキくんがもう、私のことを好きじゃないのは知ってたわ」

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