第192話 魔王の奴隷④

「見えてきたよ、ユーキ君」


 漆黒の龍の背で、お互いの手を握ったまま、ミホがそう告げる。


 眼下に広がるのは、広大な湖。

 しかも、ただの湖ではない。


 元の世界ではあり得ないほどの透明度を誇るその湖は、かなりの深さがありそうなのに底が見えていた。

 何より驚くべきは、淡く輝いていたことだ。


 太陽の光を反射した輝きではない。

 もっと柔らかく幻想的な輝きだ。


 元の世界でもこちらの世界でも貧しかった俺は、旅行などしたことがなかった。

 テレビやネットすらまともに見る機会の少なかった俺は、素晴らしい景色というものを映像ですらほとんど見たことがない。


 生まれて初めて見るあまりにも美しい景色に、俺は思わず見惚れてしまった。


 リカは俺たちによく景色が見えるよう、その湖の上を旋回するように回った後、その湖畔へゆっくりと着地した。

 俺とミホが無事自分の身から降りたことを確認すると、リカが告げる。


「我はこれで失礼する。夕刻には迎えに伺う故、お二人の時間を楽しまれると良い」


 リカの言葉にミホは怪訝そうな顔をした。


「あら? 貴女も一緒にいていいというお話をしたわよね? 他にも行きたい場所があるから、貴女がいた方がいいんだけど」


 ミホの言葉に、リカはうんざりしたように答える。


「お二人の愛し愛しみあう姿に、千年以上独り身で過ごした我の精神が耐えられぬ。これ以上、お二人の姿を見ると、我も番が欲しくなる。命令だと言うなら従うしかないのであるが、お願いというのであればご遠慮したい」


 リカの言葉にミホと俺は顔を見合わせる。


 困惑する俺とは対照的に、ミホは嬉しそうな笑みを浮かべながら。


「ふーん。もしリカちゃんが望むなら、私たちの式の後、貴女の相手を探してあげるけど」


 ミホの言葉に、リカは首を横に振る。


「我には相手が存在せぬ。龍の番は近しい力を持った龍のみ。一階位の龍は神となりここ数千年姿を見ておらぬし、三階位の龍は我と同じく女の身である故」


 リカの言葉にミホは納得した様子を見せる。


「それなら仕方ないわね。これからもっとイチャイチャする予定だから貴女には酷かも。他の場所はまた今度行くことにするわ。残念だけど、大事なペットに辛い思いはさせたくないし」


 ミホの言葉に、リカは助かったとばかりに頷く。


「そうしていただけるとありがたい。何かあれば、強い魔力を発していただければすぐに駆けつけるように準備しておくつもりである。そのようなことがない限りは、夕刻までお二人の時間をお楽しみ願いたい」


 リカの言葉に、今度はミホが頷いた。


「分かったわ。それじゃあ、また後でね」


 ミホが手を横に振ると、リカが少しだけ浮かび上がる。


「承知した。それでは後ほど」


 リカはそう言い残すと、空へばっと舞い上がり、あっという間に飛び去っていった。

 そんなリカの背中を見ながら、ミホが小さく呟く。


「ずっと一人だなんて、本当に可哀想だわ。私もユーキ君に再会できなかったら、そうなっていたのね」


 ミホの言葉がぐさりと俺に突き刺さる。

 再会はできたが、本当は今でもミホは一人だなんて、今のミホにはとても言えない。


「リカちゃんには悪いけど、その分私たちは楽し見ましょう」


 憂いの帯びた表情を止め、ミホはその顔にさっきまでと同じ、輝かんばかりの笑みを浮かべた。

 その笑みは、先程俺の心を奪った美しい湖の景色が霞んでしまうほどに美しかった。


 ミホは微笑みながら俺の手を握る。

 もう手を繋ぐのは何度目かになるが、自分から握っておきながら、ミホは未だ照れた様子を隠せない。

 俺も同じだから何も言えないが。


 俺だけ握り返さないのも不自然なので、仕方なく俺も握り返す。

 本当に仕方なくなのか、仕方なくと思い込もうとしているのか、自信が持てなくなってきている自分には気付かないふりわわして。


 俺はミホの手を握り返しながら、不誠実な自分について考える。


 もはやカレンに言い訳できないほど、俺は不誠実だ。


 一生共にすると誓いながら。

 俺は別の女性の手を握っている。


 気持ちはまだカレンだけを想っていた。

 愛しているのはカレンだけだった。


 でも、行動はそれに伴っていない。


 ミホが可哀想だから。

 千年以上思ってくれた人を蔑ろにできないから。


 そんな言い訳を己にしながら、俺はなし崩し的に流されるまま、ミホの手を握っている。


 これではあまりにも不誠実だ。


 カレンにも。

 ミホにも。


 俺は改めて考える。


 俺にはミホは選べない。


 どれだけ離れていても。

 例え二度と会えないかもしれないとしても。


 俺の心の中にはカレンがいる。


 ミホのことも嫌いではない。

 千年以上想い続けてくれたことも、身に余る光栄だと思う。


 ただ、それでも俺はミホを選べない。


 俺はミホの目を見る。

 俺のことだけを見てくれている瞳を見る。


 俺は覚悟を決めた。


 今日一日だけはミホのために過ごそう。

 ミホの望むままに振る舞おう。


 それがずっと俺を想ってくれたミホへのお礼だ。


 そのせいでカレンに疎まれるならそれは仕方ない。


 カレンのことは何より大事だが、だからといってこれだけ俺のことを想ってくれているミホを蔑ろにすることは、俺にはできなかった。


 俺はミホの手を握る手に力を込める。


「ミホ。今日は楽しもう。ミホと俺の初デートだ」


 俺の言葉に、ミホは涙を流しながら微笑む。


「うん」


 初デートであると共に、最後のデートであることは、もちろんミホには言わない。

 今日一日だけは、ちゃんとミホに楽しんでもらう。


 ミホの頬を伝う涙を、そっと拭った後、俺はミホに微笑みかけた。


 そんな俺に、ミホが提案する。


「それじゃあまず、お散歩しましょう。空気も景色も、とっても綺麗なんだよ」


 ミホの提案を俺は素直に受けた。


 空気よりも景色よりも、ミホの笑顔の方が綺麗だと思ったが、流石にその言葉は口にしなかった。


 煌めく湖畔の横を、ミホと俺は手を繋ぎながら歩く。


 手を通して伝わってくるのは、ミホの俺への気持ち。

 触れている面積はほんの僅かなのに、伝わってくる気持ちは溢れんばかりだった。


 痛いほどに伝わってくる気持ち。

 さっきまでは苦痛に感じていたその気持ちも、今日だけはミホのために過ごすと決めてからは、違うように感じていた。


 最終的にはその気持ちに応えられない負い目はもちろんある。


 だが、これほど純粋に。

 これほどストレートに。


 俺へと向けられる好意は、必ずしも俺に苦しみだけを与えるものではなかった。


 散歩しながら、ミホは、こちらの世界に来てから俺と再会するまでの日々を懐かしむように語る。


 母親の死も。

 兄を殺したことも。

 ナミに裏切られたことも。

 ヨミと戦ったことも。


 そのどれもが笑いながら話せることではなかった。


 それでもミホは笑って話す。


「大変なことばかりだったけど、ユーキ君とまた会うことを考えれば、どんなことも耐えられたし、乗り越えてこられたんだよ」


 あまりに重いミホの気持ち。

 それでも俺は、今日一日だけはミホのために過ごすと決めた。


「ありがとう、ミホ。そんなに想ってもらえて、俺は幸せ者だ」


 半分は本心である言葉を返した俺に、ミホは微笑む。


「これからもっと幸せにしてあげるから覚悟しててね。そのために私は千年以上も生きてきたんだから」


 俺は偽りの笑顔を顔に貼り付けながら答える。


「こんなに想ってもらえるだけでもありがたいのに、更に幸せになるだなんて、ちょっと怖いな」


 俺の言葉に、ミホは笑顔で答える。


 自信たっぷりと。

 さも当然の如く。


「大丈夫。私も。世界も。ユーキ君の幸せのためだけに存在してるんだから」


 その目には一片の逡巡もなかった。


 本当に俺のためにだけに生きていることを感じさせる目。

 俺のためなら世界を犠牲にすることも厭わない目。


 狂気。


 ミホの目を見て思い浮かべたのはその言葉だった。

 真っ直ぐと俺を見つめるその目に恐怖を感じそうになるが、俺は自分を奮い立たせる。


 後で殺されるかもしれないが、少なくとも今はミホに楽しい時間を過ごしてもらうと決めた。

 決めたからには全力で楽しい時間を過ごせるようにしなければならない。


「ミホ。俺はミホにも幸せになってほしい。俺だけ幸せにしようとしてくれても、ミホが幸せじゃないなら、俺は本当の意味で幸せにはなれない。だからミホ」


 俺は手を繋ぐミホの目をしっかりと見る。


「ミホも自分が幸せになれるよう考えてほしい」


 俺の言葉に、ミホはこれまでと少しだけ異なる笑顔を見せた。

 何となくだが影を感じる笑顔。


「ユーキ君の幸せは私の幸せ。ユーキ君が幸せならそれでいいの」


 さっきより濃くなった狂気の気配。

 俺はこれ以上、この話題をミホに話すのは止めた。


「それじゃあ、もっと幸せになるためにも、今日は思い切り楽しもう」


 俺が提案すると、ミホの瞳から狂気の色が薄まり、無邪気な笑顔に変わる。


「うん!」


 俺は話が下手だ。

 女性を楽しませるのも下手だ。


 今も話題の選択を誤った。


 でも、だからといって何もしないのは違う。


 下手なら下手なりにミホに楽しんでもらえるよう考えなければならない。


 俺は、ミホのこれまでの言動から考えた。


 ミホは俺のことばかりを考えてくれている。

 俺の幸せだけを祈ってくれている。


 その前提で考えると、俺が楽しめば。

 俺が幸せそうに振る舞えば。


 きっとミホも楽しみ、幸せを感じてくれるはずだ。


 俺はデートの楽しみ方なんて知らない。

 でも、綺麗な景色を見るのは憧れていた。


 だから、景色なら楽しむことができる。


「ミホ。この湖はなんでこんなに綺麗なんだ? 水は透き通ってるし、幻想的に輝いてるし」


 素朴な質問に、ミホは笑顔で答えてくれた。


「透き通ってるのも輝いているのも、この湖の水が魔力を帯びているからだと言われているの。実際、水に触れれば魔力を感じることができるわ」


 ミホはそう言うと、俺に提案する。


「ちょっと触ってみようよ」


 無邪気な提案に、俺は乗る。


「ああ。触ってみよう」


 俺が提案に乗ったことに、少しだけ驚いた後、ミホは嬉しそうな笑みを浮かべる。


「それじゃあ行きましょう!」


 ミホは俺の手を引くと、走りながら湖へ向かっていく。

 俺も小走りになり、手を引かれるがままについて行った。


 陽の光を反射して煌めく水面。

 湖の岸辺にしゃがみ込み、そんな水面に触れるミホ。


「冷たーい! ユーキ君も触ってみて」


 ミホに誘われるまま、ミホのすぐ隣にしゃがみ込んで水に触れる俺。


「確かに冷たいな」


 驚くくらい透明な水は、普通の水と変わらない手触りだった。

 暖かな空気の中で触れる冷たい水は気持ちが良い。


 俺がそんなありふれた感想を抱いていると、ミホが突然、黒いスカートの裾を捲り上げた。



「な、何してるんだ?」


 いきなりのミホの行動に俺が慌てると、ミホはそんな俺を見て、少し意地悪そうに笑った。


「ふふふっ。ユーキ君しかいないからいいじゃない。ユーキ君なら見られてもいいし」


 黒いスカートの下から覗く、真っ白で細長い脚から目を逸らす俺に、ミホはそう語ると、そのまま足だけ湖の水に浸かった。


「気持ちいい! ユーキ君もおいでよ」


 今度も俺はミホに誘われるがまま、靴を脱ぎ、ズボンの裾を捲り上げて水に浸かる。

 確かに、とても気持ちよかった。


 冷たい水の心地よさを足でゆっくりと堪能する俺。


「えいっ!」


 そんな俺に降りかかる冷たい水。


「冷たっ!」


 振り返ると、ミホが右足を蹴り上げ、俺に水をかけていた。


「やったなっ!」


 仕返しに両手で水を掬い、ミホにかける。


「きゃっ」


 小さく悲鳴を上げながらも嬉しそうなミホ。


 しばらく水の掛け合いを続けたミホと俺は、二人とも下着までびしょ濡れになった。


 水を滴らせながら湖から出るミホと俺。


 ぴたりと肌に張り付く黒のドレス越しに見るミホの身体が艶かしく、俺は目を逸らす。


「風邪ひいちゃうといけないから乾かしてあげるね」


 そう言って魔法で温風を出すミホ。

 暖かく心地よい風が俺に注がれる。


 俺の服が乾いた後、今度はミホの真似をして、俺がミホの服を乾かす。

 目を逸らしながら風を送る俺を見て、ミホが笑った。


「ふふふっ。私の身体はユーキ君のものなんだから、照れなくてもいいのに」


 そんなミホの言葉を無視して、俺はミホに風を送り続けた。





 服が乾いた後は、岸辺の砂浜に絵を書いたり、魔力なしで追いかけっこをしたりして、夕刻まで二人の時間を満喫した。


 一日中遊んで疲れた俺とミホは、湖の岸辺に二人並んで座りながら、湖に沈む夕日を見る。


 ミホの手が俺の手に重なった。

 俺はその手を拒まない。


「……綺麗だね」


 ミホが呟く。

 ミホの方を向くと、潤んだ瞳が俺を見つめていた。


「夕日、見てないじゃないか」


 苦笑しながら俺がそう言うと、ミホは首を横に振る。


「ユーキ君の瞳に映ってたのをちゃんと見てたよ」


 ミホはそう言って目を閉じると、俺の唇に己の唇を重ねた。

 甘く柔らかい唇はしばらく俺に触れた後、少しだけ離れる。


「今日は本当に楽しかった、ありがとう、ユーキ君。大好きだよ」


 柔らかく、夕日よりも綺麗な笑みを浮かべながらミホが言う。


「ありがとう。俺も楽しかった」


 嘘はつかずに、俺は答える。


 俺の言葉を聞いたミホは、心の底から幸せそうな笑みを浮かべ、そしてもう一度唇を重ねた。


 しばらく口付けを交わした後、ミホは俺から唇を離す。


 ミホが唇を離すのとほぼ同時に、漆黒の龍が舞い降りてくる。


「……来るのが少し早すぎたであるか?」


 リカの質問に、俺に体を寄せたままのミホが答える。


「いいえ。もう少し早ければ、私とユーキ君のもっと幸せな姿が見れたのに」


 表情が読み取れないドラゴンの姿のリカではあるが、ミホの言葉に、心底嫌そうなのが伝わってくる。


「やはりこの場を離れて正解であった」


 そんなリカを見て、ミホは笑う。


「ふふふっ。それじゃあ帰りましょう。私たちの城へ」


 そう言って立ち上がると、俺に手を伸ばすミホ。

 俺はその手をとって立ち上がる。

 この手を取るのはこれで最後になるかもしれないと思いながら。

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