第191話 魔王の奴隷③

 朝食の後、ミホは俺の部屋に訪れてきた。


「ユーキ君、この後することないよね? 二人でお出かけしよう」


 笑顔でそう告げるミホ。


 ミホと一緒にいるのは辛い。

 無邪気なミホに心が痛むから。


 だが、一人でいるのはもっと辛かった。

 自責の念で死んでしまいたくなるから。


「……わかった」


 俺の返事に、ミホの表情がぱあっと明るくなる。


「国の外は結婚した後、新婚旅行で行くから、今日は国内にしましょう。国の中にも見せたい所はいっぱいあるの」


 遊園地に行く子供のように無邪気な笑顔を見せるミホ。

 俺と出かけるのを純粋に喜んでくれている笑顔。


 もし俺の心にカレンという存在がいなければ、すぐにでも恋に落ちてしまいそうな、無垢で心地良い好意。


 俺はそんな好意を一身に浴びながら、心の籠らない笑顔を作り、ミホに返事をする。


「それは楽しみだ。この世界に来てから、ゆっくり観光なんてしたことなかったから」


 ミホの気持ちに答えられないという一点を除けば、この世界を観光してみたいという気持ち自体に嘘はなかった。


 こちらの世界に来てからは、明日の命も分からない日々を生き、生きることで精一杯だった。

 せっかくの異世界、堪能できるものなら堪能したい。


 もちろん、カレンへの想いを抱え、リン先生の死を引きずり、仲間たちの身を案じている今、堪能できる訳はなかったが……


 ミホは俺の言葉に満面の笑みを見せる。


「ふふふっ。それならよかった。ユーキ君に喜んでもらえるといいけど、責任重大ね」


 言葉とは裏腹に、自信たっぷりな顔を見せるミホ。


 素直な気持ちで楽しめればどんなにいいだろう。

 できないことを思いながら、俺はミホの言葉に頷く。


「ああ。期待してるよ」


 ミホは笑顔のまま頷くと、俺の手を取る。

 その頬を恥ずかしさに赤く染めながら。


「それじゃあ行きましょう。見せたいとこいっぱいあるから」


 俺はそんなミホの言葉に苦笑する。


「今日全部見なくても、時間はいっぱいあるからそんなに気にしなくていいだろ?」


 すらっと嘘が出てくる自分が嫌になるが、ナミからの制限など知らないはずのミホにとってはその通りのはずだった。


「そうなんだけど……。千年以上楽しみにしてたから、つい色々行きたくなっちゃって」


 少しだけ陰った笑顔を見せるミホ。


 そうだ。

 千年という途方もない時間を待っていたミホに、まだ時間があるからもっと待て、というのは酷な話だろう。


 俺はそんなミホの頭を撫でる。


「そうだな。今日、できる限りいっぱい回ろう」


 俺の言葉に、再度満面の笑みを浮かべるミホ。

 その笑顔は、とても一人で世界を滅ぼしうる最強の魔王のものとは思えず、どこにでもいる思春期の少女のものにしか見えなかった。


「うん」


 頷き、大きな目で俺を見つめるミホの目から、俺は思わず目を離す。

 ミホの純粋な気持ちに応えられない俺には、耐えがたいものだったからだ。


「そ、それで、ミホが俺に見せたい場所にはどうやって行くんだ?」


 ミホは少しだけ考える素振りを見せる。


「うーん。ユーキ君に走ってもらうのも、ユーキ君を抱えて私が走るのも、ちょっとムードに欠けるから、本当は二人きりがいいけど、あの子を呼ぶか……」


 ミホはそう言うと、窓を開けて大きな声を出す。


「トカゲさーん!」


 ミホが声をかけてしばらくすると、窓からではなく、廊下側の扉を開いて褐色の肌の女性が姿を現した。


「魔王様。我はトカゲではなく龍である。それに、旦那様に頂いたリカという名もある」


 少しだけ不服そうにそう告げるリカのことなど意に介さず、ミホは用件だけを告げる。


「だってユーキ君に名付けてもらえるなんて羨まし過ぎるから、呼びたくないんだもん」


 子供のような理屈でそう答えるミホ。

 ミホからそう告げられ、助けを求めるように俺の方を向くリカ。


 仕方なく俺は、ミホにお願いする。


「ミホ。名前って大切だと思うんだ。俺は飼ったことがないからよく分からないが、ペットでも名前をつけたら愛着が湧くって言うだろ。それに、俺が考えてミホが名付けたんだ。ある意味二人の子供みたいなものじゃないか?」


 自分でも言い過ぎではないかと思ったが、せっかく付けた名前が使われないのも勿体ないと思い、そうお願いした。


 ただ、その効果は想像以上だった。


「ふふふっ。二人の子供か……」


 ミホはそう言うと、急にリカの頭を撫で出した。


「そう思えば、名前も羨ましくなくなったし、何だか可愛く見えてきた」


 ミホの言葉と行動に不服そうな顔をするリカ。


「一応申し上げるが、我は旦那様は勿論のこと、魔王様よりも長い年月を生きてきたのだが……」


 ミホはそんなリカの言葉は全く意に解さず、リカを撫で続ける。


「年齢なんて些細な問題よ、リカちゃん。私とユーキ君は千歳以上離れてるけど、少なくとも私にとっては歳の差なんて関係ない。貴女のことも、子供のようなものだと思えば、私とユーキ君の邪魔者にもならないわね」


 ミホはそう言って一人納得し、リカにお願いする。


「リカちゃん。今から一緒にお出かけしましょう。この国の中を案内してあげる」


 ミホの言葉にリカがため息をつく。


「我は単なる移動手段ではないのだが……。我も千年以上ぶりに森の外へ出るから、外の様子は気になっていたところである。同行させていただこう」


 リカの言葉に、ミホは頷く。


「それじゃあさっそく出かけましょう。時間も限られているし」


 ミホの言葉を聞いたリカは、突然服を脱ぎだす。

 服の下から現れる美しい裸体に、思わず見惚れてしまう俺の目を、ミホが遮る。


「……リカちゃん。何のつもりかしら?」


 俄に滲み出す殺気。

 ミホから発せられるその濃密な気配に、自分が殺気を向けられているわけでもないのに、緊張してくる。


 一方のリカはなぜ殺気を向けられたのか分からず、戸惑っていた。


「な、何のつもりと仰られても……。本来の姿に戻ると、服が破れてしまうのである。姿を変える度に服を無駄にするのは忍びない。何より見せて恥ずかしい体はしていないつもりだ」


 自信たっぷりに話すリカに、ミホも俺も次の言葉を返せない。

 基本的にリカが言っていることは合理的だ。

 裸体を晒す羞恥と、異性に与える影響を考慮しなければ。


「分かったけど、次からは元の姿に戻る時は、人目につかないようにしなさい。貴女の裸体は、人の異性には目の毒だから」


 ミホの言葉に、リカは怪訝そうな顔をする。


「そうであるか……。千年引き篭もっている間に、美醜の基準が変わってしまったのだな。かつては我の肉体は美の象徴ですらあったのだが」


 基準が変わったわけではなく毒という言葉に対する誤解があっただけだが、これ以上説明するのも面倒なので、ミホと俺はアイコンタクトで意思疎通を図り、ここで話を切ることにする。


「とりあえず、城を離れましょう。時間が惜しいわ」






 リカの体をローブで覆った俺たちは、訓練場まで出た。

 そこでローブを取ったリカは、その美しい裸体を変貌させ、本来の姿へと戻っていく。


 黒燐が生え、牙と爪が伸び、体が肥大化していく。


 その体は瞬く間に巨大なドラゴンの姿となり、光沢を持った黒燐に覆われたその身体は、とても先ほどまですぐ隣にいた褐色の美女のものとは思えなかった。


「龍が変態するのは初めて見たけど、どういう原理なのかしら。質量保存の法則は完全に無視した現象ね」


 リカの変態を見たミホの感想は俺と同じものだった。


 この世界には魔法は存在するが、それはあくまで科学の延長上にあった。

 魔力という元の世界には存在しない要素があるものの、その作用にはルールがある。


 リン先生が使っていた命の前借りのように、その範疇を超えたものもあるようではあるが。

 リカのこの明らかに不自然な変態も、リン先生の魔法同様に、俺にはその法則が理解できなかった。


 ミホの言葉に、完全にドラゴンの姿となったリカが答える。


「質量保存の法則とやらは分からぬが、見た目を変えるのは簡単だ。高位の魔族なら姿形もある程度変えられるであろう? その延長である」


 その言葉に、ミホはある程度納得したようだった。


「ふーん。まあ何にしても便利だからいいや」


 深く考えるのを放棄してそう言った後、俺に手を差し伸べるミホ。


「それじゃあ乗りましょう。早くユーキ君に見せたいんだ」


 俺は促されるままにミホの手を取る。

 細くて柔らかいミホの手。

 俺がその手に触れると、ミホは心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。


 ミホは俺の手をそっと掴むと、ぽんっと飛び上がり、軽く五メートルはありそうなリカの背に飛び乗る。

 風の魔法の補助でもあったのか、大した負荷はかからなかった。


「リカちゃん。まずは貴女がいた森の近くの湖まで」


 ミホの言葉を聞いたリカは大きな首を縦に動かして頷く。


「なるほど。あそこか」


 そう言うなり、リカは巨大な翼を広げて飛び上がる。


 あっという間に上空へと舞い上がるリカ。

 こんなに急激に空へ上がれば、Gもかかるし、風で振り落とされてもおかしくない。


 リン先生が死んで放心状態だった時には気付かなかったが、このリカという存在は、物理法則をことごとく無視しているように思われた。


 そんな俺へ、ミホが解説するかのように語りかけてくる。


「ユーキ君、この子は魔法を使いながら飛んでるんだよ」


 ミホはリカの背を撫でながらそう言った。


「重力魔法と風の魔法を併用して、重力や気圧、それに空気抵抗による影響を無くしてるの。そうじゃなきゃ、こんな巨体が空に浮かべるはずがないわ」


 ミホの言葉に納得する俺。


「飛ぶことに特化した飛竜を除けば、空を飛べる龍は限られておる。それだけ我が貴重な存在ということである」


 心なしか誇らしげに、リカがそう語る。


「確かに人がこれだけの複雑な魔法を制御しようとするのは難しいものね。私でも、長時間維持するにはかなりの集中力がいるから」


 ミホの今の口ぶりからすると、ミホも空は飛べるようだ。


 俺はつい、ミホと一緒に手を繋ぎ、二人で空を飛ぶ姿を想像してしまう。


 青空のデート。

 夕空のデート。

 夜空のデート。


 目に浮かぶのはいずれも満面の笑みを浮かべたミホ。


 思わず自らも笑みを浮かべそうになったところで、俺は首を横に振る。

 俺にはミホとそんなデートをする資格も、つもりもない。


 すると、突然俺の左手に、ミホの手が重ねられた。


 俺がミホの方を向くと、ミホが照れたような笑みを浮かべながら、えへへっ、と笑う。


「ユーキ君。私、ユーキ君と二人で空を飛ぶデートをする想像をしちゃった。さっきも言った通り、空を飛ぶ魔法はかなり難しいんだけど、私がちゃんと教えるから、今度一緒にデートしよう」


 ミホの誘いに、俺は返事を考える。

 断るのは簡単なようで、理由を見つけるのが難しかった。


 最低な俺は、曖昧な返事を返す。


「俺も空が飛べるようになったらな」


 そんな俺の返事に、ミホは満面の笑みを浮かべる。


「やった! ユーキ君なら絶対飛べるようになるよ。楽しみだなー」


 喜ぶミホに、俺は何も言えなくなる。


 罪悪感に苛まれる俺のことなどお構いなしに、ミホは少しだけ体を寄せると、俺にピタリとくっつき、しなだれかかってきた。

 細身にもかかわらず柔らかい身体と、体温を感じる距離で、ミホは幸せそうな笑みを浮かべている。


「うふふっ。ユーキ君、あったかい」


 そう言って、ぎゅっと俺を抱きしめるミホ。

 俺はしばらく右手を迷わせた後、俺の左手の上に重ねられたミホの右手の上に、そっと被せる。


 ミホからではなく、こちらの世界で初めて行った俺からのスキンシップ。


 浮気の定義はキスからか。

 それとも手を繋ぐことからか。


 自分の意思ではないとはいえ、どちらも既にミホと行ってしまった以上、もはや俺は最低の浮気男なのかもしれない。


 そんな俺は今、自分からミホの手に触れに行った。


 もちろん、やましい気持ちがあったわけではない。


 だが、浮気というのは相手がどう捉えるか次第だと聞いたことがある。

 人によっては、二人きりで別の異性と会っただけでも。

 最悪、話をしただけでも浮気ととられることがある。


 カレンの価値観は分からないが、自分から手を触れに行った俺の行為は、浮気だと捉えられても仕方ない。


 でも、俺は触れずにはいられなかった。


 それは、俺の手に重ねられたミホの手が震えていたから。


 俺は気付いていなかった。

 気付いていないフリをしていた。


 ミホにとって俺は、待ちに待った想い人だ。

 千年以上、待ち焦がれた存在だ。


 そんな存在と会うことに不安がないはずがない。


 もし俺の気が変わっていたら。

 もし俺がミホのことなど何とも思っていなかったら。


 そう思わずにいられないわけがない。


 そんな素振りは見せずとも。

 本人すら気付いていなかったとしても。


 その不安は手の微かな震えとなって現れていた。


 俺にはそんなに自分のことを想ってくれている人を。

 初めて自分に優しくしてくれた人を。


 蔑ろにすることなどできなかった。

 その想いを無視し、踏み躙ることなどできなかった。


 ミホに対して恋愛感情が復活してきたわけではない。


 それでも、何らかの感情が湧いているのは事実だ。


 カレンが知れば浮気だと思われるかも知れない。

 だが、例えそうだとしても、俺はかつて自分に安らぎを与えてくれた人を無碍に扱うことなどできない。


 俺が手を重ねたことに気付いたミホは、ハッとし、そして目に涙を浮かべた。


「ユーキ君……。大好き」


 ……そして俺は罪を重ねていく。

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