第189話 魔王の奴隷①

 俺は自分の気持ちが分からなくなっていた。


 カレンのことは今でも好きだ。

 世界中の誰よりも好きだ。


 カレンのためなら何だってできる。

 カレンのためなら自分の命も犠牲にできる。


 ……でも、他人の命は?

 自分のことを千年も想ってくれた人の命は?

 気が狂うまで自分のことを愛してくれた人の命は?


 俺には分からない。


 ナミの手が俺の頬に触れる。

 白く細いその指は艶かしく俺の頬をなぞっていく。


「自分に素直になって。想い人と結ばれる為に、邪魔なものを排除する。ただそれだけ。罪悪感も抱かなくていい。最終的に殺すのは貴方ではなく、私とヨミだから」


 この女の言葉は毒だ。


 話しかけられる度に、精神へ染み込んでいくように、女の言葉が俺の心を蝕んでいく。


 だが、それが分かっていても俺は逃れられない。

 言葉が蛇のように絡み付き、俺を縛り付ける。


ーーコンコンーー


 そんな時、客間の扉がノックされた。

 誰かは分からないが、この呪縛から解かれたことに、俺はホッとする。


「それじゃあまだ時間はあるから考えといて。三日後に確認させてもらうから」


 ナミはそう言って、そっと俺から離れる。


「どうぞ」


 ナミに促されて入ってきたのはミホだった。

 ミホは俺の表情を見るなり、眉を顰める。


「……ナミ。貴女、ユーキ君に何をしたの? ユーキ君の顔色が悪くなっているわ」


 ミホの言葉に、ナミは動揺することなく答える。


「ミホ様との関係に悩まれていたようなので、夜、襲ってはどうかとアドバイスさせていただきました」


 平然とそう答えるナミを、ミホは睨みつける。


「……本当に?」


 全てを見透かすようなミホの視線に、もしその視線を自分が向けられたら、全てをそのまま喋ってしまいそうだったが、ナミは動じない。


「私がミホ様に嘘を受けないのは、ミホ様が一番ご存知ですよね?」


 笑顔で答えるナミ。

 確かに嘘は言っていない。


 襲うの意味に対して、ミホの理解とナミの思惑が異なるだけで。


 まだ心の底からは納得はしていないのようだったが、ミホはそこで話をやめる。


「まあいいわ。ユーキ君に関して貴女の役目はおしまい。今回はどうしても仕方なかったけど、これから先は、ユーキ君に関することは全て私がやるから」


 ナミは特に反論することなく引き下がる。


「かしこまりました。お二人の幸せなお時間をお過ごしいただければと思います。それでは失礼いたします」


 ナミが部屋を出ると、ミホと俺は二人で部屋に取り残された。


 厳しい目をしてナミを見送っていたミホは、二人きりになると、顔を赤らめ、俺の方を向く。


「……ユーキ君。やっと二人きりになれたね」


 そう言って俺に向けられた笑顔は、とても史上最強の魔王のものには見えない。

 そこにあったのは、どこにでもいる、男慣れしていない思春期の少女の笑顔だ。

 まあ、ミホほど美しすぎる造形の持ち主は、どこにでもはいないのだが。


 ミホの容姿は元の世界でも飛び抜けて整っていたが、今のミホは、美しいという表現を突き抜け、神々しさを放っていた。

 そんなミホが、恥じらいながらこちらを見つめている。


 王国からここまでの移動では漆黒のドラゴンがずっと一緒だったし、こちらに着いてからは、離れ離れだった。

 確かに二人きりになるのは久しぶりだった。

 その久しぶりという感覚には、数ヶ月ぶりの俺と千年ぶりのミホとでは、大きな隔たりがあるが。


「……そうだな」


 たった今、ミホを殺す為の提案を受けたばかりの俺は、上手く会話を繋げることができない。

 そんな俺を見たミホは、その要因を場所のせいだと判断する。


「いつまでもここにいるのも何だし、私の部屋に行こっか」


 ミホの提案に、俺は頷く。


「分かった」





 ミホに案内されたのは、ミホの寝室だった。


「どうぞ」


 少し照れた様子で、手で部屋を指し示すミホ。

 案内されるがままに入った部屋は、とても魔王の部屋とは思えない、シンプルなデザインだった。


「男の子を部屋に案内するのは初めてなんだよ」


 そう切り出すミホ。

 もちろん俺も女子の部屋に入るのは初めてだった。

 初めてが魔王の寝室になるなんて、思ったこともなかったが。


 化粧台とベッドしかない寝室で、ミホは俺をベッドに座るよう促す。

 俺は促されるままにベッドへ座った。

 そんな俺の横に、少しだけ間を空けてミホが座る。


 ミホは少しだけ首を傾けながら、俺の顔を覗き込むように見る。


「ユーキ君。改めてだけど、私はずっとずっとユーキ君が好きでした」


 ミホからの告白。


「私はこっちの世界に来てから千年以上経つけど、ユーキ君のことを思い出さない日は一日もありませんでした」


 大きな瞳で俺を見つめるミホ。


「こっちの世界は辛いことばかりだったけど、ユーキ君にもう一度会うことだけを想って何とかやって来れました」


 ミホはその美しい顔に笑みを浮かべる。


「そんなユーキ君に、やっと会えた。大好きで。大好きで。本当に大好きなユーキ君に、やっと会えた」


 ミホの手が俺の手に触れる。


「私はユーキ君が好き。世界中の誰よりも好き」


 ミホの顔がそっと俺に近づいて来る。

 鼻の頭がくっつきそうな距離まで近づいたところで、ミホは止まった。


 こんなにも真っ直ぐに自分を好きだと言ってくれるミホ。

 元々のミホをそれほどよく知っているわけではなかったが、ミホはこんなことをストレートにいう人間ではなかったはずだ。


 一千年という年月は人を変えるのに十分すぎる時間だ。

 もしかすると、人格が変わったことによるものではなく、想いの方が積もり積もった結果なのかもしれないが。


 対する俺は、最低だ。


 ミホのことを好きでい続けられなかったばかりではない。


 勝手にもう会えないと決めつけて。

 別の女性と将来を誓った。


 どうしようもないクズだ。


 ミホのこんなにも真っ直ぐな気持ちを受ける資格なんてない。


 だが、だからと言って簡単に断るわけにもいかない。


 正確には今は違うのかもしれないが、ミホは魔王だ。

 しかもただの魔王ではなく、千年もの間、誰も敵うものが現れない、史上最強の魔王だ。

 俺から見れば遥か雲の上の存在の四魔貴族が、百分の一の強さになってしまった彼女にさえ、束になっても敵わないという恐ろしい存在だ。


 一人で世界を滅ぼせるであろう存在。

 それがミホだ。


 もし俺が断ることによって、ミホが世界に絶望したら。

 

 俺を手に入れられないことで。

 俺の裏切りを知ったことで。


 ミホが自棄になったとしたら。


 俺を殺すだけならいい。

 でも、それだけで気が済まなかったら。


 ミホは世界を滅ぼしかねない。


 俺の言葉の一言一句が。

 俺の行動の一挙手一投足が。


 世界を滅ぼしかねない。


 俺はミホの華奢な両肩に両手を置く。


 期待を込めた目で俺を見るミホに対し、俺はぎこちなくなっていないか気を配りながら、優しく微笑みかける。


 慎重に言葉を選び、口を開く。


「ありがとう、ミホ。ミホにそんなにも想ってもらえて俺は嬉しいよ」


 ここまで嘘は言っていない。

 その気持ちを受け入れられるかどうかは別だというだけで。


 俺の言葉に、パッと笑顔になるミホ。

 その眩しすぎる笑顔に、俺の心は締め付けられる。


 次の言葉を紡ごうとするが、うまく言葉が出てこない。


 千年。


 それだけの年月、一人の相手を思い続けることがどんなに大変か。

 そんなこと、想像すらできない。


 強くて美しいミホは、数多の男たちから求められたに違いない。

 強さが全てだという魔族にとっては、絶対的な強さを持つミホは、誰からも拒まれることはないだろう。


 それなのに。


 俺のことを。

 俺だけのことを。


 ミホはずっと想い続けてくれた。


 僅かな間しか一緒に過ごしたことのない俺を。

 付き合ってすらいなかった俺を。


 ミホは待ち続けてくれた。


 そんなミホを誤魔化すようなことは、俺には言えない。


 怒るかもしれない。

 悲しむかもしれない。


 俺は殺されるかもしれないし、カレンも殺されるかもしれない。

 そして、最悪の場合、世界も滅ぼされるかもしれない。


 それでも俺には、ちゃんと伝える義務があるだろう。

 せめて最低限の誠実さは保とう。


 それが、こんな最低な俺を想い続けてくれたミホへの礼儀だ。


 もし俺を殺すだけに留まらず、世界にまで手を出しそうな場合は、ナミに渡された剣を使う。

 ミホに世界を滅ぼすなんて真似させるわけにはいかない。


 覚悟を決め、次の言葉を語ろうとした俺を、ミホはそっと抱きしめた。


「……ミホ?」


 俺の問いかけにミホは優しく答える。


「ユーキ君、何だか辛そうな顔してたから」


 ミホはそう言うと、しばらく俺を抱きしめてくれた。


「こっちに来て色々あったんだよね? 今日からは私がついてるから大丈夫だよ。何があっても私が守るし、絶対に私が幸せにする」


 ミホはそう言うと、俺の体から少しだけ離れて、笑顔を向ける。

 美しくて柔らかい笑顔を。


 その笑顔に、決意が揺らぎそうになる。

 この笑顔を崩さずに置きたい気持ちに支配されそうになる。


「ミホ、俺は……」


 それでも、何とか言葉を絞り出そうとした俺の唇を、ミホの唇が塞いだ。

 柔らかく、甘い唇の感触が俺の唇を通して伝わってくる。


 唇を重ねるだけのキス。


 ただそれだけだったのに、今から吐き出されるはずだった俺の言葉は、溶けてなくなってしまった。


「えへへ。これが私のファーストキス。千年以上もかかっちゃった」


 そう言って微笑むミホ。

 今まで見たことのある、全ての人の、全ての笑顔の中で、最高の笑顔。


 そんな笑顔を切り裂く言葉を、俺は放つことができなかった。


「本当はこのまま一緒に寝たいんだけど、今日はやめとく」


 ミホはそう言うと、ベッドから立ち上がり、背中を見せる。


「……一緒に寝ちゃうと、私、我慢できなくなる。ユーキ君との初めては、結婚初夜にしたいなって思ってるから」


 後ろからでも少しだけ見える頬を真っ赤に染めながら、ミホはそう言った。


「でも……」


 ミホはそう言って振り返ると、恥ずかしそうに言葉を続ける。


「ユーキ君が辛くて、寂しくて、一緒に寝たいっていうなら、いいよ。私の全てはユーキ君のものだし、ユーキ君となら大丈夫だから」


 俺はダメな男だ。

 自分で決めたことも実行できない、意志の弱い男だ。


 ミホを傷つけるのが怖くて。

 傷ついたミホを見るのが嫌で。


 俺はミホに告げることができない。


 単なる先延ばしでしかないのは分かっているのに、何も言えなかった。


「嬉しいけと、今日はやめとくよ」


 何とか絞り出したその言葉に、ミホは少し残念そうな笑顔を見せる。


「うん。式は三日後の予定だから、その日までお預けね」


 三日後という言葉に、俺はどきりとする。

 三日後は、俺がミホを殺すかどうかを決める期限だからだ。

 ナミは分かっていて言ったのかもしれない。


 俺は無理に笑顔を作り、ミホへ微笑みかける。


「今日はちょっと疲れたから休ませてもらう」


 ミホは素直に頷く。


「うん、また明日」


「また明日」


 ミホから割り当ててもらった部屋へ行った俺は、アレスの家のものより高級そうなベットの上で仰向けになる。


 その日俺は、一晩中ミホのことを考え、眠ることができなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る