第188話 護衛者

 少女の生まれた環境は劣悪だった。


 体を売って生計を立てていた少女の母が、避妊に失敗して客との間に妊娠したのが少女だった。

 堕胎費用すら持たない母親に、公衆トイレの中で産み落とされたのが彼女だった。


 彼女にとっての唯一の幸運は、その場で殺されなかったことだ。

 愛情はなくとも、人としての最低限の良心が母親の中に残っていたことだ。


 そのままトイレには放置されず、家にまでは連れ帰ってもらえたことで、彼女は生まれてすぐにその生を終えることだけは回避できた。


 だが、体を張って稼いだ金は、男や贅沢に使ってしまう母親の子に産まれた彼女は、経済的に裕福とは言えなかった。

 それに、子連れでは体は売れないし、風俗店には当然託児所なんてない。


 困った彼女の母親は、風俗店のオーナーへ相談する。


 人の良い笑顔でオーナーが紹介したのは、ケツモチの反社会的勢力だった。


 そして、乳児だった少女の運命は決まる。


 反社会的勢力の施設で、五歳までは普通の子供のように育てられた彼女は、五歳の時に人生の選択を迫られる。


 将来、体を売るか、暗殺者になるか。


 自分を組織に売った後、母親とは会ったことがない。

 相談相手のいなかった彼女は選択する。


 体を売るという意味は幼いながらに分かっていた。

 環境が彼女の知識を大人にさせていた。


 体を売っていたという母親には嫌悪感しかなかった。

 だから彼女はもう一つの仕事を選んだ。


 こちらの仕事も、もちろん綺麗ではないことは知りながら。

 奪われる側より奪う側にまわりたいというのが彼女の思いだった。


 だが、暗殺者になるための訓練は過酷だった。


 単純な身体能力の強化はもちろん、メンタル面の強化訓練も厳しかった。

 人を殺すということは、想像以上の精神的負荷がかかるからとのことだった。


 殺しの手段は無限大である。


 どんな環境でも。

 どんな状況でも。


 人を殺すことができるよう、徹底的に鍛えられた。


 子供であることを。

 女であることを。


 全てを利用して確実に殺す。


 その為の英才教育を受けた。


 だが、ある日突然、組織の上の者から指示が出る。


「暗殺者の訓練は今日で終わりだ。これからお前はお嬢様の護衛についてもらう」


 組織の都合。

 本人ではどうにもならない理由で、少女は暗殺者から護衛者に変わった。


 文字通り血の滲む努力で身に付けた暗殺の技術が、活かされることのないままの変更に、少女は不満を覚えていた。


 その全てが無駄になるとは言わないが、暗殺者と護衛者では求められる技術も、心構えも違う。

 技術はすぐにどうにかなったが、心はすぐには切り替わらない。


 だが、ある日少女は気付く。

 それさえも組織の思惑の内だったことに。


 少女の護衛対象は、組織の上位団体のトップの娘。

 日本最大の広域指定暴力団の後継者候補だった。


 組織の面子上、護衛を付けないわけにはいかないが、いざという時には、いつでも消せるようにしておきたい。


 その為の存在が少女だったのだ。


 この組織の後継者選びはシンプルだ。

 血縁の中で最も優れた者がトップの座につく。


 だが、そこに他人の思惑が入る余地がないかと言えばそうではない。

 その最たる存在が少女だった。


 護衛対象の少女がトップに就きそうな時、その少女が、自らを護衛者に指定した者たちの意向に沿わなければ、彼女が排除する。

 彼女はその為の存在だった。


 護衛対象の少女の名はミホと言った。


 ミホは、控えめに言っても優秀過ぎる存在だった。


 その美貌も。

 その頭の良さも。

 その運動神経の良さも。

 その対人関係能力も。

 そのカリスマ性も。


 一般人とは一線を画す優秀さだった。


 少女は同い年の彼女を尊敬すると同時に、羨み、妬んだ。


 人殺しの能力しか持たない自分。

 誰とも知らない父親を持ち、母親に売られ、暗殺者になるしかなかった自分。


 それに対し、全ての能力に優れるミホ。

 日本最大の広域指定暴力団のトップの娘という、自分とは比べ物にならないほど恵まれた環境に産まれたミホ。


 もちろん、ミホより恵まれた環境にいる者はたくさんいる。

 彼女の能力の高さも、生まれ持ったものだけでなく、本人の努力の賜物だということも、頭では理解できる。


 だが、一番身近で常に周りからチヤホヤされる彼女を見続けている少女は、ミホに嫉妬することを止められなかった。


 誰よりもミホの凄さを知り。

 誰よりもミホを羨望し。

 誰よりもミホに嫉妬した。


 いつしか組織の思惑を超えて、個人的にミホへ殺意を抱くほどに。


 実際人を殺したことはない彼女だが、暗殺者の訓練を受けてきた彼女は、ミホに殺気を悟られるような失態は犯さない。

 忠実な護衛者を演じ続けていた。


 誰にでもいい顔を見せるミホだったが、常に傍で過ごす彼女には、一つだけ分かったことがある。


 ミホは、彼女を含め、誰にも心を許していないということだ。


 ミホの置かれた環境が、彼女に人へ心を許すことを許さないのだろう。


 その点だけは、自分と同じだと彼女は思っていた。

 それだけが、恵まれたミホと、そうではない自分との唯一の共通点だと思っていた。


 愛情。

 友情。

 同情。

 劣情。


 他人に対してそんな感情は抱かない。


 だからこそ、殺意を抑えることができた。

 だからこそ、親近感を持つことができた。


 ……それなのに。


 ある日から、ミホがクラスでいじめられている生徒の為に尽くすようになった。

 それ自体はいい。

 慈悲で溢れた人物を演じる為の仕込みの一つだと思っていたからだ。


 だが、いつまで経ってもミホはその行為をやめない。

 自らの手を汚し、多少クラスの中で浮くのさえ省みない。


 そんなミホを見て少女は疑問を抱く。


 何かがおかしい。

 他人に情を示すはずのないミホが、明らかにこの生徒へ肩入れしすぎている。


 いじめの対象になっている生徒は、勉強も運動もずば抜けて優秀だった。

 その優秀さが裏目になり、プライドばかり高い他の生徒から疎まれていたところへ、無駄な正義感を振り回したせいで、いじめの対象となっていた。


 少女からすると、優秀なだけの人間に興味などない。

 上手く生き抜く術を知らない哀れな生徒。

 ミホのように、他人の羨望を一身に受けながらも、反感を買うどころか崇め奉られるような人間ではない。

 ……ミホのような人間が他にゴロゴロいては困ると少女は思っていたが。


 だからこそ少女には分からない。

 なぜミホがこの生徒にそこまで構うのかを。


 もしかすると、自分とは比べ物にならないほど賢いミホには、自分には及びもつかない崇高なプランを考えているのかもしれない。


 そう思った少女は、思い切って本人に尋ねてみることにした。


「ミホ様。僭越ながらお尋ねします。最近やけに構っていらっしゃるユーキという生徒についてですが……」


 そこまで話したところで、ミホが反応する。

 その反応に、不測の事態には常に万全に備えているはずの少女が驚いてしまうほどに。


「か、彼とは何でもないわ!」


 どんな時でも冷静沈着。

 想定外の質問に対しても、落ち着いて対処するミホ。


 そのミホが明らかに取り乱していた。


「ただ、誰よりも頑張っている彼が、不遇な目に遭っているのを放っておけないだけ。すごく優秀で、自分に厳しくて、でも他の人にはとても優しい彼が、いじめなんて卑劣なものに遭っているのが許せないだけよ」


 少女は、そんなミホを見て察してしまう。

 頬を赤らめ、取り乱すミホを見て、痛感してしまう。


 ……ミホが恋していることに。


 ミホが住む世界は、一瞬の油断が命取りになる世界だ。

 悪鬼羅刹が蔓延り、魑魅魍魎が跋扈する、この国で最も危険で過酷な世界だ。


 自分の将来の為、戦略的に異性を選ぶことはあっても、普通の恋愛なんてできるはずがない。


 そんなことは、少女に言われるまでもなく、ミホ自身が誰よりも分かっているはずだった。


 少女が信じるミホ像が崩れていく。


 誰よりも優れ。

 誰よりも完璧だったはずのミホが、ただの少女になってしまう。


 抑えていた殺意の蓋がひび割れていくのを感じる。

 もちろん、今この状況でミホを殺せば、組織への裏切り行為として、自分も処分されるだろう。


 ミホがユーキと二人で教室にいるのを教室の外から察知しながら、持て余した殺意をどうするか悩んでいた時だった。


 少女は光に包まれた。





 突然飛ばされた白い部屋で、女神のような格好の女性から、簡単な説明を受けた後、再び部屋が光り、なぜかミホやユーキを含めた一部の人間だけが部屋から消える。


 女神の格好の女性の話では、元の世界での地位が過剰に反映される為、貧しい家庭の者や、反社会勢力の者、素行が悪い者などは、先に飛ばしたとのことだった。


 反社の代表のような存在のミホや、貧しい家庭のユーキが先に飛ばされた理由は分かった。

 だが、少女には、自分がここに残された理由が分からない。


 ミホ同様、少女もまた、反社会的勢力側の人間だからだ。


 一通り追加の説明が終わった後、三度部屋の中が光り、今度は少女だけが部屋に残された。


 少女には分からない。


 なぜ自分だけが?


 不測の事態に困惑する少女に対し、女神の格好をした女性が笑みを浮かべながら近づいて来る。

 それまで身に付けていた女神然とした微笑みの仮面を外し、酷く人間臭い生々しい笑みだった。


「……貴女、殺したい人がいるでしょう?」


 女神の格好をした女の言葉に、少女は思わず反応する。

 してしまう。


 無言の少女に、女神の格好をした女は語りかけ続ける。


「みんなには魔王を倒すよう言ったけど、魔王になるのはミホちゃんなの。みんなが転生して着くのはミホちゃんが魔王になってから千年後。成行だと、ミホちゃんは千年かけて神をすら凌駕する力を身に付ける。移り変わる元の体の持ち主がそうなる運命だから。そんなミホちゃんを、貴女の手で殺してくれないかしら?」


 分からない。

 この女の考えが分からない。


 なぜミホが魔王になるのを知っていながら転生させたのか。

 なぜ千年かけて強くなるのを分かっていて、全員を千年前に転生させないのか。

 なぜ自分だけを千年前に転生させるのか。


 分からない。


 ……でも、少女は自分の顔が笑っているのが分かった。


 ミホを殺せる。

 自分の手で殺せる。


 少女は二つ返事で頷く。


「はい。私が殺しましょう」


 歪な笑みを浮かべた女が二人。

 ミホを殺す為の話をし始めた。


 少女は気付いていなかった。


 ユーキに恋したミホ同様、自分も他人へ過剰なまでの情を抱いているのを。

 一度暗殺に失敗した後も、千年殺意を抱き続けるほどに執着し続けるほどの情。

 その情の正体が何なのかは、本人はもちろん、誰にも分からない……

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