第179話 奴隷のパートナー③

 私は彷徨う。


 暗い森の中を。

 一切の光が見えない森の中を。


 少年と出会う前に戻っただけのはずだった。


 もともと私は一人。


 たった一人で。

 何十年も。


 人間の屍肉を食べて生きてきた。


 一人には慣れていたはずだった。


 それなのに。


 私の心に空洞ができてしまった。


 百年以上生きてきて、初めて出会えた心を許せる人。

 相思相愛となり、一生を誓った人。


 私の記憶から、その人の顔と名前が消えた。

 その人に与えてもらった、大切な名前も。


 いっそのこと全ての記憶が消えてくれたら楽だったのに。


 その人にまつわる出来事は、ちゃんと記憶に残っていた。


 その記憶が私を苦しめる。


 その人と過ごした幸せな日々。

 その人を想う狂おしい程の感情。


 私に残るすべての記憶と感情が、私を苦しめる。


 苦しくて。

 苦しくて。

 苦しくて。


 発狂しそうになる。


 少年と過ごしたのはほんの数ヶ月。

 人生の中の僅か一瞬。


 その一瞬に過ぎないはずの日々が、今の私の全てを構築していた。

 少年なしでは生きられない心と体になっていた。


 心臓と魂を同時に抜かれたような喪失感。


 少年と生きていくと決めた。

 少年のためなら何でもすると決めた。


 その少年がいない。


 ただ、少年と絶対に二度と会えなくなったわけではない。

 再び会える可能性は限りなく低いが、ゼロではない。


 私には期待があった。


 再会さえできれば、私は少年のことを思い出すことができるのではないかと。


 私が少年に命令されたのは、少年のことを忘れることだけだ。

 思い出すことを禁じられたわけではない。


 それは希望的観測に過ぎない。

 でも、その希望がなければ、私は生きていけない。


 私は知ってしまった。


 人を愛することを。

 その喜びを。


 もはや、それなしには生きていけない。


 少年と再会し。

 少年のことを思い出し。

 少年と結ばれる。


 それだけを目指して生きていくしかない。


 私は魔力の豊潤な少年の血を得ることで、人間の肉を食べずとも、力を落とさず生きることができた。


 でも、少年と離れた今、私は人間を食べなければ生きていけない。

 しかも、ただ生きるのに必要最低限の量を食べるだけではダメだ。


 私は一人でも必ず生き延び、そして少年に会いにいかなければならない。


 魔族を討伐する人間にも。

 領地を彷徨う魔族を排除する他の魔族にも。


 決して負けてはならない。


 そのためにはそれなりの量の人間を食べる必要がある。


 愛する少年のため、私は少年と同じ人間を食べなければならない。


 生きるために。

 最低限の量を。

 仕方なく。


 ……ではなく。


 強くなるために。

 積極的に。


 人間を食べるのに抵抗がなくなったわけではない。

 自分と同じ言葉を話し、自分と同じような顔をした生き物を、生きたまま食べるのに慣れたわけではない。


 むしろ、アレスの元で過ごしたことで、人間を食べる嫌悪感は増していた。


 でも、自分の人生を狂わせた倫理観より、少年への思いの方が勝っていた。


 私は森の中で遭遇した人間を手当たり次第に食べた。


 そうやって力を蓄えていった私は、他の魔族の領地を荒らしたということで、四人の魔族から襲われる。


 四魔貴族テラ様の配下だと名乗る四人。


 この四人の言葉が正しいなら、この四人を殺せば四魔貴族に喧嘩を売ることになるだろう。


 だからといって謝ったところで許してもらえるとは思えない。


 私も、人間狩りの経験があるから分かる。

 人の縄張りで狩りをしたはぐれは、殺されるか奴隷になるしかない。

 女ならそこに、慰み者になるという選択肢も加わる。


 私に残された選択肢は二つ。


 絶望的な力の差を承知の上で、四魔貴族テラ様と敵対する前提で戦うか、素直に従い奴隷か慰み者になるのを覚悟でいつか逃げ出す隙を窺うか。


 私の命も自由も貞操も少年のものだ。

 例え四魔貴族と敵対することになろうとも、それだけは絶対に譲れない。


 私は、戦う道を選んだ。


 四人の実力は大したものではなく、一人を殺し、残りは追い払った。


 報復は覚悟していた。


 でも、その相手は私の覚悟を超えていた。


 直接、四魔貴族テラ様本人が現れたのだ。


 たかがはぐれの魔族一人を狩るのに、いきなり魔王様に次ぐ権力と力を持つ多忙な存在が来るのは想定外だった。


 四魔貴族を見るのは二回目だ。


 魔王様に名前を授けられた時以来の四魔貴族。


 当時は魔王様の圧倒的な存在感のせいで隠れていたが、四魔貴族も十分に異常な存在だ。


 魔力を抑えているにもかかわらず溢れてくる強者の気配。

 その目には見えない威圧感が私を襲う。


 抑えていても感じられる圧倒的な魔力量の差。

 まともに戦えば、こちらに勝ち目はない。


 それは私にも分かっていた。

 ……でも、引き下がるわけにはいかない。


 私は虚勢を張り、テラ様と対等な存在であるかのように話をした。


 とるに足らない存在だと思われたら、例え生き延びても奴隷か慰み者だ。


 例え怒りを買ったとしても、存在感を示せば、生き残った後、それなりの扱いを受けられるかもしれない。


 案の定、四魔貴族テラ様は、格下にもかかわらず失礼な態度を取る私へ怒りを露わにし、そして、告げる。


「面白い魔族かと思ったら、ただの無礼な奴だった。……一瞬で消してやろう」


 そう言って抑えていた魔力を放出するテラ様。

 辺り一面を燃えるような魔力が支配する。


 少し前の私なら、この魔力を浴びただけで戦意を喪失し、テラ様を案内してきた三人の魔族同様に、失禁していたかもしれない。


 でも、今は違う。


「今謝れば、少しだけ痛い目を見せた後、俺の奴隷にして可愛がってやる。さっさと謝れ」


 私の全ては、顔も名前も思い出せない少年のものだ。


 例え相手が四魔貴族でも、私は屈しない。


「あいにく俺の主人は決まっている。お前より遥かにいい男だ。まあ、顔も名前も思い出せないのだがな」


 私の言葉を聞いたテラ様は、侮辱か戯言と受け取ったのか、問答無用で攻撃してくる。


「死ね」


 放たれた魔法は、今まで見たことのあるどんな魔法より強力な炎だった。


 私の魔力では、同じように魔法を放っても、あっという間にかき消されてしまうだろう。


 ……だったら同じように放たなければいい。


 少年と過ごす中で学んだこと。


 魔法は組み合わせることで、威力が増すことがある。

 炎を強くするためには、酸素を供給し、放熱による熱の発散を抑えればいい。


 少年に教わった科学という名の知識が、私の中で生きていた。


『紅蓮』


 かつて魔王様にいただいたその名を冠した魔法を放つ。


 物心ついた頃から慣れ親しんだ炎の魔法。


 ただ、その威力は、今まで私が放ってきた魔法とは一線を画した威力を誇っていた。


 風魔法による酸素の供給と、何層にも渡る空気の壁による保熱で、私の放った炎は、勢いよく燃え盛る。


 込められた魔力量はテラ様の炎に比べて圧倒的に少ない。

 でも、威力は同等だった。

 お互いの魔法が掻き消える。


 今の私にできる最高の攻撃。


 対するテラ様は思い切り手加減している。


 それでも両者の魔法は拮抗していた。


 再度放たれるテラ様の魔法。

 それに呼応し、私も全力の魔法を放つ。


 二つの魔法は両者の間でぶつかり、しばらく拮抗した後、一度目と同じように消える。


 魔法が消えた後、テラ様はじっと私の顔を見ていた。


 テラ様の意図は分からない。

 ただ、その視線から敵意が消えたのは感じ取った。


「魔族グレンよ」


 私が捨てた名前で私を呼ぶテラ様。


 突然過去の名前を呼ばれたことに動揺する私だったが、その動揺を表に出さないようにする。


 その名に恥じない実力があるかどうかは別として、魔王様から名前を授けられた魔族の数はそこまで多くない。

 普通の魔族ならその全てを覚えるのは無理だろうが、魔王様に次ぐ能力を持つ四魔貴族なら、把握していてもおかしくはない。


 私は平静を装いながら応える。


「その名は捨てた。今俺に名前はない」


 魔王様への叛逆に等しい発言。


 魔王様の忠実な配下である四魔貴族に対してこの発言をするということは、明確に敵対することを意味する。

 失われた敵意が再燃するのも覚悟の上で、それでも私には、思い出すことすらできない少年からもらった名前を無かったことにするのは無理だった。


 でも、テラ様から放たれたのは、今度こそ手加減抜きで放たれるだろうと予想していた強力な魔法ではなく、ある意味でそれ以上に強力な言葉だった。


「俺の女になれ」


 予想外すぎる一言に、私の思考は停止する。


 名前を捨てたことに対して怒りを買わなかった理由は一旦置いておく。


 それ以上に理解できなかったのは、テラ様が私なんかを自分の女にしたいと思ったことだ。


 魔族の異性を判断する最も大きな基準は強さだ。


 そして、魔王様が女性であることから、最も強い男性はテラ様とナギ様の二人の四魔貴族ということになる。

 同じ四魔貴族のナミ様と結婚され、他の女性に全く興味を示さないナギ様は、恋愛の対象にはなり得ず、魔族中の女性の憧れの存在がテラ様だった。


 例え夫や恋人がいる女性でもテラ様から誘われれば、ほとんどの女性がテラ様のもとへ走るだろう。


 そんなテラ様からの誘い。


 テラ様は非常にモテる分、女性への評価が厳しいことで知られていた。

 千年近い人生の中で、生涯の伴侶となる相手を未だ見つけられていないことも知っていた。


 テラ様から女性を誘うことはない。

 誘わずとも女性の方から寄ってくるからだ。


 そのテラ様からの誘いの言葉。


 本気ではなく、遊びなのかもしれない。


 それでも、どんな女性でも意のままのはずのテラ様からの直接の誘いは、驚くべきことだ。

 テラ様が若い頃はそれなりに誘っていたと聞くが、それにも飽きたようで、少なくともこの数百年、テラ様がご自身から誰かを誘ったことなどないはずだ。


 普通の魔族なら、この誘いを本能的に受け入れてしまうだろう。


 でも、幸いなのか、残念ながらなのか、私は食材に過ぎない人間を殺すのを躊躇するくらい、魔族としての本能が薄い。


 全く響かなかったわけではないが、私から少年への想いを上書きするほどではなかった。


 魔族の女性として四魔貴族に誘われることは、魔王様から名前を与えらる以上に喜ぶべきことなのかもしれない。

 でも、私の望みは、少年と結ばれることだけだった。


 私は、あえて断定的に答える。


「断る。俺には心に決めた者がいる」


 私は死を覚悟した上で、そう答えた。


 四魔貴族自ら誘って断られる。

 それは恥を通り越して、その場で首を飛ばされても何の文句も言えない行為だった。


 でも、テラ様の行動は私の予想と違っていた。


 テラ様が抑えていた魔力を解放する。

 先ほどまでとは桁違いの魔力。

 この魔力で攻撃されれば、私なんて一瞬で消炭だろう。


 ただ、その魔力は私を攻撃するためのものではなく、あくまで威圧するためのものだった。


「拒むなら力づくでものにする。お前も魔族なら異論はないな」


 テラ様からの譲歩。

 もう一度だけチャンスを与えていただけるという慈悲。


 すぐに殺されても不思議ではないのに、それほどまでに求めていただけるという魔族の女としてこれ以上ないほどの喜び。


 それでも私はその提案を受け入れるわけにはいかない。


 あまりにも強力な魔力に、私の膝が自分の意思を無視して震え出そす。


 そんな膝を無視して、私は答える。


「断る。お前のものになるくらいなら、今この場で死を選ぶ」


 自分でも狂っているとは思う。

 名前も顔も思い出せない相手を裏切らないために、命を捨てるなんて。


 死を覚悟した私に、今度はさらに驚くべきことをテラ様が告げる。


「俺と結婚してほしい。もちろん正妻として。お前が望むなら、今後他の女は抱かない。俺の生涯をお前に捧げよう」


 あまりにも衝撃的な言葉に、私は自分の耳を疑う。


 四魔貴族のプロポーズ。

 魔族として、これ以上魅力的な言葉はないだろう。


 魔族のプロポーズの意味は重い。

 これを受ければ、私は一生安泰で、これ以上ない暮らしを送ることができるだろう。


 それでも私は……。


「断る。気持ちはありがたいが、俺の気持ちが変わることはない」

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