第177話 奴隷のパートナー①

 私には幸せも安らぎも訪れることはない。


 それは私にとって確信に近かった。


 パパとママ。


 強くて優しい二人が生きていた時は、そんなことはなかった。


 慎ましくも穏やかな日々。

 両親の愛情に包まれた暖かな日々。


 ほとんど薄れかけた記憶の中に、その幸せな日々がなければ、私はとっくに自死していただろう。






 人生の転機は、私が魔王様に名前を授けていただいた直後だった。


 魔王様に直接名前を授けていただくという、魔族としての最上級の誉。


 本来、これ以上なく喜ばしいはずのその出来事は、私にとって必ずしも良い思い出ではなかった。


 魔王様が恐ろしい存在であることは知っていた。


 鳥人という、かつて存在した種族を滅ぼしてしまったこと。

 反抗的な態度を示した魔族を、一族もろとも粛正したこと。

 一万人を超える人間を一発の魔法で殲滅したこと。


 それらの様々な伝説が語り継がれている魔王様。


 でも、そんな伝説ですら全て霞んでしまうほど、私を見つめる目はそれ以上に怖かった。

 微笑んでいるはずなのに、恐ろしい殺気を感じる視線。

 同じ生物だとは思えない、圧倒的な力の差。

 

 私は恐怖で震え、この場から逃げ出したくなるのを我慢するので精一杯だった。


 神々しい程に美しく、禍々しい程に恐ろしい。


 それが私の魔王様への印象だった。


 ただ、その場では何かがあったわけではなく、通例通りに名前を与えられただけ。


 私の人生を決定づける出来事が発生したのは、名前を与えられた直後。


 軍人でないはずのパパとママの突然の派兵だ。


 パパもママも、魔族として弱くはない。


 でも、軍にはさらに強力な魔族がたくさんおり、わざわざ一般人であるはずの二人が派兵される理由が分からなかった。


「大丈夫。私たちはすぐ帰ってくるから」


 笑顔でそう言って家を出た後、最前線で戦った二人の悲報が届いたのは、パパとママが戦いに出て三日後のことだった。


 悲しみに暮れる暇すらなく、現実が私を襲う。


 魔王様に名前を与えていただいたことから、きっと私には、将来的に強くなる素養があるのだろう。


 でも、パパとママが亡くなった時の私は、最低限の戦闘知識をようやく覚えたばかりの子供だった。

 軍でいうなら一般兵にも満たない戦闘力しなない。


 そんな私でも、生きていくためには働かなければならなかった。


 本来なら魔族として、もっと成長してから同行する『狩り』。


 報酬ももらえるし、生きるのに必要な食材も手に入るという一石二鳥のその仕事に、私は志願して同行した。

 魔王様から与えられた名を持つ私は、命の危険もあり、大人しか参加できないはずのその仕事への同行を、特例として認められた。


 そして、その仕事へ同行したことを、私は一生後悔する。


 『狩り』のターゲットは人間。

 魔族は人間を食べることで魔力を維持し、人間を食べなければ年齢が退行し、いずれ死んでしまう。


 人間は醜い。

 人間は汚い。

 人間は狡い。

 人間は野蛮。

 人間は知能が低い。

 人間は生きる価値がない。


 そんな存在である彼らを食べることは、彼らに対する救済であり、害悪でしかない彼らを役立つものに変える尊い行為である。


 私は小さい頃からそう教わっていたし、その言葉を疑ったことなどなかった。


 ……生きた人間を見るまでは。


 これまで私が見てきた人間は、解体され、バラバラになった肉片のみ。


 でも、初めての『狩り』で見た人間は、私たち魔族とほとんど変わらない外見をしていた。


 私たちと同じ言語を話し。

 私たちも同じように生活し。

 私たちと同じように生きている人間。


 そんな人間を、次々と狩って行く同胞たち。


 子供を庇って両手を広げて立ち塞がる母親。

 身体中の体液を垂れ流して泣きじゃくる子供。


 そんな人間たちをなんの躊躇もなく生きたまま貪る同胞たち。


「お前も食えよ。殺しすぎると次『狩り』をしづらくなるから、一人一匹までだけどな。せっかく命がけでここまできたんだから味わっとけ。普段の調理された肉と違って、生きた人間の肉は魔力も豊潤で旨いぞ」


 その光景を見た私は、吐いた。


 これまで何も考えずに食べてきた人間。

 美味しい美味しいと食べてきた人間は、私たち魔族と変わらない生き物だった。


 その事実に、私の精神は崩壊寸前だった。


「汚ねえな。食わねえんだったら、食材を運びやすいように解体しとけ。売り物にならなくなるから、ゲロはかけるんじゃねえぞ」


 私は、吐き気を抑えながら、首筋を切られてすでに絶命した人間たちを解体した。


 両腕を胴体から切り離し。

 頭部も胴体から切り離し。

 腐りやすい内臓は、胴体から抜いた後、魔法で焼いた。


 ……そして私は人間を殺せなくなった。


 役立たずの私は、すぐにクビを宣告され、『狩り』に参加させてもらえなくなった。

 ……参加させてもらえても、ついていかなかったと思うが。


 戦えもせず、手に職もなく、『狩り』すらまともにできない私は、『はぐれ』となった。


 『はぐれ』の末路は決まっている。


 比較的安全な『狩り』場には強力な魔族の縄張りがあるため、そこでは『狩り』ができず、人間が支配する危険な領域で『狩り』をせざるを得なくなる。


 人間側も、一方的に狩られるわけではなく、『狩り』を行う魔族を討伐する。

 人間の中にも、中位程度の魔族を狩れる者はいるので、単独行動の戦闘経験もろくにない子供の魔族なんて、すぐに殺される。

 もしくは、うまく『狩り』ができずに飢えて死ぬ。


 いずれにしろ、近い将来、私は死ぬ。


 それはほぼ決定事項だった。


 人生既に詰んでいる。

 あとは、投了するまでの時間を延ばすか延ばさないか、だけだ。


 ただ、私は一つだけ疑問があった。


 完璧な存在であり、未来すら見通せると言われている魔王様が、なぜ私に名前を授けたか、だ。


 すぐに野垂れ死ぬような魔族に、名前を授けるだろうか?


 完璧な存在である魔王様が、そんな失敗をする訳がない。

 そうであれば、私はきっと強くなれる。


 私は、その可能性だけを信じて、最後まで足掻くことに決めた。


 魔族が生きるためには、どうしても人間を食べる必要がある。

 だが、人間を狩れば、いずれ討伐されてしまう。

 そもそも私はもう、狩りなどできないだろう。


 私はこの問題を解決するために考えた。


 殺すのが無理なら、死んだ人間を食べるしかない。


 それから私は、屍肉を漁るハイエナのような生活を始めた。


 近くの村で人が死ねば、夜中に墓を掘り起こして屍体を食べた。

 魔物に襲われて死んだ人間がいれば、魔物と戦ってその屍体を奪って食べた。


 蛆がわき、腐臭が漂う死体を食べた。

 何度も吐き、吐いたものすら口に入れながら、食べた。


 死んだ人間だけを狙うとなると、何日も何週間も食事にありつけないことはある。


 だが、飢えを我慢してでも。

 人としての尊厳を失うような生活でも。


 人間を殺すよりはマシだった。

 死んだ方がいいと思える程の飢えも、この手で人間を殺すよりはマシだった。


 すぐに死んでしまうかと思っていた私は、人間を狩らないことで、自分でも思っていたよりも遥かに長く生きることができた。


 十分な食事は得られないので、魔力が増すことはなく、強くはなれていない。


 それでも私は感謝した。

 今日の命があることに。


 ただ一人で屍肉を漁る日々。


 たまに他の魔族と会うことはあったが、人間を殺さず死肉だけを漁る私は、時折遭遇する同じはぐれの魔族からも軽蔑され、仲間と呼べる者はいなかった。


 そんな魔族たちに少しでも舐められないよう、私は普段話すときの一人称を俺に変えた。

 結果として舐められなくなったかといえば微妙だったが、心が荒んでいくのには、さらに拍車がかかった。


 一人で森を彷徨いながら暮らしていると、当然魔物にも襲われる。


 弱い魔物は倒す。

 人間の肉にありつけない時は、お腹をごまかすために魔物の肉すら食べる。


 強い魔物と遭遇することもある。

 明らかな格上の魔物とも戦うこともある。

 命の危機にさらされたことも一度や二度ではないが、おかげで私の戦闘技術はどんどん上がっていった。


 ただ、そんな生活を何十年も続けていると、次第に分からなくなってくる。

 ……何のために生きるのか、が。


 ただ生きるために生きる日々。


 たった一人で生きることが、これほど辛いとは知らなかった。


 寂しくて。

 寂しくて。

 死んでしまいたくなるほどに寂しくて。


 それでも死ねない日々。


 誰かにそばにいて欲しかった。

 誰かと寄り添って生きたかった。


 一緒にいてくれる誰か。

 家族が欲しい。


 吐き気を覚えながら屍肉を口にし、私は毎日それだけを思って生きていた。


 そんなある日、いつものように埋められたばかりの屍体を掘り起こしていると、墓守の人間と出くわしてしまった。

 慎重に動いていたはずだったが、ここ三週間ほど食事にありつけておらず、どこかで焦っていた部分があったのだろう。


 墓守の人間は、すぐに村の自警団へ連絡を取り、大勢の人間が私を包囲する。


 私に与えられた選択肢は二つ。


 人間に拘束され、弄ばれた上で殺されるか。

 この場の人間を殺して一時だけでも凌ぎ、追われる身となって、近い将来殺されるか。


 意味のない生。

 ここで人生を終わらせるのが正解。


 私はそう判断したはずだった。


 ……それなのに。


 次の瞬間、私の足元には、無数の首が落ちていた。


 嫌悪していた『狩り』。

 無意識で私はそれを行なっていた。


 どれだけ嫌悪していても。

 空腹と、生への執着には勝てない。


 私はどこまで行っても動物に過ぎなかった。

 自分を律することのできない獣だった。

 生き方に誇りを持って死ぬことすらできない、ただのケダモノだった。


 私は殺した人間を貪り食う。


 せめて命を無駄にしないように。

 そう何の慰めにもならないことを思いながら。


 人生で初めて満腹になるまで人間を食べた私は、屍体を漁るのをやめた。


 人間を殺すのには、抵抗がある。

 それは変わらない。


 でも、生きた人間の美味には敵わない。


 生きた人間を口にした時の、豊潤な味わい。

 体に魔力が満ちてくる感覚。


 性的な快楽に似ていると言われるその快感。

 初めて感じるその感覚は、麻薬のように私を蝕む。


 その感覚に、理性が敵わなかった。


 私は自分を嫌悪する。

 理性より本能が優先する最低な自分を。


 結局私はケダモノだ。


 大勢の人間を殺して食べた私には、必ず人間の追手がかかるだろう。

 それならもう、隠れながら生きても仕方ない。


 私は放浪しながら、人間を調達した。


 村々を訪れては、死期の近い人間や罪人を提供させ、食べた。

 そのついでに金銭を得、奴隷を買って食べたりもした。


 自分を嫌悪しながらも、私は人間を食べるのをやめられない。


 せめて必要最低限にしようとはしているが、焼け石に水だ。

 生きた人間を食べる、怪物に違いはない。

 

 そんな私の追手は、十二貴族のアレスという人間だと分かった。

 人間の歴史上最強と名高い、魔族で言うなら将軍クラスの実力を持った相手だ。


 これで私の死はほぼ確定した。


 たまに会えば一言二言、会話くらいはしていた他の魔族からも、アレスに狙われた時点で、私は存在しないものとして扱われるようになった。


 完全な一人ぼっち。


 だが、死ぬまでは生きることにした。

 そうしないと、これまで犠牲にしてきた人間たちへの申し訳が立たない気がしたからだ。

 そのためにさらに人間を殺すことになるという矛盾は見ないフリをして。


 いつか家族ができると言うもはや叶わないであろう夢を見ながら、私は放浪した。


 でも、逃げながら人間を調達するのに疲れた私は、森の奥に居を構え、手っ取り早い手段としてアマンダという商人から奴隷を買うことにした。


 アマンダは、今後のコネクションになるからと、格安で奴隷を提供してくれた。

 死んでもいい人間ならいくらでもいるから、と。







 ……そして私は出会った。


 その少年も、アマンダの言葉では、死んでもいい人間のはずだった。

 何の躊躇もなく食べるつもりだった。

 人間にしては腕力が強いこと以外、他の人間と変わらないはずだった。


 でも、私はその少年を生かすことにしてしまった。


 奴隷という最底辺の人間として、悲惨な境遇で育った少年。

 魔族に食事として差し出されるなんて、人間としての価値を見てもらえていないのだろう。


 その少年は生きるのに必死だった。

 母親と共に生き残るため、私の役に立てる存在になろうと本気で考えていた。


 その目的のためだとは分かっていたが、少年は私の置かれた境遇を知った上で、私の配下になると言った。


 パパとママが死んで以来ずっと一人だった私にできた初めての繋がり。


 私はそんな少年を見て、自分の生きる意味を見つけた気がした。


 屍肉を漁り、無駄に生をながらえてきた私の生きる意味。


 それはこの少年を救うことだったのだ。


 アレスとかいう人間も、私が潔く死ねば、同じ人間であるこの少年を殺すようなことはしないだろう。


 少年だけではない。


 少年の母親もまた特別だった。

 少年のために命を平然と捧げようとするその姿は、私の荒んだ心に温かみを思い出させてくれる。


 少年と少年の母親と私。

 三人で過ごす穏やかな日々。

 遥か過去の記憶となってしまったパパとママと三人で過ごした日々のような、暖かい日々。


 屍肉を漁る生活で、なくなってしまっていた人の心が戻ってくる。


 私が求めていたもの。

 それが手に入った。


 家族と過ごす穏やかな時間。


 もうじき死ぬ私が欲しかったものが手に入ったのだ。


 捕食者と被食者。

 そんな歪な関係ではある。


 それでも私は幸せだった。


 屍肉を漁るハイエナのような日々。

 死に怯えひたすら逃げるだけの日々。


 そんな日々が終わり、誰かのために生きることができたのだから。


 私は自分の役に立たせるという名目で、少年を鍛えた。


 本当は、私が殺された後、一人でも生きていける力を身につけさせるためだったが。


 少年は飲み込みがよく、真面目で、素直だった。

 もう少し鍛えれば、十分一人で生きていけるだろう。


 私はふと想像する。


 少年が成長し、立派な大人になった後、仮初ではなく、本当の家族になることを。


 想像するだけで胸が暖かくなり、思わず笑みが浮かんでしまう。

 今まで感じたことのない感情が湧き出てくる。


 でも私は、途中でその感情を無理やり抑える。


 この先の感情は危険だ。


 この感情に流されると、私は生きたくなってしまう。

 この少年との幸せな未来を望んでしまう。


 私は死ぬ。


 それは確定事項だ。


 私にできるのは、少年を育て、一人前にした後、私だけが静かに死ぬこと。


 それだけだ。


 汗だくになりながら強くなるために自分を追い込み続ける少年を見ながら、私は改めてそう自分に言い聞かせた。


 ……そうしなければ、私は自分の感情を制御しきれなくなりそうだから。


 この穏やかな日々が永遠に続けばいいのに。


 そんな思いも虚しく、終わりは突然に訪れた。

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