第150話 魔王の娘⑥

 欲望に塗れた人間たち。


 その汚れた手がママに迫ろうとしていた。


 そんな人間たちに対し、ママは懐から短剣を取り出して鞘から抜き、そして身構える。


「おいおい。いくら元聖女様でも、俺たち全員を相手に、そんなおもちゃで戦えると思ってるのか? 大人しくしてれば最高の快楽を与えた上で苦しまないように殺してやる。無駄に痛い思いをしたくないなら、そのおもちゃを下ろせ」


 男の言葉に怯んだような様子を見せながら、ママは私の方へ下がってくる。


 そして、芋虫のように地面へ横たわる私につまづいたように、ママは尻餅をつく。


 そんなママを見て、声を上げて笑う人間たち。


「傷だらけの自分の娘につまづいて転ぶって、冗談かよ。魔族に犯され過ぎてどこかおかしくなったんじゃないか?」


 そんな人間たちをよそに、ママは私だけに聞こえるよう、小さな声で語りかけてきた。


「……私を食べなさい」


「えっ?」


 突然の信じられない言葉に、私は思わず聞き返す。


「このままじゃ二人とも犯されて殺される。私はあんな奴らに犯されるのは死ぬより嫌。そして何より、大切な貴女を汚された上で殺されるのは、自分が死ぬより耐えがたいわ」


 人間たちに聞こえないよう静かに語るママの目は、真剣そのものだった。


「だ、だからって、ママを食べるなんてできないわ。そもそも人間を食べたことだってないのに……」


 私にとってそこは越えられない一線だった。


 魔族にとって人間を食べることは、人間が肉や魚を食べることくらい当たり前のことかもしれない。


 でも、もし私が人間を食べてしまったら、私は人間じゃなくなる。

 何より、ユーキくんと再会した際、私は笑ってユーキくんと向かい合えなくなってしまうに違いない。


「貴女が私を気遣って人間を食べてこなかったのは知っているわ。でも、もうそんな気遣いはいらない。見ての通り、人間はどうしようもない生き物よ。私を食べれば傷も回復するだろうし、力も増すはず。これは私の遺言よ。私を食べなさい」


 ママはそう言うと、手に持った短刀を自分の首に向ける。


「幸せな生活を送らせてあげられずにごめんなさい。それでも、愛してるわ」


 そしてママは、自らの首を短刀で掻き切った。


ーーブシュッーー


 吹き出す血が私の体にかかる。


 生暖かいそれが、茫然と開いた私の口にも入ってきた。

 思わず舌で感じてしまったその血の味は、これまで食べたどんな食べ物より美味しく、私の体に染み渡る。


 痺れるような快感。

 全身を巡る多幸感。


 今まで感じたことのない感覚が私を襲う。


 ……気がつくと私は、口の周りについた血を、無意識のうちに舌で舐めとっていた。


 僅かな量のママの血。


 それを舐めただけで、体の奥から力が湧いてくるのを感じていた。


 私は血のおかげで、何とか動くようになった右腕で、ママだったものの体を抱き寄せる。


 世界で二番目に大切な存在だったママ。


 優しいママ。

 大好きなママ。


 その首筋に、牙のような自分の犬歯を突き立てた。


 体に染み渡ってくる豊潤な血。


 気付けば、私はママだったものの体を貪っていた。


 この世のものとは思えない美味。

 そして、身体中に漲ってくる力。


 私はその誘惑に抗えなかった。


 人間たちが何か叫んでいたが、耳に入ってこなかった。

 ……人間が牛や豚の泣き声を聞いても何も感じないように。


 人間たちが魔法で攻撃してきているようだったが、かけらも痛みを感じなかった。

 ……虫螻に殴られても痛みなどまるで感じないように。


 ママの全てが私の一部になった時、私の傷は全て治っていた。


 力が漲る。

 魔力が溢れるように湧いてくる。


 私は、蚊のような攻撃を続ける人間のオスたちの方を向いた。


「……お前たち。不味そうだけど、栄養はありそうね」


 私を見た人間のオスたちの目に恐怖の色が浮かぶ。


「ひっ」

「ば、化け物」


 口々に汚らしい鳴き声を上げる人間のオスたちを、私は一瞥する。


 私が一歩歩み寄ると、背中を見せて逃げ出す人間のオスたち。

 私は真空の刃でそんな人間のオスたちの足首から下を、真空の刃で順番に切り離していく。


「どれから食べようかな……」


 足首から血を流し、芋虫のようにのたうちまわる人間のオスたち。


 私は、若くて魔力が多そうな順に、そんな人間のオスたちを食べた。


 悲鳴や呻き声が耳障りだったが、汚らしい外観とは異なり、五匹とも味はそれなりだった。


 ママだったものを食べた時ほどではないが、体に魔力が漲るのが分かる。


 人間たちを食べたことにより、私の魔力量は連隊長、いや、旅団長くらいにはなったようだ。


 ……だが、まだ足りない。


 兄弟たちの中でも上位の者たちはすでに将軍クラスの実力がある。

 それに、人間たちを引き連れてきたあの女も、師団長クラス。

 今の私よりまだ魔力量が多い。


 私はこれまで、魔法の技術を高めることだけに時間を費やしてきた。

 でも、それだけじゃダメだ。


 こんなに簡単に強くなれる方法があるなら、それを使わない手はない。


 人間を食べたら私は元の自分に戻れないと思っていた。


 でも、そんなことはない。

 私は私のままだし、気分も最高だ。


 よく考えたら、ユーキくんも、そんなことで私を嫌いになったりするような人じゃない。

 人間を食べても、きっと何の問題もない。


 このままここにいても、私はさっきの女や兄弟たちから殺されるかもしれなかった。


 私は魔族の国を出て、人間の国へ行くことにした。


 そこで人間たちを食べて強くなればいい。

 何より、人間の国なら、ユーキくんもいるかもしれない。


 ママが死んでしまった以上、私にはもうユーキくんだけ。

 ユーキくんを見つけるのが最優先だ。







 人間の国へ入るのは簡単だった。

 西の果てにある人間たちの国は、神の御加護とやらで、普通の魔族は入れないようだったが、半分人間の私は、難なく入れた。


 私はそこで、力をつけながらユーキくんの手がかりを探すことにした。


 できることなら魔力が高い人間全てを食べたいところだったが、私はそこまで自分本位ではない。

 凶悪な犯罪者や、自殺志望者などの、食べてもいい人間だけを食べるようにした。


 私は人間の国で、この世界における人間の知識について学ぶ。


 私にとって、ママ以外にこの世界のことを教えてくれる人はいなかった。


 だから、ここでの暮らしは学びが多かった。


 文化レベルは紀元前レベルと言っても過言ではないほど低かったが、人間の知恵には、感心する部分も多い。


 ただ、魔法のレベルは文明レベル同様、著しく低かった。


 いくら元の世界での科学の知識があったとはいえ、僅かな期間しか魔法を研究していない私の方が、人間の最先端より先をいっているようだった。


 未だ滅びていないのは、神の加護とやらのおかげに過ぎない。

 その気になれば、私一人でも滅ぼせるかもしれない。


 だが、それは困る。


 もし神の加護とやらが弱まり、人間が魔族に滅ぼされてしまった場合、どこかにいるはずのユーキくんまで殺されてしまう可能性がある。

 他の人間がいくら死のうと構わないが、ユーキくんだけは死なせるわけにはいかない。


 そこで私は、人間に魔法を教えることにした。

 ただ、あまりに人間が強くなると、それはそれで、人間を狩って食べる私の身に危険が及ぶ可能性があるので、制約を課した上で、だ。


 本来、魔法には式も呪文もいらない。


 だが、頭の中で式を構築し、呪文を唱えることでこそ、魔力の少ない人間が高威力の魔法を使えるようになる術だと、擦り込んで教える。


 呪文詠唱によるタイムロスが、致命的な欠点となるように。


 魔法自体はそれで強くなるのだから、私に教えを乞う人間たちは、素直にそれを信用し、式と呪文を広げていった。


 人間は魔力は弱いが数は腐るほどいる。

 これでそう簡単に滅びることはないだろう。


 私は順調に強くなり、人間も、簡単には滅びないほどに強くはなった。


 だが、肝心のユーキくん探しは難航していた。


 この世界に来てからもう五年。


 ユーキくんは最高の男性だ。

 この世界でも、ユーキくん以上の男性に会ったことはなかった。

 五年も放置してしまえば、悪い虫がついていてもおかしくない。


 ユーキくんが他の女性と結ばれてしまっていることを想像すると、嫉妬で気が狂いそうになる。


 一刻も早くユーキくんを見つけ出さなければならない。







 そんな私の前に、突如ユーキくんに関する情報を持った者が現れた。


「ようやく見つけることができました、ミホ様」


 突然名前を呼ばれた私は、慌てて声の下方を振り返る。


 私の元の世界での名前を知るのは、私と同じ転生者だけだ。


 海よりも深い青い瞳を持った少女は、片膝を地面につき、安堵とも喜びとも取れる目で私を見つめていた。

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