第131話 あるウサギの獣人の少女

 四魔貴族スサが王国を襲い、最強の人間アレスが、仲間であるはずの人間の裏切りで命を落としたその日、ウサギの獣人の少女ヒナは、一人になった。


 ヒナが敬愛する主人である白髪の少年エディは、アレスの娘であるレナの奴隷。


 アレスの仇を討とうと動こうとしたエディは、レナによってその動きを封じられた。

 父であるアレスを愛していたはずのレナの、信じられない行動。


 レナは己の命惜しさに、戦うことを放棄したようだった。


 相手は最強の人間であるアレスより遥かに強い四魔貴族のスサと、実力は未知数だか明らかに強者の雰囲気を身にまとった魔族。

 そして、ヒナやレナたちより格上である十二貴族が五人。

 生き延びる、という観点ではレナの選択は懸命であったかもしれない。


 それでも、ヒナはレナを許せなかった。


 レナが父アレスの亡骸を踏みにじり、唾を吐きかけたのは、別にいい。

 ヒナにとってアレスは話したこともない赤の他人だ。


 だが、ヒナにとって神にも等しい存在であるエディに土下座させ、あろうことか仇である魔族の足に口づけさせるという屈辱的な行為をさせたことは、許せなかった。


 さらに許せないことにレナは、エディを、自らと子供を作るための繁殖の道具にしようとまでしていた。


 ヒナは、エディには愛する人と結ばれて欲しいと思っていた。

 それが自分なら言うことはないが、それは望外過ぎる望みだ。

 自分が相手でなくても、エディが幸せならそれで構わないと思っていた。


 だが、そんなエディが、奴隷契約という絶対的な魔法のせいで、レナの道具となっている。

 その事実が許せなかった。


 ヒナの見立てでは、レナの戦闘能力は、ヒナより低かった。

 確実に、とまでは言わないが、恐らく負けることはないだろうと思っていた。


 しかし、なんの考えもなしにレナを殺してエディを解放しても、四魔貴族か、その配下に殺されるだろうことも分かっていた。


 レナの行為は全く許せないが、エディの命だけは救っている、という点は事実だった。


 それが分かっているからこそ、どれだけ憎くても、今すぐ殺したくても、それができなかった。






 アレスが死に、王国が魔族の支配下に置かれてから数日間、ヒナは、今後のことを考えながら、王国の周囲で野宿をしながら過ごしていた。

 エディをレナの支配から解放し、自由の身にするには、どうしても四魔貴族の存在が邪魔だ。

 四魔貴族自身は倒せないにしても、少なくとも王国の支配を任されている配下の魔族は倒さなければならない。


 だが、噂では、その配下の魔族ですら、アレスと同レベルの実力を持っているとのこと。

 今のヒナでは太刀打ちすることは難しい。


 エディを助けるためにすべきことは、感情のままにレナを殺すことではない。

 自分自身が強くなるか、強力な仲間を集めるかして、少なくとも配下の魔族を倒せるくらいの戦力を用意すること。

 そうすれば、エディを助けることができるかもしれない。


 ヒナはそう考えた。


 魔族からの食事の対象となっていない獣人のヒナは、このまま王国に残ることもできた。


 だが、そうはしなかった。


 何よりも大事なエディの側にいたかった。


 だが、ヒナは王国を離れることを選んだ。


 まず、ヒナが王国に残ったところで、今は何もできないから。

 王国で戦闘能力を鍛えれば、叛逆の意思ありとみなされるかもしれなかった。

 そうなれば魔族の食事たり得ない獣人のヒナでも殺されるかもしれない。

 王国内で戦力となる仲間を集める行為も同様だ。


 そして、一番大きな理由はエディの身の安全は保障されていること。

 ヒナの個人的な感情としては許しがたいが、エディが何もしなければ、レナとの子供ができるまでは殺されないだろう。

 そもそも、奴隷契約のせいで無茶な行動は取れず、叛逆も企てられないから、目をつけられることもないはずだ。


 エディが、レナや小賢者リンと体を重ねるのを、近くで見聞きしたくないという気持ちもあったかもしれない。

 例え見えなくても、ヒナの耳には聞こえてしまう。

 リンはともかく、レナの喘ぐ声だけは、絶対に聞きたくなかった。


 ヒナは、エディの下から、しばらく離れることを決意する。

 それは自らの体を引き裂くのに等しい行為だったが、そう決めた。


 己を鍛え、できることなら仲間を見つけ、エディの役に立てるようになってから戻ってくる。


 ヒナはそう誓い、別れも告げずにエディの下から離れることにした。

 エディの顔を見ると決意が鈍ってしまうから……


 ただ、その前に、やらなければならないことが彼女にはあった。


 ローザの救出だ。


 ローザは、ヒナと同じくエディの奴隷で、彼女が認めた数少ない人間だ。

 レナはローザを見捨てた。

 エディにとって、ローザは大切な人間だ。

 ローザが死んでしまえば、エディは間違いなく悲しむ。


 ヒナは、エディの悲しむ顔をこれ以上見たくなかった。

 危険な行為だということは分かっていたが、魔族の食事になるために捕らわれているローザを、ヒナは助けることにした。


 ヒナの聴力をもってすれば、ローザが捕らわれている場所まで辿り着くのは簡単だった。


 ヒナの耳の前では、見張りの声は筒抜けだった。

 ヒナの跳躍力の前では、どんな壁でも用を成さない。


 ヒナは鉄格子の中に閉じ込められたローザの前に静かに現れると、ローザへ笑顔を向ける。


「ヒナ、何故ここに?」


 質問するローザへヒナは笑顔のまま答える。


「ローザさんを助けに来ました」


 そんなヒナへ、ローザは複雑そうな顔をする。


「私はここを離れられない」


 ローザの言葉に、ヒナは鉄格子へ詰め寄る。


「何故ですか? このままだとローザさん、魔族の食事になってしまうんですよ」


 ヒナの言葉に、ローザは真顔で頷く。


「そうだ。だが、私が逃げ出すと、エディたちが疑われ、その身に害が及ぶかもしれない」


 それはあくまで可能性だった。

 だが、その可能性がゼロではないことは、ヒナも分かった。


「私はエディの奴隷であり、エディの騎士だ。例え死んでも、主人であるエディに、私のせいで害を及ぼすわけにはいかない」


 ローザの言葉に、ヒナは俯く。

 自分の浅はかさと、エディのために己を犠牲にしようとするローザの覚悟に心を打たれ、言葉を返すこともできずに。


「だがヒナ。君が助けに来てくれたことは素直に嬉しい。獣人の君は私も含めた人間が憎いはずだから」


 ローザは儚げな笑顔を浮かべながらヒナへそう話す。

 確かにヒナは人間という種族が憎かったが、エディと出会い、ローザと行動を共にする中で、全ての人間が憎むべき対象ではないと思っていた。


「確かに人間を憎く思っていたこともあります。でも、今の私は、ローザさんのこと、好きですよ」


 ヒナの言葉に一瞬驚いた後、ローザは優しい笑みを浮かべる。


「ありがとう。私もヒナのことは好きだし、信頼できると思っている。だから、そんな君に一つだけ頼みがある」


 ローザの言葉に、ヒナは真剣な顔で頷く。


「どんなお願いでも受けましょう」


 ヒナの言葉にローザは頭を下げる。


「恩にきる。私も、スサの食事として魔族の領地に入ればなんとか逃げようと試みる。魔族の領地まで行ってしまえば、エディが疑われることはないだろうから。ただ、勝手の分からない魔族の領地で無事逃げ出すのは難しいかもしれない。もし私が死んだ時は、私の代わりにエディを守る剣となってほしい」


 ローザの言葉に、ヒナは首を横に振る。


「ローザさんが死ななくても、です。私はエディ様の剣となり、盾となり、その身をお守りするために命を賭す覚悟です」


 ヒナの言葉にローザは笑みを浮かべる。


「それは大変失礼した。いずれにしろ、しばらく私はエディの役に立てない。エディのことをよろしく頼む」


 ローザの頼みに、ヒナは力強く頷く。


「はい、命に代えても」






 ローザの想いも託されたヒナは、より強い決意を胸に王国を出る。


 人間に虐げられた記憶は、まだ消えていない。

 だが、それ以上に、エディと共に過ごした記憶の方が大きかった。

 エディと過ごしたのはごく短い期間だ。

 しかもその大部分は訓練に費やした。

 それでも、エディと過ごしたかけがえのない時間は、ヒナの、死ぬまで暗いはずだった人生を明るく彩っていた。


 そんな思い出を残した王国を後にし、ヒナは目的地へ向かう。


 目的地は南の商国。


 この数日間、ヒナが聞き耳を立てて得た情報によれば、商国では、金さえあれば亜人でも人権を得ることができるとのことだった。

 その中でも獣人だけは低い扱いを受けている、という話ではあったが、それでも他の国へ行くよりは随分と待遇は良さそうだった。


 ヒナはそこで己を鍛えつつ、仲間を探すことにする。


 王国から避難してきている人間も多そうだし、同じ種族である獣人を始めとした亜人たちの中にも、協力してくれる人がいるかもしれない。


 そんな淡い期待を持ちながら商国へ赴いたヒナの希望は、すぐに打ち砕かれることになる。


 入国する際に徴収される多額の金は、夜中に壁を飛び越えることで回避し、初めから莫大な借金を背負うことは免れた。


 だが、肝心の仲間集めは難航した。


 王国から避難してきた人間は、当然のようにヒナを見下し、話など聞く耳も持たない。

 獣人以外の有力な亜人たちも、同様だった。


 自分は十二貴族と関係があり、救出に成功すれば、莫大な褒美を与える、という話をしても、彼らの心には響かない。


 ヒナは改めて作戦を練る。


 人間は味方にならない。

 獣人以外の亜人もそうだ。


 そうなると残りは獣人だが、獣人では戦力として心許ないのは明らかだった。

 ヒナを除く獣人たちは、魔力が使えないからだ。


 ……だが。


 ヒナは考える。

 ヒナはエディのおかげで魔力が使えるようになった。

 もし他の獣人にも同じ方法を施すことができれば。


 過去、数百年の歴史を遡れば、同じ方法を試した者はいたはずだ。

 それでも、この数百年、少なくとも歴史の表舞台では、魔力が使えた獣人は存在しない。

 獣人が魔力を使えるのは神話の中だけだ。


 しかし、可能性はある。


 あとは、七割は死ぬというリスクを冒し、命を賭けてでも魔力を手にしたい者を見つけるだけ。

 しかも、できることなら元の能力が高い者がいい。


 ヒナはその条件を満たす者を、得意の諜報能力を駆使して探す。


 候補として見つかったのは、大勢の獣人を指揮して獣人の自由を勝ち取ろうとしていたミーチャという虎の獣人と、人間の暗殺を繰り返す獅子の獣人リオ。


 まずはミーチャに声をかけたが、失敗に終わったヒナは、リオを仲間にしようとする。


 リオの勤める店の店長が、最低のクズなのは、事前の諜報で分かっていた。

 同族の獣人たちのことを考えるなら、すぐにでも助けてやるべきだった。


 だが、ヒナはそうしない。

 ヒナにとって、エディとそれ以外とでは、優先順位を考えるまでもなく、大事にすべきものが決まっている。

 エディのために、少しでも役にたつかもしれないのであれば、たとえその他の者が何百、何千と犠牲になろうと構わなかった。


 ヒナはきっと、自分は天国には行けないだろうと思っている。

 エディのためなら、どれだけでも己の手を汚し、魂すらも汚す覚悟があった。

 エディに出会えたことが、天国に行くことなんかよりはるかに貴重で幸せなことだと思っているから、そんなことは気にもならなかった。


 ミーチャの作戦の前日、リオの店の店員たちの悲鳴を遠くから聞きながら、ヒナは目を閉じる。

 店員たちのことを考えると、今すぐにでも助けてやりたい衝動に駆られた。


 だが、その衝動を堪える。

 近いうちにリオが今日起きたことを知る。

 正義感の強いリオなら、きっと店長に戦いを挑み、店員たちを助け出そうとするだろう。


 その時がチャンスだ。


 魔力量も多く、かなりの実力者である店長に、魔力が使えないリオは敵わない。

 そんなリオを助け出すことで、リオを仲間にしたい、とヒナは考えた。


 同族である店員たちの人生を壊し、同族であるリオの命と心を利用し、強力な仲間を作ろうとするヒナ。


 魂まで汚れ切った自分にはもう、エディと結ばれ、幸せになる資格はないな、とヒナは思う。


 それでも。

 少しでもエディのためになるのなら。


 ヒナはきっとどんなことでもやる。


「エディ様……」


 ヒナは一言だけそう呟き、未だ悲鳴の止まないリオの店に背を向けた。

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