彼女が世界を滅ぼす時

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彼女が世界を滅ぼす時(中編単発版)

「──どうなさったのです? そんなに思い詰めた顔なぞをなされて」

 その時いきなり甘い吐息とともに耳朶を打ったささやき声に、僕の意識は思索の海から急速に浮上した。


 ほんの鼻先で上目遣いで見つめている、端整な小顔の中の宝玉のごとき黒水晶の瞳。


「御研究のほうも順調であられると父から伺っておりましたのに、何か悩み事でもお有りなのですか?」

 僕の大学における研究の出資者パトロンの御令嬢であり家庭教師の生徒でもあり目下ステディの関係にもある高校生の少女は、自室のソファの真横に座っている年上の男性に薄い純白のワンピースのみをまとったほっそりとした肢体をすり寄せるようにして尋ねてきた。

 その拍子に彼女のつややかな長い黒髪が、僕の頬やむき出しの二の腕にからみついてくる。

「……あ、いや。授業中に上の空になったりして、申し訳ない。研究のことではないんだけど、最近どうにも気になってしかたないことがあってね」

「まあ。もしかして、どこぞの女性のことでもお考えになられていたわけではないでしょうね? 目の前に私というものがありながら、つれないお仕打ちでありますこと」

 そう言いながらも別段気分を害したふうもなく、むしろいたずらっぽくころころと笑声をもらす、人並み外れて整ったあたかも日本人形のごとき小ぶりの深紅の唇。

 ……か。そうだ、もしかしたらこの子なら、何かわかるかも知れない。

「あのさ、君にはこういったことはないかい? ふとした時にこの世に存在しないはずの、『誰か』の記憶が脳裏によぎってしまうとか。なくした覚えのない、何物かの喪失感に苛まれるとか」

 真横へ向き直り意気込んで問いただせば、とたんに目を丸くする年下の少女。

「あらあら。先生ったらまさかそのお若さで、健忘症でもお患いですの?」

「──っ。済まない、おかしなことを聞いたりして。たぶん単なる気の迷いだろう。忘れてくれ」

「おほほほほ。冗談ですわ、冗談。先生が身に覚えがないとはいえ女性のことをあえて両親公認の仲である私に御相談なされたのは、我が一族の『力』を当てにされてのことでしょう?」

「うっ」

 ……完全に見抜かれている。

「ようございますわ。十分楽しませていただいたことですし、差し上げましょう」

 そう言って彼女のほうもこちらへと向き直るものの、その言葉に反して歳の割に大人びた神秘的な瞳は両方とも閉じられていた。

 過去未来を含むこの世の森羅万象をすべて見通すとも言われている、『くだんの瞳』が。

「──おや。ひょっとして先生、最近御自分にとっての、大切な世界を一つ失ってしまわれたのではないのですか?」

 はあ?

「な、何を言っているんだ。世界ならこうしてちゃんと存在しているではないか。それとももしや、僕の専門分野の量子力学でいうところの多世界解釈みたいに、この現実世界以外にも別の世界がいくつも存在しているとでも言うつもりかい?」

「うふふふふ。確かに私たちの世界はただ一つだけでございますが、むしろそれゆえに他の世界が無数に滅び続けているとしたら、どうでしょう? もしかしてその失われたはずの世界の御記憶が、今もなお先生を苛んでいるのかも知れませんよ?」

「なっ⁉」

 謎めく言葉の連続にただただ面食らうばかりの僕を尻目に、再び可憐な瞳を開く少女。

「先生に一つ、例え話をして差し上げましょう」

「例え話?」

「そう。これはすでに失われてしまった、もう一つの世界の思い出であり──」

 まさにその時、漆黒の瞳の中で一瞬だけ煌めく、全知全能の神のごとき超常の輝き。


「今もなお世界を滅ぼし続けている、ある哀れなる一人の女性の物語なのです」


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「──ったく。ワタルったら、また食事中に考え事にふけったりして。消化に悪いぞ?」

 大学の学食でテーブルに片肘をついてぼんやりとしていた際に突然かけられた声に振り向けば、Aランチの載ったトレイを両手に抱えた天真爛漫な笑顔の女の子がこちらを見下ろしていた。

 ボーイッシュなショートカットの茶髪に縁取られた、いまだあどけなさの残る可憐な小顔の中で人懐っこく煌めいている、茶褐色の瞳ダークブラウン・アイズ


 ………………ええと。この子、誰だったっけ?


「ちょ、ちょっと何よ⁉ そのまるで初対面の相手かさも意外な人物にでもいきなり声をかけられたかのような、呆然とした表情は? まさか自分の長年の幼なじみの顔を忘れたとでも言うんじゃないでしょうね⁉」

 テーブルの真向かいの席に座りながら頬を膨らませて憤慨する彼女の姿に、ようやく僕はどこか夢心地だった状態から我に返った。

「そ、そんなことはないよ、ハルカ。僕がおまえのことを忘れるわけがないじゃないか。久しぶりに会ったものだから、ちょっと面食らっただけだよ!」

「はあ? 何言っているのよ。昨日もちゃんとここで一緒に昼食を摂ったし、夜もお互いに研究室の残務も家庭教師のバイトもなかったから、二人でお茶をしたじゃないの?」

「え。そ、そうだったっけ?」

「もう、しっかりしてよね。研究のほうが教授連中になかなか認められなくて資金繰りに行き詰まったりして焦っているのはわかるけど、こういう時こそ人付き合いのほうも大切にしなきゃ駄目なのよ? 私が何のために苦労していると思っているのよ。何なら今夜にでも先方さんに会ってみない? お父様のほうもワタルの研究に関心があるようだし」

「ええとそれって、例のバイトの家庭教師の生徒の親御さんの話だっけ」

「そう。何と言っても相手は、我が国有数のおんコンツェルンの中核企業の社長令嬢だからね。家庭教師と言っても別に受験対策なんかではなく御本家のお嬢様のたしなみとして、同じ久遠の分家の出で関西かんさい──いや、国内随一の物理学の権威と讃えられている我がきゅう大学の現役学生である私に個人的に講義を依頼していて、その一環として昨今の最先端の物理学の動向を聞かれた時に話のついでに、現在あなたが個人的に取り組んでいる例の研究こそが量子力学の常識を覆しかねない画期的なものであることを話したら、父親もろとも予想外の勢いで食いついてきたってわけなの」

「……まったく。勝手に人の研究内容を、外部の人に漏らしたりしやがって」

「何言っているのよ。せっかく人が格好なパトロンを見つけてきてやったというのに。いい? あの頭の固い教授連中が、ワタルの革新的な研究を理解できるものですか。このままでは十分な研究資金を得ることができず、せっかくの大発明が頓挫しかねないわよ?」

「うっ」

 ……それは確かに、そうなんだけど。

「それで何で僕が、おまえの生徒である御令嬢と会わなくてはならないんだよ? 研究内容を詳しく聞きたいと言うんなら、お父上とお会いしたほうがいいんじゃないのか?」

「うふふふふ。うちの一族って、ちょっと特殊なところがあってね。何せ平安時代以前からずっと続いていて一説によれば当時の朝廷に直属していたとも言われるんだけど、その頃の名残か本家直系の女子は『巫女姫』とも呼ばれ分家の者たちから絶対的な崇拝を受けその威光は父親である本家当主以上とも目されていて、一族の命運を左右する決定においては彼女の意見が最優先されることになっているの。ワタルの研究に対してもむしろ彼女のほうが最初に強い関心を覚えたものだから、父親のほうも乗り気になったみたいなのよ」

「巫女姫ってその子、まだ高校生になったばかりじゃなかったっけ。確かしょの真ん前にある、いまがわ大学の女子高等部の」

「そうそう。おんトワちゃんって言うの。これがまた日本人形そのままの美少女なのよお。よかったわね、そんな子に関心を持たれて。うまくいけば逆玉よ! これもすべては何かと頼りになる幼なじみ様のお陰なんだから、感謝しなさいよね!」

 そう言うや得意満面にわざとらしく胸を張る、テーブルの向かい側の自称幼なじみ殿。

 ……ったく。何が逆玉だよ。人の気も知らないで。

「あら何よ、その不服そうな顔は。もしかして私が幼なじみであることに、何か不満があるとでも言うつもりなの?」

 あたかも僕の胸中のつぶやき声が聞こえたかのように、表情を一変させ睨みつけてくる茶褐色の瞳ダークブラウン・アイズ

「ま、まさか。おまえという幼なじみがいてくれて、大助かりに決まっているじゃないか⁉ 子供の頃からちゃんと感謝しているよ!」

「うふふふふ。そうでしょうそうでしょう。これからもお嬢様との橋渡しのほうは任せておいてね」

 慌てて言い繕えばとたんに天真爛漫な笑顔へと戻る、割と単純な幼なじみさん。

 ……幼なじみ、ねえ。

 確かに昔から人付き合いを苦手にしてきた僕としては、少々うざったいとはいえあれこれと一方的に世話を焼いてくれるハルカの存在は、大いに助かっていると言えよう。

 しかしこうして彼女に振り回されていながらも、時たま脳裏によぎるえも言われぬ違和感は、いったい何なのだろうか。


 僕には本当に、こんな人懐っこく気立てのいい幼なじみの女の子がいたっけ──なんて。


 ……もちろん馬鹿げた気の迷いに過ぎないことは、十分承知している。

 けれどもついさっきも彼女自身に声をかけられるまではその存在を完全に忘れ去っていて、実際に顔を見てもしばらくの間誰だかわからなくてついおかしな対応を取ってしまったほどなのであった。

 あたかもそれまでは『彼女の存在しない世界』にいて、まさしく僕の専攻の量子力学そのままに、彼女の姿を『観測』して初めてその存在が確定してしまったかのように。

「そうだ。いっそのこと最近お悩みの研究の今後の行く末についても、彼女に占ってもらったら? 何せ相手は世が世なら朝廷直属の、『ときみの巫女姫』様なんですからね」

 こちらが益体もないことをあれこれ考え込んでいるのを尻目に、いきなり何だかとんでもないことを言い出す、目の前の桃花の唇。

「な、何だよその、行く末を占ってもらえとか時詠みの巫女姫とかって?」

「実は我が久遠家は別名『くだん一族』とも呼ばれていて、時おり御本家に予知能力を持った女の子が生まれることがあるの。分家の端くれに過ぎない私はからっきしだけど、当代の巫女姫であるトワちゃんの未来予測の正確さときたらすごいんだから!」

「み、未来予測だってえ。そんな馬鹿な⁉」

 いくらお互いに量子力学科の学生とはいえ、SF小説でもあるまいし。

「本当よ。あの子初対面の時に私がこの大学に合格できるかどうかを尋ねたら、受かる未来もあるし落ちる未来もあるし、場合によっては他の大学に受験先を変えたり就職することを選んだりする未来もあり得るって言ったの。その結果こうしてちゃんと合格できたし」

「いやいや。それって未来予測でなく、単にあり得る可能性をすべて挙げただけでは?」

「うん。私もそう思ってもう少し詳しく聞いてみたら、一次試験のマークシートの得点数を各科目ごとに教えてくれたんだけど、試験を受けたあとで自己採点してみたところ、何と見事にすべて当たっていたの」

「へ?」

「それで何で一次試験でそんな高得点をとれるのに落ちてしまう未来もあるのかって聞いたら、マークシートを塗りつぶす時に解答欄を一個ずつずらしてしまう可能性もあるって言ったの。確かに私以前模試で同じような凡ミスをしたことがあったから、実際の試験の時には細心の注意を払って事無きを得たってわけなのよ」

「そ、それって⁉」

 確かにそう言われてみれば、これほど理想的な未来予測はないであろう。

 そもそも唯一絶対の未来を言い当てることなぞ、神様以外にできっこないのだ。

 いやむしろ完璧な『予言』を行うほど、容易に覆される恐れすらあった。

 たとえば明日命の危険にさらされるという予言を告げられたために一日中用心をして難を免れた場合、皮肉なことにもその結果予言者の『明日命の危険にさらされる』という予言が外れてしまうことになるのだ。

 よって真の未来予測とは単なる一通りの結果だけでなくすべての可能性を踏まえた総覧的なものでないと、自己矛盾を生じるだけなのである。

 むしろ必要なのはたった一つの正確な予言なぞでなく、予測された内容をいかに実際に役立てるかなのだ。

 言わば軍隊において戦略を立てる際のように、敵の出方をすべてシミュレーションすることによってあらゆる可能性に対し万全の対策を立ててこそ、初めて勝機をつかめるのである。

「……いやそれにしても、考えられ得るすべての未来を予測できるなんて、何かその子まるで、生きた量子コンピュータみたいだよな」

「そうでしょ? だから自ら意思を持って自律的に思考できる量子コンピュータを開発しようとしている、ワタルとも気が合うと思うの!」

 いかにも我が意を得たりと屈託なく微笑む彼女の姿を見て、なぜだか無性に癇に障った。

「気が合うも何も、僕が造りたいのはあくまでも『意思を持った機械』なんだ。そんな予知能力を持った巫女姫様だか何だかの女の子なんて、個人的にはとてもお付き合いするつもりなんかになれないよ」

「なっ⁉」

 突然僕の口から飛び出した辛辣極まる言葉に、とたんに顔色を変える幼なじみ殿。

「もうっ! いったい何が不満だというのよ⁉ 大富豪のお嬢様でありながら人一倍勉強熱心で、ワタルの研究にも理解があるというのに! それに彼女のお父様が出資者パトロンになってくれたら、あなただって万々歳じゃない⁉」

「確かに研究も大切だけど、僕にだって都合ってものがあるんだよ!」

「へ? 何よ、都合って」

 くっ。この女、いかにも純真無垢に素の表情で聞いてきやがって。こうなりゃやけだ。

「じ、実は僕、他に好きな子がいるんだよ!」

「ええっ! そんなの初耳よ⁉ 誰? いったい誰なの? まさかうちの研究室の子⁉」

「……おまえだよ」

「え? おまえって……。『まえ』さんなんて子、いたっけ?」

「阿呆! おまえのことだって言っているんだよ、ハルカ!」

「──!」

 ようやく理解に及び顔を真っ赤にして絶句する、天然素ボケ娘。

「だからいくら僕の研究に理解があろうがパトロンになってくれようが、その子とお付き合いするわけにはいかないんだよ」

 今さらになって僕自身も気恥ずかしさを覚え、幾分トーンダウンした声できっぱりと告げた、まさにその時。

「……駄目よ」

「え?」

 ぼそりと小声でつぶやくや激しく音をたてながら席を立つ、幼なじみ殿。

「駄目よ! 駄目駄目! ワタルは私なんかを好きになっちゃ駄目なの!」

「あ、おい。ハルカ⁉」

 止める暇もあらばこそ、なぜだか悲痛な表情で叫び様踵を返して学食を飛び出していく。

「……ええとこれってつまり、僕は振られたわけなのか?」

 その時数十名の学生たちの興味深げな視線の集中砲火の中で僕の唇から漏れ出たのは、そんな間抜け極まる言葉であった。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 あなたは、量子力学もしくは量子論というものを御存じであろうか?


 元々物理学における代表的な理論の一つであり、物理に興味のない方にとっては無縁の存在であるはずなのだが、その特殊性ゆえにSF小説に取り上げられることが多々あり、更にそれに類する若年層向けのライトノベルや漫画等にもしばしば顔を出すことがあり、名前や極簡単な概念程度であればどこかで聞き及びになったこともあるかも知れない。

 ぶっちゃけて言えば、量子論や量子そのものの『わけのわからない』ところこそが、この理論の短所でもありまた同時に最大の魅力でもあると言えた。

 では量子がいかに『わけのわからない存在』であるか、極簡単に説明しよう。

・量子とはいわゆる電子や分子等の、物質を構成する物理量の最小単位のことである。

・代表的なものに、アインシュタインの『光量子フォトン』やボーアの『角運動量の量子』等が挙げられる。

・量子とは『粒子』という形ある存在であると同時に、『波』という形なきエネルギーでもある。

・よって量子とは確固として存在するものではなく、あくまでもに過ぎない。

・なぜなら量子は実際に観測されるまでは、存在あるいは非存在が確定しないのだから。

・言うなれば通常の物体のように元々存在しているものを目で見て確認をとるのとは異なり、実際に観測するまではそもそも存在するか存在しないかがのだ。

・つまり文字通りに、『存在自体が確率的な存在』なのである。

・量子論の一派であるコペンハーゲン解釈によれば、量子は観測されるまでは存在と非存在の両方の可能性が同時に存在していると言う。

・よって量子が存在する場合にのみスイッチの入る毒ガス発生装置と猫を同じ箱の中に密閉した場合、箱を開けて誰かに観測されるまでは量子が存在するかしないかの可能性──つまり、毒ガス発生装置のスイッチが入るか入らないかの可能性──すなわち結果的には、猫が生きているか死んでいるかの可能性が同時に存在することになる。

・これぞ量子論においてあまりにも有名な『シュレディンガーのねこ』の思考実験であるが、この理論によれば何と生きている猫と死んでいる猫とが同時に存在することになるのだ。

・この実験を提唱したシュレディンガー氏自身はそんな馬鹿なことがあるわけがないから量子自体が確率的な存在であることの反証としたのだが、皮肉なことにもむしろコペンハーゲン解釈派を中心に量子論を肯定する論調に拍車をかけることとなった。

・つまり猫だろうが量子そのものだろうが量子が関わる場合は複数の可能性が同時に存在している状態にあり、外部から観測されて初めて可能性が収束しその存在を確定すると言うのだ。

・そして一度収束したならば、確定したもの以外の可能性は消え去ってしまうと言う。

・これに対して同じ量子論の一派である多世界解釈においては、観測されるまでに限って可能性が多重的に存在するのではなく、『シュレディンガーの猫』の思考実験でいえば元々猫が生きている世界と猫が死んでいる世界とが存在していて、たまたま観測されたのが猫が生きている世界であればそれこそが我々にとっての現実世界として確定されるものの、猫が死んでいる世界も依然『別の可能性の世界』として存在し続けるとするものであった。

・つまり世界というものは量子というミクロレベルでは他の世界と干渉し合う性質があり、観測されるまではどの世界が確定されるのか決まっていないところなぞコペンハーゲン解釈と同じようなものだが、世界が一つに確定したあとも他の世界のほうもあくまでも『別の可能性の世界』として存在し続けるところが最大の相違点となっている。


 ……まあ基本的概念としてはこんなところであるが、大丈夫です。何を言っているのかさっぱりわからないと思われたあなたが正しいのです。むしろこれによって量子というものがいかに『わけのわからないもの』であるかが、十分おわかりいただけたのではなかろうか。

 中には「他の世界と干渉し合うって何だよ、SFかよ⁉」とあきれ果てられた方もおられるかも知れないが、あくまでもこれは量子というわけのわからないものをどうにか説明しようと編み出された苦し紛れの論理であり、あまり責めるのも酷というものだろう。

 ちなみにコペンハーゲン解釈と多世界解釈とは対立関係にあると見られがちだがそれは誤りで、実は両者は同じことを言っているに過ぎず、むしろ多世界解釈はコペンハーゲン解釈をどうにかしてわかりやすく言い換えようとして失敗しただけなのである。

 そもそも世界などという大仰な言葉を使うから、いらぬ誤解を受けるのである。いっそこれを『道』とでも言い換えれば、非常にわかりやすくなるのではなかろうか。

 たとえばあなたの前に、二股の分かれ道があるとしよう。

 どちらかを選ぶまでは二通りの道筋をたどっていける可能性があるが、一度選んでしまえば当然一つの道しか歩くことはできなくなる。

 とはいえもう一つの道もけして消滅したわけではなく、依然ちゃんと存在し続けていて、ただ単に別の道を選んだあなたには、その存在を認識できないだけなのだ。

 どうです。これぞ多世界解釈そのものであり、ひいてはコペンハーゲン解釈を含む量子論の基本概念のすべてを、極日常的な視点で簡単明瞭に言い表せているでしょう?

 つまりあなたを量子に、分かれ道を多世界だと見なせばいいのだ。

 ある道にあなたの存在が観測されれば、当然他の道であなたは観測されることはない。

 しかしまた別の日には、あなたはもう一方の道のほうで観測されるかも知れない。

 どんな道であってもあなたが観測される可能性は、けしてゼロにはならないのだ。

 それがたとえ地球の裏側のスラム街の裏道でも。遥か遠宇宙の未知の惑星の首都の表通りであろうとも。

 そう。どんなに荒唐無稽な場所セカイであろうと、あなたが存在し得る可能性は誰にも否定できないのだ。

 この無限の可能性こそが量子論の醍醐味であり、SF小説等の創作物フィクションにおいてもてはやされている最大の理由であった。

 先ほど多世界解釈に基づけば、我々の世界は量子というミクロレベルでは他の世界と干渉し合えると述べた。

 この他の世界とは本来概念的なもので、「あの分かれ道でもう一方の道を選んでいれば、事故に遭わずに済んだのになあ」などという、極日常的な『仮想的な世界』に過ぎない。

 けれども可能性としては、『もう一方の道を選んだ世界』もちゃんと存在しているのだ。

 量子論的に言えば現在我々が観測しているからこそ、目の前の世界は唯一の現実世界として存在し得ているのであり、何かの拍子で──それこそタイムトラベルや異世界転移等の奇跡が起こって別の世界を観測した瞬間、好むと好まざるとにかかわらずその世界こそが唯一の現実世界となってしまうのである。

 そんな馬鹿なことはあり得るはずがないと思われるかも知れないが、もしもあなたが気がついたら戦国時代にいたとしたら、その事実を認めないままのたれ死ぬであろうか?

 いや。おそらくはどうにかして生きのびようと、必死にあがいていくに違いなかろう。

 そう。まさしく量子論そのままに、観測してしまえばどのような荒唐無稽な世界であろうとも、己にとっての唯一絶対の現実世界として認めざるを得なくなるのであり、それは戦国時代だろうが遠未来だろうが異世界だろうが、どんな世界でも変わりはないのだ。

 もちろんそのようなSF小説そのままの世界を観測してしまうことになる可能性は非常に低いと思われるが、けしてゼロではないのである。

 何せ可能性として存在し得るすべての世界とは、文字通りなのであり、過去や未来や並行世界はもちろん、SF小説等の創作物フィクションそのものの世界をも含んでいるのだ。

 そもそも可能性として存在し得る世界とは、コペンハーゲン解釈で言うところの多重的可能性としての存在である量子の『居場所』のようなものであり、よって各世界の量子同士の共感シンクロ行為こそが、多世界解釈で言うところの世界同士の干渉現象の正体とも言えた。

 だとしたらもしも量子が人間のように自意識を持った存在であれば、他の世界の自分自身と共感シンクロしその目を通してことによって、その世界のほうを本来の自分の世界と入れ替えに新たなる現実世界にすることさえもできるのではなかろうか。

 この手法を使えばSF小説にあるような面倒な約束事をすっ飛ばして、瞬時に未来世界にタイムトラベルすることも遠宇宙に到達することも異世界に転移することも可能となるのではないか。

 もちろん量子には自意識なぞなく、このままでは単なる机上の空論に過ぎない。

 だったら量子にシステム的な意思を持たせるために、『生体型量子コンピュータ』とも呼び得る、量子をベースにした生きたコンピュータを開発すればいいのではなかろうか。

 量子コンピュータとは多世界解釈における並行世界の量子同士の共感シンクロ現象を利用した、文字通り無限の可能性を秘めた超並列型コンピュータのことであり、ほとんどSF小説等における空想上の産物であるが、それに対してコペンハーゲン解釈に則った量子の粒子でもあり波でもあるといった複数の可能性が同時に存在する性質のほうは、0か1かの二進法に限定される現在のデジタル的演算方式に取って代わるものとして有望視されており、すでに量子コンピュータとも呼び得るものについては現実に試作段階に入っていた。

 それなら僕自身の手で生体型量子コンピュータを現実のものとすることも、けして不可能じゃないのではなかろうか。

 そう思い立った僕は自分の進路を、物理学の権威であるきゅう大学と定めたのである。

 とはいえ、いきなり意思を持った量子コンピュータを造ろうというのはいささか突飛過ぎたようで、ただでさえ頭の固い教授連中には酷評され、研究室の他の学生たちからも奇異な目で見られるばかりで、最初に画期的な研究目標をぶち上げることによってみんなを圧倒し、研究室内で良好な協力体制を構築するという目論みはあっけなく潰えてしまった。

 しかも肝心かなめの僕自身においても、目標ははっきりしているもののそのための具体的な理論や手法のほうはさっぱりで、まさしく前途多難を絵に描いたような状況にあった。

 しかしなぜだか、やる気だけは十分過ぎるほどみなぎっていたのである。

 まるで自分がこの研究を実現するためだけに、この世に生まれ落ちたのではないのかと思えるほどに。

 そんな中で僕の唯一の理解者であり、何かと協力を買って出てくれていたのが、幼なじみであり同じ研究室に所属している、おんハルカ嬢であったのだ。

 彼女の献身的バックアップのお陰でどうにか基礎理論が確立しただけでなく、何と最も困難だと思われたコンピュータの自律化すらも一応の目処がついたのである。

 それはひとまず通常的な並列マシンとして開発を進め、その量子ならではの超並列演算能力を効果的に利用して、疑似的な『自意識』を構築させるという算段であった。

 しかしそんな中で予想外の事態に陥ることになったのは、彼女が引き続いて心強いスポンサーまで見つけてきてくれて後顧の憂いもなくなり、いよいよ研究に本腰を入れようとしていた矢先のことであった。

 何と例の学食でのちょっとした言い争いの末に思い余って告白まがいなことを口走って以来、ハルカが僕のことをあからさまに避けるようになってしまったのである。

 確かに少々拙攻に過ぎたと思うが、いくら何でもこの仕打ちはないだろう。

 これまでの長い付き合いにおける彼女の態度を顧みるに、少なくとも嫌われてはいなかったはずである。

 なのにハルカの現在の過剰な忌避行為は、いったい何なのだろうか。

 このままでは僕の恋心はおろか、せっかくうまく行きかけた研究自体が頓挫しかねない。

 ここは恋人同士は無理でも、以前通りの幼なじみの関係くらいにまでは修復しなければならぬだろう。

 そうして僕は意を決し、彼女の姿を求めて重い腰を上げた。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「……ごめんなさい。私どうしても、あなたとお付き合いすることはできないの。なぜならこの私こそは今から約千年後の未来において、あなたの生体型量子コンピュータに関する研究論文に基づいて造られた生体型タイムマシンなのであり、今や滅亡の危機に瀕している人類の歴史を正しい形に作り直すために、あなたに一日でも早く生体型量子コンピュータを完成させることを最大の使命としてこの時代へとやって来たのですもの」

 大学内においては僕から逃げ回ってばかりでいるハルカに業を煮やして勝手知ったる西にしじんの下宿へと押しかけて、家庭教師のバイトに向かおうとしていた彼女を捕まえ最近のつれない態度の理由わけをきつく問い詰めれば、進退窮まった桃花の唇から飛び出してきたのは、あまりにもとんでもない電波的告白であった。

 ──ま、まさか、僕の幼なじみが、こんなにちゅうびょうだったなんて⁉

「何だよ、言うに事欠いて、千年後の未来とか生体型タイムマシンとか人類の歴史を作り直すとかって⁉ いくら僕のことが嫌いになったからって、そんな与太話でごまかそうとするのはひど過ぎるんじゃないのか?」

「そんな! 自分の生みの親とも言えるあまワタル博士のことを嫌うなんて、滅相もございません! これまでの馴れ馴れしい態度についても、どうか御寛恕のほどを!」

「やめて! いかにもわざとらしく急に語調を改めたり、人のことを博士だなんて呼ばないで! あまりにもイタ過ぎていたたまれないから!」

「そ、そうでございますか? ……う、うん。わかった。一応これまでの調子で話すね?」

 それでもかつての彼女には似つかわしくもないおどおどとした態度が、妙に癇に障った。

「……しかしそれにしても生体型タイムマシンはないだろう。おまえ物心ついてからずっと、僕の幼なじみとして側にいたじゃないか。未来の世界において人類が危機的状況にあるというのに、二十年近くもただ潜伏し続けていたわけなのかよ」

「え? あ、いや。私がこの時代に来たのは、ほんの三ヶ月前だけど」

「はあ? 三ヶ月前え⁉」

 何言ってんだこいつ。間違いなくハルカは三ヶ月前どころか十数年前から、この世界にいたじゃないか──って。

「お、おまえまさか、生体型タイムマシンとか言っていたけど、変身機能だか何だかを持っていて、密かに本物のハルカと取って代わってしまっているんじゃないだろうな⁉」

 ひょっとして、これぞ未来からの侵略者? ……いったいいつの時代のB級映画だよ。

「取って代わってなんかいないよ。私はちゃんと、おんハルカでもあるんだから」

「へ?」

 何だよその、タイムマシンでもありハルカでもあるって。やはりただの妄想なのか?

 ……いやそもそも、千年後の未来からタイムトラベルしてきたという話自体が信じられないんだけど。SF小説でもあるまいし、現実に時間旅行なんてできるはずがあるものか。

「やれやれ。発案者御自身が、何を言っているのやら。言ったでしょ? 私は生体型量子コンピュータを基にして造られたって。千年後の未来から来たと言ってもどこぞの三流小説みたいに機械的なタイムマシンとかマイクロブラックホールとかを利用したわけでなく、コペンハーゲン解釈に基づく『自己シンクロ能力』──多世界解釈で言い換えれば『可能性としての世界の収束能力』を使って、前にいた時代セカイとこの時代セカイとを入れ替えたわけなの」

「はあ? 時代セカイを入れ替えたって……」

「つまり三ヶ月前まではこの世界は単なる可能性としての存在でしかなかったんだけど、以前にいた世界において私が生体型タイムマシンとしての『自己の多重的存在形態の可能性の収束能力』を使うことによって、新たなる現実世界として確定したって次第なのよ」

「この世界が可能性としての存在だったって? それをおまえが三ヶ月前に新たなる現実世界として入れ替えただと? おいおい。僕には三ヶ月前どころか、生まれた頃からの記憶がちゃんとあるぞ! まさかこれまた時代遅れの駄目SFみたいに、この記憶も世界の歴史そのものすらも、三ヶ月前にいっぺんにでっち上げられたとでも言い出す気じゃないだろうな⁉」

「まさかそんな、ありきたりな。確かに私はどちらかというとコペンハーゲン解釈に基づいて造られているけれど、ちゃんと多世界解釈も踏まえているのであって、この世界自体も可能性としてはこれまでずっと存在していたのであり、あなたの記憶も人類の過去の歴史もすべて本物なの。何せさっきも言ったように私自身にも、久遠ハルカとしてのこれまでの記憶があるくらいなんだから」

「……それってもしかして、単におまえが自分が未来から来たという、中二病的な妄想に取り憑かれているだけじゃないのか?」

「あはははは。他人から見れば、まさにその通りでしょうね。もちろん私がタイムマシンである証拠なんて、何一つないわ。何度も言うように私は世界そのものを入れ替えたんだから、今現在の私はあくまでも久遠ハルカという人間の女の子に過ぎないのですもの」

「じゃあ何でおまえは、自分が生体型タイムマシンだなんて言い張れるんだよ?」

「だって私がその気になれば、この世界自体もいつだって別の世界と入れ替えることができるのよ?」

「なっ⁉」

「何せ私、タイムマシンですもの。それもこの上もなく、正真正銘本物のね」

「生身の女の子でありながら、正真正銘本物のタイムマシンでもあるだってえ⁉」

「そうよ。むしろこれこそが、最も理想的なタイムマシンの在り方とも言えるでしょう。そもそも未来から独立した肉体を持った人間が機械のタイムマシンに乗って現代社会にやってくるなんて、あり得るはずがないのよ。戸籍とか人間関係が存在しない世界の中で、生きていける人間なんているものですか。あなたもさっき言っていたけど、現代人になりすますことなんかもっての外よ。例えば得意の未来の便利道具とやらで周りの人たちの記憶や認識を操作するとか? そんな神様みたいなことができるわけないじゃない。記憶や認識というものは、その人にとっての世界そのものとも言えるのよ。そんなものを操作する力を持っているなら現代人になりすます必要もなく、どんな目的でも叶えることができるでしょうよ。それに対してこうして世界そのものを入れ替えて、、戸籍とか人間関係とかの問題も一挙に解決してしまうでしょう?」

「自分が最初から存在しているように世界を入れ替えたってえ⁉ じゃあもしかして──」

「そう。元々この時代には『久遠ハルカ』なんて人物は存在していなかったんだけど、使命を果たす上で都合がいいように、あなたの身近に昵懇の幼なじみが存在するようにうまく可能性を収束させて、無数の並行世界の中からこの世界を選び出して確定したわけなの」

「世界を丸ごと入れ替えて、未来で造られた生体型タイムマシンが普通の人間として最初から存在しているようにしたなんて、デタラメにもほどがあるだろうが⁉ そんな話現実世界ではもちろん、量子論としても先進的過ぎてSF小説でも聞いたことはないぞ!」

「そんなことはないわ。何せ『誰であろうと別の時代に存在し得る可能性を肯定する』ことこそが、現実世界はもちろんSF小説におけるタイムトラベル実現の大原則なのだから。たとえそれが女子大生だろうと人が造り出した生体型タイムマシンだろうとね。そうじゃなかったら現代の自衛隊が戦国時代にタイムスリップするのを否定することになり、ラベンダーの香りをかいだ少女が時をかけるのを否定することになり、どこかのラノベの主人公が何度も三年前の七夕の日にタイムトラベルするのを否定することになるわけなのよ? あなた我が国の出版社やSF小説家やSFマニアの皆様を、すべて敵に回す気なの?」

 ──うっ。

「そしてまさしく、量子というものが時代の前後関係を超越してあらゆる世界であらゆる形態を取り得るとしているコペンハーゲン解釈量子論こそが、この『誰であろうと別の時代に存在し得る』の論拠そのものとも言えるの。だからこそコペンハーゲン解釈的生体型量子コンピュータである私は、文字通りあらゆる世界のあらゆる時代にあらゆる形態スガタで存在し得るわけで、それは二十一世紀の女子大生でも千年後の生体型タイムマシンでも千年前の平安貴族でも中世ヨーロッパのお姫様でもあり得るの。よって私はただ心で念じるだけでいいわけ、『いつの時代のどんな自分』になりたいかを。その瞬間に希望通りの『自分自身』と可能性を収束し一体化シンクロすることによって、結果的に私はそれまでとは『別の世界』に存在することになり、まさしく世界を入れ替えることになって、この現実世界においてタイムトラベルを実現しているという次第なのよ。──そう。これはリアリティ的にも何の問題もないの。だってある日突然世界が入れ替わってしまう可能性はけしてゼロではなく、その実現は誰にも否定できないのですからね」

「いや、否定するよ! それこそSF小説でもあるまいし、そんな可能性はゼロだよ!」

「あらあら、何を言っているのやら。あなた自身だって実際に、世界の入れ替わりを経験しているじゃないの。それも毎日のようにね」

「はあ?」

「つまり毎朝目覚める際においての、それまで見ていた夢と現実の世界との入れ替わりのことよ。たとえば大学受験の試験中に問題が解けず焦りまくっていたら目が覚めて、『ああ、夢でよかった♡』と胸をなで下ろしたことはない? その時あなたは夢の中で夢であることに気がつくことができたかしら? いいえ、おそらくあなたは確かに現実の出来事だと思っていたはずよ。すなわち現実のはずだった大学受験当日という過去の世界が目覚めとともにその瞬間現代と入れ替わって、夢と消えてしまったわけなの。このように私たちは毎日のようにして、自分の世界の入れ替わりを体験しているという次第なのよ。だったらある日突然目の前の世界が別の世界と入れ替わってしまい、新しい世界こそが唯一の現実世界となり、以前の世界のほうはあたかも夢や幻であったかのように消え去ってしまうことも、けしてあり得ないとは言えないじゃないの」

「──‼」

 そ、それは確かに、そうだけど。……何この、詭弁と極論の集合体のような理論は⁉

「しかも私はコペンハーゲン解釈量子論に基づく多重的存在形態の収束能力によって、ある程度条件を絞って任意に世界の入れ替えをすることすらもできるのだから、まさにこれぞ現実性リアリティという意味からも実効性という意味からも、現時点において現実世界はもとよりSF小説等の創作物フィクションの分野においても、最も理想的なタイムマシンと呼び得るでしょう」

「……理想的かどうかはともかく、世界そのものを丸ごと入れ替えてしまえるなんて、それこそまるで全知全能の神様みたいじゃないか?」

「いや、それがそうでもないのよ。何度も言うようにコペンハーゲン解釈に基づいて造られた私はあくまでも、時代を超越したあらゆる世界に可能性として存在し得る自分自身と、多重的存在形態を収束させて自己一体化シンクロすることによってタイムトラベルを実現しているのであり、多世界解釈みたいに可能性として存在し得るすべての世界自体そのものを常に観測することはできず、一応は『いつの時代のどんな自分』に可能性を収束するのかといった自分自身に関する条件設定はできるものの、すべての可能性としての世界の中のベストの世界をいっぺんに選び出すことも、その選択がどのような結果ミライを生み出すかを予見することもできず、一度選択し確定した世界の中では自分自身も単なる極普通の人間となりただ事態の推移に身を任せるしかなく、結局目的を達成することができなければ真に望み通りになるまで何度でもまた、別の可能性の世界と入れ替えを行って一からやり直すしかないの」

 それはまた、不便なことで…………って。ちょっと待てよ⁉

「何度でもやり直すしかないって、もしかして、それって……」


「そう。すでには、数百回ほどやり直しているの」


 ……何……だっ……てえ……。

「あなたもふとした時に、わけもなく違和感や既視感を感じたりしなかった? 『この風景は前にも見た気がする』とか。『この映画は前に見た時と結末が違っているんじゃないのか』とか。──『自分にはこんな可愛くて気立てのいい幼なじみがいたっけ』とか」

 ──っ。

「実はそれこそが、この時代がこれまで何度も繰り返されていることや、『私』が本来この世界には存在していなかったことの、無意識的な影響によるものなの」

「……世界を数百回もやり直しているって、何でそんなことを」

「だってしかたないじゃない。あなたったらどうしても、おんトワお嬢様と結ばれてくれないんだもの。今回もこのままでは史実通りに資金繰りに行き詰まって、生体型量子コンピュータの開発研究は頓挫してしまうことでしょうよ。しかし世界の行く末を度外視して目先の利益のみを追い求め争い合ったあげくに世界そのものを衰退させて自ら絶望の淵に陥った人類の歴史を変えるためにも、過去や未来を含むすべての世界を観測することのできる生体型量子コンピュータの一日でも早くの実現は絶対に不可欠なの。しかも多世界解釈に基づいて考案されているあなたの生体型量子コンピュータ──人呼んで『KUDANクダン』なら、コペンハーゲン解釈に基づく私とは違って常に可能性として存在し得るすべての世界を観測でき、一度で最も理想的な世界と入れ替えることだってできるのですからね」

 僕が生み出すことになる、生体型量子コンピュータ──KUDANだと?

「これでわかったでしょ? 元々単なる『つくりもの』でしかない私とあなたが結ばれることなんてあり得ないの。そんなことよりもあなたは人類にとってより理想的な未来の実現のためにもトワお嬢様とお付き合いをして資金援助を受けて、一日も早くKUDANを現実のものとすべく研究開発に精を出していくべきなのよ」

 そう言うやもはや話は終わりとばかりに踵を返しその場を後にして行く、自称生体型タイムマシンの女子大生。

 それに対してその時の僕はただ間抜け面をさらしながら立ちつくし、歩き去っていく彼女の後ろ姿を見つめ続けるしかなかったのである。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「……それで何で、あの時はただ間抜け面をさらしながら立ちつくし、歩き去っていく私の後ろ姿を見つめ続けるしかなかったあなたが、こうして以前同様に当たり前のようにして私につきまとっているわけなの?」

 そのボーイッシュなショートカットの茶髪に縁取られたいまだあどけなさの残る可憐な小顔の女子大生は、大学の学食で断りもなく自分のすぐ隣の席に座り込んできた僕に向かって、冷ややかにそう言った。

「いやだなあ、そんなにツンケンするなよ。僕たち幼なじみじゃないかあ」

「なっ⁉」

 すぐ真横の憤りの波動なぞ露ほども介さずのん気に言い放てば、絶句するハルカさん。

「何が幼なじみよ。言ったでしょ? 私は千年後の未来で製造された生体型タイムマシンで、生みの親であるあなたに更に理想的な生体型量子コンピュータ『KUDANクダン』を一日でも早く開発してもらうために、この時代に来たって⁉」

「おいおい。こんな人目のあるところで、いきなり中二病発言はやめてくれよ?」

「ふざけないで! あなたがKUDANを現実のものにできなかったら、人類の未来は滅亡の道をたどるだけなのよ⁉ それでなくとも何だか最近研究のほうもおろそかになっているようだし。いくら言ってもトワちゃんとは会おうともしてくれないし」

 怒気もあらわに食ってかかってくる幼なじみの姿に、僕は思わずため息をつく。

「だってそんなこと、僕にとってはどうでもいいし」

「はあ⁉」

「千年後の未来だか人類の滅亡の危機だか知らないが、一介の大学生に過ぎない僕にいったいどうしろと? 生体型量子コンピュータを造ろうと思ったのもあくまでも物理学の学徒としての知的好奇心のなせる業に過ぎないのであって、この世界の歴史そのものを変えようなんて大それた野望なんて持ち合わせていないんだよ。しかも今や当初の目的も果たせたようなものでもあるし、これ以上研究を続けていく理由もなくなったってわけなのさ」

「え。目的が果たせたって……」

 思わぬ言葉に面食らう隣の女性の肩を、いかにも馴れ馴れしく抱き寄せる物理学の学徒。

「だっておまえこそは、僕の研究論文に基づいて造られた生体型タイムマシンなんだろう? つまりこれから取りかかる予定だった研究の成果が、すでに今目の前にあるってわけなんだ。だったらもう七面倒な開発作業なんかせずに、おまえのことを微に入り細に入りじっくりと研究していけばいいじゃないか? ──そう。実はおまえは僕に会うためにこそ、千年後の未来から来てくれたようなものなのさ♡」

「──っ!」

 彼女のか細いあごを指先ですくい上げながら至近距離でささやきかければ、顔を真っ赤に紅潮させる生体型タイムマシンさん。

 まさにその刹那。とうとう彼女の堪忍袋の緒がぶち切れた。


「──いい加減にしなさい! これ以上ふざけるなら、この世界も滅ぼしてしまうわよ⁉」


 …………………はあ?

 僕の手を振り払い椅子から立ち上がり肩で息をしながらこちらを睨みつけている女子大生の茶褐色の瞳ダークブラウン・アイズは、あくまでも真剣そのものであった。

「……世界を、滅ぼすって?」

「そもそもSF小説なんかに登場してくる過去や未来と何度も自由に行き来できるような、いかにも御都合主義的な双方向型のタイムトラベルなんてけしてあり得ないの。その最大の理由は何よりも『世界というものはあくまでも一つしか存在しない』からなのよ。つまり仮に何かの拍子で過去に時間移動することがあれば過去こそが唯一の現実かつ現代世界となり、未来に赴けば未来こそが唯一の現実かつ現代世界となるだけなのであり、そしてその結果かつての現実かつ現代だった世界はあたかも夢や幻であったかのように、ただ消えゆくしかないのよ。──言うなればタイムトラベラーはタイムトラベルをするごとに、それまで自分の存在していた世界を滅ぼし続けているようなものなの」

 なっ⁉

「何でSF小説家の皆さんは、こんな当たり前なことに気がつかないのかしら。そもそもこの現実世界と共に過去や未来の世界や並行世界なんかが確固として存在していて、自由自在に双方向的にタイムトラベルや異世界転移をすることができるわけがないのよ。唯一あり得るのはいわゆる量子論に基づいた『世界の入れ替え』だけだけど、もちろんその場合も当然元の世界のほうは新しい世界と入れ替わりに夢幻のごとく消え去ってしまわなければならないの。そう。私は真に人類にとって理想的な未来を実現するために世界の入れ替えを繰り返すことによって、これまで数えきれないほどの世界を滅ぼし続けてきたわけなのよ」

 悲痛な表情でそう言い放つや顔をうつむけ再び座り込む、自称生体型タイムマシン。

 そんな、まさか。タイムトラベルをするごとに、世界は滅ぼされているだってえ⁉

「……いや、ちょっと待てよ。だったらそもそもの出発点である、おまえが造られたという千年後の未来世界はどうなっているんだよ?」

「もちろん私が最初のタイムトラベルをした瞬間に、世界そのものが丸ごと『無かったこと』になってしまったわ」

「はあ? 人類の危機を救うためにタイムマシンとして造られたのに、いの一番に元の世界を滅ぼしたんじゃ意味がないじゃないか⁉」

「そんなことはないわ。私が過去の歴史の改変に成功しさえすれば、結果的に未来は人類にとってより理想的なものとして蘇るのだから。つまりあえて世界自体が消滅することがわかっていながら私を旅立たせたのは、もはや未来世界そのものがにっちもさっちも行かない状態となってしまっていて、最後の手段として現在の世界をいったん御破算にしてでも、過去を改変して新たなる人類の歴史を築いていくことに賭けるしかなかったのよ」

「……じゃあ、おまえ自身は」

「ええ。過去の歴史の改変に成功しようがどうしようが、もう二度と元の世界に戻ることはできないの」

 そう言ってますますうつむき、完全にその表情を隠す幼なじみ。

 つまりこいつは全人類の人身御供として、永遠に片道切符のタイムトラベルをし続けなければならないというわけなのか?

「あれ? おまえ量子論に基づいて世界の入れ替えをやっていると言ってたけど、それってあくまでもコペンハーゲン解釈のほうだよな? 確かにコペンハーゲン解釈だと可能性を一つに収束すれば他の可能性としての存在はすべて消滅してしまうけど、同じ量子論でも多世界解釈だったら、一つの世界を観測して確定させても他の世界のほうも一応可能性としては存在し続けていることになっているから、おまえが最初にいた世界もこれまで入れ替えてきた世界も、可能性としてならちゃんと存在しているんじゃないのか?」

 そうだそうだ。あまりにも辛そうな表情をしていたから、ついうっかり雰囲気に流されそうになったけど、こいつ自身だってコペンハーゲン解釈だけでなく多世界解釈にも立脚していないと、そもそも『世界の入れ替え』なんてできっこないのだ。

「ええ、そうね。私には見ることはできないとはいえ、ある程度の条件付けをして新たなる世界を選び出し入れ替えることができるんだから、この現実世界以外にもあくまでも可能性としてなら他の世界も存在しているのでしょうね。──でも、それに何の意味があるというの? 実際に認識することのできない世界なんて、存在していないも同じじゃない?」

「──っ」

「そもそも量子論の大前提こそが、可能性としての存在を確定的存在にすることじゃないの。いくら多世界解釈がコペンハーゲン解釈よりも正しかったとしても、あなたたち普通の人間はもちろん私のような生体型タイムマシンであっても現時点で自分が存在している世界しか観測できないんだから、私が世界の入れ替えをするごとに本当に世界が滅び去っていることを否定することは誰にもできないのよ。つまり『世界というものはあくまでも一つしか存在しない』とは、まさしくこのことを言っているの。実は世界とは主観的なものでしかなく、たとえ多世界解釈的に客観視すれば無数の並行世界が存在していたとしても、個々の世界の中にいる個々人の主観的にはあくまでも世界は一つしか存在しないのよ。それともあなたは現に滅亡の危機に瀕している世界の人々を前にして、『御安心してください。たとえあなたたちの世界が滅びようとも、多世界解釈的には可能性としての世界が無数に存在していますから』なんて言うことができるわけ? そんなたわ言なぞ何のなぐさめにもならないでしょうね。なぜなら間違いなく私の主観においてはこれまでタイムトラベルを行うごとに無数の世界を滅ぼしてきたのであり、これからもまた滅ぼし続けるしかないのだから」

 今や涙すら浮かべながら、僕のほうを見つめている茶褐色の瞳ダークブラウン・アイズ

 まさしくそれは重き罪を背負った者だけがかもし出せる、悔恨の色に染まっていた。

「……いやだ。そんな哀れみの目で見ないでくれない? これは人類の最後の希望である生体型タイムマシンとして生み出された、私にとっての使命に過ぎないんだから。そんなことよりもあなたは一日でも早く、KUDANを現実のものにしてちょうだい。生体型量子コンピュータであるKUDANなら、多世界解釈に基づいた観測能力により可能性としての世界を常にすべて認識することができ、世界を無駄に滅ぼすことなくより理想的な入れ替えを行うことができるようになるし、様々な未来の可能性を予測計算シミュレーションすることによって、人類がいたずらに世界そのものを衰退させることも防げるようになるわ。──それに何よりも私自身も使命から解放されて、もう二度と世界を滅ぼすことはなくなるわ!」

 あたかも殉教者そのままの使命感に満ちた声音で、毅然と言い放つ未来からの使者。

 そんな悲壮感にあふれた姿を見ていられなくなった僕は、思わずつぶやいた。

「……やめろよ」

「え?」

「もうそんな馬鹿げた使命なんて、捨てちまえって言ってるんだよ!」

「な、何を突然言い出すの? 私はこの使命を果たすためだけに造られた、生体型タイムマシンなのよ⁉」

「違う! おまえはただの女の子だ。僕の長年の幼なじみに過ぎないんだ! そもそもおまえ自身がそう言ったんじゃないか⁉」

「はあ?」

「確かにコペンハーゲン解釈に基づいて造られた生体型タイムマシンであるおまえは、世界の入れ替えができるだろう。しかしいったん確定した世界の中では多世界解釈のように他の可能性としての世界を認識することなぞできない、ただの女の子でしかないんだ。しかも世界を入れ替えるごとに元の世界を滅ぼしてしまっているというのなら、おまえが世界を入れ替えたという事実すらも『無かったこと』になってしまったわけじゃないか。なぜなら入れ替え能力を使ったのはあくまでも前の世界の『おまえ』なのであり、この世界のおまえは何の力も持たない極普通の人間に過ぎないのだからな」

「そ、そんなことはないわ! 確かにこの私自身が生体型タイムマシンとして可能性を収束させて、元の世界をこの世界と入れ替えたのであって……」

「だからそれは元の世界の『おまえ』なんだろ? その世界が滅んでしまったというのなら、そこに存在していた『おまえ』も消滅してしまったわけだろ? つまりおまえは世界を入れ替えると同時に、自分自身も入れ替えているってことなんだよ。そしておまえの生体型タイムマシンとしての力が世界の入れ替え能力だけというのなら、おまえはその時点で存在する世界の中ではあくまでもただの女の子に過ぎないってわけなのさ」

「そ、そんな馬鹿な⁉ 何よその、詭弁と極論の集合体のような理論は!」

「だってそうじゃなかったら、おまえは世界から独立した存在として機械のタイムマシンに乗ってやって来た、三流SF小説あたりに登場してくる典型的な未来人になってしまうじゃないか? おまえのお説では、そんなのは現実的にはあり得ないんだろう? それにそもそもおまえの言っていることのすべてが、ただの妄想だという可能性もあるんだしな。つまりどう転んでも、おまえはただの人間に過ぎないってわけなんだよ。だったらもう馬鹿げた使命なんか忘れてしまって、普通の女の子として暮らしていっても構わないじゃないか。少なくとも僕はおまえのことを、生体型タイムマシンだなんて思っちゃいないよ。そう。おまえは僕にとっては長年付き合ってきた、『幼なじみの女の子』に過ぎないんだ」

「違う違う違う違う違う! 私は人類の未来のためにも、この使命を立派に果たさなければならないの! そのためにこれまで無数の世界を滅ぼしてきたの! 今さら使命を捨てるわけにはいかないの! あなたはただ私に言われるままに、KUDANの実現化に向けて研究に精を出したりトワちゃんと付き合ってパトロンになってもらえばいいの! これ以上ぐずぐず言うようなら、今すぐこの世界を滅ぼしてやるから!」

「構わないよ」

「え?」

「おまえ自身の手でここにいるおまえとともに世界丸ごと滅ぼされるのなら、むしろ望むところさ」

「──っ。な、何を馬鹿なことを。あなたは自分の世界が消滅して、まったく違う『自分』になってしまうのが怖くはないの? そうなったら記憶も何もかもなくしてしまって、今ここで交わしている私との会話すら覚えていられなくなるのよ⁉」

「なめるんじゃない。たとえ記憶を奪われようが、何度でもおまえに言ってやるよ。『もう馬鹿な使命は捨てろ』とね。いくら世界が入れ替わろうが、僕は僕でしかないんだ。苦しみ続けているおまえのことを、だまって見ていられるわけがないだろうが⁉」

「何でよ? 何でたかが『つくりもの』に過ぎない、私にそんなことを言うの? 元々生体型量子コンピュータを実現することこそが、あなたの夢だったんじゃない。私の言う通りにすれば、それが叶うのよ⁉」

「違うよ。さっきも言った通り、僕の一番の望みはおまえと一緒にいることさ。それも生体型タイムマシンなんかじゃなく、幼なじみの女の子である久遠ハルカとね。なあ、一度でいいから、おまえも想像してみてくれないか? これまでのこととか使命のこととか全部忘れて、この世界の中でただの女の子として、僕と一緒に生きていく自分自身の姿を」

「……私がワタルと、ただの女の子として、一緒に生きていくですって?」

 何を言われたのか咄嗟にわからず首をかしげるものの、すぐさま理解に及びみるみるうちに首から上を真っ赤に染め上げていくハルカ嬢。──おお、これは脈ありか?

「そ、それって⁉」

「ああ。プロポーズと思ってくれて構わない。僕も生体型量子コンピュータの研究なんてやめるよ。千年後の未来なんて、どうなってもいいじゃないか。それで人類が滅んでしまうんだったら、単なる自業自得さ。おまえだってせっかくこうして普通の女の子になれたんだ。これから先は自分の幸せを追い求めたって、誰にも文句を言われる筋合いはないよ」

 そう言いながら、彼女の肩を優しくそっと抱き寄せる。

「……駄目よ」

「へ?」

「駄目、駄目なの! 私、今もちゃんと覚えているんだから! これまで入れ替えてきた世界で出会った人たちのことを。元いた未来世界の科学者たちもそれぞれの世界で巡り合った人たちも、みんないい人ばかりで私に親切にしてくれたわ。それなのに私は使命を果たすために、彼らの世界を滅ぼすしかなかった。今さら自分だけただの女の子のふりをすることなんか、私にはけして許されやしないの!」

 そう泣き叫ぶようにして言い捨てるや、席を立ち学食から駆け出していく幼なじみ。

 ……何て馬鹿な奴なんだ、僕って男は。結局はハルカの気持ちを、少しもわかってはいなかったんだ。

 意気消沈のあまりもはや彼女の後を追いかけるどころか立ち上がる気力すらなく、僕は周囲の好奇の視線にさらされながら、いつまでもその場に座り続けていたのであった。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「──まったく、ハルカお姉様ったら。あれこれお悩みになられるくらいなら、さっさと世界を入れ替えてしまえばよろしいのに」

 その時ほんのすぐ目の前の鮮血のごとき深紅の唇より飛び出した思わぬ言葉に、僕は危うく飲みかけの紅茶を噴き出しそうになった。


 真正面のソファでいたずらっぽく煌めいている、宝玉のごとき黒水晶の瞳。


 突然噂のおん本家の御令嬢のトワ嬢から、「ハルカお姉様についてお話がありますの」という面会の申し入れを受け、市内の広大な敷地を擁する和風建築の豪邸へと訪れ豪奢な応接間に通されいざ御本人と対面するや、そのつややかな長い黒髪に縁取られた日本人形そのままの端整な小顔や漆黒のワンピースに包み込まれた均整のとれたほっそりとした肢体に目を奪われていた僕を尻目に、開口一番聞き捨てならぬことを宣われたのであった。

「……世界を入れ替えてしまえって、君」

「まあ。君だなんて、他人行儀な。では、私たちはステディの関係にあるというのに。どうぞ私のことはこの世界においても、トワとお呼びください」

 何だ? 久遠家のお嬢様方は、どいつもこいつも中二病なのか?

 ……それともまさかこいつまでも自分のことを、生体型タイムマシンだとか未来予測装置だとか言い出すんじゃないだろうな。

「いやだ。そんなに身構えないでくださいな。何もこの世界のあなたにまで、私とのお付き合いを強制するつもりはございませんので。もちろんそのようなことにはかかわらず、御研究の援助をさせていただこうと思っておりましてよ? これはすでに久遠一族の総意でもございますので」

「は? それって……」

「うふふふふ。お話のほうはハルカお姉様から詳しくお聞きしておりますわ。生体型量子コンピュータでしたっけ? まさにその実現こそ我が久遠家の長年の悲願を叶えるものと期待いたしており、我らにできることならどのようなことでもいたす所存ですので、御研究に関して何か御入り用があればどうぞ御遠慮なく、何なりとお申し付けくださいませ」

 平安のいにしえより朝廷直属の呪術の大家とも言われている、久遠家の長年の悲願だと?

「それにしても気がかりなのは、ここ最近肝心のあなた御自身が生体型量子コンピュータ実現への情熱を、すっかり失われておられることです。駄目ですわよ、ハルカお姉様がこの世界の中で普通の女の子として存在していることに、満足なさってしまわれては」

 ──っ。

「……君は……いったい……」

 そういえばこの子、『ときみの巫女姫』とか何とかと呼ばれていて、未来予測の力を持っているんだっけ。

「そうか、無限の可能性を秘めている未来を予測できるということはまさしく生体型量子コンピュータ同様に、可能性として存在し得るすべての世界を観測できるも同然ってわけか。生体型タイムマシンであるハルカが君の一族としてこの世界に存在することになったのは、どうやら偶然ではなかったようだな」

「生体型量子コンピュータ同様などとは、とんでもない。私のような本家の巫女姫といえども世界の入れ替え能力なぞ持ち得るはずもなく、未来を始めとするあらゆる世界が視えるといっても、夢の中で文字通りに夢現の状態で垣間見ているに過ぎないのですから」

「それを聞いて安心したよ。下手したらSFどころかファンタジーの世界に突入しかねないからな。いまだかろうじて現実性リアリティを保っていられるってわけだ」

「ハルカお姉様の世界の入れ替え能力のほうも、夢と現実の逆転現象と見なせば普通にあり得るし。そもそも私自身も含めて、ただ単に妄想状態にあるのかも知れませんからね」

「いや。ハルカに聞いたけど、君の予測され得るすべての未来のシミュレーション能力は大したものだよ。これぞ多世界解釈に基づく、量子コンピュータの理想的な活用方法だよな。別に僕が生体型量子コンピュータなんかを開発する必要なんてないんじゃないのか?」

「おほほほほ。お戯れを。未来予測を完璧になし得る私だからこそ、断言できるのです。我が一族の期待に添う生体型量子コンピュータを実現できる可能性があるのは、この世であなただけだと。それに私のことはさておき、ハルカお姉様があなたのことをあきらめられるはずがないではありませんか。どうすればあなたの目を覚まさせることができるかは、どうやら彼女のほうもお気づきのようですしね」

「僕の目を覚まさせるだと?」

 思わぬ言葉に怪訝な表情を浮かべる僕へと向かって漆黒のまなこに不敵な光を煌めかせながら、その巫女姫様は厳かに宣った。


「あなたがハルカお姉様がただの人間として存在しているために現状に満足して御研究に対する情熱を失ってしまっておられると言うのなら、どうしても生体型量子コンピュータを造らなければならない状況に追い込めばよろしいのですわ」


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「──私、決めたわ。この世界を滅ぼすって」

 その幼なじみの女子大生は僕の部屋を早朝いきなり訪ねてくるや、毅然と宣言した。


「……そうか」

 そんな突拍子もない言葉を寝ぼけ眼でベッドに腰かけたまま聞かされたというのに、僕の心は不思議なまでに落ち着き払っており、意外にも静かに受け容れることができた。

「おまえがそう決めたんなら、それでいいさ。元から僕なんかに止めることはできないんだしな。だけど忘れるんじゃないぞ。たとえこれまでの記憶をすべて失おうとも、また次の世界でもおまえのことを好きになって、今度こそ口説き落としてみせるからな」

「うふふふふ。ワタルらしいわね。それで最後に一つだけ、あなたにお願いがあるの」

「お願い?」

「ええ。この世界が終わる最後の瞬間まで、あなたと一緒にいさせて欲しいの」

「──なっ。ちょっと、ハルカ⁉」

 不意討ち気味に意味深なことを言いながら勢いよく僕へと抱きついてきて、そのまま共にベッドへ倒れ込む、世界の破壊者の女の子。

「……やっとわかったの。私はあなたに会うためだけに──そう。あなたの世界を滅ぼすためだけに、千の時を越えてこの時代に来たことを」

「ハルカ……」

「もう何も言わないで。ただこの瞬間ときだけは、私の想いを受け容れて」

 そう言うや僕の口元を塞ぐ、熱く濡れた桃花の唇。

 まさかこの最後の土壇場にきて、ハルカが僕への好意を素直に表してくれるなんて!

 最初は突然の事態の急展開に戸惑いはしたもののすぐさま歓喜のほうが上回り、彼女の華奢な肢体を力の限り抱き寄せる。

「あんっ」

「たとえ何度世界を丸ごと入れ替えられようが、けしておまえのことを忘れたりするものか! 今からおまえの心と身体にも、僕の想いのすべてを刻みつけてやるよ!」

「ああ、ワタル。嬉しい!」

 その時僕は自分の生命いのちを残らず彼女の胎内なかに注ぎ込むようにして、愛撫し続けた。

 ハルカと一緒なら、永遠の時の流れの中で朽ち果ててしまおうとも、構いはしなかった。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「……なあ。このままこの世界で、僕と暮らしていくわけにはいかないのか?」

 すべてが終わったあとの気だるい虚脱感に身を委ねながら、己の腕の中の愛しき幼なじみへとささやきかける。

「お願い。もうそのことは、言わないで……」

 そうだな。今さらせん無きことだったか。

「それで具体的にはどうやって、この世界を滅ぼすんだい? ひょっとして、何か専用の装置マシンとか特別な呪文とかが必要なのか?」

「いいえ。何もいらないわ」

 そう言うや一糸まとわぬ姿のままでベッドを降り立ち、脇の棚に置いてあった自分のポーチを手に取って、僕のほうを見下ろすようにして向き直る。

 あたかも聖母のごとき慈愛に満ちた笑顔の中で煌めいている、茶褐色の瞳ダークブラウン・アイズ

「簡単なことよ。元々未来からやって来た生体型タイムマシンである私こそがこの世界の中における唯一の『異物』だったのだから、私が消えてしまえば元通りの世界に戻れるというわけなの」

 そしてポーチの中から取り出した小ぶりのナイフを、ゆっくりと自分の首筋へと当てる。

「なっ⁉ ハルカ!」

 止める暇もあらばこそ、鮮血をほとばしらせながら崩れ落ちる華奢な肢体を慌てて抱き留めれば、すでに虫の息となっていた。

「ハルカ、しっかりしろ! ハルカ!」

「……馬鹿よね、私って。何度世界を入れ替えたところで、無駄なだけだったのに。トワちゃんが教えてくれたの。私が間違っていたことを。──そう。この私の存在こそが、すべての元凶であったことを」

 ……何……だっ……てえ……。

「私はこの時代に来て以来、理想的な未来を実現するための何よりの鍵である生体型量子コンピュータを一日でも早く開発してもらおうと、あの手この手を使ってあなたにアプローチしていったわ。自分にできることは何でもやったし、格好なパトロンも見つけてきた。でもあなたはそんな私の努力をよそに、何度世界を入れ替えようとも必ず研究を途中で投げ出してしまうばかりだった。それでも人類の運命を背負っている私はあきらめるわけにはいかず、幾度も幾度も世界の入れ替えを行い続けて、無駄な徒労を繰り返していったわ。そんな私の姿があまりに哀れに見えたのか、ある日過去や未来を含むすべての世界を視ることのできる、くだん一族の巫女姫であるトワちゃんが教えてくれたの。実はあなたが私に想いを寄せていて、私があなたの世界の中でただの人間の幼なじみとして存在していることに満足しているからこそ、研究への情熱を失ってしまうのだと。そう。皮肉なことにも本来存在する必要のなかった私がいたからこそ、あなたの研究はいつも必ず頓挫してしまっていたの。だからこの私さえ消えてしまえば、すべてはうまくいくというわけなのよ」

 ──っ。

「自分の存在を消すって、何だよそれ⁉ たとえ世界を丸ごと入れ替えようとも、新しい世界のほうにもちゃんと、おまえは存在しているんだろう⁉」

「ううん。多世界解釈とは違って他の世界の観測能力を持たない生体型タイムマシンである私は、それゆえに『自分の存在しない』世界とこの世界とを入れ替えることもできるの。つまりある意味これぞ私にとっての、唯一の『自殺プログラム』でもあるの」

「自殺プログラムだと⁉ つまりこれからいくら世界が入れ替わっても、もう僕はおまえに会うことはできないというのか? 自分から想いを伝えておいて、最後の最後で僕のことを捨てるつもりなのか⁉」

「……だったらお願い。あなたの手でKUDANを──生体型量子コンピュータを、実現化して。それこそが私たちがもう一度未来で出会うための、唯一の方法でもあるのだから」

 そう言い終えるや、僕の腕の中からまるで夢や幻であったかのように消え去る幼なじみ。

「ハルカ──‼」


 そう。その時彼女はまさしく、僕の世界を木っ端みじんに滅ぼしてしまったのだ。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「──いやいや。僕の世界は滅びたりしていないから。こうしてちゃんと存在しているから。勝手に木っ端みじんなんかにしないでくれよ!」

 僕こと関西かんさい屈指の名門きゅう大学物理学部学生あまワタルは、家庭教師の生徒であり大学における研究の出資者パトロンの御令嬢であり目下ステディの関係にもある、高校生の少女おんトワ嬢による別の世界の『例え話』とやらを聞き終えるや、堪りかねて抗議の声をあげた。

 しかし年上の男性の剣幕も何のその、真横のソファで密着するようにして座っている日本人形そのままの美少女は事も無げに、更なる珍妙な台詞を宣った。

「あら。確かに滅びてしまったではありませんか? あなたにとっての『ハルカお姉様がいた』という記憶セカイが」

 ……はあ?

「だからそもそもね、そのハルカさんとかいう幼なじみがいた覚えなんて、全然ないんだけど?」


「でしたらあなたはなぜ、涙をお流しになられておられるのですか?」


 え。

 慌てて目元に手を当てれば、確かに熱きしずくが幾筋も頬へと流れ落ちていた。

 何なんだいったいこの、何かとても大切なものをなくしてしまったかのような喪失感は。

「まさしくこれこそが、『世界を入れ替える』ということなのです。彼女はけして巷に溢れる三流SF小説なんかのようにこの世界の中で消え去ったり我々周囲の人間の記憶を操作したりしたわけでなく、世界そのものを丸ごと入れ替えることによって、『おんハルカ』なる人物がことにしてしまわれたのです」

 なっ⁉

「そんな馬鹿な。それじゃまさしく神業そのものじゃないか⁉ どこぞの駄目SFみたいに周囲の人間の記憶や認識を操作するほうが、よほど無理がないようにも思えるぞ?」

「そんなことはありませんわ。元々この現実世界に未来からのタイムトラベラーなぞが存在していたことのほうがおかしかったのです。例え話の中で彼女自身が言っていたように、むしろ元通りの状態に戻したようなものなのです」

「……ええとそれってもしかして、僕は『久遠ハルカ』という幼なじみが存在している長い夢を見ていて、目が覚めてその記憶をほとんど忘れ去ったあともかすかな夢の残滓によって、無自覚の喪失感に苛まれているようなものなのか?」

「まあ、まさしく言い得て妙ですわね。確かに世界の入れ替えとは極日常的な夢と現実との逆転現象に類するものであるからこそ、その現実性リアリティが守られているのですからね」

「何だよそれって。人に散々甘い夢を見せておいて、自分だけさっさと消え去ってしまって、変な喪失感だけを残して。つまり僕はこれから、いもしなかった幼なじみに対する未練だけを抱えて生きていかなきゃならないってわけなのか? 僕はもう二度と、彼女に会うことはできないと言うのか⁉」

 堪え切れぬやるせなさを吐き出すように悲痛に叫んだ、まさにその刹那であった。


「そうとも限りませんわ。だって彼女は今もなおちゃんと、こことは別の世界で生き続けておられるのですから」


 ……へ?

「ハルカが生きているって? いやでも、さっきの話では彼女は『自殺プログラム』とかいうのを使って、生体型タイムマシンとしては完全に消滅したのでは?」

 世界を恣意的に入れ替えることができた神様が、あえて『自分の存在しない世界』を選んで入れ替えたんだから、もう二度と世界が入れ替えられることはなく、この『神様のいない世界』が永遠に続いていくんじゃなかったのか?

「確かに世界というものは主観的にはあくまでも一つしか存在しませんが、客観的に見れば人の数だけ無数に存在しているのです。彼女にとってはこれまで自分がタイムトラベルするごとに無数の世界を滅ぼしてきたことになってますが、それぞれの世界の住人にとっては何ら変わりなく存続しているのであり、同様に私たちにとっては消えてしまったり最初から存在していなかったことになったハルカお姉様も、別の可能性としての世界ではちゃんと存在し続けているのです」

「別の可能性としての世界って……」

「一番わかりやすい例で申しますと、どうしても忘れがちになりますがそもそも彼女はのであって、現時点では消滅するどころか製造されてもおられずこれから生み出されるのであり、つまり間違いなくこれから先の未来には『彼女のいる世界』が存在することになるのです」

 あっ、そうか。

「もちろん他にも単純に彼女が自殺プログラムを使わなかった場合の世界等、数限りない可能性が存在しております」

「……いやでも、いくら彼女が生き続けていたって、そんな可能性としての世界なんて行く方法はないだろうが。つまり僕たちにとっては結局彼女は、最初から存在していなかったようなものじゃないのか?」

「何をおっしゃるのです。その不可能を可能に変えることこそが、あなたのお仕事ではありませんか?」

「はあ?」

「つまりあなたがあらゆる世界の観測能力と世界の入れ替え能力の両方を持つ生体型量子コンピュータを現実のものにすれば、もう一度彼女を取り戻すことも可能となるのですよ」

 ──‼

「いやいや。確かに僕は自意識を持った量子コンピュータを開発しようとは思っているけれど、存在し得る可能性のある並行世界をすべて観測したり、あまつさえ世界そのものを自由自在に入れ替えることができたりする、それこそSF小説もどきのミラクルマシンなんか造るつもりはないし、そもそも現在の科学力ではとても実現不可能だろうが⁉」

「いいえ、十分可能ですわ。私たち『くだん一族』の協力さえあれば」

「え?」

「御存じでしょうが我が一族には私のように夢の中限定とはいえ、過去や未来を含む存在し得る可能性のある世界を一度にすべて観測する力を持った娘が生まれることがあります。つまり私や私が将来産むことになる娘たちを『ベース』にして、その対となるハード的基本システムとしての量子コンピュータを有機的に合体させることによって、あらゆる世界の観測能力だけでなく世界の入れ替え能力をも併せ持つ、真に理想的な自意識を持った生体型量子コンピュータを生み出せる可能性があるのです」

「君や君の娘さんをベースにするって……」

「クローニングでも遺伝子操作でも、あなたのお好きなままになさって構いませんわ」

「なっ⁉」

 ……何で我が国指折りの名家のお嬢様が自ら、人身御供や人体実験になるようなことを申し出てくるんだ?

「うふふふふ。戸惑われるのも当然ですが、あなたがなさろうとしていることは我が一族の悲願でもありますの。千年来の朝廷直属の『さきみのつかさ』とも『くだん』とも呼ばれてきた久遠一族ですが、本家の娘が必ず未来予測の力を持って生まれるとは限らず、しかもその力自体も結局は夢見次第という不安定なものに過ぎません。特に現在のように電脳化が極度に発達した時代においては『呪術』など出る幕はなくなり、未来予測能力の安定化とシステム化はもはや避けては通れぬ道なのです。そこで注目いたしましたのが、あなたが将来実用化する可能性のある、生体型量子コンピュータ『KUDANクダン』だったのです」

「へ? そんなことをどこで知ることができたんだ? そもそも現時点で僕が実現を目指しているのはあくまでも自律型の量子コンピュータなのであって、人間をベースにした生体型にするとか名前をKUDANにするとかは決めてはいないんだけど?」

「ほほほ。これはしたり。私は『ときみの巫女姫』なのですよ? 未来の可能性を視ることなぞ、お手の物でございますわ」

 あ。

「しかも別の世界とはいえハルカさんの存在を確認した今となっては、KUDANに世界の入れ替え能力を生み出させることはもはや確定したも同然。あとはいかに早期に実現できるかだけなのです。そのためには資金援助であろうが私自身の人体実験であろうが、一族として協力を惜しむつもりはありませんわ」

「おいおい。世界の入れ替え能力などという神様同然の力を手に入れて、まさか久遠一族で世界征服でもたくらんでいるんじゃないだろうな⁉」

「逆ですわ。世界の未来を守るためにこそ、我が一族がKUDANを手にしなくてはならないのです」

「はあ?」

「ハルカさんの話によれば、未来の人々は先を見る目がなかったからこそ世界の行く末を見誤り、滅亡の危機に瀕してしまったとのこと。しかし我々『くだん一族』には未来予測の力があります。どのような行為によって未来が影響を受けるか、逐一『観測』することができます。つまり我が一族こそが生体型量子コンピュータを、この世で最も有効に使いこなせると言っても過言ではないでしょう」

 ……それは確かに、そうかも知れないけど。

「それに我々の協力があれば千年後の未来とは言わずあなたの御存命中にも、ハルカさん自身をKUDANかその派生タイプとして造り出すことができるかも知れませんよ? 何せ私は未来の可能性をすべて読み取ることができるのですから、余計な試行錯誤をすることなしに常に最も効率的な開発工程になるよう、御指示させていただくことも可能ですので」

「──!」

「つまり結果的にハルカさんはあなたと私たち一族との橋渡しをするために、この時代に来て数百回もの世界のやり直しをやっていたとも言えるでしょう。考えてみれば生体部分は私をベースに造られることになる彼女は、ある意味久遠一族の末裔とも見なせますしね」

 そ、そうか、そういうことだったのか。やはりハルカが久遠一族の一員としてこの時代に実体化したのは、偶然なんかじゃなかったんだ。

「さあ、どうなさいます? 結局最後はあなた御自身の意志次第なのですよ。我々の援助を快く受けてKUDANの実現化に邁進なされますか? それとももはや存在すらしていない幼なじみの幻影をいつまでも追いかけ続けるだけの、虚しい人生を歩まれますか?」

 そう言い終えるや鮮血のごとき深紅の唇をぴたりと閉じる、巫女姫の少女。

 つややかな長い黒髪に縁取られた端整な小顔の中で蠱惑に煌めいている、黒水晶の瞳。

 ……結局すべては、目の前の少女の作り話に過ぎないのかも知れない。

『ハルカ』などという女の子もこの世界以外の可能性としての世界なんてものも、最初からどこにも存在していなかったのかも知れない。


 けれどもこのえも言われぬ喪失感を埋めることができるというのなら、たとえそれが悪魔の誘惑であったとしても、僕には抗うすべなぞなかったのだ。

 

 そして僕は意を決し、彼女に向かって答えを返した。

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彼女が世界を滅ぼす時 881374 @881374

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