第四回 変転

 地面に、蟻の死骸が転がっていた。

 一匹。まるで黒い豆粒のように、丸くなっている。

 この蟻を殺したのは、三匹の同じ蟻だった。四匹が隊列を組んで歩いていると思いきや、三匹が突然襲い掛かって始末したのだ。まさに粛清である。その一部始終を、六平太は平伏したまま眺めていた。


(お前も、俺と同じか)


 それで、お前は何をした? どんな法度に背いたのだ?

 走狗いぬにも法度があるように、蟻には蟻の法度があるのだろう。様々なものに縛られ、与えられた僅かな自由の内で生きる。それが嫌だったのだな、お前も。

 三瀬山の山深く、常人の足では辿り着けない深山幽谷しんざんゆうこくの果てにある、背振衆の隠れ里。頭領おかしら・曲渕十伊斎の屋敷の裏庭だった。

 二日前に、栗尾川の河川敷で武家の主従を助けた事が十伊斎の耳に入ったらしく、翌日の夕暮れには源吾が現れたのだ。


「明日の朝、里に来いってさ。理由は、言わなくてもわかるよな?」


 そう言われた六平太は、やはりと思ったと同時に、あの武家主従を忌々しくも思った。きっと役人に報告し、それが巡り巡って十伊斎の耳に入ったのだろう。

 助けてやったというのに、と思わなくもないが、彼らにしてみれば、礼がしたいばかりのの行動で仕方のない事だった。


(逃げるか……)


 頭に過ったのは、抜け忍になる選択だった。しかし、抜け忍には熾烈な追跡と制裁が待っている。春江とつるを残せば、まず二人が犠牲になる。六平太は一度、抜け忍の末路を見た事がある。まず家族四人が捕らえられ、首を刎ねられた。その後に捕らえられた忍びは、筆舌に尽くしがたい拷問の果てに死んだ。

 逃げるなら、二人を連れていくしかない。しかし、妻子を連れた足では背振衆の追跡を逃れる事など不可能だ。となれば、呼び出しに従うしかない。

 返事もせずに考え込む六平太をよそに、源吾がこうも付け加えた。


「おっと、変な気は起こすなよ。一応言っておくが、頭領おかしらはお前をどうこうするつもりはねぇってさ。やはり、お前は運が良いぜ」


 これには驚いた。しかし、このままでは終わらない。何か必ずあるはずと、気構えをして隠れ里を訪れた。

 半刻、六平太は平伏したまま待たされていた。聞こえるのは、大瑠璃オオルリ小啄木鳥コゲラの囀りだけである。人の声は一切なかった。

 久し振りの隠れ里だ。十五になるまで、この里で育った。懐かしさが無いわけでもないが、今回はただの里帰りではない。法度を破った咎での呼び出しなのだ。だからか、胸に込み上げるものは驚くほど無かった。


「六平太、顔を上げぇ」


 気配より先に、声が降り注いできた。


「はっ」


 顔を上げると、縁側に老爺ろうやが一人だけ座っていた。

 まさに、唐土もろこしの仙人という名が相応しい、容貌だった。伸びきった蓬髪頭と、顎先に長い白い髭。僧侶の風体をしているが、坊主ではない。背振衆の頭領おかしら・曲渕十伊斎である。

 歳はわからない。六平太が子どもの頃から、この男は老人だったのだ。


「久し振りじゃのう、六平太」

「三年振り、と存じます」


 三年前の夏、十伊斎とは脇山城下の料亭で会った。さる商人を暗殺した時で、十伊斎はその様子を店の下男に変装して見ていたのだ。

 それ以降は会っていない。忍びとしての役目は、十伊斎の側近を通じて伝えられるので、余程ではない限り顔を合わせる事はなかった。


「ふむ。その間、ぬしは自らが忍びである事を忘れたようじゃの」


 来たか、と六平太は生唾を呑み込み、言葉を絞り出した。


「いや、左様な事は……」

「ほう。忍びのわざを許しもなく使ったと聞いたぞよ?」

「しかし、あそこで助けなければ、武士としての一分が……」


 すると、十伊斎は莞爾かんじとしてわらった。


「武士としての一分とな? ぬしは、己を武士と申したか」


 六平太は、返す言葉が見付からず、ただ深く平伏した。


「ぬかすのう。ぬしは、儂が人買いから購った潰れ百姓の子。実の親から売られた子よ。それが、武士の一分などとよう言えたものだ」


 そうだ。俺は、三つの時に背振衆の隠れ里に売られてきたのだ。

 背振衆は、忍びを育てる為に九州各地の貧農から子供を買っている。自分もその一人だった。隠れ里に来てからは、忍びの修行に励みながらも、武士として生きていく為の教育は受けたが、その血脈は百姓のままという事らしい。


「法度破りは厳罰じゃ。本来は木に吊るすか、目を潰して放逐するところじゃ」

「……」

「じゃが、今回はちと事情が込み入ってのう。ぬしを裁かぬが、新たな役目を授ける」


 やはり、何かあったか。六平太は、ゆっくりと顔を上げた。


「此度、ぬしが救った子じゃが、あれは御舎弟様、小田部民部様のご嫡男・九郎様であられる」


 思わぬ一言に、六平太は十伊斎を凝視した。

 十伊斎の細い目。皺に隠れて、閉じているのか開いているのかわからない。それでも、射貫くような視線は強烈だった。


(しかし、あの少年が)


 小田部九郎。民部が次期藩主に推し立てようとする神輿というわけか。

 無宿人に囲まれても、気丈に立ち向かおうとしていた。その胆力は、得難いものだ。藩主の器としては十分なものではないか。


「それでのう、御舎弟様がお前に礼をしたいらしい」

「礼など、とんでもない事。どうぞ、平にご容赦を」


 すると、十伊斎が扇子を六平太に投げつけた。それは六平太の額に直撃したが、動じずにただ目を伏せた。


「愚か者め。役目と言っておろう。巡りの悪い男じゃな」

「申し訳ございませぬ」

「これは、石浦和泉様直々のご下命じゃ。この伝手ツテを使って、御舎弟様の懐へ飛び込め。いいか、ぬしを罰せぬ代わりの役目という事を忘れるのではないぞ」

「かしこまりました」


 六平太は即答した。拒否という選択肢が、そもそも無い。背振衆の忍びは、この十伊斎の走狗いぬ。断れば、死が待っている。


「御舎弟様は、ぬしが背振衆である事は知らぬ。その点を努々忘れるなよ」

「はっ」

「事の次第では、ぬしの出世の糸口になるやもしれん。精々、励む事じゃ」




 小田部民部の使者が現れたのは、それから更に二日後だった。

 ちょうど、その日は非番だった六平太は、つるを連れて野遊びに出掛けていた。そして戻って来たところに、血相を変えた春江が庭先まで駆けてきたのである。


「おまえ様、またご失態を犯したのではありませんか?」


 どうやら、春江は使者の来訪を好意的に受け止めていないらしい。


「いや、心配する事はない。おそらく、礼を言いに来たのだろう」

「礼って、どうしておまえ様に?」

「実は椎原薬師堂に参拝した折、曲者に襲われている武家の主従を救った。その中の一人が、御舎弟様のご嫡子、九郎様だったのだ」


 すると、春江が目を丸くした。春江は六平太が、円明流を使える事は知っているが、無宿人を取り逃すという不始末依頼、その腕を信用していないのだ。


「何故、斯様な大事を言わぬのです」

「わざわざ言う事でもあるまいと思ってな」

「おまえ様が」

「そうだ。私が追い払ったのだ。なに、ただの礼だろう。心配するな」


 六平太は幾分か得意気になって、抱いていたつるを唖然としたままの春江に預けると、その肩を一つ叩いた。

 使者は客間で待っていた。その顔を見て、


「むう」


 と、六平太は小さく唸った。

 使者は、あの夜に見掛けた用人・小河粂之進だったのだ。

 粂之進が軽く会釈をした。見る限り六平太と同じ年頃のようだが、うだつのあがらぬ風体の六平太と違い、凛々しい顔立ちの好男子である。また皺ひとつない羽織袴を見れば、この男の神経質さが窺い知れる。何もかもが、六平太と正反対だ。

 互いに名乗り合うと、早速とばかりに粂之進が本題を切り出した。


「九郎様をお助け参らせたのは、貴殿か?」

「はぁ……、確かに」

「そうか。では何故、名乗らずに立ち去ったのだ?」

「名乗るほどの名でもなく、また名乗るほどの事もしておらぬ故でございます。それに、私のような者に助けられたとあれば、色々と差し障りがあると思いまして」


 私のような、という部分を強調した。それでこの男は因果を含むはずだ。


「我が殿が、貴殿に会いたいと申しておる」

「なんと。御舎弟様が?」


 内心しめた、と思いつつも、六平太は驚いてみせた。


「我が殿は、貴殿に礼をしたいそうだ。どうか、頼みをきいてもらいたい」

「左様でございますか。恐縮でございますが、御舎弟様のお呼びとあればお断わり出来ようはずもございません」

「よろしい。では、場所は追ってお知らせしよう。しかし……」


 そこで言葉を切り、粂之進は春江が出した茶に手を伸ばした。客が客だけに、茶葉の量も奮発している。いつもは、白湯のような茶なのだ。


「貴殿は不思議な人だ」

「私が?」

「失礼だが、貴殿について多少調べさせてもらった。かつて無宿人を不注意から逃がし、禄高を削られた上に今では牢屋敷で筆仕事。そこで場所を得ているとは言い難い。しかし、先日は鮮やかな手並みで、叩き伏せている」

「……」

「貴殿、同じ人間か?」


 粂之進の一言を六平太は笑って誤魔化したが、背筋には冷たいものを感じていた。




 民部との面会は粂之進が現れてから三日後、栗尾川に浮かべた屋形船の中で行われた。立ち合っているのは、粂之進一人だけである。

 民部は、小太りの男だった。歳は四十路で、色白で目は団栗のように小さく丸い。まるで大福餅のようで、武士というより大店の商人という雰囲気がある。

 その民部が六平太に銚子を差し出しながら、召し抱えたいと言い出した時には、思わず猪口を落としそうになった。


「私が、御舎弟様の家人に」

「左様。これなる小河に聞いたであろうが、おぬしの事は調べさせてもらった。腕もさる事ながら、勤め振りも真面目で申し分ない。是非、当家に来てはくれぬか」

「それは、勿体なきお言葉。しかしながら、私は一度勤めをしくじった身……」


 そう恐縮しながらも、六平太は内心でほくそ笑んだ。民部に近付く事が、新たに与えられた役目である。それに陪臣という身分になるが、今の倍近い禄高を提示された。


「なぁに、失敗しない人間など、この世にはおらぬよ。失敗し、学ぶ事で人間は成長するのではないかな? 事実、おぬしは牢屋敷奉行所での務めは、堅実なものだと庄崎が申しておったぞ。それは過去の過ちから学んだ事ではないのかな?」

「はぁ」


 庄崎兎毛にも、探りを入れていたのか。自分の知らない所で、大掛かりに動いていたと思うと、何だか背筋が薄ら寒い心地がする。


「実を申せば、我が家中に人材が欲しいのよ。おぬしも存じておろう? 儂と首席家老との軋轢は」


 六平太は、ゆっくりと頷いた。


「簀子、我が藩の現状をどう思う?」

「私のような小者に、政事の話は」

「ふふふ。まぁ、よかろう。今の藩内では、誰も石浦に物を言えぬ。失政こそ犯していないが、もし落ち度があっても、誰も奴を咎められぬ」


 確かに。石浦和泉は、藩執政府の陣容を子飼いで固めている。石浦がいなければ執政府入りが難しい身分の者が多く、故に石浦に向ける忠誠心も強いはずだ。

 民部は、その現状を変える為に、我が子を次期藩主に推しているのだろう。考えれば考えるほど、現状について疑問を持たざる得ない。


「そして、あの男は軽薄で領民を人とも思っていない。今回、羽根戸組に対して借り上げを科したのが何よりの証拠だな。奴は先人が結んだ盟約を破った。信義に背いたのよ」

「……」

「目立った失政はない。しかし、それも時間の問題だ。かの男は人間の情というものを理解しておらぬ。それでは藩士どころか、民百姓も苦しむ。そうは思わぬか、簀子」

「確かに」


 かつて六平太は、石浦を失政が無いだけましと思っていた。しかし、そう思う事で、考える事から逃げていたのだと今ではわかる。

 どうせ武士になる事はないというのも同じだ。諦める事で、努力する事から逃げていた。

 しかし、今ハッキリとわかる。戦わなければ、何も得られないと。


「大きな過ちを犯す前に、止めなくてはならぬ。これは私欲ではないぞ。全て御家と民百姓の為。即ち、石浦和泉を排す事が武士の責務なのだ」


 武士の責務。六平太は小窓から見える、夕焼けに目をやりながら、反芻した。


(全ては、御家と民百姓の為……)


 その一言が、六平太の心に突き刺さった。


〔第四回 了〕

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