第三回 武士の本分
その日、六平太は
二日前から熱を出したつるの病平癒を祈願する為に、薬師堂へ参拝するよう春江に頼まれたのだ。
朝早くに
「夕暮れ前には戻ってくださいましよ」
出立の時に、春江からそう念を押されたのだ。もとより、六平太は無用な寄り道をする事はない。それでも念を押したのは、つるの病状が思わしくないのと、春江も看病で疲れているからだろう。
敢えて言われんでもとは思うが、これを破ると、どんな仕打ちが待っているか知れたものではない。
椎原村との往復は、日帰りでやっとの距離があるが、女の足では一泊を要する。しかし、鍛え抜かれた忍びの足をもってすれば、昼過ぎの帰宅は容易い。かと言って、帰宅が早過ぎても、本当に参拝したのかと疑われてしまう。それも癪な話だ。
(どこかで時間を潰すしかないな)
結局、六平太は城下を目前とした、
晩春。最近めっきりと、汗ばむ日が多くなった。今日は天気も良く、汗を乾かす清らかな風もある。そんな中で、栗尾川の水量豊かな流れを見ていると、どうも釣りがしたくなる。
釣りは、六平太の唯一と言っていい愉しみだった。教えてくれたのは、義父の六助である。
「釣りは、魚との立ち合いでな。精神の修練になるぞ」
そう言っては、二人で出掛けたものだった。しかし、六助が死んで以降は、とんと竿を握ってはいない。春江がいい顔をしないのだ。禁止こそされてはいないが、
「餌代だって、馬鹿にはなりませんのよ」
と、釣りの準備をする六平太に向かって、嫌味を言う。ならせめて魚を釣って家計の足しにとは思ったが、春江は川魚が苦手だった。結局、何をしても春江の機嫌が悪くなる。だから、釣りをやめた。
暫く川面を眺めていると、男達が争う声が聞こえて来た。
只ならぬ殺気。六平太は反射的に立ち上がると、足音を立てずに気配がする方向へ駆けた。
武士の主従が、河川敷の拓けた場所で薄汚れた五人の男に囲まれていた。
五人は襤褸の着物を纏っていて、見るからに無宿人だった。それぞれが、思い思いの得物を手にしている。
不意に、無宿人が振り向く。六平太は忍びの習性に従い、背の高い草陰に身を潜めた。
(案外、勘が良いな……)
天明二年に発生した大飢饉は、東北で甚大な被害をもたらしたが、遠く離れたこの九州も、無傷ではなかった。脇山藩自体の被害は然程でもなかったが、近隣諸藩の損耗は大きく、逃散した百姓が無宿人となり脇山藩領に流入するという事が相次いでいる。町奉行所は、対策として無宿人狩りをしているが、目ぼしい成果を上げていない。
一方の武家主従は、老武士と元服前の少年の二人。よく見ると、若い中間が蹲っている。
剣呑な雰囲気である。恐らく、無宿人は追剥ぎ目当てなのだろう。城下に通じる橋はもっと北にあり、この辺りを通る者の姿は無い。あの二人の命運は既に尽きていると、六平太は思った。
(まぁ、俺には関係ない事だ)
襲われようが、そして死のうが知った事ではない。それに、忍びの
六平太は、身を翻しその場を去ろうとした時、老武士の呻き声が響いた。どうやら、角材で肩を打たれたらしい。老武士は刀を落として倒れ込むと、無宿人がすかさず刀を拾い上げた。
少年は十二か三ほどだろうか。遠目にだが、面皰で赤く腫れた顔が見える。
(あやつ、何故逃げぬ)
身体こそ震えているは、気丈にも無宿人を見据えている少年を見て、六平太は立ち去る足を止めた。
少年が、腰の脇差を抜き払った。無宿人達の顔に嘲笑が広がる。
「ガキに何ができる」
そんな声が聞こえた時、六平太は猛烈な羞恥心に襲われた。
年端もいかぬ子供に対し、俺は何をしているのか。忍びの
やはり、俺は
脳裏に春江とつるの顔が浮かぶ。夫として父として、胸を張って誇られる武士でありたい。
「糞っ」
六平太は舌打ちをして、素早く手拭いで頬かむりをした。
(やるしかない)
ここで見捨てては、俺は本当の武士にはなれない。武士のあるべき姿とは、主家に尽くし、弱き者を守る事。そして、俺にはその力がある。ならば。
(俺は武士でありたいのだ)
六平太は、立ち上がり猛然と駆け出した。無宿人達が、驚いて振り向く。目が合った。六平太はその顔に向けて、飛礫を二度放った。
鈍い音が響く。刀と匕首を持っていた二人が、相次いで倒れた。
「てめぇ」
手が刀に伸びる。それを、咄嗟に握り拳に変えた。
角材が迫る。六平太は鼻先で躱し、こめかみに掌底を放つと、白目を剥いて倒れた。
鳶口が、横から突っ込んで来た。遅い。所詮は素人だ。余裕を持って腕を掴み上げ、今度は顎に掌底を叩き込んだ。膝から崩れ落ちる。そのまま抱え上げ、背中から投げ落した。
残るは一人。匕首を捨て、転がっていた刀を手にしていた。六平太は、少年に目をやる。少年は頷くと、起き上がった老武士と中間と共に、後ろへと下がった。
「
六平太の言葉に、一人残った無宿人が黄ばんだ歯を剥き出しにして笑んだ。
悪党だ。六平太の経験が、そう直感させた。恐らく、人も殺したであろう。襤褸の着物にそぐわない、帯と軽衫。履物の下駄は、どこぞで奪ったものに違いない。
六平太は、心気を整えると、腰の一刀を抜き払った。
無銘だが、よく切れる。二尺八分と短いが、その方が六平太には合っていた。
「命は惜しくないのだな」
確かめるように言うと、男は鼻を鳴らした。
「俺はこれまで六人を殺った男だぜ。そして、お前で七人目だ」
六平太はその一言で、覚悟を決めた。
無銘を正眼に構えた。剣は、新横町にある
先に飛び込んで来たのは、男の方だった。大上段で振り下ろす。剣術の基本もなっていない。六平太は、それを弾くと、それだけで男の体勢は大きく崩れた。
その背を大きく蹴り飛ばす。男が転がったが、そこからの動きは敏捷で、起き上がり様に刀を突き出して来た。
六平太は身を翻して躱すと、すれ違いざまに首を刎ね飛ばした。
◆◇◆◇◆◇◆◇
六平太は、名を聞こうとする主従の前から逃げるように駆け去り、急いで桶川町の組屋敷に戻った。
「帰ったぞ」
そう一声を挙げても、応答は無い。
「全く仕方がないな……」
六平太は音を立てないように家に上って寝室を覗くと、差し込む夕日の中でつるが寝息を立てていた。春江も看病で疲れたのか、隣りで眠っている。
六平太は、つるの枕元に椎原薬師堂の札を置き、額に手をやった。
(熱は下がったようだな)
早速、お薬師様の効果が出たのだろう。
六平太は、二人の寝顔を眺めて、一つ頷いた。普段は口煩く小言を並べる春江も、寝顔だけなら愛らしい。
六平太は自室へ戻ると、畳の上に大の字になって身を横たえた。
背振衆の掟を、一つ破ってしまった。初めての掟破り。落ち着いてしまうと、耐え難い不安の波が押し寄せてくる。
忍びの
もし、今日の事が知られたら、厳しい制裁が待っている。良くて拷問、悪くて処刑。何度か、制裁を受けた忍びを見た事がある。首に縄を巻かれ、木に吊るされていた。そして、その身体は野鳥に啄まれ、やがて腐って地面に落ちる。
身体が震えた。六平太は、肩を抱くようにして、それを鎮めようとした。こうなる事はわかっていた。わかってもなお、武士たる務めを果たしたかった。
少なくとも、人として恥じぬ行為だったはずだ。春江にもつるにも、胸を張って自慢できる行為を、俺は為したのだ。
そう思っても、腹を括れるほど俺は強くはない。こんな思いをするぐらいなら、やはり見捨てるべきだった。
六平太は、大きな後悔と身悶えをする恐怖に耐えるしかなかった。
〔第三回 了〕
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます