第二回 溟い日日
深い溜息が聞こえ、六平太は朝餉を摂る箸を止めた。
空気が重くなる。恐る恐る視線を溜息が聞こえた方に向けると、妻の春江がこちらを見据えたまま、無表情で味噌汁を啜っていた。
無言だった。春江の隣りでは、一人娘のつるが、飯を手掴みにして食べている。春江は、それを注意する素振りも無い。
よく晴れた日だった。空には雲一つ無いというのに、何とも息苦しい。鈍重な雲に、家全体が覆われているかのような雰囲気だった。
「ご同輩のお内儀様に、お聞きしました」
春江の抑揚の無い一言に、六平太は居住まいを正した。
「磯部様が、ご昇進なされたそうですね」
「ああ」
「五石のご加増も受けたとか」
「そうみたいだな」
六平太は、そう言うと箸を置いて茶に手を伸ばした。
今日の朝餉は、飯に味噌汁、それに香の物。いつもと変わらないのだが、味噌汁には蜆が入っていて、これが昔からの好物だった。
しかし、今朝に限っては味を感じなかった。いや旨いのは旨いのだが、不機嫌な春江を前にしたら、味云々どころではない。
「おまえ様はどうなのです。ご出世しないのですか?」
「そうだな、私は」
そこで言葉が詰まり、仕方なく箸を再び動かす事で、紛らわそうとした。
「お話しの最中ですけど」
「おいおい。食事の最中ではないか。お前も、まずは食べなさい」
「わたくしは食べました」
即答。親しみの欠片も無い言葉に、六平太は苦笑を浮かべるしか術はない。
「笑い話ではございませんが」
「それは……その、すまん」
「磯部様は、これで四十五石になられました」
「そうなのか。随分詳しいな」
思わず口を衝いて出た言葉に、春江の眉間が一瞬ピクリと動いた。
「おまえ様。わたくしは、ご同輩のお内儀様から聞いたと申し上げましたが」
「そうだったな」
ムキになるのも無理はない。春江と磯部は幼馴染であり、かつては磯部に憧れていたそうなのだ。その話は、六平太が役目で失態を犯して禄高を削られた時、
「おまえ様ではなく、磯部様と一緒になれていたら、このような苦労もしなかったのに」
と、春江自身に聞かされたものだった。
「それはそうと、目下の者に随分と差を付けられました」
「元々、禄高は向こうが上だからな。下なのは歳だけだ」
「それは、おまえ様がお役目で失態を犯したからでは? そもそも当家と磯部様の御家とは、同じ禄高でございます」
返す言葉が無い。針のようにチクチクと刺す春江の詰問に、六平太はまさに針の筵である。
昔は、こうではなかった。春江は、可憐な少女だったのだ。義母の姪であり、初めて会ったその日から、六平太は春江に惹かれた。
しかし、それがいけなかった。女に惚れたのが、そもそもの間違いだったのだ。
亡き義父・六助が、女には惚れるなと言っていた。恋慕の情は自分を縛り、忍びとして悩む事になるのだと。
六助の戒律を破った結果が、この息苦しい現状だった。春江に惚れていなければ、小言も他人事として聞き流す事が出来る。しかし、そうではない。何を言われようと、春江を愛しているのだ。
だからこそ、可憐だった春江の豹変には、申し訳がなかった。原因がわかっているから、尚更だった。
貧乏が、春江を変えた。日々の暮らしが、春江を追い詰め小言を言わせているのだ。それを知っているからこそ、春江の嫌味に腹を立てる事なく耐えていられる。
(本当の姿を明かしたら、俺も春江も楽は出来るのだが……)
六平太は春江の話を聞きながら、内心で溜息を吐いた。
全てを偽っている。貧乏である事すら、偽りだった。
銭はあるのだ。忍び働きで蓄えたものは、それなりの額になっていた。しかし、その銭をおいそれと使う事は出来ない。もし、その銭で贅沢をしてしまえば、下級藩士の分を越えてしまい、その素性を怪しまれてしまうのだ。使うのは、精々年に一度。或いは身内が大病をした時ぐらいだ。暮しの糧として使う事は、背振衆の法度で禁じられている。
罪悪感しかなかった。隠れ里での修行に励んでいた頃、嘘の吐き方だけでなく、嘘を吐き続ける精神力の修練も積んだはずだった。しかし、女に惚れてしまった事が、全てを無にしたのかもしれない。
「すまない。だが、そのうち私も出世する。いや、必ず……」
六平太が声を絞り出すと、春江は鼻を鳴らして冷ややかな視線を向けた。
「必ずと申されましたか。そんな口約束を信じられるほど、わたくしは初心ではございません。では、お聞きしますが、三十路に入ったおまえ様に、何が出来るというのですか? どうやって出世するというのです」
「春江、私とて色々と考えているのだ」
「なるほど。それは、さぞ楽をさせてくださるのでしょう。では、出世する為の妙案が思い付いたら教えてくださいませ」
そう言い捨てて、春江が席を立った。
夫婦の関係は冷え切っている。閨に呼ばれる事もない。一度、忍んで布団にもぐり込んだが、拒絶されてしまい、それ以降は怖くて何も出来ないでいる。
(俺は何を恐れているのだ……)
背振衆の忍びとして、数々の修羅場を潜ってきた。公儀の隠密に追われ、三日三晩逃げた事もある。そんな俺が、女房一人の不機嫌に怯えている。春江が怖いのか。自分が傷つくのが怖いのか。このままでは、新たな子を授かる事も難しい。後継ぎは隠れ里から養子を迎える事になるとして、娘はあと一人か二人は欲しかったのだが。
「おしっこ」
つるが立ち上がり、台所から戻って来た春江に訴える。
「おまえ様?」
「おい、私はまだ食べているのだが」
すると、春江は大きな溜息を吐いた。
「厠に行った後に、また食べればよろしいのでは? わたくしは今日収めねばならない内職で忙しいのです」
内職をしているのは、稼ぎが悪いからに他ならない。背振衆としての役目とは言え、禄高を削られ、かつ二年前から五石の借り上げが実施されているので、実質は二十五石。春江が働くのは、親子三人で生きていく為で、それと思うとただただ申し訳ない。
「そうか。……そうだな、そうしよう。ほら、つる。父上が連れて行ってしんぜよう」
立ち上がり、つるに向かって手を広げると、無邪気な笑みを浮かべて飛び込んで来た。
「とと、とと」
そのまま抱え上げると、つたない言葉を発しながら、六平太の頬を摘まんで弄んでいる。
(お前だけが、俺の救いだな)
つるの柔らかな頬に顔を寄せると、六平太は厠に向かって歩き出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
一見して、平凡な一日が始まった。
大門町の牢屋敷奉行所に出仕した六平太は、早速とばかりに同心詰め所の文机に向かった。
六平太の主な役割は、牢屋奉行所で諸事の記録を残す、書き役である。囚人の素性は勿論、刑罰の実施、差し入れの記録、奉行所の収支などを帳面に残すのだ。
それ自体は退屈な役目であるが、牢屋奉行所内を内偵する六平太にとって、不寝番をせずに毎日出仕する書き役は、最適な役目である。奉行所としても、無宿人を取り逃した事がある男に、獄囚を監視する牢屋番役は任せられないのだろう。
背後では、四人の牢屋番役同心が談笑している。最初は不寝番を務めた同心からの引継ぎであったが、暫くして笑い話に、そして猥談に変わっていく。
こうした会話に、六平太が加わる事はまずない。六平太は、無口で付き合いが悪く、その上に筆仕事以外は駄目な男と思われているのだ。つまりは除け者で、奉行所内に親しく話すような者はいなかった。
六平太は筆を走らせながらも、自分の存在を一切無視したかのような馬鹿話に、静かに耳を傾けていた。
どんな馬鹿な話でも、いつ政事の話になっていくかわからない。昨夜の謀議も、こうした盗み聞きから仕入れた情報だったのである。
話題は、西牢の揚屋、いわゆる女牢についてに変わった。そこに美人の囚人がいて、何かと便宜を図る代わりに、お相手願いたいという品の無い話だった。
(くだらん話だ……)
それでも、聞かなければならないし、気が抜けない。彼らは、脇山藩にとって潜在的な敵なのである。
牢屋敷奉行である
羽根戸家は、戦国の御世に小田部家と筑前脇山の覇権を賭して激闘を繰り返した豪族で、太閤秀吉の九州征伐の際には、秀吉に臣従した小田部家に対抗して島津家に従い、降伏した後は秀吉の命令で、小田部家臣団に加えられた経緯がある。
羽根戸家の嫡流は、小田部姓を賜って一門衆となったが、代々の旧臣は〔羽根戸組〕として下級の藩士に組み込まれてしまった。
羽根戸家を優遇し、旧臣には貧しい生活を強いる。羽根戸家の主従が結びつかない為の一策だったのだろうが、それが羽根戸組の脇山藩に対する恨みを増幅させる事になってしまった。
そして事件が起きたのは、承応三年の五月。当時の首席家老だった
若者は一条寺に逃げ込むと、次々と藩庁の横暴に怒りを覚える羽根戸組の武士が集結し、いよいよ武装決起に至った。
決起した羽根戸組に対し、小田部姓に名を改めた旧主が説得に出向いても、当然聞く耳を持たない。
当時の幕府は、積極的に大名の改易を推し進めており、長期化による幕府の介入を懸念した執政府は、羽根戸組には借り上げを今後一切科さないと約束し、堀口を斬った若者に対しては、死罪ではなく放逐するという大胆な譲歩をする事で一応の決着を見た。それ以降、羽根戸組は執政府に警戒され続けている。
元々、町奉行同心だった六平太が牢屋奉行所へ役替えになったのも、表向きこそ役目上の失態だったが、本当は羽根戸組が石浦和泉に対して不満を抱いているという噂を受けての処置だった。
和泉は大変な倹約家で、羽根戸組に対する借り上げを科さないという取り決めを反故にして、他の藩士同様に五石の借り上げを実施したのだ。また、和泉の母が堀口家に繋がるというのも、羽根戸組の神経を逆なでする事になっていて、和泉を〔堀口の再来〕という者までいる。
その恨みようは大変なもので、実際に同僚の口から恨み節が漏れ聞こえた事もある。
その不満が後継者争いに結びつき、和泉と敵対する民部と繋がったのだろう。それに民部は、羽根戸組への借り上げに反対だった。
猥談に興じていた同心達が去ると、静かになった詰め所で、六平太は暫く筆仕事に集中した。今日中に提出しなければならない報告書が幾つかあるのだ。上役の与力が怠け者の為、面倒な仕事が容赦なく回ってくる。今でもその与力は、自分の御用部屋で大あくびをしている頃だ。
全てを書き終えた後、六平太は報告書を提出しようと兎毛の御用部屋を訪ねると、ちょうど部屋を出る磯部に出くわした。
「これは、簀子さん」
磯部は笑顔だった。元来、この男の性格は陽性だ。明るく溌溂としていて、腕も立つし頭も切れる。自分とは全く違う種類の男で、かつて春江が憧れていたのもわかる。
「磯部殿か」
「奉行に用事ですか?」
「ああ、これをね」
と、両手に抱えた文書の束を軽く掲げた。
「大変な量ですね」
「なぁに、慣れればどうというほどでもない」
「流石は、簀子さんだ」
と、磯部は白々しいほど目を丸くした。
「他の者は簀子さんを軽く見ていますが、私はそう思いませんよ。現にこの量をそつなくこなせる者が、この奉行所にどれだけいるか」
「いやいや、それは言い過ぎだ。私はこれしか出来ない男でね」
一応謙遜したが、褒められると嬉しくないわけでもない。しかし、磯部の物言いはどこか演技臭くて鼻白んでしまう。それに、軽く見ているなどと、よく本人の前で言えたものだ。
「何を仰います。ここの裏方は、簀子さんが支えてくれているようなものですよ」
そう言うと、磯部は軽く会釈して去っていった。
(どうも癪に障る男だ)
そう思うのは、春江がかつて憧れていたからか。
それにしても、最近よく兎毛は磯部を呼び出している。磯部は六平太同様に羽根戸組ではないのだが、その血筋は面白いものがある。
母方は、羽根戸組に連なる家系。そして、父方は小田部民部の用人を務める小河粂之進と親戚なのだ。
粂之進も磯部も、先日の謀議に出席している。もし反石浦の謀略が明らかになり、磯部が捕縛でもされたら、春江はどんな顔をするだろうか。春江にとって、磯部は成功の象徴。さぞや驚くに違いない。
(その日が楽しみだ)
暗い悦びで満たされた六平太の気分は、いつもより幾分か弾んでいた。
〔第二回 了〕
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