走狗(いぬ)のさだめ

筑前助広

第一回 密偵

 闇夜に、灯りが一つだけ見えていた。

 脇山藩わきやまはん城下から西に一里半。安楽平山あらひらやまの裾野にある、一軒の百姓家である。鬱蒼とした森に囲まれ、周囲には人家は無い。庭に僅かな畠と納屋があるぐらいだ。

 簀子六平太すのこ ろくへいたは、その百姓家を見渡せる茂みの中で身を伏せていた。

 梟の鳴き声。風が揺らす、草木の騒めき。人里離れた早春の夜は、肌を刺す山気と無限の静寂しかない。

 一刻と半、六平太はずっとこうしている。狐狸の類が傍を通っても、些かも動じる事はない。忍びとしての修練を重ねた六平太にとって、闇との同化は容易い事だった。

 ふと、小さなが、遠くで浮かんだ。提灯の灯りだ。人の歩みに合わせるように揺れながら、百姓家へ向かっている。

 三人目となる男の登場にも、六平太は動じないでいた。

 漆黒の忍び装束で身を固め、土や枯れ葉に紛れて気配を完全に消している。余程の手練れではない限り、こちらの存在に気付く事は万が一にも無いはずだ。

 じっと、男が近付いてくるのを待った。あの百姓家に集う者達の顔ぶれを確認し、頭領おかしらに報告をしなければならない。それが、六平太に与えられた役目だった。


(これだけで本当にいいのだろうか?)


 そう疑ってしまうほど、簡単過ぎる役目だ。誰かを殺すわけでも、何かを探り出すわけでもない。ただ、顔ぶれと人数だけを確認し報告すればいいのだ。物足りないような気もするが、役目に刺激や働き甲斐を求める性分ではない。楽ならその方がいいに決まっている。

 気配が近くなってきた。地面に伏したままの六平太は、息を殺した。

 冷たく湿った、土の感触と匂い。這いつくばる様は、まるで蚯蚓ミミズのようだ。

 これでも俺は武士なのか? とは思う。表向きは、三十石取りの牢屋敷同心である。だがその実、〔背振衆せふりしゅう〕と呼ばれる忍びだった。

 背振衆は、城下から遥か南に聳える三瀬山みつせやまの山中深くを本拠にする忍びの衆である。戦国の御世より忍びのわざを売り、強国が奪い合ってきた筑前で生き抜いてきた。泰平の世になると、脇山わきやまの大名となった小田部こたべ家にいち早く取り入り、今では諜報・調略の任を一手に担っている。

 その背振衆の命を受け、六平太は脇山藩士となり、家中の動向に目を光らせているのだ。

 忍びという身分を隠し、武士として生きる。それは父も祖父も、そして曽祖父も同じだった。つまり簀子家の当主は、代々背振衆の忍びなのだ。父や祖父達の働きで、腹を切った藩士は数知れない。六平太も、今までで二人を処罰させている。

 自分は走狗いぬなのだ。権力者の手先として駆け回る走狗いぬであり、仲間を売る裏切りの走狗いぬ


(いや、違うな……)


 裏切りにはあたらない。そもそもが、脇山藩士ではないのだ。如何に武士に化けようとも、忍びは忍び。武士の皮を被っているに過ぎない。

 それでも、闇に潜む事に忸怩たる想いに駆られるのは、心のどこかで武士として生きたいという渇望があるからだろう。

 家督を継ぎ、かりそめの脇山藩士となって十年が経つ。牢屋敷同心として藩の禄を食みながら、忍び働きを為す。それでも武士として生きる時間の方が圧倒的に長く、本当の自分はどちらなのかと、わからなくなる事がしばしばあった。

 足音。六平太は思考を断つと、闇の中で目だけを光らせた。


(あれは、磯部周作いそべ しゅうさくか……)


 夜目が利く六平太は、磯部の白磁のような美しく彫りが深い顔立ちを、容易に見定める事が出来た。

 磯部は、先月の初めに獄丁差配役ごくていさはいやくへ昇進し、加増を受けたばかりの牢屋敷同心である。六平太の四歳下の二十六歳でありながら、獄丁の支配を任されたのだから、大した男だと思っていた。


(もっと利口な奴だと思ったのだがな……)


 六平太は、軽く鼻を鳴らした。

 目の前の百姓家では、石浦和泉いしうら いずみの専横に対し異を唱える者の謀議が開かれている。その場に姿を現した磯部も反石浦派と考えてよい。

 石浦和泉は、筑前脇山藩七万石を統べる首席家老で、中興の祖と名高い先代藩主の小田部鎮宗こたべ しげむねに見出され、長く側用人として支えてきた男である。

 鎮宗が病で没すると、当然側近の和泉も隠居するものと思われていた。しかし和泉は隠居するどころか、首席家老となって藩政を掌握すると、執政府の陣容を子飼いで露骨に固めたのだ。また新たに藩主となった十七歳の小田部鎮成こたべ しげなりを、傀儡のようにも扱っている。

 目立った失政こそないが、ただの一人が長い間藩政を独裁し、まるで己が藩主のように振る舞う。そうした現状に、否と声を上げる者が多くなりつつあるのは確かだった。


(だとて、こんな事をして何になる……)


 百姓家へ消えていく磯部の背中を眺めながら、六平太は思った。

 六平太は、政事まつりごとに対して然したる興味も熱意も無かった。結局、誰が実権を握ろうと同じだという諦めがある。

 例えば和泉が失脚し、代わりに誰かが首席家老となっても、禄高が三十石から三百石になる事はないだろうし、背振衆を抜けて本当の武士になる事もない。誰がやっても同じ。むしろ大きな失政が無いだけ、和泉の方がましというものではないだろうか。だが、あくまでましと思うだけだ。結局誰がやっても同じだから、首席家老が和泉でなくてもいい。

 ただ政事への冷めた態度が、忍び働きには向いているとは自分でも思う。誰にも肩入れせず、何より余計な事を考えずに済むからだ。

 また灯りが見えた。今度は二人組。若い武士で、お納戸方を務める西方与五郎にしかた よごろう奥井肇おくい はじめ。その二人から幾らか離れて、牢屋敷同心の赤嶺太四郎あかみね たしろうが続いている。


(ほう、これはこれは)


 この男の登場には、六平太も些か驚かされた。赤嶺は老屋敷奉行所では古株の同心で、何かと世話をしてくれる気のいい男だった。子煩悩で、愛妻家でもある。赤嶺に役目の不始末を庇ってもらった者は数知れず、政事などに手を出す男には、到底見えなかったのだ。


(やはり、牢屋敷奉行所の者が多いな)


 いや、そうあってくれなければ困る。三年前、六平太は捕物の際の失態を名目に、町奉行所定町廻り同心から、牢屋敷同心へと役替えを受けていた。その失態というのは、人を殺した無宿人に不注意から逃げられたというものであるが、全て意図的にした事だった。

 藩に対し不満を持つ者が多い、牢屋敷奉行所に潜り込む為だ。この偽装を見破られないよう、実際に禄高を五石も削られてもいる。

 これらの命令は、背振衆の頭領おかしら曲渕十伊斎まがりぶち といさいから命じられたもので、この事を知っている者はほんの一部だ。故に牢屋敷奉行所へ移った時には、不本意な侮りを受けたものである。

 本当の自分を、誰にも明かす事は出来ない。背振衆の忍びである事は、藩の秘事。たとえ妻であっても明かす事は法度だった。

 赤嶺が百姓家に入ると、人の来訪は途絶えた。既に会合が始まったのだろう。中でどのような謀議が繰り広げられているのか? 気にならないわけではないが、それを探る事は六平太の役目ではない。六平太が十伊斎に命じられた事は、謀議に加わる顔ぶれと人数を確かめるだけなのだ。

 それに役目以外の事をすると、十伊斎の厳しい叱責が待っている。それで済めばいいが、時として処罰される事もあるのだ。

 背振衆の忍びは、十伊斎の走狗いぬでもある。言われた事だけを確実にしていれば、それでいい。

 四半刻後、また一つ提灯の灯りが闇夜に浮かんだ。

 足音は二人。提灯を持つ男は護衛だろう。しきりに背後を歩く男を気にしている。


(誰だ?)


 六平太は、風が吹いて木々が騒めいた瞬間に合わせて、膝を立てて首を伸ばした。

 しかし男は、宗十郎頭巾で顔を隠していた。六平太は歯噛みをした。この男、従者を連れている辺り、今まで姿を見せた者達とは、格段に身分が違う。顔を隠しているのが何よりの証拠で、かなりの大物に違いない。

 男が百姓家に辿り着いた。従者が戸を軽く叩く。何かの符牒のような叩き方だ。このままでは顔が確かめられない。そうなると百姓家に近付いて盗み見るしかないが、それは面倒だし危険でもある。

 舌打ちをしそうになった次の瞬間、男が自らの頭巾に手を掛けた。露わになった顔。こちらに向き、六平太は慌てて身を潜めた。


(見られたか?)


 背に冷たいものが流れるのを感じたが、男はどうやら周囲を見渡しただけだった。


(しかし、あの顔。もしや……)


 六平太は、思わず声に出しそうになり、慌てて口を噤んだ。

 小河粂之進おごう くめのしん。和泉に対して反感を抱いていると噂される、先代藩主の弟・小田部民部こたべ みんぶの用人である。

 民部は鎮宗の末弟で、山間の十柳庄とおやなぎしょうに五千石を領した一門衆である。藩政には口を出さないが領内の仕置きは委ねられていて、〔御舎弟様〕と呼ばれている男だった。

 その民部の用人が、謀議に姿を現す。やはり、和泉に反感を抱いている一派を民部が使嗾しそうしているという話は本当だったのだ。

 粂之進が従者と共に百姓家の中に消え、六平太は緊張を解いた。


(しかし、反石浦派は丸裸だな)


 この役目に入る前に、十伊斎から顔を覚えておけと命じられた男が粂之進だったのだ。つまり、この男は反石浦の重要人物だと目され、まんまと尻尾を掴まれた。このようでは、反石浦派の動きも長くはないだろう。全ては和泉の掌の上。小屋の中にいる連中は、そんな動きも知らずに律儀に話し合っている。

 暗い悦びが六平太の中に広がり、伏した顔に笑みが浮かんだ。

 その時、風が吹いた。生温い風の中に、あるかなきかの獣臭を覚えた。

 背後からの気配。そして足音。落ち葉を踏みしめる音は、獣のもののように聞こえる。

 並みの者なら、鹿か猪と勘違いするであろう。しかし、これは人である。獣に偽装しているのだ。


(さて、どうする)


 一瞬だけ迷ったが、六平太は音もなく立ち上がると、跳躍して大木の枝に飛び移った。


「俺だ」


 そこで、で男が待っていた。同じ背振衆の芦刈源吾あしかり げんごである。

 この源吾は、六平太と同年配で、数少ない背振衆での知り合いだった。

 背振衆は、横の繋がりが薄い。集団で働く事が滅多になく、多くても三人か四人程度だ。

 お役目で他の忍びと組んだ時に、


「お前も背振衆だったのか」


 と、驚く事も多々あるほどで、普段は武士や町人になりきって暮している。

 そうした背振衆の中で、源吾は主に忍びの働きを監視する物見役として働いていた。この役に就けるのは十伊斎の身内だけで、源吾は十伊斎の娘婿だった。


「あの足音はお前か?」

「いや、俺じゃねぇよ。誰だかわかんねぇが、相手側にも勘のいい忍びがいる」

「そうなると、いつまでもここに留まるのは危険だ」

「だがよ、六平太。お前、役目は果たしたんだろうな?」

「当たり前だ」


 六平太も源吾も、口を殆ど動かさずに話す、〔忍び語りの術〕を用いての会話だった。


「なら、ここらが潮時ってもんだ」


 二人は同時に頷くと、木々の枝を伝って安楽平山の森を抜けた。


「頭領への報告は俺がしておく」


 宇賀神社うがじんじゃの杜で足を止めると、源吾が口を開いた。駆けながら、六平太は謀議に参加した顔ぶれと人数を告げていた。忍びとして厳しい修練を重ねているので、このぐらいは朝飯前である。


「しかし、小河粂之進がいるとなりゃ、手柄になるな。今夜の謀議だって、お前の報告からわかった事だしよ」

「運が良いだけだ。何も、俺の手柄じゃない」

「運も実力の内と言うぜ。しかし小河がいるって事は、あの噂もあながち嘘じゃねえかもな」

「反石浦派を焚きつけているというあれか?」

「相変わらず、お前さんは、政事に興味が無いんだな。御舎弟様は自らの子をお殿様の世継ぎにしようをしてんだよ」

「それは本当か?」

「単なる噂かもしれねぇ。だが、政事ってもんは、嘘も本当になるし、その逆も然りさ」


 確かに、あり得ない話でもない。鎮成は生来の病弱で、寝込む事もしばしばあるらしい。当然ながら子は未だおらず、もしもの場合の世継ぎは僅か四歳の弟はいるものの、正式には定められていない。そこで我が子を藩主に推し立てれば、民部は藩主の父として大権を握る事が出来る。


「おっと、忍びにゃ長話は厳禁だ。早く帰ってやれ。女房と娘が待っているぜ」

「ああ」


 妻の春江はるえの顔が浮かび、六平太は溜息交じりになる返事を止められなかった。娘のつるは兎も角、春江は待っていない。それだけの夫婦関係に陥ってしまっている。

「何だよ、しけたツラすんじゃねぇよ。お前は腕はいいのに、一々考え過ぎる所がいけねぇ。お前の爺さんも親父さんも凄腕だったと言うじゃねぇか」

「生憎、俺は養子でね。親父とは血縁はない」


 六平太は、背振衆の隠し里から迎えられた養子だった。初めて父の六助に会ったのが八つの時で、簀子家に入ったのが十四の時だった。表向きは、他藩に仕えている遠縁の子という事になっている。

 それは、義父である六助に男児に恵まれなかったという事ではない。簀子家は、代々男児は産まれない事になっているのだ。産まれても、素早く間引かれてしまう。間引くのは背振衆から遣わされる産婆で、母親には死産として伝えられるのだ。これも全て、背振衆の隠れ里から養子として後任の忍びを迎える為、簀子家が帯びる家中の監視という役目を果たす為だった。


「そういう所さ、お前の欠点は」

「直そうとは思うんだがな」

「相談があるならいつでも来な。銭以外なら相談に乗るぜ」


 そう言って源吾が駆け去ると、六平太も家路へと向かった。


(疲れた……)


 走狗いぬの巣穴。その呼び方がぴったりな我が家へ帰ると思うと、その足取りが鉛のくびきで繋がれたように重くなっているのがわかった。

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