走狗(いぬ)のさだめ
筑前助広
第一回 密偵
闇夜に、灯りが一つだけ見えていた。
梟の鳴き声。風が揺らす、草木の騒めき。人里離れた早春の夜は、肌を刺す山気と無限の静寂しかない。
一刻と半、六平太はずっとこうしている。狐狸の類が傍を通っても、些かも動じる事はない。忍びとしての修練を重ねた六平太にとって、闇との同化は容易い事だった。
ふと、小さな
三人目となる男の登場にも、六平太は動じないでいた。
漆黒の忍び装束で身を固め、土や枯れ葉に紛れて気配を完全に消している。余程の手練れではない限り、こちらの存在に気付く事は万が一にも無いはずだ。
じっと、男が近付いてくるのを待った。あの百姓家に集う者達の顔ぶれを確認し、
(これだけで本当にいいのだろうか?)
そう疑ってしまうほど、簡単過ぎる役目だ。誰かを殺すわけでも、何かを探り出すわけでもない。ただ、顔ぶれと人数だけを確認し報告すればいいのだ。物足りないような気もするが、役目に刺激や働き甲斐を求める性分ではない。楽ならその方がいいに決まっている。
気配が近くなってきた。地面に伏したままの六平太は、息を殺した。
冷たく湿った、土の感触と匂い。這いつくばる様は、まるで
これでも俺は武士なのか? とは思う。表向きは、三十石取りの牢屋敷同心である。だがその実、〔
背振衆は、城下から遥か南に聳える
その背振衆の命を受け、六平太は脇山藩士となり、家中の動向に目を光らせているのだ。
忍びという身分を隠し、武士として生きる。それは父も祖父も、そして曽祖父も同じだった。つまり簀子家の当主は、代々背振衆の忍びなのだ。父や祖父達の働きで、腹を切った藩士は数知れない。六平太も、今までで二人を処罰させている。
自分は
(いや、違うな……)
裏切りにはあたらない。そもそもが、脇山藩士ではないのだ。如何に武士に化けようとも、忍びは忍び。武士の皮を被っているに過ぎない。
それでも、闇に潜む事に忸怩たる想いに駆られるのは、心のどこかで武士として生きたいという渇望があるからだろう。
家督を継ぎ、かりそめの脇山藩士となって十年が経つ。牢屋敷同心として藩の禄を食みながら、忍び働きを為す。それでも武士として生きる時間の方が圧倒的に長く、本当の自分はどちらなのかと、わからなくなる事がしばしばあった。
足音。六平太は思考を断つと、闇の中で目だけを光らせた。
(あれは、
夜目が利く六平太は、磯部の白磁のような美しく彫りが深い顔立ちを、容易に見定める事が出来た。
磯部は、先月の初めに
(もっと利口な奴だと思ったのだがな……)
六平太は、軽く鼻を鳴らした。
目の前の百姓家では、
石浦和泉は、筑前脇山藩七万石を統べる首席家老で、中興の祖と名高い先代藩主の
鎮宗が病で没すると、当然側近の和泉も隠居するものと思われていた。しかし和泉は隠居するどころか、首席家老となって藩政を掌握すると、執政府の陣容を子飼いで露骨に固めたのだ。また新たに藩主となった十七歳の
目立った失政こそないが、ただの一人が長い間藩政を独裁し、まるで己が藩主のように振る舞う。そうした現状に、否と声を上げる者が多くなりつつあるのは確かだった。
(だとて、こんな事をして何になる……)
百姓家へ消えていく磯部の背中を眺めながら、六平太は思った。
六平太は、
例えば和泉が失脚し、代わりに誰かが首席家老となっても、禄高が三十石から三百石になる事はないだろうし、背振衆を抜けて本当の武士になる事もない。誰がやっても同じ。むしろ大きな失政が無いだけ、和泉の方がましというものではないだろうか。だが、あくまでましと思うだけだ。結局誰がやっても同じだから、首席家老が和泉でなくてもいい。
ただ政事への冷めた態度が、忍び働きには向いているとは自分でも思う。誰にも肩入れせず、何より余計な事を考えずに済むからだ。
また灯りが見えた。今度は二人組。若い武士で、お納戸方を務める
(ほう、これはこれは)
この男の登場には、六平太も些か驚かされた。赤嶺は老屋敷奉行所では古株の同心で、何かと世話をしてくれる気のいい男だった。子煩悩で、愛妻家でもある。赤嶺に役目の不始末を庇ってもらった者は数知れず、政事などに手を出す男には、到底見えなかったのだ。
(やはり、牢屋敷奉行所の者が多いな)
いや、そうあってくれなければ困る。三年前、六平太は捕物の際の失態を名目に、町奉行所定町廻り同心から、牢屋敷同心へと役替えを受けていた。その失態というのは、人を殺した無宿人に不注意から逃げられたというものであるが、全て意図的にした事だった。
藩に対し不満を持つ者が多い、牢屋敷奉行所に潜り込む為だ。この偽装を見破られないよう、実際に禄高を五石も削られてもいる。
これらの命令は、背振衆の
本当の自分を、誰にも明かす事は出来ない。背振衆の忍びである事は、藩の秘事。たとえ妻であっても明かす事は法度だった。
赤嶺が百姓家に入ると、人の来訪は途絶えた。既に会合が始まったのだろう。中でどのような謀議が繰り広げられているのか? 気にならないわけではないが、それを探る事は六平太の役目ではない。六平太が十伊斎に命じられた事は、謀議に加わる顔ぶれと人数を確かめるだけなのだ。
それに役目以外の事をすると、十伊斎の厳しい叱責が待っている。それで済めばいいが、時として処罰される事もあるのだ。
背振衆の忍びは、十伊斎の
四半刻後、また一つ提灯の灯りが闇夜に浮かんだ。
足音は二人。提灯を持つ男は護衛だろう。しきりに背後を歩く男を気にしている。
(誰だ?)
六平太は、風が吹いて木々が騒めいた瞬間に合わせて、膝を立てて首を伸ばした。
しかし男は、宗十郎頭巾で顔を隠していた。六平太は歯噛みをした。この男、従者を連れている辺り、今まで姿を見せた者達とは、格段に身分が違う。顔を隠しているのが何よりの証拠で、かなりの大物に違いない。
男が百姓家に辿り着いた。従者が戸を軽く叩く。何かの符牒のような叩き方だ。このままでは顔が確かめられない。そうなると百姓家に近付いて盗み見るしかないが、それは面倒だし危険でもある。
舌打ちをしそうになった次の瞬間、男が自らの頭巾に手を掛けた。露わになった顔。こちらに向き、六平太は慌てて身を潜めた。
(見られたか?)
背に冷たいものが流れるのを感じたが、男はどうやら周囲を見渡しただけだった。
(しかし、あの顔。もしや……)
六平太は、思わず声に出しそうになり、慌てて口を噤んだ。
民部は鎮宗の末弟で、山間の
その民部の用人が、謀議に姿を現す。やはり、和泉に反感を抱いている一派を民部が
粂之進が従者と共に百姓家の中に消え、六平太は緊張を解いた。
(しかし、反石浦派は丸裸だな)
この役目に入る前に、十伊斎から顔を覚えておけと命じられた男が粂之進だったのだ。つまり、この男は反石浦の重要人物だと目され、まんまと尻尾を掴まれた。このようでは、反石浦派の動きも長くはないだろう。全ては和泉の掌の上。小屋の中にいる連中は、そんな動きも知らずに律儀に話し合っている。
暗い悦びが六平太の中に広がり、伏した顔に笑みが浮かんだ。
その時、風が吹いた。生温い風の中に、あるかなきかの獣臭を覚えた。
背後からの気配。そして足音。落ち葉を踏みしめる音は、獣のもののように聞こえる。
並みの者なら、鹿か猪と勘違いするであろう。しかし、これは人である。獣に偽装しているのだ。
(さて、どうする)
一瞬だけ迷ったが、六平太は音もなく立ち上がると、跳躍して大木の枝に飛び移った。
「俺だ」
そこで、で男が待っていた。同じ背振衆の
この源吾は、六平太と同年配で、数少ない背振衆での知り合いだった。
背振衆は、横の繋がりが薄い。集団で働く事が滅多になく、多くても三人か四人程度だ。
お役目で他の忍びと組んだ時に、
「お前も背振衆だったのか」
と、驚く事も多々あるほどで、普段は武士や町人になりきって暮している。
そうした背振衆の中で、源吾は主に忍びの働きを監視する物見役として働いていた。この役に就けるのは十伊斎の身内だけで、源吾は十伊斎の娘婿だった。
「あの足音はお前か?」
「いや、俺じゃねぇよ。誰だかわかんねぇが、相手側にも勘のいい忍びがいる」
「そうなると、いつまでもここに留まるのは危険だ」
「だがよ、六平太。お前、役目は果たしたんだろうな?」
「当たり前だ」
六平太も源吾も、口を殆ど動かさずに話す、〔忍び語りの術〕を用いての会話だった。
「なら、ここらが潮時ってもんだ」
二人は同時に頷くと、木々の枝を伝って安楽平山の森を抜けた。
「頭領への報告は俺がしておく」
「しかし、小河粂之進がいるとなりゃ、手柄になるな。今夜の謀議だって、お前の報告からわかった事だしよ」
「運が良いだけだ。何も、俺の手柄じゃない」
「運も実力の内と言うぜ。しかし小河がいるって事は、あの噂もあながち嘘じゃねえかもな」
「反石浦派を焚きつけているというあれか?」
「相変わらず、お前さんは、政事に興味が無いんだな。御舎弟様は自らの子をお殿様の世継ぎにしようをしてんだよ」
「それは本当か?」
「単なる噂かもしれねぇ。だが、政事ってもんは、嘘も本当になるし、その逆も然りさ」
確かに、あり得ない話でもない。鎮成は生来の病弱で、寝込む事もしばしばあるらしい。当然ながら子は未だおらず、もしもの場合の世継ぎは僅か四歳の弟はいるものの、正式には定められていない。そこで我が子を藩主に推し立てれば、民部は藩主の父として大権を握る事が出来る。
「おっと、忍びにゃ長話は厳禁だ。早く帰ってやれ。女房と娘が待っているぜ」
「ああ」
妻の
「何だよ、しけた
「生憎、俺は養子でね。親父とは血縁はない」
六平太は、背振衆の隠し里から迎えられた養子だった。初めて父の六助に会ったのが八つの時で、簀子家に入ったのが十四の時だった。表向きは、他藩に仕えている遠縁の子という事になっている。
それは、義父である六助に男児に恵まれなかったという事ではない。簀子家は、代々男児は産まれない事になっているのだ。産まれても、素早く間引かれてしまう。間引くのは背振衆から遣わされる産婆で、母親には死産として伝えられるのだ。これも全て、背振衆の隠れ里から養子として後任の忍びを迎える為、簀子家が帯びる家中の監視という役目を果たす為だった。
「そういう所さ、お前の欠点は」
「直そうとは思うんだがな」
「相談があるならいつでも来な。銭以外なら相談に乗るぜ」
そう言って源吾が駆け去ると、六平太も家路へと向かった。
(疲れた……)
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