一次落ち。評価シートなし。
凍えるように冷たい烈風が《アイレイド》を基点に吹き乱れる。俺は咄嗟に左腕で顔を覆った。視界が閉ざされる刹那の間に見たのは、氷片を孕んだ風に金糸が拒絶される光景だった。防御魔術か、それとも攻撃の前段階か。どちらにしろ、俺の攻撃は届かなかった。再度攻撃しようとして《アイレイド》が右腕を上げていることに気がついた。背筋に嫌な汗が噴き出す。疾走しようとした梓を手で制し、俺は上着の内側からあらたな《魔退練具》を引き抜いた。
「起きろ《柘榴石の涙(カーバンクル・クライ)》」
それはコルクで閉められた試験管に入っている粘度の高い液体だった。色は鮮血。
まだ、このタイミングじゃない。相手の攻撃、その発射基点を待て。
「燃えよ業火。汝は氷を融かす者なり、汝は熱き血潮を滾らせる者なり」
魔物の右腕に膨大な魔力が集約する。地面には霜が降り、俺の息は白くなっていた。どれほどの冷気か。眼前に台風が迫っているかのようだった。そして、来る! 虚空に出現したのは長大な氷の槍だった。まるで、水晶のように透明で、電柱と同等の大きさを誇る。
先のアイアンゴーレムなら一撃で粉砕されるだろう狂気が、放たれる。
迫る氷槍を前に、俺は呪文を唱えきる。同時、試験管を地面に叩きつけた。赤い液体が飛び散り、
「汝は我が身を守る者なり!」
急速に燃焼した。冷気に凍えた俺の身体に熱が取り戻される。煉獄の顕現とも見間違う紅蓮の炎が身の丈をゆうに超え、厚い壁となり、敵の攻撃を真っ向から受け止めた。互いに高密な魔力の塊。二色の相反する魔力が互いを塞き止め合い、拮抗する。
だが、それも数秒。すぐに炎は掻き消えてしまった。
氷槍は二回りほど小さくなったが、速度は変わらず、なおも襲いかかってくる。
「《曙光の導き(サニー・フレア)・三姉妹(シスターズ)》!!」
金糸を一点に集中させ、氷の殺意を受け止め、強引に上に逸らした。見当違いの方向に飛んでいった槍が地面に落下、校舎の影を縫いとめる。
右腕に激痛が走る。衝撃を吸収しきれず、手首を痛めてしまった。
不味い。今攻撃を喰らったら、防御が。
そのとき、鮮烈な声が戦場に届く。
「《契約式解錠(リコード・レセクタ)。レベル二十(レイベ・トーエルス)。解放を命じる(ヨーウィス・ザン・レイゼル)》!」
魔人の咆哮を、俺は初めて聞いた。天から降り注いだのは鮮やかなオレンジ色の炎だった。俺が発動させた《柘榴石の涙(カーバンクル・クライ)》など、児戯だと笑うかのような圧倒的な爆炎。
場が炎上するかのようだった。しかし、炎は俺と梓、そして校舎も焦がさない。これだけ近いというのに、まるで熱を感じなかった。凄まじいまでの魔力制御である。
そう、熱を持たない炎が心を焦がす。魔物と俺達の前に割って入り、火炎の奔流を造り出してあろう背中に、俺は見覚えがあった。それも今朝にあったばっかりだった。
「……セシリア・F・アンブラー」
そう言ったのは梓だった。
火炎の魔女は、首だけをこちらに曲げ、優雅に微笑む。
「退屈していましたの。少し、まぜてくらさいな」
俺がなにか言うよりも先に梓がずかずかとセシリアに詰め寄る。
「あれは私の獲物だ。邪魔をするな」
「あら。和也さんに守られていたのに傲慢ですこと」
「な、なんだと! お前こそ横から出しゃばるな!!」
おい、こんなところで喧嘩は止めろよ。まだ敵は生きてんだぞ。
セシリアが一歩の跳躍で大きく後退し、俺の隣で着地する。おいおい、十メートル以上の距離を軽々と跳ぶなんて。梓と同じく接近戦タイプってわけじゃなさそうなのによ。
火炎の壁が、それよりも高い位置から津波となって押し寄せた冷気に飲み込まれてしまう。
「あら、なかなかやりますこと」
「呑気に言っている場合か? お前こそ、後ろにいろ」
「だから喧嘩するなって」
梓と仲が悪いのはひっかかるが、ありがたい。学園でも有数の実力者であるセシリアの存在はなんとも心強かった。彼女の《魔退練具》は右手に握られてある銀の杖なのだろう。全長は七十センチほど、恐ろしく美しい装飾がほどこされている。
杖本体は真っ直ぐな円柱であり、ラテン語による術式が刻まれている。そして、半ばから先端にかけて蕾が花開くように宝石が散りばめられている。ルビーの薔薇に、エメラルドの菫、ダイヤモンドの椿。金の細工まである。
宝石は自然界の産物であり、魔力を通し易い。そして、杖全体を複雑精緻な魔術的意味が覆い尽くしていた。
俺もエメラルドの原石を加工し、八角形にしたことがある。
エメラルドは光にかざすと白に限りなく近い黄色の光を反射させる。古代のエジプトでは、この鉱石を『太陽の破片』と信じていた。
そして、八とは太陽の記号化である。この二点から太陽の光を借り、魔物を浄化させる《魔退練具》が完成する。
彼女の杖には、いったい、どれだけの概念が込められているのか。
「俺が隙をつくる。梓は接近戦、セシリアはこいつの補助。それでいいな?」
彼女がすぐに《アイレイド》を倒さなかったのか、一人では不利だと悟ったからだろう。
俺の予想は当たったようだ。セシリアと梓が顔を見合わせ、
「別に、構いませんけど」
唐紅の少女が気品高く胸に手を当て、
「私も、構わない」
刃鉄の少女も小さく頷く。敵さんの方は様子をうかがっているようだ。セシリアの登場に、驚いているのかもしれない。
「じゃあ、始めるぞ」
俺は新たに《魔退練具》を取り出す。それは、もう一本の《柘榴石の涙(カーバンクル・クライ)》だった。
コルクを抜き、血のように真っ赤な液体を右手に垂らす。地面には一滴も落ちなかった。
まるで蛭のように《曙光の導き(サニー・フレア)・三姉妹(シスターズ)》へ汁が伝い、金色の円環が真っ赤に染まっていく。
「……それは、まさか《結合魔術(デュアル・マジック)》?」
セシリアの目が驚愕で見開かれる。だが、まだ驚いてほしくないな。魔術はまだ、完成していないんだからよ。
俺は右腕を天にかかげ、一気に振り下ろす!
「歌え烈火。汝らは熱き血潮を滾らせる者なり! 汝らは悪を許さぬ者なり! 応報を告げよ。我が名に応えよ。汝らの創造主たる霧裂和也が役目を与える。存分に敵を喰らえ!」
地面を這う金糸が、俺の指先を基点にして爆発的な速度で膨れ上がった紅蓮の衣を纏った。氷雪の魔物に有効打となる火の
さらには、形を持たない炎を形状化させることで、魔力の密度を高め、飛躍的に威力を増大させる。
母さんはよっぽど俺を《送還士》にしたかったらしい。お陰で、幾つかの技を覚えてしまった。
「Sei hutaomkoha!!」
魔物が数百の氷礫を生み出し、俺らを蜂の巣にしようとする。しかし、火炎の糸が尽く攻撃を叩き落とし、防いでいく。おいおい、綺麗な顔を苦渋に染めるなよ。
「セシリア、梓」
「言われなくても」
「わかっている!!」
あれ、こいつらって意外と仲良しかも。と俺が小首を傾げたときには既に、二人が疾走していた。
「《契約式解錠(リコード・レセクタ)。レベル二十五(レイベ・トーエルデ)。解放を命じる(ヨーウィス・ザン・レイゼル)》!」
杖から射出されたのは特大の炎弾だった。昨夜の俺が撃った魔術よりも巨大だ。同士討ちを避けるため、俺は糸を引っ込める。
俺との攻防に意識を向けられていた《アイレイド》の反応がわずかに遅れる。氷の障壁を前方に展開するも間に合わない。
魔物へ火罰が直撃した。
「KiiiLllliiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii!!」
金属同士が擦れ合うような魔物の悲鳴に俺は顔をしかめた。
炎弾の余波で土埃が舞う。俺は咄嗟に糸を束ねて操り、風を形成。梓の視界をクリアにする。
俺は《アイレイド》の姿を目視して、驚愕する。あれだけの直撃を受け、いや、咄嗟に防御できたのか。魔物の右腕が肩からごっそりとなくなっていた。脇腹まで抉れてある。赤い瞳の光は今にも消えそうなほど弱りかけていた。
俺は糸から火を消し、指輪状に戻す。もう、戦いは決まっていた。梓は既に、魔物の懐に潜り込んでいる。
「はああっ!!」
梓の右手が残像を生み出し、刃が《アイレイド》を胴から断ち切った。
「あれ……?」
目の前が白い霧で覆われているかのように霞む。それに、なんだか眩しい。
俺は鉛のように重くなっている腕で目を擦り、ここが保健室で、ベッドで寝ていたのだと理解する。上半身を起こすのが恐ろしく重労働だった。
ベッドは全部で六つあり、横一列に並んでいる。俺が使っていたのは扉から一番離れたベッドだ。誰かが使用中のときはカーテンで区切られているのだが、何故かされていなかった。
そもそも、なんで俺はここで眠っていたのだろう。
記憶が完全に浮上するよりも早く、彼女の声が俺の耳に届いた。
「起きたようだな。本日の実験体第一号君?」
死角からひょっこりと顔を出したのは保険医の土御門恋歌先生だった。
外見年齢は二十代後半。女性としての色気が最も成熟する年頃(俺の中では)。
身長は百八十センチに届くだろうか。桜子さんのように巨乳というわけではないが、白衣を押し上げる双球は形よく、バランスが良い。
髪は柔らかそうなウェーブがかかっており、焼き菓子のような黄色みの強い茶色。
肩の辺りで適当に切り揃えている。
そして、忘れてはならない特徴なのだが、先生は左目に黒い眼帯をつけていた。海賊の女傑が白衣を着ているようなミスマッチさがまた素敵。それが何かの《魔退練具》なのか、それとも傷跡を隠しているのかはわからない。
右の眼光が獲物を狩る最中の獣のような色を灯しているのは気のせいだろう。ここ保健室だし。
起き上がろうとした俺を、先生は右手で制した。
「梓とセシリアから聞いている。《結合魔術(デュアル・マジック)》とは、大盤振る舞いではないか。ふふ。自分の実力を弁えていないのは感心できんが、元気ある若者は好きだぞ。まあ、使うのはほどほどにしておけ。今回は気を失うていどで済んだが、次はどうなるかわからんからな」
「大げさですよ」
と、俺は言い返すも、内心ぞっとしていた。あのときは魔物を倒した後だったから助かった。けど、もしも一人で戦っている最中に気を失ったら、
「それにしても、高等部で《結合魔術(デュアル・マジック)》を使える奴が他にもいたとはな。君の母親である水瀬……旧姓火済京香から教えられたのかい?」
魔法の技法にはいくつか種類があり《結合魔術(デュアル・マジック)》は高難度とされている。簡単に言えば、二種類以上の魔術を結合させ、新しい効果を生み出す技法だ。
しかし、武器に属性を足すのなら、元から属性のある武器を持っていれば良い。授業でも名前だけは教えるが、練習などはさせない。
俺が使えるのは母さんが教えてくれたお陰だ。
「はい。《魔退練具》同士の相性も知るための修行の一環として教えられました。ただ、俺の魔力量から概算するに、一日に何度も使用できませんけど」
精神力を魔力に変換する効率は個人差がある。もし、自分の限界以上の魔力を振り絞ろうとすると、脳が強制的に休眠状態に入る現象に襲われる。
「ところで、今って何時なんですか?」
「ちょうど午後三時をまわったところだ。今から授業に出ても身体がだるくて頭に入らないだろう。曽根崎には言っておいたから安心しろ。そうそう、あいつ大泣きしてたぞ。梓とセシリアは泣いていなかったが、君が起きるまでここにいると言いだしてな。ここから追い出すのに一苦労だった。若人はもてるな、和也君?」
気恥ずかしくなった俺は土御門先生から目をそむけた。どうやら、心配かけてしまったらしい。
「ところで、お腹は空かないかね?」
「そういえば、かなり空いているみたいです」
倦怠感と空腹感が二重に襲ってくる。なにか腹に入れたいところだが、購買は閉まっているだろう。
俺は昼飯を購買か学食で済ましている。弁当はたまにしか作らない。
「安心しろ。私がしっかりと準備しておいた」
「そうなんですか? ありがとうございま……すぅ」
先生が白衣のボタンを開け始めた。中に着ているのは黒のチューブトップにミニスカだった。くっきりと豊満なボディラインが見え、俺は赤面する。
「……先生。あの、なにをしてらっしゃるのですか?」
「んー。なんだと思う?」
先生がベッドに腰掛け、俺に顔を近付けた。耳元に吐息をかけられ、俺の思考は急速に白濁する。
「あいにくと食欲を満たせる物がなくてな。知っているか? 人間の三大欲求の内、一つが欠けたとき、他の二つで一時的に誤魔化せることを。睡眠欲は満たしてしまったから、残る一つはなんだと思う?」
「暴論過ぎます! あの、ちょっと、本気でやめてもらえないですか?」
今の俺は力がまったく入らない。完全に押し倒されている状態だ。胸が当たっている。微かに香水の甘美な匂いがする。男性としてはたまらなく嬉しいシチュエーションで、恥ずかしい話、こういう系のアレな代物は持っている。
ただし、俺にだって理性はある。
あるんだよ?
「いやー、女子高に君が来てくれて本当に助かった。若い精気を定期的に摂取しないと私は無性にイライラする性格でな。ああ、もう我慢はできん。……ちょっとぐらい味見させてくれてもいいだろう?」
瞬く間に上着を脱がされ、中に着ていたシャツのボタンを外されていく。
ちょっと待て、こんな形か? 俺はここで大人の階段を上ってしまうのか?
彼女の胸を凝視し、視線が固定される。欲求というボルトがぎりぎりと絞められる。先生の細い指が俺の胸を這う。ぞくぞくと背中を駆け抜ける感覚に、俺の理性が完全に崩壊しかけ、
「なにをやっているんですか!!」
保健室の扉を勢いよく開けたのは梓だった。顔を真っ赤にして激昂している彼女を見て、先生が『鍵をかければ良かった』と舌打ちする。
「いやだなー水瀬君。これは検診だよ。なにもやましい事は無い」
「身体を密着させすぎです。破廉恥すぎます!」
「ははは。そんなに怒るな。では、私は退場しよう」
そそくさと先生は部屋を出た。どこかに逃げたのだろう。梓は深く嘆息し、俺の方は見た。
「気分はどうだ?」
「少しだるいだけで、なにも問題は無いよ。悪いな、心配かけて」
すると、梓が申し訳なさそうに首を振り、
「私の方こそすまなかった……と、言うと思ったか?」
瞳に、怒りと悲しみを綯い交ぜにした複雑な色を灯した。
「え?」
「心配したんだぞ。心配したんだぞ! お前はどうして、いつも無茶するんだ。なんで、もっと私を頼ってくれないんだ。そんなに、私は心もとないのか?」
そういうわけじゃなかったんだけど。梓が瞳を潤ませる姿は、昔から慣れない。胸の奥が強く締め付けられる。
「ごめん」
「ああ、まったくだ」
梓が顔を俯かせる。俺は見えないフリをした。
「良かった。和君になにかあったらと思うと私、怖い」
「大げさだな」
でも、その気持ちが嬉しいんだけど。
「ところで、いつまで胸元を開けているつもりなんだ?」
梓に言われ、俺は慌ててボタンを留めようとするも腕が緩慢にしか動いてくれない。見兼ねた彼女が手を伸ばす。
「まったく、お前のボタンを閉じるなんて何年振りだろうな。鼻を垂らしていた幼稚園のとき以来か? ふふ」
「……恥ずかしいこと言うなよ」
そのとき、また引き戸が引かれた。
「和也さん。お身体の調子はどう――」
「和也くーん身体大丈夫かなー? って、おお!」
「なになに、和也君がどうしたって、あらあら」
クラスメイト達。どうやら、お見舞いに来てくれたようだ。しかし、タイミングが悪かった。今、梓は俺のボタンを留めようとしている。つまり、前かがみになっている。傍目からすれば、梓が俺のボタンを開けようとしているようにも見えるのだ。
「「「おお、おおおお。おおおおお!?」」」
計、十人を超える生徒の羨望とか冷やかしとかその他諸々混ざった声に、俺と梓は童子に赤面した。
「ち、違う。これは誤解だ。私は身体が動かない和、霧裂君をだな」
梓が弁解しようとするも、もう遅い。
「無理矢理、無理矢理だ! この子、見かけによらずなんて大胆!」
「私達、邪魔じゃない?」
「じゃあ、あとは若い二人に~」
颯爽と逃げ出す生徒達を梓が追い、俺は一人になった。なんとか腕を動かして、ボタンを留める。そして、布団を頭まで被った。もう、現実を見たくない。
だが、神は何度も俺を試す。また足音が聞こえた。
「先生ですか? 俺は、今から寝るんで勘弁して」
「寝るのは少し、待ってくれませんか?」
その声に、俺は布団から顔を出した。先生とも梓でもクラスメイトでもない。彼女はセシリアだった。
「お見舞いにきましたの。お腹は空いていませんか?」
彼女が俺に差し出したのは購買で買っただろうメロンパンとアンパン、そしてお茶だった。味を想像し、腹がギュルギュルと鳴る。
ダルい腕を賢明に動かし、俺はアンパンに齧りついた。美味い。いつもの百倍は美味い。しっとりとした濃厚な甘さが胃に染みてくる。お茶を飲むのも忘れ、俺は一気に食べ進めていく。
「ありがと。助かっ」
これ、もしかして罠か!? と俺が硬直していると、セシリアは先生用の背もたれのある椅子をベッドの脇まで移動させ、呆れたように腰を下ろした。
「安心しなさい。《魔退練具》を作れなどと言いませんから」
「そ、そっか」
「ええ。とりあえず今日は」
獲物を狩る狩人の目つきになるセシリア。どうやら、諦めてはいないらしい。
お茶を一口飲んだ俺は今日初めて、彼女をじっと見た。恐ろしく美人。じゃなくて、なんとも魔法使いらしい雰囲気だ。いや、それは当たり前と言えば当たり前なんだけど。
根っこから、彼女は本物だ。
「一つ教えてくれないか。君の使ったあの銀の杖。あれは特上の《魔退練具》だ。俺の作る武器なんていらないと思うけど」
最高級のランチが食えるのに、コンビニ飯などいらないだろう。
だが、セシリアは形の良い顎に細い指を当て、こちらを見詰めながら言う。
「たしかに、私の
どんな理屈だよソレ。
どうやら、てこでも動かないようだ。
アンパン最後の一口を飲み込んだ俺は、降参とばかりに右手を上げた。
「わかった。作るよ、君の《魔退練具》」
「よろしいのですか?」
「ああ。俺の負けだよ」
ぱっと笑顔を咲き誇らせるセシリアに俺は『ただし』と前置きした。
「作るのは他の生徒達に秘密で」
俺は他の生徒達からの依頼を断っていることを伝えた。余計な摩擦だけは起こしたくない。
「なるほど。では、朝は御迷惑でしたね。すいませんでした」
素直に謝られ、俺の呼吸が一瞬止まる。まさか、上流階級の姫様から頭を下げられるなんて思わなかった。
「できれば、どんな形状、性質の物が欲しいか伝えてくれると助かる。一応、あとで俺がこれまで作った《魔退練具》のカタログを渡すよ。部屋の番号はどこなんだ? それとも、街に家があるの?」
「学生寮です。二階の百二十六号室ですわ。時刻は九時頃にどうでしょう?」
ちょうど風呂も飯も終わる時間帯だ。
「ああ。それで頼む」
メロンパンを齧りながら、俺はセシリアの表情を観察する。お淑やかなお譲様かと思えば、まるで遊園地に行くのを楽しみしている無邪気な子供のような顔をするではないか。
あんまり期待されても困るんだけど。
「もしかして、父さんの作品のファンとか?」
「いいえ。霧裂和彦の作品は知っていますけど、ファンというわけではありません」
「じゃあ、なんで俺を指名したんだ?」
それがイマイチ腑に落ちない。セシリアは心の中の思い出を紐解くように、わずかに頬を赤く染めて言う。
「あなた。半年前に一度だけ個展を開いたことがありますよね」
「え。ああ、そういえば親父のギャラリーの一部分だけ借りたことがあったっけ」
親父はたまに《魔退練具》の個展を開く。新しい客の発掘とか成果を旧友に見せつけるとか色々な目的があるらしい。
その一部分だけを借り、俺も八つの《魔退練具》を出典した。客の評価は上々。ただし、褒めるにしても『さすが霧裂和彦の息子』だの『この歳で素晴らしい』だの、あまり嬉しくなかった。
一つだけ買ってくれた客もいた。あれが一番嬉しかったかな。直接会えなかったのが残念だけど。
「でも、君と会った覚えが無いな。休憩中だったかな」
「ええ。あなたには会えませんでした。私が会ったのはあなたのお母様です」
「母さんと? そういえば、昼飯食っている間だけ作品の説明頼んだっけ。けど、どうして君が父さんのギャラリーに?」
「私の父、オズワルド・F・アンブラーが貴方のお父様、霧裂和彦のファンですの」
彼女の父、《双炎の竜創(フランベルジュ・ドラゴン)》の現首領が親父のファン? 老舗ながらの確かな実力のある《パイヤークット社》でも、近年で勢力を伸ばしつつある《トリギュラー商業兵団》でもなく、個人の《コール・アンサー》を選んだのか?
それは、どれほどの名誉だろうか。
親父が聞いたら、きっと破顔一笑するだろう。
「それで、急な仕事が入ったからと、代わりに個展を見て来て欲しいと半ば強制されまして。正直、渋々でした。けど、貴方の作品を見たときに感じましたの」
メロンパンを食し終えた俺はお茶を飲み干し、セシリアの言葉をまった。
彼女の目が嬉しそうに細まっていた。
「驚きました。とても、驚きました。言葉では上手く伝えられないのですが、こう、貴方の作品を見ると胸が締め付けられましたの。こんな感覚、今まで一度も体験したことがありませんでした。私が先の戦闘で使った
「それは、嬉しいな」
「ですから、貴方に、私の《魔退練具》を作って欲しいのです」
ここまで言われて、断るなんて勿論できなかった。
「ああ。その依頼、確かに引き受けた。このパンとお茶は前金かな?」
俺が冗談っぽく言うと、セシリアがくすくすと微笑んだ。
「あら、正当な報酬は私のポケットマネーからきっちりお支払いしますわ」
「さすが、高名なアンブラー家だな」
アンブラー家は表の世界の有名な財閥としての顔もある。その次期頭首が持っているポケットマネーは、いったいどれほどの金額だろうか。
いかんいかん。貰える金額は関係ない。
俺は、俺がベストだと思う《魔退練具》を作れば良い。それだけだ。
ただし、やっぱり欲がある。《双炎の竜創(フランベルジュ・ドラゴン)》の次期頭首と繋がりを持っているのは、この業界で相当なアドバンテージとなるだろう。将来的な観測をすれば、大きな顧客にも成り兼ねない。
「なにか足りない素材があるのなら、遠慮なく言ってくださいな」
「それは助かる。君に見合う《魔退練具》となると、並大抵の素材じゃ力不足だろうからね」
傲慢な金持ちかと思えば、俺の作品のファンだったとは驚きだ。
うん。久しぶりにデカイ仕事ができそうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます