一次落ち。評価シートなし。
宿内の雑貨屋は、狭い空間に所狭しと物が置かれており、見るだけでも楽しげであった。
裏音と奏は裁縫道具を探していた。服が旅の途中で破けても対処できるようにだ。
「なーんか、和美ちゃんの様子おかしくなかったすか?」
木製の棚に並んだ針のセットや小さい鋏を吟味しながら、裏音は隣で可愛らしいハンカチに目を奪われている奏に声をかけた。ここに和美と一樹の姿はない。風呂上がり、夕食前の休憩時間にここを訪れたのだ。
「あ、裏音も気が付いた? そうだよね。帰ってからかな、お風呂のときもほとんど喋らなかったし」
真面目で寡黙な性格かと思えば、意外とジョークを話す。そんな彼女がこちらから声をかける以外は口を閉じたままだった。
「疲れてるんすかね?」
「でも、きちんと睡眠時間をとってるよ。ご飯だって三食食べてるし」
思い当たる原因がない。自分達と同じ生活をしているはずなのに。日が浅いとはいえ、和美は親友。それも、命を助けあった大親友だ。見過ごせない心配である。裏音はあれこれと考えて、
「そうなると。……あれっすね」
「あれ、だよね」
奏も神妙な表情で頷いた。
原因となりそうな男を一人、知っている。
作戦は簡単。食事の後、奏は和美に『自分達の能力をどうにか攻撃に応用できないか?』という名目で、相談に乗ってもらうフリをした。真面目な彼女は疑う素振り一つ見せずに、了承した。
部屋で二人が話しあっている間、裏音は一樹を廊下へと誘った。
「相談って、なんだ?」
廊下には広くスペースをとられている場所があり、プレイヤー達が憩えるようにはベンチや椅子、テーブルがいくつか設置されている。
なるべく周りには聞こえないように隅のベンチに座った裏音は、隣の一樹へと単刀直入に言った。
「なにか、和美ちゃんに酷い事しなかったっすか?」
軽い気持ちで来ただろう一樹が、目を点にし、すぐにぶんぶんと首を横に振って否定した。
「お、俺はなにもしてないぞ」
「本当っすか?」
裏音からジト目で見られ、一樹はますます困惑した。本当に、覚えがなかったのだ。和美の変化は少年も気がついていた。しかし、疲れただけだろうと思っていたのだ。それを告げると裏音は『あー、こいつ、なにもわかってねえなー』という落胆した顔をした。
「和美ちゃんは間違いなく、なにか重大な悩みを抱えているっす。これは僕達チーム全体の危機でもあるっす。和美ちゃんが元気なかったら、僕も奏も不安っすよ。と、いうわけで白羽の矢が突きたったのが君っす」
「そ、そう言われてもな」
二人の考え過ぎじゃないのか、と一樹は言いかけ、思い出す。
「そういや、あいつ。帰ったら反省会しようって言っていたな」
「反省会?」
一樹は和美との一連の会話を裏音に言った。
「もしかして、反省会をしなかったのを怒ってるのかな?」
と、一樹が何気なく言い、ばつん! と頭を叩かれた。
「いた!? 急に、なにすんだよ」
「僕が怒った理由がわからないっすか?」
初めて見る裏音の怒りを滲ませた口調に、一樹はごくりと唾を飲み込んだ。少女は、やれやれとばかりに肩をすくめ、懇切丁寧に説明しだす。
「君は多分『俺と裏音はちゃんと反省しているし、地下ダンジョンていどの魔物の強さはもう脅威じゃないから心配しなくていい』って言いたかったんだど思うッす。けど、和美ちゃんには『小さい失敗でぐちぐち言うな。反省会なんて面倒くせー。お前の真面目な性格の方が面倒だよ』って聞こえるッす」
「な!? 俺はそんなこと全然思ってないぞ」
「けど、そういうふうにも聞こえるッす。和美ちゃんは僕達が今後、こういう危険に合わないようにするために言ったっす。それを無下にした一樹君の罪は重いっすねー」
知らずにとはいえ、和美を傷付けてしまい、一樹はがっくりと肩を落とした。
裏音は、溜め息を一つ零す。
「和美ちゃんの機嫌が直るような一発ホームランの一手をなにかないっすか?」
「え、えっと……」
必死になって一樹は考える。和美の機嫌が元に戻るようななにか。
あるのか? 好きな食べ物はパイナップルの缶詰と屋台の焼きそば。ここで手に入らない。実は可愛いぬいぐるみが好き。これも手に入らない。
そして、一つのアイディアが浮かぶ。
「もしかしたら……」
俺が次に目を覚ましたのは和美に肩を揺すられたからだ。重い目蓋をこじ開けると、幼なじみが『交代だぞ』と他の二人を起こさないように囁いた。
「おう。おやすみ」
燃える木の音っていうのは結構うるさい。轟々と辺りの空気を根こそぎ喰い尽すようにオレンジの炎が踊っている。だから、他の三人が眠っている場所と俺の位置は十数メートルほど離れている。ちょうど右横だ。左脇には均等に分配された枯れ木の山がいくつかある。二、三時間は眠れたかな。身体に溜まった疲労は幾分か抜けた気がするけど、睡魔が背中に張り付いていた。つまり、眠い。
俺は欠伸を噛み殺して火の調整をする。そういえば、明日の数学で小テストがあるんだっけ。範囲はどこのページだったかな。と、俺は机の上にあるだろう教科書を探そうとして、頬をパチン! と掌で叩いた。
「ここは、現実の世界じゃないもんな」
なんでこんなところにいるんだろうな、俺。他の人達はちゃんと飯食ったのかな。ちゃんと寝てるのかな。
この森を抜けた先に、なにがあるんだろう。きっと、ゴールではない。たった数日でクリアできるゲームをするためにこんな大それたことはしないだろう。つーか、あれ、本当に神様か? 悪魔の間違いだろ。眠らないように俺は立ち上がったり、屈伸したりして思考を繋ぎとめる。
そのとき、
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンンンンンン!!」
間近で落雷があったかのような腹の底に響く唸り声。心臓が一瞬、凍りついた。
脳内で警報が鳴る。本能、第六感。科学を得ることによって失ってしまった野生の感性が言った。やばい、と。和美達も飛び起きた。皆が、焚き火の前に集まる。俺は、護身用にと拾っておいた一メートルの太い木の棒を構える。
そうして、それが闇の中から顔を出した。形は狼に近い。けど、俺の知っている狼は爛々と金色に光る目をしていないし、額に第三の目も宿していない。体毛は闇の色をそのまま溶かしたように黒く、針金のように硬そうだ。
人間の赤ん坊なら一口で飲み込めそうな口の端からは涎が垂れていた。まるで、早く獲物を食べたくて待ちきれないかのように。
ナイフと見間違えるほどに鋭い爪と牙を持つ獣。それが、全部で四体。
ここから逃げる? 無理だ。動物の早さに人間が敵うわけがない。それに、夜目が効くあいつらの方が断然有利だ。炎があるここで迎え討つしかない。けど、勝てるか?
木の棒を持った俺の手が震えていた。違う。身体中が恐怖で震えていた。逃げろ、と本能が叫んでいる。和美達も、なにも行動できないでいた。せめて、あいつらだけでも助けたい。
狼が唸り声を上げる。その距離は一五、六メートル。火が怖いのか、と俺は安堵しようとして戦慄する。狼は弧を描くように焚き火を迂回した。こいつら、火に慣れている。火を見るのは初めてじゃないのか。
「……なあ、和美。俺さ、お前のことが」
そこまで言って。俺は口を閉じた。遺言なんてらしくない。
あまりの恐怖に、俺は逆に冷静になっていた。戦えるのは俺一人。奏ちゃんも裏音ちゃんも腰を抜かしていないのが不思議なぐらいだ。カチカチと歯を鳴らしているのは誰だろう。
和美も大きな身体を縮こませていた。ああ、こいつは怖がりだもんな。
そういうところも含めて、俺は好きだったよ。幼なじみの時間が長すぎて、伝えるタイミングを逃してしまった。和美は、俺のことをどう思ってるんだろう。どうか、好きじゃありませんように。
死んだらどこに行くんだろう? 死んだジーちゃんに会えるのかな。
「一樹、駄目だ」
和美が俺を止めようとする。けど、俺はとまれない。
「お、おおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
俺は叫び、自分の身体を奮い立たせた。そして、狼の群れへと走る。
それが合図とばかりに狼が俺へと群がった。地面を黒い砲弾が滑る。俺は反射的に木の棒を真横に振った。どれか、一匹でも当たればと願って。
願いは届き、一番早く突進してきた一匹の顔に当たった。しかし、バキン、と割り箸のように棒が折れた。狼は小揺るぎもしなかった。この程度か? と唸る。あざ笑う。
左肩に衝撃、遅れて焼け付くような激痛が一閃する。爪で肉を切り裂かれた。意識が引き千切れる。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!
右脚を、右肩を、腕を、太股を。狼達が牙を突き立てる。この飛び散る鮮血は誰の物だろうか。あ、俺のか、痛みが、思考の全てを埋め尽くす。そんなに美味いのか俺の肉。
このまま死ぬのか?
俺がここでゲームオーバー?
――ふざけるな
恐怖がくるっと反転した。俺の心を満たしたのは灼熱の怒りだった。そのとき、左手の甲が赤く、淡い光を発した。まるで、俺の感情に呼応するかのように。どうしてだろうか。開いた瞳が捉えた狼の姿が、さっきよりも小さく見える。
俺は固く握りしめた右手の拳で、左肩に食いついていた一匹を殴った。
グシャリ、と実の詰まった果実が地面に叩きつけられた音と共に、狼が吹っ飛んだ。地面と水平に一〇メートルも弾かれ、真後ろの木に激突する。そのまま、小さく唸り、地面に崩れた。
「えっ?」
木の棒のフルスイングで倒せなかった狼を、素手で? 俺は太股に噛みついていた狼の首を掴んだ。ボキン、と首の骨が折れた獣が血の泡を吹いて絶命する。残った狼も殴り、首の骨を折る。
闇の中からまたぞろぞろと狼が這い出てきた。俺の血の臭いを嗅ぎつけたのだろうか。
今度は一二体。なのに何故だろう。全然怖くない。
飛びかかってきた狼の顔面を蹴る。サッカーボールよりも黒い塊が弾み、森の奥へと飛んでいった。動きが見える。あれほど俊敏だった獣の動きが、スローモーションに映った。
勝てる。そう、俺が思ったとき、視界が霞んだ。血を流し過ぎて、意識が途切れそうになる。攻撃が遅れ、狼の爪が俺の顔に――届かない。
「やめろー!」
俺の隣に立っていたのは和美だった。彼女が前に突き出した右手を基点に、景色が歪む。空気が硬質化し、盾になったかのように狼の爪が、牙が阻まれる。なんだこれ、魔法か? どうしてこいつが? 俺が呆然としていると、銃声のような破裂音が鼓膜を貫いた。闇夜を切り裂いたのは一条の雷。青白い毒蛇が狼の一体に直撃する。
狼は唸り声さえ許されず、頭部を破裂させて死んだ。肉の焦げる臭気さえ忘れ、俺は振り向いた。そこには、和美と同じように右手を突き出した裏音ちゃんがいた。
「あ、あれ。僕、なにを?」
奏ちゃんの姿は? と俺は彼女を探そうとして、すぐ傍にいた。大粒の涙を瞳から零し、俺を抱きしめる。柔らかい感触。とても温か熱い!? 骨が熱した鉄の棒にかわってしまったかのような身体の内側から込み上げてくる熱さと痛み。すぐに潮が引くように消える。
すると、抉れた肩が治っていた。太股も、腹部も。致命傷だったダメージが全部回復している。
「え、私、え、これ、なに?」
皆が、新たな異常事態に困惑していた。残っていた狼は全部逃げていった。コイツらには敵わねえ、と言い合っているのかキャインキャインと弱々しく鳴き合っている。
俺達四人は等しく沈黙した。枯れ木の爆ぜる音だけが聞こえる。
最初に口を開いたのは、和美、裏音ちゃん、奏ちゃん、俺でもなかった。
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