一次落ちの群れ

「さあ、ここを出よう。大丈夫。君を傷付けるような奴は、もうどこにもいないよ」

 精一杯の優しい笑みを浮かべた恢が膝を屈め、少年へと手を伸ばす。その大きく逞しい手へと、少年が弱々しく小さな手を伸ばし、刹那、全身の血の気が引いた。少年の瞳が薄っすらと濁っていたのだ。まるで、鮮血を数滴ばかり、注ぎ入れたかのように。反射的に、地面を蹴る。右手側、真横へと回避。耳元を、鉄錆びの臭いを充満させた旋風が駆け抜けた。そして、後方で短い悲鳴。続けて、絶叫。野太い声。気絶していたはずの臼田の声。

「いいぎいいぃいががががっががががぐぐぐががががっがががああああああええ!?!?」

 部屋を出て、恢は息を飲んだ。枯木のように手足が細くなっていたはずの少年が、四つん這いで臼田を押し倒し、その首筋へと噛み付いていたのだ。どれだけの力か。下顎から夥しい量の鮮血が噴き出し、地面を朱に染める。少年の喉が断続的に動いていた。血を飲んでいるのだ。いや、違う。あの少年は、食べている。姿が、変化していく。頬が耳まで裂け、頭部が前方へと伸びる。耳も伸びる。舌も伸びる。全身の筋肉が爆発的に膨れ上がり、薄汚れた肌に真っ黒で針金のような剛毛が生え揃う。両腕や両足に伸びるのは肉厚で鋭い爪。血が滴る口腔へ凶悪な牙が列を成す。ワーウルフ、人狼、狼男、ライカンスロープ。名前は数多くとも、目の前の現象は間違いなくアウター・ギアによるものだった。

 人狼へと変化した少年が大口を開けて臼田の首を噛み千切り、肉を食い、血を啜る。とうの昔に悲鳴は途切れ、中年男の両眼は生命の光を失っていた。狼の大顎が頭蓋骨を噛み砕き、脳漿が周囲に飛び散る。

「ウルルルウルルルウルルルルルウルルルルウルルルルウググウウウウウゥウゥウ!!」

 元少年の喉奥から溢れ出すのは、狼の遠吠えにも酷似した絶叫。ようやく、理解する。臼田享作は己がワーウルフになるのではなく、ブラックマーケットで買った子供を化け物へ仕立て上げたのだ。おそらくは、従順なペットにでもするために。他の子供達はどうなったのか。もしかすると、目の前のワーウルフの餌になったのかもしれない。

 恢は喉を震わせ、言葉にならない声を吐き出す。全身から力が抜け、寸前で足を踏ん張る。少年は、最初から助からない運命にいたのだ。最初から、助けられなかったのだ。

「……そうか。また、これか。せっかく、助けられると思ってたんだけどな。そうか。俺は結局、誰も助けられないのか」

 無念が、自然と唇から零れた。これで、彼の〝残業〟は決定だった。

 恢の双眸に暗い光が灯る。腰が僅かに落ち、左手に刃渡り二十五センチのナイフが握られる。大振りの刃は、肉厚で堅牢な鍛造造りだ。そして、右手にはタウルス六八〇CPが。

「管理者(ホルダー)として、君に告げなければいけない。――俺は、君を〝抹殺〟しないといけない」

 右手が上から吊られたように撥ねる。狙いはワーウルフ。間髪を入れずに三発、頭部へと直撃。黒い体躯がヘビー級ボクサーのストレートを受けたように上半身を揺らした。そのまま残り五発を全て、撃ち込む。三五七マグナム弾の三分の二ダースだ。普通の人間なら、それも十にも満たない子供ならば、出血多量のショック死で三分以内に絶命する。

 だが、恢は目を見開く。ワーウルフが吠えた。その全身を戦慄かせながら総毛を逆立たせる。床へと、ポロポロと何かが落ちた。それは、潰れた弾丸だった。剛毛と強靭な筋肉の壁に阻まれ、三五七マグナム弾クラスでも、ほとんどダメージを与えられなかったのだ。

 恢が弾薬を装填するよりも早く、ワーウルフが剛腕を振るい、こちらへと突撃してくる。

 その速度、まさに迅雷。黒い砲弾か。恢は反射的に左手を振るった。刹那の後、手首から肘、そして肩へと鋭い衝撃が走った。正面から弾くのではなく、外側から腕を受け流すように刃を当てた。かつ、後方へと跳んで威力を殺して、なお残る力の重さに肝が冷える。

 身体能力の大幅な向上。そして、食欲の増進。これでは、ピザの出前を頼んでいる間にこちらの首へ噛み付かれるだろう。恢は二度、三度、深呼吸を繰り返す。

「君は、将来、何になれたのかな。サッカー選手かな。それとも、消防士、野球選手、料理人、手堅く公務員って手もあるな。……ああ、もう、全部が手遅れだ」

 こんな時でも、彼は自分の身に迫る危機よりも少年の不幸に嘆いた。恢は地面にナイフを捨てた。そろそろ、終わりにしなければいけなかったからだ。

距離を測りつつ、恢はタウルス六八〇CPの回転式弾倉をスイングアウトして空薬莢を排出する。上着の胸ポケットから引き抜いたのは一括装填用のスピードローダー。ただし、黒一色で統一されているはずの装填道具の持ち手だけが他のとは違う。まるで、区別を付けるかのように赤く塗られていたのだ。躊躇なく新しい弾薬を叩き込み、撃鉄を起こす。肺に溜まった空気を全て吐き出して二秒。人狼は目前まで迫っていた。

 標的の牙が届くよりも、腕が伸ばされるよりも、爪が振るわれるよりも、恢が引き金を絞る方が半秒、早かった。発砲音は、一発前よりも段違いに大きい。苛烈する閃光。特大のマズルフラッシュが花開く。大気を砕くのは、音速超過のシルバーチップ。人狼の首が後方へと弾かれる。そのままバランスを崩し、左胸へと立て続けに弾丸が放たれた。計五発、全てが直撃する。朦々と硝煙が銃口から溢れ出す。それは、線引きだった。お前と俺とでは、住む世界が違うと訴える〝拒絶〟だった。助けようとした少年を、今、彼が撃ったのだ。背中から、少年が倒れる。地面を転がる。四肢を投げ出して止まる。

 口腔からおびただしい量の血が溢れ出す。腹腔が上下し、か細い呼吸が何度か繰り返される。しかし、もう立ち上がらない。生命の灯火を、恢が刈り取ったからだ。

 ホットロード――発射薬を増量して威力を上げた特別製の弾薬。脳天を撃ち抜かれ、心臓に五発も三五七マグナム弾を埋め込まれた子供が生きられるはずがない。

 恢の顔が今にも泣き出しそうなほど歪む。仕事とはいえ、子供を撃った。きっと、この子に罪は何もない。攫われて、アウター・ギアの犠牲になった。それだけだ。

 突如、ワーウルフの身体が急速に縮まり、体毛が潮のように退いていく。三十秒後、床には全身を黒ではなく、鮮血の深紅で染めた〝子供〟の死体が転がっていた。

「…………ごめんな。俺が、助けないといけないのに。俺が、守らないといけないのに」

 管理者(ホルダー)の仕事はあくまでアウター・ギアの回収と保護、そして、起こってしまった事態の収拾だ。そこに、人道を尊重する意味合いはまるで含まれていない。事件を解決するためなら、喜んで標的を抹殺しなければいけないのだ。恢は右腕をだらりと下げたまま、固く目蓋を閉じた。僅かな黙祷を捧げ、部屋を出る。これで、今日の仕事は全て終わった。

 後は、組合が派遣する事後処理の人員達に任せよう。ここにはもう、倒すべき命も、守るべき命もない。全員が、死んでしまったからだ。彼が得たものは何もない。胸に残る痛みだけを抱えて、恢はその場を後にしたのだった。




 歳は今年で十五の乙女。身長は同年代と比べるといささか高く、恐ろしさにも似た感情を覚える程に美しい。初々しい肢体を包むのは、オーダーメイドされた白いブラウスと、青色のロングスカートだった。洋服などまだまだ珍しい現代では、少女の格好は異質でもあるだろう。だが、〝それ〟と比べれば、洋服など些細な問題だっただろう。春香の頭を飾るのは唾のついた円錐型のとんがり帽子、そして濃い瑠璃色のマントだった。

 彼女は魔女である。それも、学校を魔物の手から守る《魔女連盟》の首席たる地位を誇る。いつもは冷静な彼女だったが、今は焦りが顔に滲みでていた。

現在、春香は追われていた。何に? 赤黒い炎の塊に。轟々と燃える暖炉の火に、人の世の恨み辛みと馬糞でも混ぜたかのような色を孕む炎の大きさは全長で三メートル程度だろうか。地獄の蛞蝓ように地面を滑りながらこちらを追いかけてくる。その早さは風が矢か。馬が競争したところで勝負にならないだろう。ならば、どうして彼女は逃げ続けられているのか? 答えは単純だ。彼女は自分の足で逃げていないからだ。

 春香は箒に跨っていた。太股を内側にきゅっと締め、太い柄をしっかりと固定している。

 地上から五、六メートル浮いた状態でこちらも滑るように飛翔する。疑似精霊として風に意思を与え、箒を翼代わりにする初歩的な魔術だ。術者から一定範囲の大気流動を操作することで、髪がなびくことも防風眼鏡を付ける必要もない。時折、曲がったり上に下へ高速で場所替えしたりと、敵の動きを翻弄さえしていた。相手が鳥か猟師なら、すぐに狙うのを諦めるだろう。



 モモが後方に二メートル分だけ跳躍すると、一秒前までいた地点に一条の紫電が走った。当たれば片腕の一本や二本は炭化し、血が沸騰を越えて昇華し、爆ぜていただろう。挨拶代りと言うにはあまりに剣呑は〝魔術〟に、モモはほっと一安心した。――悪人なら、遠慮はいらないと。

 モモの位置から前方二十四メートル先、一段と高く積まれた塵山の陰から、敵が姿を現した。

 若い女だった。歳は十代後半か二十代前半か。髪は黒のストレートで、肩の辺りまで伸びている。瞳はやや切れ長で、着ているのがきっちりとしたスーツのせいか、知的なイメージがあった。なかなかの美人だったが、どんな男もお茶に誘おうとはしないだろう。何故なら、女の右手は長手袋を嵌めたかのように赤黒く汚れていたのだから。

 まるで、人間の内臓へ直接手をぶちこんだかのように。いや〝ように〟ではなく、正しくそうだったのだろう。右手に握られていのは同じく血で汚れた短剣――術具だった。魔術を安定化させるために編み出した人の子の技術だった。

「そうか。お前が沫絵の人間か」

 ややハスキー掛かった声に、モモは小さく頷いた。魔術の世界で沫絵の姓は悪人にとって恐怖の名だ。

 悪を裁き、血みどろの正義を司る狩人の名だ。

「知っているのなら、大人しくここで殺されてください」

「……はっ」

 女が嘲るように短く笑った次の刹那に閃光が走った。紫電がさらに精錬化されたかのごとき純白の光が剣の形と成り、モモへ飛来したのだ。

 当たれば内臓を一撃で抉り、機能停止に陥らせる必殺。しかし、

「私には届かない」

 モモの言葉通り、光の宝剣はまるで不可視の壁に阻まれるように直撃する五十センチ手前で砕け散ってしまった。魔術としてはなんら珍しくない汎用防護壁〝水晶の壁〟である。純粋な魔力を硬化させ、物理的、魔術的にも耐久力が高い。二度、三度と攻撃魔術が撃ち込まれるも、罅一つ入らなかった。

「よく考えなさい。この私に、あなた程度の魔術師が勝てるとでも?」

 嘲弄ではない。モモは真実を告げたのだ。少なくとも、本人はそう思っていた。ただし、敵は違う。挑発されたと判断したのか、短剣の柄を折らんばかりに握りしめていた。そんな、みっとも無い大人を見て、魔女は嘆息する。

「では、こちらからいきますわよ」




『一次落ちだから評価シートナシ』



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