088. その果てに、望みはあるのか。


「荒井君、剣!」


 叫んだ今西に、くわえていた剣を返すと、骸の獣は高く跳ぶ。


 俺は頭を巡らせ、その動きを目で追うと、骸の獣は俺達の進行方向へ着地し、前足を軸に百八十度回転しながら向き直ると停止する。渦を巻いた空気は風となり、四肢の爪が掴んだ氷が、飛沫となり飛び散った。


 俺達はその俊敏さに、慌てて足を止める。


 だが骸の獣は間髪入れず、俺達に飛び掛かった。鰐のような大きな顎をぐわっと開き、露わになった鮫のような歯が、俺達を一飲みにしようと迫る。


 咄嗟に氷を蹴ろうとした、足が止まる。骸の獣が突き出した前脚が邪魔で、左右には躱せない。でかい図体のくせに猿みたいに動きが素早くて、エリタイ相手ならとっくにこなしていた状況判断が出遅れた。


 なら前? 後ろ?


 迷う刹那の間にも、ぐんぐん骸の獣は近付いて来る。


 ――っ上だ!


 ギリギリで氷を蹴り、骸の獣を足元にするように上へ跳ぶ。先に前へ跳び、獣の頭を踏み台にしてなした今西より一歩出遅れる形になった回避は、脚を獣に捉えられてしまった。


「ぐッ……!?」


 ばくんと空気を吐き出すように閉じられた大顎に、左足を掠められてしまう。


 噴き出した血が、視界の端を駆け抜けた。


 獣の頭を蹴り、尾の方へ向かって跳んでいく今西が、空中前転の途中で、逆様になりながら叫ぶ。


「荒井君!?」

「クソ……!」


 俺は、そのまま骸の獣の頭頂部に落下しながら、なら攻撃を加えてやると、両手で剣を振り下ろす。腕には付力魔法、万喰らいには裂傷魔法をかけ、この咄嗟の判断で、込められるだけの魔法と力を乗せて打ち込んだ。


 だがその頭は、元はスケルトンであったのが信じられない程の硬さを誇り、万喰らいを弾き返す。吹き飛ばされた俺は、骸の獣の正面に叩き付けられた。


 背中の痛みを堪え、即座に起き上がろうとするが、左足に鋭い痛みが走る。


「う……っ!?」

 

 左の脛辺りから滲んだ血が、じんわりとズボンを濡らし、氷まで汚していく。


 ……足。


 足が。


 この世界でも、駄目になってしまうのか。


 急に頭の中が、真っ白に凍ってく。


「あ……」


 骸の獣が目の前に着地し、四肢が砕いた氷が、つぶてのように全身を襲った。思わず腕を翳す。


 後ろに手を着き、座り込んでしまった俺の目の前に、ゆっくりと歩き出そうとする、骸の獣が立っていた。


 血は当然、その間も止まらない。


 ぽつりと氷の上に、突然投げ出されたような気分になった。


 そうだ。今俺は、海のど真ん中にいたんだ。


 凍った海の、ど真ん中。本当ならこんな所にいたら、とっくに沈んでいくような海の上に。


 逃げられる筈が無い。


 そんな場所、ある訳が無い。


 やけにゆっくりと、俺を叩き潰すように、骸の獣は、右の前脚を上げた。


「――触るなああッ!!」


 骸の獣の向こうから、怒りに燃える声が刺さる。


 骸の獣が尻でも蹴り上げられたように、急に前のめりに崩れると突っ込んで来た。


「うわっ!?」


 もう数センチ先に骸の獣が転び、氷の飛沫と蒼い光を含んだ風が、ぶわっと俺の前髪と外套を吹き上げる。


 転んだ獣の左後ろ脚に、何か細い物が刺さっていた。


 鞘だ。鞘が膝を、裏から貫いている。あれで体勢が崩れたらしい。


 呆然とする俺の左隣に、ザッと氷を削りながら、前のめりに何かが着地した。


 剣を銜えた今西だ。


 今西はすぐに立ち上がると、俺に左手を伸ばす。


 俺は何とか立ち上がりかけると、すぐに今西の左手を取った。今西はそれを確かめると俺を引き上げ、前に向き直ると付力魔法で一気に跳ぶ。


 骸の獣を跳び越えると鞘も抜かず、島まで走り出した。着地と同時に、鞭のような尾が振るわれるが、間一髪で何とか往なす。尾を叩き付けられ、岩のように抉れた氷が、後ろから襲いかかった。


 駆け出して三歩で姿勢を整えた俺は、今西に追い付いて目線を投げる。手を放して貰うと、後方から飛んで来る氷塊の中を、頭を下げて走った。


 氷を振り切ると更に加速し、やっとの思いで島の岸に転がり込む。


 人の気配は、まるで感じない島だった。


 安心してしまいそうになるが、油断せずそのまま林に入る。山の中腹まで駆けると、やっと足を止めた。お互い島を覆う、太い広葉樹の幹に凭れて息を整える。


「――クソ……!」

「ここなら暫く、見つからないとは思うけれど……!」


 今西も大きく肩を上下しながら、海の方を見た。


 骸の獣は何とか立ち上がっているが、左後脚には鞘が刺さったままであり、引き摺っている。緩慢な動きで辺りを見渡し、空気の匂いを嗅ぐように、頭を上に向けていた。……骨格標本が動き回っているようにしか見えないが、嗅覚はあるのだろうか? それなら眼球なんて無いのに、辺りをどうやって認識しているのだろうとも思うが……。


「……怪我は、平気か?」


 骸の獣に警戒しながら、今西に尋ねた。


 自分でも、疲れを感じる声になる。


 向かい側の広葉樹に凭れている今西は、左手に握っていた剣を足元に投げ出すと、ずるずると根の間に座り込む。


「……微妙」



 すっぽり根の間に収まりながら、今西は息を吐いた。



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