078. 向カウベキ場所トハ。


 港になっている海辺から入って来たらしい、屋台のような荷車を引いた、赤く日焼けした初老の男が立っていた。暖かそうな、もこもことした服に身を包んだ身体はしっかりしていて、焼けた肌と漁師を思わせる。四方に散らかった白い髭が、根のように広がり、太い眉の下にある糸目が、多分俺達の事を見ていた。


 俺は今西と顔を見合わせると、取り敢えずおじさんに近付いてみる。


「……いや、あの……」

「ここの場所の名前、教えてくれない!?」


 今西は言いながら、弾かれたようにおじさんへ走り出した。俺も後に続く。


 おじさんは広場で荷車を止めると、むむっと太い眉を曲げた。


「ここお!? ここはあ、マッテイルだあ!」


 方言だろうか。大きな声と、妙に間延びした話し方で明かされたその名に、おじさんの前で足を止めた俺達は、耳を疑う。


「マッテイルって……」


 今西が呟くと、おじさんは繰り返した。


「おお!? マッテイルだぞお!?」

「じゃあやっぱりここは、ルートエフがいる……」


 俺の言葉におじさんは、ぴしりと表情を強張らせる。


「……ル、ルートエフだってえ……!?」


 そしてわなわなと震え始めると後退り、俺達を指差した。


「そ、その名前は、ここじゃあ簡単に口にしちゃあいけねえんだぞ……! おおお前ら、見ない顔だが、何しに来たんだあ……!?」


 今西は、そのまま逃げ出してしまいそうなおじさんを引き止めようと、慌てて口を開く。


「ああ待っておじさん! 私達別に、怪しい者じゃ……! この辺りの事について、詳しい話を聞ける場所って、無い……? ちょっと訳あって、この辺について調べてるんだけれど……」


 おじさんは怯えながら、懸命に訴える今西をまじまじを見た。


「……そ、そうなのか……? む、村の奴らと話がしてえなら、酒場に行けばいいぞ……? あの、一番海岸に近い建物だ……」


 おじさんの太い指が示した方を見ると、海を目の前に置く形で、周りの家屋より一回り大きい、長方形の建物が見えた。


 俺はそれを眺める、今西の横顔に尋ねる。


「……行ってみるか?」


 今西は躊躇いながら、こちらへ半分向き直った。


「……ここがどこなのかは、分かっておいた方がいいとは思うよ」


 矢張りその顔は、複雑な表情を浮かべている。


 迷いと、戸惑いと、これ以上何も、知りたくないような。


 骸の牙が現れた氷上に、飛ばされる直前の今西の言葉を思い出し、俺は何と言えばいいのか、困ってしまった。


「…………」

「――港の市場は、もうおしまいだからなあ!」


 おじさんは、ゆっくりと陸側へ荷車を引きながら歩き出す。


「市場で商売の後は、酒場で飯がマッテイルの過ごし方だあ! 商売人はみいんな、酒場に集まって夜を楽しむんだあ! 俺もこいつを片付けたら、酒場に行くぞお!」


 おじさんは嬉しそうに声を弾ませると、広場から伸びる道なりに、陸の方へ歩き出した。


「あっ……教えてくれてありがとう、おじさん!」


 それに気付くと今西は、おじさんへ手を振りなら声を張る。


 おじさんは足を止めず、ひらひらと手を振ると、村の奥へ消えていった。


 再び広場に、俺達だけが残される。


 ……でも、取り敢えずの目的地は決まったというのに、今西は歩き出そうとしない。


 俺も置いて行く訳にはいかず、おじさんが去ると、複雑な表情をして俯いてしまった今西を見守る。


「……今西?」

「――ってああごめん! 酒場だよね! 早く行こ!」


 無理に明るく笑ってみせる、その顔が痛々しい。


 笑ってるのに、目が笑ってないんだよ。


「いや、でも……」

「いつまでもここにいる訳にもいなかいし! ほら冷えちゃうよ行こう行こう!」

「おっ、おい……!?」


 今西は無理な笑顔のまま、ぐいぐい俺の腕を引っ張ると歩き出す。


 有無を言わせないようなその力に、俺は黙って、ついて行く事しか出来なかった。


「…………」


 ――今西は元の世界に、今は帰りたくないと思ってる。


 戦争中だし何より、病を抱えた身体に戻って、また不自由な生活に、戻りたくないから。また歩けなくなるなんて考えるだけで、きっと、怖くてたまらないんだろう。


 俺だって元の世界がそんなにいいのかと言われると、分からなくなる。


 戦いは激しさを増して行く一方だし、戦況は国に伏せられているみたいだし。明るい未来なんて、待っている気がしない。


 なのに、いいのだろうか。今西をこのまま、ルートエフに近付けるような事をして。


 だからってこの世界に留まり続ける事が、幸せだなんてとても言えない。ここはもしかしたら、ただの夢かもしれなんだから。


 ただ俺達を殺す為だけに作られた、偽物の。


 なのに何も言えなくて、酒場のドアを潜っていた。


「ごめんくださーい!」



 元気よく今西は言うと、店の突き当りにある、店主らしき男が立つカウンターに向かう。



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