080. 「望みなど枯れ切った場所で果てる事こそが、本当に正しいと言うか、幸せだったのだろうか」


「ああ。冒険者は皆、歩いて未開の地へ向かう。氷は分厚いから、落ちる心配は無い。春まで溶けない氷だ」

「そっか……。ありがとうございます」


 俺は、頭の中で店主の話を整理しながら、冷やし飴を飲み干すと立ち上がった。


「取り敢えず、そこを目指してみます」

「あ……ありがとう。おじさん」


 ……今西も、ぎこちない笑みを浮かべると、冷やし飴を飲み干して席を立つ。


 店主は背を向けると、ジョッキとボトルを片付けに棚へ向かった。


 俺達は店を後にすると、まだ昼にも遠い、空の下に出る。


 雪が、降り始めていた。


 ちらちらと、綿のように、景色の中に溶けていく。


 それを眺めている内に、お互い気付くと無言になった。


 鉄のように、硬質で冷たい沈黙が、俺達の辺りだけで淀む。


「行くん、だよね?」


 ぽつりと、今西は言った。


 隣に立つ俺は、何と言えばいいのか戸惑う。


「……お前は、行かねえの?」


 俺は黙り込んだ今西の、横顔を見た。


「……分かんない」


 今西は、俺の視線を振り払うように言うと、早足で海岸へ歩き出す。


 足音は広場を横切ると、すぐに海岸に広がる黒い砂利を踏み締める、ざくざくという音に変わった。


 俺は無言で、その後を追う。


 今西は波打ち際で足を止めると、既に透明に凍り始めていた、海を眺めた。


 ぱきぱきという硬い音が沖の方から流れてきて、音の広がりと共に海が、凄まじい速度で凍っていく様が見える。空気も冷えていくのが身に染みて分かって、海水が波打ち際で波の姿のまま、結晶のように凍って動かなくなった。北極とか南極みたいに、白く凍るのかと思いきや、海はガラスのように海中が透ける、透明な氷に覆われてしまう。


 ぞっとするような美しさに、息が止まった。


 海の上には、ただどんよりとした雪雲が広がる。


 静寂が、刺すように迫った。


「まだ話してない事が、沢山ある」


 海に見惚れていたのか、ルートエフの強大さを感じ、恐れていたのか。海を目をしたまま、動けなくなっていた俺の耳に、正面で背を向けて立つ、今西の声が入る。


「荒井君……。この世界に来る前、病院にいたって言ってたけれど、どこか、悪いの?」

「……軽い不整脈だよ。こんなご時世だから、周りが敏感なんだ。男は戦況によっちゃあ、兵隊に取られるかもしれないし……」

「勝てるかなんて、分からない戦いの為に?」


 無感情な声で、突き付けるように、今西は言った。


「魔法側がどれだけ私達の想像を超えているかは、私の話で分かった……よね? それでも元の世界に……帰り、たいの?」


 でも同時に、迷いも滲んでいた。


 俺は、ゆっくりと口を開く。


「……ここに留まってても、しょうがないさ」

「ここから出た所で、救いなんて無いよ」


 俺の発した声が、今西の背中にぶつかって、ぽとりと落ちていくようだった。


「……お見舞いに来てくれてる間も、言わなかったけれど、私は壁裂症へきれっしょうで歩けなくなって、病が進行したから、休学した訳だし。……治らないのも、知ってるよね?」

「今の所は、治療法が見つかってないって聞いてるよ」

「私が生きてる間に、治療法が見つかると思う?」

「…………」

「――ごめん。酷い事言った」


 そんな事無いさと言った所で、今西の心が軽くなる訳なんて無い事も分かってて、俺は何も言えずに、俯いてしまう。


「嫌な事しか無かった訳じゃ、なかったんだ。この世界に呼び出されて」


 今西は後ろで手を組むと、少しだけ、明るくなった声で話し出す。


「そりゃ、半年近く森の中に閉じ込められて、冗談じゃないとも思ったけれど……。でも、また自分の足で歩いて、外に出られたのは、本当に嬉しかった。不謹慎かもしれないけどさ、やったあって、ちょっと走っちゃったもん。だって、治らないって言われてたのに」


 本当に、嬉しかった。


 その今西の言葉が、碇のように俺の心に沈んでいく。


「思いっ切り身体を動かしたのも久し振り。外の空気を、胸いっぱいに吸ったのも久し振り。焼けていない、荒れてもいない、森を見たのも久し振り。ほんの少し前まで当たり前だった全部が、宝石よりも輝いて見えた。どれももう、二度と触れられないと思ってたから」


 そう言って今西は、雪雲の向こう輝く太陽に、手を伸ばす。


 でも当然届かなくて、何も掴めないまま、その手を下ろした。


「……これを失くしちゃうのは、本当に辛いよ。たとえ全部偽物で、最初からありもしない、夢だったとしても。――だってそれじゃあ私、また歩けなくなっちゃうって事じゃん! そんなのやだよー!」


 無理な笑い声が、胸に刺さった。


「それに、もしここを抜け出せても、治るかも分かんないじゃん! ここにいたら戦争の心配も無いし、勇者だか知らないけれど、ちやほやされて、凄い力も持ってるし……! ここなら元の世界の事も、自分の過去も背負わなくていい……! 魔物はいるけれど、元の世界での暮らしを思ったら、私……」


 どんどん声が震えて、小さくなっていた今西は、ついに蹲ってしまった。


 腕で自分の身体を抱えながら、黙り込んでしまう。


「…………」

「……今西」

「私……」


 それは嗚咽の中で、掻き消されそうな声だった。


 ずずっとはなをすすりながら、今西は零す。



「……帰りたくないよ……荒井君……!」



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