073. 「コンクリート壁に罅が走るように、徐々に駄目になっていく様からの命名らしい」


「……えっ?」


 そう、つい声を零してしまってから、俺は気付く。


 俺はなんて鈍感で、なんて惨い事を、わざわざ言わせるような事をしているのだろうかと。


 今西真苗。


 特技は知恵の輪。好きな食べ物は鶏肉で、嫌いな食べ物はねばねばしたもの。高校入学と同時に俺が住む町にやって来て、その明るい性格でクラスの人気者だった、たったそれだけの女の子。エリタイなんて十メートルにも及ぶ化け物を、たった一人で倒してしまえるような、怪物染みた女の子じゃなかった。どこにでもいる、十六歳。


 ただ。


 苦手なものは、体育。


 見学しないといけなくて、退屈だから。


 見学しないといけないのは、足が動かなくて、車椅子で生活していたから。


 その明るさが不気味に映るぐらい、今西は、不自由だった。


 戦時中というこのご時世、誰も敢えてその不自由の理由は、尋ねようとしなかったけれど。


壁裂症へきれっしょうなの。私」


 静かな川のせせらぎに消えてしまいそうな、小さな声で今西は言った。


 壁裂症へきれっしょうとは、魔法が原因で起きているのではないかと言われている、魔鉄まてつ戦争が勃発してから現れ始めた、不治の病。症状は、肉体がコンクリートのように徐々に硬質化してしまい、罅割れて粉々になってしまう。進行を遅らせる方法は辛うじてあるらしいが、最期は本当に、跡形も無く。


「足が動かないのはその所為。車椅子に乗るようになったのもその所為。休学して、入院するようになったのもその所為。疎開する直前に発症してたみたいで、荒井君達の町で高校に入る頃にはもう、歩けなくなってた。ほんのちょっと前まで私、自分で歩けてたのに」


 呪うような声が、ぽつぽつと川辺に落ちる。


 今西の背中はどんどん丸くなって、組んだ両手の甲には、突き立てるように指が食い込んでいた。


 壁裂症へきれっしょうだとは、お見舞いの時にも知らされていなかった。今西も自分の状態の事について語らなかったし、俺も敢えて踏み込もうとは思えなくて、いつかよくなったらどこかに行こうぜとか、戦争が終わったら、規制されたゲームがやりたいよなとか、そんな事ばかり話して、じゃあなといつも別れていた。


 頑なに病状を、少しも語りはしない今西が心配で。


 分からない、今西の状態が怖くて。


 敢えて下らない事ばかり話して、今西を笑わせようとしていた。


「この夢が醒めたら、私……」


 今西は、頭を抱えた。


 震えるその声の先は、恐ろしさの所為か続かない。


「い、今西……」

「それにこの仮説が正しかったとして、荒井君はほんとに、戻りたいの……? 戦争中なんだよ? 勝てるかなんて分かんないし、いつ終わるのかも分かんないし、大体――! こんな病気を撒き散らすような人達を相手に、鉄側なんかが本当に勝てると思う!? 私が住んでた町はもうあいつらに取られちゃって、国から疎開を強いられたんだよ!? 友達にも挨拶出来ないまま、勝手に追い出されて……! 生きてるのか死んでるのかも分かんない人も沢山いるし、あいつらは全然減らないし……! ここから出られた所で本当に、幸せなの!? 私どうせ……っ! ――死んじゃうのに!!」


 今西の叫びを掻き消すように、強烈な眩暈と耳鳴りが襲った。


 金属音のように高い音が、耳の奥まで刺すように響く。

 

 一体何なんだ。


 そう思う余裕も無い程の高音に、思わず両手で耳を塞いだ。最早痛みに変わる聴覚に、目の前が真っ白になる。


 今西の短い悲鳴のような声が、高音の中に紛れた気がした。


 ぐらっと地面が揺れて、体重が消える。


「――……いでっ!?」


 冷たくて、硬い何かに叩き付けられた。


 慌てて身を起こす。頬を刺すように冷たい風が叩いて、地面からはその風よりも鋭い冷気が身体を走った。


 でも、寒さに身を震わせる事も忘れ、辺りを見渡す。


「…………」


 低く垂れ込み、空を覆う、鉛色の雲。


 それ以外は、全て白。


 大地も、枯れ切って立ち尽くす木々も、山も、何もかもが、雪と氷に覆われた平原に、ぽつりと俺は倒れていた。


 呆然としてしまった中でも、時間は歩みを止めない事を知らせるように、吐く息が淡々と、白く染まって消えて行く。



「なん、だよ、これ……」



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