009. 小さくも勇ましく
「…………」
エハアラは肩で息をしながら、真っ直ぐこちら見据えていた。
もうコノセちゃんには見向きもせず、憎々しげに目をぎらぎらさせながら、俺を見ている。今までみたいに、すぐに飛びかかって来たりせず、両手の指を僅かに閉じたり開いたりしながら、俺の出方を伺っているようだった。さっきの攻撃が効いてるんだろう。身から滲んでいた、覇気のような堂々とした雰囲気に陰りを感じるし、気の所為だろうか動きもどこか鈍い。
もう一度。もう一度叩き込めば、きっと動きを封じられる筈だ。
そう言い聞かせ、エハアラの爪が掠った、左
剣の切れ味は、思っていたよりよくは無い。多分、扱い方は鈍器に近いのだろう。斧やハンマーのように力を込めて振るって、叩き斬るイメージだ。包丁のように引いて切るのでは無く、打ち込まなければならない。逆に言えば、
ビビるな。
一撃一撃に、全力を込めろ。
急かすように全身から、じっとりと汗が滲んだ。
呼吸はやけに早くて、恐怖で心は落ち着かない。
森を後ろに立っているけれど、大丈夫なのだろうか。もう一匹エハアラが現れてしまったら? もし挟み撃ちにされたら、どうしよう?
命の遣り取りをしていると、肌で感じる。
剣に付いたエハアラの血が、さんさんと降り注ぐ太陽の光に、不気味に輝いた。
今度は何の声も上げずに、怪物が動く。
余計なエネルギーを使わないかのようなその判断は、今までよりも鋭い速度での踏み出しを作った。上体を軽く倒し、風を切るように頭から猛進してくる。
懐に潜り込むタイミングを見計らい、突き上げるように下から放たれるのは、左の手刀。黒ずんだ四つの爪が一本の槍となって、俺の顎を脳まで貫こうと飛んで来た。
だが俺には、大凡その軌道が読めていた。
左腕を使って攻撃してくるだろうという事は、さっき背中を斬り付けた瞬間から考えていた。
右肩から斬り結んだ一筋は、最初に刃を食い込ませた場所から徐々に、浅い傷を作るようエハアラの身体を走っている。つまり、最もダメージを受けたのは右肩。
だから右半身に意識を集中させて、奴の攻撃に備えていた俺は、咄嗟に右足を引きながら、両腕を頭上へ掲げる。
ぶんっと唸りを上げるエハアラの爪が、つい
ガツッと、頭蓋骨と
すると、首の骨が折れたのか糸が切れたように、エハアラは原っぱへ倒れ込む。受け身も取らずに伏せた身体は、急に指の一本も動かなくなった。
「…………」
突然静けさを取り戻した原っぱに、俺の荒い息遣いだけが響く。
余りに呆気無い幕切れに、俺は恐る恐る剣を構え直すと、切っ先がギリギリエハアラの頭に届く距離まで後退り、ちょんちょんと剣でつついてみた。
……ぴくりともしない。かち割られた頭は、深く赤黒い傷を晒して、そこからだあだあと血を垂れ流し、今も原っぱも血の池にするように溢れている。
「……た……。倒した、のか……?」
答えるように、風がそよいだ。
緊張の糸が切れた俺は、空を仰いで息を吐く。
「――はあっ! もう何なんだよこれえ!」
力が抜けてしまって、その場に尻餅をつくように座り込んだ。
「もーマジで死ぬかと思ったわ! 洒落になんねえっつのぉ!」
「たっ、助けてええ! 助けてくれぇえ!」
エハアラの爪が掠っていたらしい。顎の浅い擦過傷から滲む血を、ぐいっと手の甲で拭っていると、背後の森から、さっきのおっさんの声がした。俺は咄嗟に振り替えると、半分腰を上げる。
ガエルカおじさん、だったか? さっきコノセちゃんが言ってた、狩りに出てたとか言われてたおっさん。
「誰か、誰かいないのかあ!?」
悲痛な叫びに胸を裂かれそうになるが、声の響き具合から見るに、そこまで奥から発せられている声ではないと気付く。
でも、どうしよう。
俺は中途半端に腰を上げたまま、森を見据えて迷ってしまった。
エハアラがまたいるかもしれない。今度は一匹とは限らないし、エハアラとはあの森の奥の洞窟に住んでいると、コノセちゃんが言っていた。つまり、こいつらの棲み処に近付くという事だ。今度も勝てる保証なんて無いし、何せ、怖い。
あの、「俺は今生きているんだ」という、追い詰められて感じる生々しい生の実感。
その感覚を奪われてしまうかもしれない、目の前に迫る恐怖。
あんな恐ろしいもの、もう二度と味わいたくない。
でも、でも。
でもここで放っておいたら、あのおっさんは。
「……見返りは期待してもいいんだろうなあ!?」
どうしようもなくなって、半分やけくそになって吐き捨てると、俺は森へ駆け出した。
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