大きな緑のリングが2つ。二重の円が、変わりばえしない大空の風姿を飾っていた。

 可視光では無邪気に遊ぶ親子鳥に見えるかもしれない。しかし彼らの感覚を覗けば、円の中心からもたらされる電磁の幹線が映っただろう。

 漫然と周回しているわけではない。巣に帰るために、着地可能な速度まで減じる運動である。それは秘境に迷った少女にも分かった。


"ねえ、どこに向かっているの?"


「そりゃあ街さ。僕の家だよ。タラクサカムってところさ」


 ジャクルの視覚にも芥子粒のようにしか映らない点が、回転するごとに拡大していく。徐々にその形が透視できるようになる。


 水滴。大地から伸びた新芽に萌える木の葉に、一滴の水が付いているようであった。

 中央が下に膨らんだ浮遊する土台の上に、涙滴型のドームが乗っている。比べるもののない成層上ゆえに縮尺がつかめないが、少なくとも街というだけの規模はあるようであった。都市の底、中央付近の最下端から管が垂れ、暗雲渦巻く対流圏に接している。


 回転の半径を狭めていき、都市が見上げる大きさになる。透明なドームの中には植物が繁茂して、その間に押し込まれたように腎臓の建築がはみ出していた。ジャクル達の他にも、青や黄色の飛翔体が出入りしている。ドームの下、灰色の浮遊構造体に開いた穴に向けてその身をひるがえした。


 すでに音速以下まで速度を落としていたが、それでも着地するには勢いがつきすぎている。機体を少し下方へ傾けて着地の準備。

 腹に石が乗ったような重さ。空気が濃くなっている。標準大気圧下では風船ばりに飛んで行ってしまう紅蜂を押さえつけて、壁に激突しないよう飛ぶ。


 機体の腹から鉤爪が伸び、空中に張っていたワイヤーにかかった。高度ががくんと下がり、次いで頭が上がったために上向いた揚力によってふわりと上昇。あたりに人がたむろする頃には、蜘蛛の糸に止まった綿毛のように、空中でふらふらと揺れていた。

 密度的には本来浮かんだままのはずであったが、何故だか段々と沈んでいっている。真っ青な服を着た整備員たちが不思議に思い集まってきた。


 機体上部の切れ目なく続く外板が脈絡なく開き、中から赤い布に銀の刺繍が入った人型が出てくる。

少年、ジャクルは投げ矢のような細さの上に腹ばいになり、自身以上に真っ赤な愛機の中に腕を突っ込む。空気より軽やかな蜂に乗った重石を、気合と共に引きずり出した。


「ぷは!」


 銀の笛が声を奏でた。辺りにいた全員が目と耳を疑う。一人で出動したはずの飛翔士が2人になって帰って来た。内分泌系から遺伝子までくまなく改造された飛翔士にも、分裂増殖はできないはずであるが。


 そんな声なき疑問が満ちるのも知らず、ジャクルは格納庫の床に飛び降りる。少女が続くのを待つが、小型の飛翔体とはいえ直径は2m弱。少し浮いている分を含めれば3mの高さは、訓練を受けていないものには辛い段差だ。


 大気の粘性を流すための、微細な凹凸がついた円筒につかまる。全身でくっついて身体を伸ばし、足をつけようと無駄な努力を試みる少女。ワンピースの裾を蹴って落下速度を殺そうとする様は子鴨のようで可愛らしい。

だがジャクルからすれば、まどろっこしい事この上ない動作だ。


「そんなにひっつかないでほしいな。手脂を洗うのは僕なんだぜ」


 少女の腰を両手で掴むと、機体からはがし降ろした。ひゃあ、と、情けなくも美少女の特権で聞こえの良い悲鳴を上げてへたり込む。

 

 さすがにこの無礼は看過できなかったか、切なげに下がった白い眉を吊り上げて睨む。しかしジャクルの方は、妙なものに触ったように自分の手を見つめるだけであった。

 その様子に少女が冷静さを取り戻す。彼女は異邦人なのだ。どこかに少年が怪しむ要素があったかと、恐れに身をすくませた。

しばし目をつむっていた少年は、判決を告げる裁判長の厳然たる声音で告げる。


「君すごい重いね!とんでもなく重い。何を食べたらそんなになるんだい?重元素?」


 少女はその言葉が意味する事をしばらく沈思黙考する。充分に噛み砕き、自らと彼の立場を勘案した上で、なすべきことを行動に移した。

 即ち脚から背中にいたるバネを駆動して接近。腰の捻転を肩肘の関節で加速し、白魚のような指も美しい繊手を打ち込んだのであった。教本にでも載りそうな完璧な平手打ちである。


 ジャクルの体軸は270度傾きながら2m半吹っ飛び、首から滑走。着地した。

 少女が正気を取り戻すと、ジャクルは日向ぼっこをする爬虫類のように床に横たわっていた。野生の肉食獣に当てる視線が彼女にそそがれる。




 丸い部屋であった。木と紙でできた気球のような天井。床はつやのある木製で、雑多な小物をかけるハンガーラックが文字通り生えている。木の枝を折ることなしに、そのまま建材に用いているのだ。壁紙の模様にも見えるパイプ類からは、水や空気のながれるくぐもった音がする。

 そんな些細な音まで感じられる静寂の中に、不釣り合いな数の人影。幾人かの体格のいい男たちは、肩に長銃を負っている。物々しい気配が部屋の大気圧を押し上げていた。


 長方形のテーブルの、入り口側の端には少年と少女。その反対には、幼女がいる。

 どうにも珍妙な光景であった。少年少女と幼い子供が向かい合い、そして子供の方が明らかに上の立場としてふるまっている。招かれざる客人である少女はともかく、少年、ジャクルの方も、ぶしつけなまでの陽性を隠して大人しくしていた。


 ワインレッドと言おうか、深い赤の髪の幼女であった。光の当たらない部分は黒いのに、茶色がかった所は見られない、不思議な輝きを湛えている。瞳は落ちれば音もしなさそうな漆黒。体躯は幼いが、顔立ちを見ると幼少期の丸みに乏しく、鋭利に通った鼻先に色香さえ感じる。ちぐはぐな印象が、得体のしれない迫力を生んでいた。


 身体相応に小さな手が、水差しから木のカップに液体を注ぐ。一定の量を途切れることなく。まるで一本の糸であった。泡立つ音もさせずにカップのちょうど八分目まで入れる。樹脂製のビンから小さじすりきり一杯の粉を落として溶かす。

 完全に透明になったことを確認して口に運んだ。半分も飲んだあとに、ようやく儀式のような給水を終わらせる。


「本当に貨物コンテナに乗っていたのかい?このお嬢ちゃんが」


「本当だってばあちゃん。雲の下から打ちあがってきたんだよ。コンテナはもう雲の近くに落ちちゃっただろうけど」


 ばあちゃんと呼ばれた幼女が円月刀のように目を細め、少女を見やる。怯えて縮こまる銀髪の少女。鰐に睨まれた白ウサギの様であった。


「名前は何て言うんだい?」


「え、名前?」


「そうさ名前だよ。おいとかお前じゃ風情がないだろがい」


「ああ、それもそうだね。ねえ君名前はなん``っ!」


 首を横に回し問いかけたジャクルのこめかみを、小さじが雹のような勢いで突いた。幼女の投げ打ったものである。


「あんたここまで名前も聞いてなかったのかい!呆れた無神経だね。飛ぶこと以外まったく気配りがなっちゃいない」


「づう。しょうがないだろ!鯱と戦ってる最中におきたんだよ?そんな暇ないって」


「だったら街に着いた時聞けばよかったじゃないか。何も話さなかったとでもいうつもりかい」


「いや、なんか君凄い重いねって言ったらあ``っ!」


 ジャクルの足に少女の貰い物の靴が埋まり、樹脂製のビンが額を強かに打った。


「話にならんね。お嬢ちゃん。自己紹介は出来るかい?っと順番がちがったね。あたしから名乗ろう。この街で飛翔士の長を務めている、タリアというもんさ。お嬢ちゃん、名前は?」


 表情の険を和らげて問う。少女は逡巡していたが、覚悟を決めたのか口を開いた。


「私の、名前は、アンジールといいます」


 少し震えている以外はいたって普通の、少女の声。それだけいって、また口を閉ざす。ジャクルは最初の意味の分からない悲鳴を思い出したが、やはりあれは錯乱が生んだ無意味な発言であったかと勝手に納得する。


早とちりではあった。だが、 少女がここに連れてこられるまでに、周囲から拾った雑音から彼らの言語を習得したと推理しろというのは流石に酷であろう。

 タリアはもう一度カップに口を運び、今度は飲み干した。その間、アンジールは黙ったままである。


「名前は分かったさね。いいことだ。名前も無しにここでの生活は面倒だからね。だけどね、あんたが何者か分からなけりゃ、ここに迎え入れることは出来ない相談さ。歳は?家族は?どうやってここに来て、どうして雲の下になんか潜ったのか。なんでもいい、答えてくれなけりゃ、ここでずっと待たせてもらうよ。生け簀の中に飼われたエビのようにね」


 どこか冗談じみてさえいる台詞。しかしその端々には、霜が降りる前の夜気の冷たさがある。もし黙ったままなら、本当にこの部屋に閉じ込め続けるだろう。

 無情であるかもしれないが、冷酷ではない。雲の下から打ち上がってきた名前しか分からない根無し草など、害はあっても益は無いのだから。

 協力的でなくとも生かしておく分だけ、慈悲深いといえた。


 助けを求めるように、ジャクルの顔に表情を合わせる。しかしそんな抽象的なぜスチュアで気が付くような者なら苦労はない。漆のような輝きの頭を少し傾げ、アンジールが何をか喋り出すのを待つばかりである。

まさに孤立無援。十代の半ばも過ぎていないであろう少女には厳し過ぎる試練であった。

 周囲の大人たちも、長い沈黙に焦らされて横に目をやったり、担いだ長銃をかけなおしたりして集中力を切らし始めた。

危険な傾向である。思わぬ事故というのは緊張の合間の無意識の弛緩から生まれるもの。アンジールにも、その殺気じみた疲れが伝わる。

 

 ついに決心したのか、心持ち胸を張って息を吸う。オペラの独唱を見守るように、部屋中の視線が少女大の空間に集まる。


「私は、地上から逃げてきました。家族のことは、分かりません。ずっと閉じ込められていて、攻撃を受けて、空へ逃がされました。ほかの事はなにも知らされていません。どうか、ここに置いて下さい」


 自分で自分の置かれた状況を確認するように、途切れ途切れに身の上をこぼす。しばらくの沈黙が気密球の中を支配し、弾けるような笑いが球全体を震わせた。


「「うわはははははははは!!」」


「え、え?」


 突然自分以外の全員が笑い出したことに困惑して、小動物じみて首を巡らせる。そんなおどおどした様子を見て、さらに笑い声が強くなる。


「いやあ、大したお嬢ちゃんだ!タリアの婆さんに睨まれて、そこまでの大法螺吹けるやつはそういないぜ」


「婆さん、歳食って眼力が弱まったんじゃないかい?」


「言うね小僧。お前さんが鼻垂らしてた時によくやってたお仕置きを覚えているかい?」


「うへへ、こうも薄らでかくなったんだ。もう勘弁だよ」


 急に饒舌になった周囲の大人たち。もう怪しげな来訪者を警戒するそぶりは見当たらない。どこに皆を安心させる事実があったのか分からず、アンジールは目をしばたかせるだけである。


「わはは、いやあ笑った。ねえアンジール。いくら何でも地上はないよ地上は。最後に地上から人が来たのが何年前だと思ってるのさ」


 笑い過ぎで出た涙を拭くジャクル。その眼を見て、何を驚いてかアンジールのまぶたがいっぱいに引き上げられ、胸が上下する。


「80年……?」


「なんだ、知ってるじゃないか」


 空に暮らす者にとっての常識。地上はとうに滅びて、今や人類は太陽系に広がって細々と生き延びている。成層圏以上の大気圏は、地球が生命の存続を許す、薄皮一枚の領域であった。



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