絶空のカーバンクル
@aiba_todome
空と宙の間
真空と暗雲の黒の狭間。覚めない嵐が淀む大地に、薄く張り付いた青い大気。地上90kmの熱圏を赤い流星が切り裂いた。
碧のイオンを噴出し、重力のくびきを振り切って飛ぶ一条の槍。
胴体は細い。機首は丁寧に削った鉛筆の先のようである。前後に二枚ずつの羽根は、昆虫のそれに見え、あるいは初夏の青葉、あるいは一種の海洋生物に似ている。
複雑に見えて一定の間隔で枝別れを繰り返す管に、半透明の体液が流れる。そこから供給されたイオンを、翼膜に空いた小孔から電磁的に加速して放出。緑の軌跡を残して、自転さえも置き去りにする。
キャノピーに見えたのは巨大な複眼であった。前の小さな二翼が視界を遮るのか、時おりちょこちょこと動かしては後方を確認している。
赤の胴部に碧の翼。果てしなく紺碧の空間に、鮮烈な一筆を引いて、孤独に地平の先を目指していた。
その巨大な眼に恥じない視力が、数百kmの先を捉える。下方6万m。機体の鼻先ほども無い雨粒のような点は、しかしその飛翔体の帰り着くべき場所であった。
翼を覆う碧の霧が薄れ、ケイ素質の薄膜が露わになる。地上から見れば無いも同然だが、無視はできない空気抵抗を受けて徐々に減速。
ここで急いではいけない。下に行けば大気が濃くなり、運動量の発散も大きくなる。制御できなければ台風の底まで真っ逆さまだ。
機体の全面を包み込む生体センサが大気濃度の増加と表面温度の上昇を伝える。微量の空気分子に少しでも熱を逃がすためにグラフェン浮遊構造が振動。ぴいん、と銅片を叩いたような高い音がかすかに響く。
遥か向こうの点から放射される電磁波に沿って大きく回転運動をとる。ちょっとした国の国土がすっぽり収まる半径の円を数分で周り切り、皮をむくように孤を狭めていく。
引力の方向と平行になった機体。その複眼のいくつかが陰った。
認識の最下、永遠に渦巻く暴風を錐のごとく抉り抜いて何かが上がってくる。第一宇宙速度に限りなく近い。あっというまに赤い飛翔体の高度を超えた。
帰還行動を一時中断し、未確認飛行物体の追跡を開始する。
雲から上がった飛行体は弾道を描き、重力と帰還点からの電磁的引力によって緩やかに下降していた。ここから無理に近接しようとしても、ほんの一瞬交錯するだけだ。赤い飛翔体は一旦高度を落とした後、銀に光る飛行物体の軌跡に重なるよう、螺旋に回った。
翼が表面積を広げて、分子をバネに跳ね上がる。イオンの緑の航跡がエメラルドのように輝いた。
飛行物体は砲弾の形をした貨物投射用のコンテナだった。小型のものならたまに使われるが、人が乗れそうな大型のものは珍しい。
人類が別の惑星に生存領域を確保しようと錯誤していた時代のものである。
全球を蓋する乱雲を突き抜けるとは素晴らしい性能であるが、流石にかつてと環境が違いすぎる。このままでは成層圏付近の浮遊ゴミになるだけだろう。
それでも構わないが、飛翔体の知性はその中身に興味を持った。彼が生まれて以来、下から物が上がってきたのは初めての事である。飛行物体の回収は質量的に難しいが、中に貴重品があれば持って帰りたい。
相対速度が増大して、砲弾の外板に付いた傷まで解る距離にくる。すれ違ってしまえば、対流圏近くまで落下して回収はほぼ不可能になる。確実に座標を合わせなければならない。
帯電した翼膜を目いっぱいに広げて、大気荷電粒子の反発で急減速していく。複眼からは止まったように見える銀の筒。その真中あたりにハッチを見つけた。
ゆっくりと機体の上部とハッチの位置を合わせ、触れ合うほどに距離を詰める。当たると思われたその瞬間、機体の上部が開き、内の筋肉組織がハッチに吸いついた。
貝の殻を器用にこじ開ける蟹のように、触手が砲弾の開口部を撫でると蓋が外れる。中を探掘しようと飛翔体の中から何かがせり上がった。
人である。歳は若く、小柄だが引き締まった体躯の少年。飛行機の胴体と同じ真っ赤な胴衣と、茜色のサイバーグラスを身につけている。
光の加減によっては赤く瞬く黒髪に、グラスの奥で蠢く瞳は満月の色。男としてはそこそこに伸ばした髪を、軽く後ろへ流していた。
肌に吸い付く胴衣の、細かく縫われた金刺繍が目に眩しい。ずいぶん派手な装いである。その首がせわしなく動き、内部を探る。許される時間は分も無い。手づかみで小物をハッチ方向に放り入れる。
その手が止まった。視線が部屋の奥に集中する。
酸素カプセル。前時代の医療器具が傾いた部屋の中、ただ一つ重力と垂直を保って置いてある。二軸の枠にはめられているベッドは、その部屋の主人の風格があった。素早く近寄って覗き込む。所々曇ったアクリルの天蓋に人の影。
少女だ。そう思った時、機体の視覚が異常を告げる。雲を突き抜けて浮上する巨影。
「
機体の警戒を伝えてか、びん、と少年の耳の奥が鳴った。
家捜ししている暇は無い。拳大のボタンを叩くと、アクリルの蓋が開いて、むせかえるような高濃度の酸素が吹きつける。白いワンピースをかぶっただけの少女を抱え、開口部に飛び込んだ。
ゲル状の筋肉組織の中に網目のようにはり巡らされた人工神経が透けている。軽く膝を曲げ胎児の姿勢をとると、半流体の腕が全身を包んで、脳幹付近から外に出た量子通信端末に神経が入った。
視界の端に丸く映っていた空の景色が、脳の中まで入りそうなほどに増大する。全天が知覚に飲まれ、裸で宙に投げ出されたような気がする。
幼い頃は恐ろしく思えたが、今となっては限りなく自由だ。少年と機体は互いの臓器を融通し合い、一つの生命となった。
遮るものの無い絶空の間で、しかし影の輪郭は曖昧であった。本来肉眼では捉えられないメタマテリアルスキンの外皮。複眼が多角的に電磁波を感知することでようやくに浮かび上がる。
一際目だったのは少年の機体より大きな尾翼。その身にかかる抗力を受け止める錨を、まさに海の魔物の如く振るい、機械油のようにまとわりつく雲の粒子を打ちのけて上昇。
胸びれから赤の荷電風が吐き出され、効果の無い迷彩を切って現れた黒々い肌が震える。鋭い牙の代わりに備えるメガワット級光学射装8門。20g純炭素弾電磁投射筒2門。どれもかすりさえすれば小型の高高度飛翔体など粉みじんにできる。
主を失い、務めを忘れてもなお、本能だけで血を求める、海魔の名を冠した
黒き巨船の頭頂部にある、ドーム状の光学射装が照準を向ける。赤の飛翔体は翼に纏うイオンの流量を調整することで、電気的反発にムラを作りバレルロール。加熱された分子の波を生体センサが捉える。
少年にとってはむしろ心地よい程度の加速度であったが、珍客にとってはそうでなかったらしい。肺から空気が押し出され、むぐ、と可愛い呻き声をあげてまぶたを開く。まばたきを数回、そしてその眼を限度いっぱいに見開いた。
「q¥¢w*e!?w+er-#th!?」
なにを言っているのかさっぱりであった。広いようで狭い天と地の狭間。言っている事が分からない連中はいても、単語の意味まで理解できないことはなかったが、少女の発した言葉は少年の言語野にかすりもしない。
「すまないけれど!落ち着いて話して欲しいな!何を言ってるかわからないよ」
少年の存在に今気づいたのか、少女の体が固くなる。次に頭の内側から声が届いた。
"ど、どこ?ここはどこ!?"
耳を通さない奇妙な声に、しかし少年は驚かない。というよりそんな暇はない。戦闘中なのだ。
「どこって僕の愛機の中さ!名前はフェニ!ようこそ
取り留めもなく言いたいことだけ言われ、目を白黒させる。ジャクルと名乗った少年に説明の才は乏しいようであった。
警告を聞き入れたというより、何が何だか分からないままで固まった少女にまたも強烈なGがかかる。
その致死の枝葉を、蜂が草花の合間を縫うように抜け、翔ける。マッハ二桁の速度域で射線を見極める動体視力。愛機フェニの持つ最大の器官たる複眼の解像度は、光学射装の砲口まで描画する。
"な、なにあれ!?"
「鯱さ!見ればわかるだろ!?うん?見えるのかい!?」
当然ながら、機体に窓などついていない。本来一人乗りの空間にすし詰めになっているのだから、機内は首も回せない有様だ。
ジャクルはフェニと量子的に神経接続されているので、自身の目が見えずとも構わない。だが少女には外を覗く術など無いはず。
"えっ、あっ。み、見えないわ。なんにも見えてないもの。あ、あれー。ここはどこでしょう"
「君嘘が下手だなあ。びっくりするほど棒読みだ!まあいいや周るよ!お腹に力込めて!」
"ふえ?"「ふむぐ!」
今まで地と思っていた方向が消失し、真上が下になる。首にかかる重圧に思わずうめいた。
持ち上がった振り子が落ちるように降下。数瞬前の座標に熱線が注ぐ。位置エネルギーを用いて回避したものの、食らいつくように追ってくるオルカは振り切れない。
当然と言えば当然。高高度での運用を前提にした
最大限に機器兵装類を積載しても10kg以下。乗員を含めてようやく30kgを越える程度。このような低密度では空気に対する浮力すら無視できない。
下がれば下がるほど上方へ打ち出す抵抗は強くなる。
しかも機動で逃げようにも荷物に女の子一人前。無理に動けば死んでしまうかもしれないし、何より機体が危ない。
黒点がそのかさを増して日を陰らすほどにもなる。表皮の一部がズレ、親指大の射出口が現れた。
電力が集中し磁力線が乱れる。それを複眼が感知したと同時、ジャクルは機首の角度を深めイオンをふかした。
空気の抵抗と機体の運動ベクトルのバランスが崩れ、紅い矢のような体が縦に回る。丁度半回転した瞬間最大量のイオンを噴射。
Gに引き伸ばされ、麺の生地の気持ちを味わう。機体は増大した抵抗により本来在るべき未来位置から大きくズレ、斜め下へ堕ちていく。
その軌道に接するように、一筋の魔弾が虚空を穿つ。ジャクルだけなら華麗に回避できたろうが、来客の分だけ減速が遅れた。衝撃波に煽られて飛翔体が振動し、少女の悲鳴が人工筋肉に吸収される。
だが避けた。ぎりぎりとは言え無傷のまま生き残っている。そして一度勢いがつけば、大型機の方が止まるのは困難であるのは自明の理。水面に飛び込む魚のように、黒い無人機が前に躍り出た。
四枚の羽根を小刻みに動かして縦回転を収め、姿勢を安定させる。ぼんやりと全周を見ていた視覚は、眼前の敵に焦点を合わせた。微妙にズレていた像が重なり、相対速度でも音速を超える敵をはっきりと捕らえる。態勢は整った。
飛翔体には、役割や形状に応じて名前が付けられる。小型から中型の飛翔体には蟲にちなんだ名称。
与えられた職分ごとに色が与えられ、同色の宝玉にちなんで、偵察には青い
そして、敵性体の迎撃任務に当たる機体には、赤の
か し
機体の全部下方が雀蜂の
既に1km近く離れた距離は、秒に満たぬ時を与えたに過ぎなかった。電磁加速された弾体は微量の大気を食い破って、光の尾を残しつつ、鯱の外殻にクレーターを刻む。一瞬惑星の中心に迫る圧力を受けて、流体の性質を持った弾丸は装甲を浸食し、その奥に隠された人工神経節を電離化した。
光に遅れて、巨獣が爆炎を吹く。その上を赤い蜂が悠然と飛行している。
”すごい。倒しちゃった”
「いいやまださ!オルカの神経節は13個ある。あと2つは破壊しないと振り切れない!」
重油のような照りをもつ外皮。そこに開けられた破孔が膨れ上がる。グラフェン浮遊構造を補充して緊急修復を終えた海魔が、再び小虫を喰らわんと機首を上げて。
頭頂の光学射装もろとも神経節を爆砕された。ほぼ同時、千分の一に満たぬ時間差で背面の外皮が半球状に潰れた。複数の仕業ではない。直線軌道を描く電磁投射筒の砲撃を、複数機が平行に打ち込むことは不可能。
二挺の電磁投射筒を用い、紅蜂の動体分解能をもってして初めて確認できる時間差で、弾丸を神経節へと撃ち込んだのだ。空中の針の穴ふたつを、一本の糸でつなぐが如き絶技である。
被弾によって混乱していた鯱の認識には上らなかったが、ジャクルにはもちろん見えていた。ジャクル操る紅蜂の倍ほどの大きさ。赤い機体に大きな四つの羽根。
「
『ジャクル!!帰還軌道から抜け出たと思えば雲臭いデカブツなんぞ連れて来よってからに。三週ばかし井戸さらいをしたいのかい!?』
骨髄にまで響く高い怒声。量子通信によって神経から流れてきたに過ぎないが、やはり怖いものは怖い。ジャクルはばあちゃんと呼んだいやに幼い声の主に、すぐさま言い訳をならべた。
「違うんだって!下から変な弾が飛んできたんだよ。中に女の子が入ってたんだ」
『黙りな!なんだいそんな与太。キノボリハゼの間抜け面だってもちっとましな口をきくよ』
「本当なんだから。戻ったら紹介するよ」
『けーっ、そんなことより、速いとこあの油玉を浮遊ゴミにしてやるんだ。街に当たりでもしたら大ごとだよ!』
「了解!横からいく」
すでに神経節を3つまで砕かれ、制御に問題が生じている上に、増援によって数の不利がのしかかる。互いの地位は逆転して、狩られるのは海魔の方であった。
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