episode:20【チクリ、チクリ】


 小言を言う人物というものは、どこにでも存在している。中でも、職場に多いのではないだろうか。キャリアが長くなればなるほど、「人に頼むよりも自分でやったほうが早い」となってくる。


 もちろん、その気持ちも分からないでもない。特に入社仕立ての人物に教えるのは時間が掛かる。彼らはスタートの立ち位置さえ知らないし、ゴールの場所も道順も分からない。ゼロより左側にあるマイナス地点からのスタート。順を追って説明していかなければならない。


「だから、そうじゃないって前回も説明したよね? 何? もう忘れたの?」

「すみません……」


 朝から暗雲が立ち込める社内。古株であるEさんの怒号が室内の温度をいくらか下げた。恐ろしくて、彼女には誰も逆らえない。


 幸いなことに私は別の上司から仕事を教わり、入社三年目を無事に迎えることができたが、同期入社した男性社員は彼女の餌食になり、二ヶ月未満で退社した。


「で、さっき頼んだ仕事は終わってるんでしょうね?」

「……いえ、まだです」

「は?」


 「あーぁ。私がやってたら、もう終わってるのに……。早くしてよね!」Eさんは上から嫌味を落とし、新入社員であるYくんの元から去っていった。


 彼女の姿が消えた瞬間、周りにいる社員たちは一斉にYくんに駆け寄った。


「大丈夫? あんな言い方しなくてもいいのにな!」

「気にしちゃダメだよ!」

「そうそう! 分からないことあれば、何でも俺たちに聞けよ!」


 「ありがとうございます!」とYくんは頭を下げた。Eさんは彼を『使えない』と言うが、全くもってそんな事は無い。むしろ、Yくんは細かいところに気が付き、サポートが上手い。今は新人だから分からないだけであって、経験を積めば頼りになる存在となるだろう。


「早速、教えて頂きたいのですが​──」


 おまけに物腰が低く、仕事熱心。残業だと告げられても文句を言うこともしないし、『休みたい!』と声を上げることもない。言うことないくらいの出来た新人さんだ。


 Yくんの頑張りは周囲から認められている。Eさんの下で文句を言わなかった新人は今までいなかった。きっと彼も内に秘めている感情はあるだろう。しかし、それを誰にも言わず、「自分が未熟なばっかりに、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と謙虚に働いている。私なら無理だ。彼のようには働けない。実際、Eさんに指摘されたとき、言い方に腹を立て、可愛がってくれている上司に愚痴を溢したことがある。


 おそらく、他の人たちも同じ。だからこそ、Yくんをみんなで可愛がっている。彼が困っていたら、咄嗟に手を差し伸べてしまう。──Eさんは、それが面白くないらしい。


『まるで私がYくんをイジメてるみたいじゃない』


 「その通り! ご名答!」心の中で叫んだ。本人も少しは自覚しているようだ。分かっていながら、後輩いびりをしているのだとしたら、相当歪んだ性格をしている。他にストレスの発散場所がないのだろうか。こちらに向けられても困るのだが……。


「あの、ちょっといいですか?」


 昼休み、突然Yくんに声を掛けられた。席が離れている私の元を彼が訪れることは珍しい。私から彼のデスクに行くことはあるが、彼が私のところに来たのは二・三回程。


 「場所変えようか」会社を出て、近くにあるハンバーガーショップへ向かった。ここなら絶対に健康嗜好(しこう)のEさんが現れることはないから。Yくんの表情から、何となくEさんの話だろうと踏んだ。


 実際、彼の口から出たのはEさんの話だった。


「言おうか迷ったんですが……俺、見てしまったんです」

「何を?」

「Eさんと部長が──」


 それは衝撃の告白だった。『私には仕事があれば十分! 男なんて興味ない』と豪語していたEさんが、まさかの不倫……。それも相手が部長……。部長の奥さんも同じ部署で働いているというのに……。


「この話、私以外にも話した?」

「──はい」


 にこっと彼は口角を上げた。今まで溜め込んでいた彼の黒い感情すべてが笑顔に凝縮されている。影を落とした顔で彼は呟いた。


他人ひとにしたことは全部自分に返ってくるってことを、あの人にも教えてあげないと──ね? 先輩」


 その翌日、会社にEさんの姿はなかった。長年彼女が使っていたデスクはあるじを失い、すっきりと綺麗に片され、新たな誰かを待っていた。部署内に動揺が広がっている。Yくんに視線を送れば、あろうことか私にピースサインを送ってきた。


 昼休みになり、またYくんが私に声を掛けてきた。彼についていくか迷ったが、Eさんが消えた真相を知りたくて、昨日訪れたハンバーガーショップに今日も彼とやって来た。


「これで部署にも平和が訪れますね!」


 明るい表情で大きく伸びをする彼に「ねぇ、一体誰に話したの?」と私は詰め寄った。


「決まってるじゃないですか! 部長にです。それはもう──チクリ、チクリ言いましたから。部長、わざわざ高い個室のレストラン予約して、終業後に連れて行ってくれたんですけど、そこにあの人を呼んで俺に謝罪させたんです。見せたかったなぁー、あの人の無様な泣き顔」


 ククク……と上下する喉仏に私は恐怖を覚えた。だが、本当の恐怖はYくんの背後に──おぞましい顔をしたEさんがガラス越しに立っていた。



チクリ、チクリ【完】

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