第4話

 隆太郎は嘘をついた。暗号の解読を探偵事務所に依頼したのだが、その際「父が作ったもの」と説明した。差出人不明と言って、何か事件性を疑われでもしたら、話が大きくなってややこしいことになりそうだったからだ。岩井という探偵はほんの少しだけ訝しげな顔をしたが、事情を聞き出そうとはせず、解読を引き受けてくれた。わけありの客には慣れているのだろう。

 一夜明け、木曜の朝、横溝が電話で暗号の答えを教えてくれた。聞いてしまえば「なんだ、そんなことか」と言いたくなるような仕掛けだが、自分は気付かなかったのだから何も言えない。

 喫茶「小春」はここから歩いて行ける距離にある。なかなか洒落た雰囲気の店で、客は立教大学の学生が中心である。そう言えば、近頃は幻影城にこもりきりの父も、かつてはよくあの店で珈琲をすすりながら原稿を書いていた。

「午後三時、喫茶『小春』」

 日付が示されていないということは、恐らく昨日(水曜)の午後三時だったのだろう。何事かあったのかも知れないが、もう遅い。甲賀が「早く解いた方がいい」と忠告したのはこういうことだったのだ。

 横溝に礼を言って電話を切った後、郵便受けを開くと、二通目の暗号が届いていた。これも甲賀の言った通りだった。やはりあの男は侮れない。性格の悪さには目をつぶって――それにはかなりの努力を要するが――助力が得られるなら頼もしくはある。が、彼には変に律儀なところもある。父との約束に反してまで、これ以上この件に関わってくることはないだろう。

 二通目の暗号は一通目とよく似ていた。差出人の名はないが、封筒やタイプの仕方、結びの「お宝頂戴つかまつる」という一文、それにヒントらしき品物を同封している点からしても、同一人物からのもの、すなわち「二通目」と見てまず間違いない。

 ヒントは「鏡」。丁重に厚手の布でくるまれていた。郵便屋が誤ってどこかにぶつけでもしたのか、はたまた差出人がわざとそうしたのか、鏡にはひびが入っていた。

 一通目の解き方を参考にすれば自力で解けるかも知れない。しかし一分間だけ考えて、すぐ諦めた。今度もまた当日中のある時刻を指定しているものだとしたら、時間がない。餅は餅屋だ。

 岩井に電話すると、一通目の答えに辿り着いていたところだった。素人の横溝に少々遅れを取ったわけだが、横溝の方が少しだけ早く解読を始めていたし、岩井にも色々と他の仕事があったのだろうから、責められるようなことではない。何はともあれ二通目の解読を依頼した。今日自分は昼過ぎに講義の予定で、学生たちの論文を読む仕事もある。研究室の番号を伝えた。

 続いて、横溝にもと編集部に電話をかけたが、席を外しており、その日は夕方まで戻らないとのことだった。仕方がない。

 隆太郎は昨日と同じように、午前中いっぱい暗号と見つめ合っていたが、やはり解けるはずはなく、岩井からの電話もなかった。

「またお勉強?」

 静子の声で顔を上げると、時計の針は十一時を回っていた。

「朝からあちこち電話したりして、何だか大変そうね」

「ああ」

「何かお手伝いできることがあったら言ってね」

「何もない」

「あら、そんな言い方しなくてもいいじゃないの」

 暗号の解読で火照った頭に、静子のぬるま湯のような声は、悪い取り合わせだった。

「お昼は何がいい?」

「何でもいい」

「何度も言うようだけど、何でもいいって言われるのが一番困るのよ」

「何でもいいんだから仕方ないだろう」

「材料だけでも何か決めてくれない?」

「あるもので適当にやってくれ」

 世界中のどれだけの男が、この「何がいい?」に苦しめられているだろう。何でもいいのだ、本当に。それを考えるのもそちらの仕事じゃないのか。何が出ても文句は言わない。他のことを考えたいんだ。

 こんなことを声に出すと、また女性の権利がどうのこうのと誰かにうるさく言われるだろう。だから声には出さない。声には出さないが、そもそも権利の話などしていないのだ。献立の相談をしないでほしいと願っているに過ぎない。正当な要求だ。やはり声に出してみよう。

「もう金輪際、献立の相談はしないでくれないか」

「どうして?」

「どうしてもだ」

 いやいや、落ち着け。

「だいいち何故、何がいいか訊くんだ?」

「だから、困るからよ」

「こっちも困っているというのがわからないのか?」

「わかるけど、毎日三食つくる方の身にもなってよ」

「こっちの問題だってそっちには相談しないだろう」

「してくれてもいいのに」

「無駄なことはしないんだ。だからお前も無駄なことはしないでくれ」

「無駄なことって何よ」

「だから、献立の相談をするな」

「食べたいものが何もないの?」

「ああ、もういい。昼飯はいらん」

「午後はお仕事でしょ。身体壊しちゃうわよ、昼間はまだ暑いんだから」

「じゃあ米と味噌汁だけでいい」

「はいはい。じゃあ何か簡単なものをね」

 やっと終わったか。まったく、随分時間を無駄にした。解けそうにない暗号を解こうとしている方がまだ有意義だ。

「何、その包み?」

 まだ続くのか。

「触るな!」

「大きな声出さないでよ、びっくりするじゃない」

「割れた鏡を包んであるんだ」

「割れた鏡?」

「この暗号のヒントだ」

 ああ、説明が面倒臭い。興味はないんじゃなかったのか。

「なんで割れた鏡がヒントなの?」

「それがわかれば苦労はしない」

「それもそうね」

 と言って静子は笑った。何がおかしいのやら。

「鏡に映したら読めるようになるとか」

「そんなわけあるか」

 なんて短絡的なんだ。

「見てみろ、普通の文字が並んでいるんだ。鏡に映しても逆さまになるだけだ」

「でも読める字もあるじゃない」

「何だと?」

「ほら、最初の『十』とか『土』とか」


 十 土 公 九 地 金 本 分

 六 午 茶 四 館 前 時 後

 園 天 民 夜 明 三 曜 日

 日 月


 確かに、左右対称の字がいくつかある!

「どう?」

「ちょっと黙っていろ」


 ――十土金本六茶天三日日


 さっぱりわけがわからない! 特に最後の「日日」は何だ。軍歌か。あれは「金金」だが。

「違うな。この読み方は違う」

「あら残念。私にしてはいいこと言ったと思ったのに」

「もういいから飯にしてくれ」

「何も食べたくないんじゃなかったの?」

「口答えをするな」

「はいはい。お邪魔しました」

 その通り、お邪魔だ。もう勘弁してくれ。

「あ、違うの。そうじゃなくてね」

 隆太郎は手のひらで机を叩いた。

「何なんだ!」

「だから大きい声出さないで」

「お前が出させているんだろうが」

「その包み、綺麗ね」

「包み?」

「ええ」

「包みがどうした」

「綺麗ねってだけなんだけど」

 それが一体どうしたというんだ。隆太郎はすっかり肩の力が抜けてしまった。

「それ、貰っていい?」

「駄目だ」

「でも、あなたのものじゃなくてお義父さん宛でしょ? お義父さんがいいって言ったらいい?」

「駄目だ」

「なんで」

「中の鏡は割れていると言っただろう」

「それで?」

「手を切らないように包んであるんだ。そんなこともわからないのか」

「違う布で包めばいいじゃないの」

 それは……そうだが。

「じゃあ、何か持ってくるから」

「待て」

 そうだ。ヒントは鏡だけとは限らない。封筒に入っていたものというなら、これもそうなのだ。もしや、この布も?

 ……いや、やはり布は関係ない気がする。包まずに入れておいたら、相手に怪我をさせてしまう恐れがある。それを防ぐための布だ。それだけのものだ。ヒントまで兼ねていては複雑過ぎる。甲賀がいうところの「読ませるための暗号」なら、そんなややこしい構造になっているとは思えない。

「何? 何を待つの?」

「この布もヒントかも知れない」

 多分違う。が、これだけ無駄話に付き合わされて、欲しい物をくれてやるというのは癪だ。

「その布でこすると答えが浮かび上がってくるとか」

「お前の考え方はどこまで単純なんだ」

 呆れ果てるとはこのことだ。けれども念のため、あとでやってみよう。あくまでも念のためだ。

「じゃあ、暗号が解けたらその布ちょうだいね」

「そんなに欲しいのか」

「だって随分いいものよ、それ」

 まったく、女というやつは飾ることにしか興味がないのか。言いかけて、やめた。また長くなってしまう。

「頑張って暗号解いてね」

 静子は勝手なことを言って去っていった。やるとは言っていないぞ。

 さて、結構な回り道をしてしまったが、ヒントはやはりこの割れた鏡だ。鏡なのだから、当然何かを映すのに使うのだろう。

 先ほど試した、文字を反転させるやり方も、もしや当たらずとも遠からずなのか? 例えば「十土金本六茶天三日日」を、文章になるように並び替えるとか……駄目だ。意味をなさない。ならば、これを何かに置き換えるとか?

 本職の探偵に依頼したのだから待てばいいとは思いつつも、ここまで労力をかけてしまうと、やはり自力で解きたくなってくる。暗号にはロマンがあると横溝は言った。ロマンという感覚は正直わからなかったが、少なくとも魔力のようなものはあるらしい。

 一通目の暗号を横溝は解いた。探偵でも作家でもないのに。甲賀も解いた。奴は一瞬で解いた。何でもない風を装ってはいたが、さぞかし気持ちが良かっただろう。自分にだって解けるはずなのだ、何かに気付きさえすれば。

 そう言えば、一通目。ヒントはそうめん。それが意味するところの素数は、文章それ自体ではなく……。

「ねぇ、本当に何でもいいのね?」

 何かが閃きかけていた(かも知れない)のを、台所からの声がぴたりと止めた。隆太郎は危うくわけのわからないことを叫び出しそうになった。

「もういい! 飯はいらん!」

 そう怒鳴って、隆太郎は立ち上がった。


 そして、夕方になってしまった。研究室の電話が鳴ることはなかった。本職の探偵といっても、暗号が一瞬で解けるわけではないようだ。やはり甲賀のような人間が必要なのだろうか……。

 大学の正門を出たところで、村山と出くわした。出不精の父と対照的に、村山はよく散歩をする。かなり遠くまで脈絡なく行くこともあるという。父や甲賀に比べれば親しみやすい人柄ではあるが、創作に携わる人間は皆、どこかしら変わったところがあるようだ。野球の投手も変わり者が多い、と誰かから聞いたことがある。

 ちょっと一杯、ということになり、学生相手の安い赤ちょうちんに入った。たまにはこういう店もいい。

「実は引っ越そうかと思っているんです」

 乾杯の直後、村山が出し抜けに言った。あまりに唐突だったので、隆太郎は返答に詰まった。

「急にすみません」

「いえ。でも、どうして?」

「きちんとした理由はないんです。江戸川先生に原稿を見ていただけることは大変光栄ですし、先生のご指導を不満に思っているわけでもありません。まさかそんなことはあり得ませんよ。ですから、何でしょうね……。本当にただ何となくなんです」

 彼なら頷ける、と隆太郎は思った。長い散歩に出るのと同じ感覚なのだろう。

「いつ頃ですか?」

「まだ決めていません」

「お引っ越し先は」

「それもまだなんです。引っ越そうかなと思い始めただけでして。いえ、引っ越し自体はします、多分」

 母が淋しがるだろう。隆太郎が最初に思ったのはそれだった。母が心の健康を保つのに、村山の存在は決して小さくないはずだ。父は仕事の調子を取り戻せば、母への接し方もあらためてくれるだろうけれど、それはいつになるかわからない。

 そのことを話すと、村山は笑った。

「僕なんかいなくたって大丈夫ですよ」

「そうでしょうか」

「気丈な方ですし。長年連れ添った夫婦なんて皆会話は少なくなるもんでしょう。お互いわかり切ったことばかりなんですから」

「確かに」

「誰だって相手が知っている話はしないでしょう? だから家族の会話を書くのは難しいんです。読者に情報を与えようとすると無理が生じますからね」

「なるほど。流石は作家さん」

「いやいや、こんないい歳して、まだこれですよ」

 と、村山はうずらの卵の串揚げを持ち上げて見せ、ソースの壺にひたした。

「だいいち、先生と奥さんは恋愛結婚だったんでしょう?」

「ええ、そう聞いていますが」

 当時、父は鳥取の造船所に勤めており、その中で童話などを朗読する倶楽部を作っていた。坂手島の小学校に訪問した時、教師をしている母と出逢ったのだという。

 作家江戸川乱歩の登場は結婚後まもなくのことだった。デビュー作の『二銭銅貨』について、父は全集に寄せた解説で次のように書いている。


 読むのは好きだけれど、小説を書こうなんて、又書いたものが売れようなんて、てんで想像もしていなかった。学校を出ると色々な商売をやった。だが、どうも浮世が面白くなくて、ともすれば小説を読んで寝転んでいた。だから商売は何をやっても駄目だ。ある失職時代、親の厄介になりながら、あまり所在なさに探偵小説を書いて見た。それが『二銭銅貨』だ。(※光文社文庫『江戸川乱歩全集 第一巻 屋根裏の散歩者』四三頁より引用)


 何ともだらしない誕生ではあったが、ともかくできあがった『二銭銅貨』の原稿を、父は『新青年』の編集長に送った。すると、多忙につきすぐには読めないという返事が来た。腹を立てた父は、素人のくせに「読まないなら返せ」と無礼千万な手紙を送りつけた。これが功を奏して『新青年』掲載に至ったわけだが、今考えても随分と無茶苦茶なデビューである。

 その頃から、母は父のそばにいた。

「でも、恋愛結婚だったからといって、生涯安泰というわけではないでしょう」

「それはそうかも知れませんがね」

 そう言って村山は野菜の煮物を箸でつまんだ。

「それに、『恋愛結婚』なんて言葉はありますけど、そもそも恋愛と結婚はまったくの別物ですよ」

「そうでしょうか?」

「僕も妻とは見合いではありませんでした」

「つまり、恋愛で」

「形式としてはそれに分類されます。出会ってからしばらく……まぁ、長めに見積もって、籍を入れてからしばらくの間は、いわゆる恋愛の関係にあったと認めざるを得ないでしょう」

「隆太郎さん、どうしてそんな言い方をなさるんですか」

「やがて恋愛ではなくなるからです。始めは『恋人』であり、『妻』であっても、その相手は思いがけない早さで、良く言っても『共同生活者』、悪く言えば『しがらみ』になります」

「随分ですね」

「事実ですよ。静子と出会った頃の感覚は、もうまるっきり思い出せません」

「『共同生活者』が『妻』に戻る可能性は?」

「どうでしょう。広い世の中にはそういうこともあるかも知れませんが、少なくともうちはもう望み薄です」

 うちという言葉を村山は、隆太郎と静子のことと、父と母のことと、どちらと取っただろう。どちらでも同じことだが。

「何しろ『結婚は人生の墓場』という言葉もありますからね」

「ああ、それは誤訳ですよ」

「誤訳?」

「もとはフランスの詩人ボードレールが、その当時蔓延していた梅毒に対して警告する意味で『墓場のある教会で身体を清めてから結婚しなさい』と戒めたものだったんです」

「そうだったんですか」

 賛辞を送ろうとした隆太郎を、村山が遮った。

「これはたまたま知っていただけです。まだまだ勉強不足ですよ。江戸川先生にもよく叱られます」

 作家は誰でも本をよく読むものだが、読書量にかけては、父の右に出る者はいないだろう。隆太郎はそれが少し自慢だった。知に貪欲。大地に果てしなく根を伸ばして、水と栄養とを幹に送り込み、天高く梢を伸ばし、豊かな葉を茂らせる大樹。そんな父の背中を見て育ったからこそ、隆太郎も今の職にあるのだ。

「恋愛と結婚については、ドイツの科学者リヒテンベルクがこんなことを言っています。『恋愛は人を盲目にするが、結婚が視力を返してくれる』」

「なるほど。視力が戻って落胆するというわけですね」

「いえ、そうとは限りませんよ。改めて綺麗だと思う、なんてこともあるでしょう」

「どうでしょうかね」

 村山はかなりのロマンチストであるらしい。これは新たな発見だった。

「そう言えば村山さん、失礼とは思いますが……」

「結婚をしていたことはありません」

「そうでしたか」

「作家になりたいなんて大層な夢を、こんな歳になって未だに持ち続けているんですから、ついていきたいと思う女性はいませんよ」

「わかりませんよ。その夢はきっと叶いますし」

「だといいんですけど」

「充分に希望はあります。父が見てくれているんですから」

「そうですね。ありがとうございます」

「それに、村山さんはお優しいじゃないですか」

「優しい?」

「男は優しいのが大事ですよ、少なくとも女性にとっては」

 何を偉そうなことを……と、隆太郎は自分の言葉に対して思った。


 少し酒が回って、隆太郎は、村山に暗号を見せてみることを思いついた。むしろ、何故今まで気付かなかったのだろう。彼も探偵小説を書く人間だ。閃きの力は備えているはずである、少なくとも自分よりは。

「村山さんの作品に、暗号が出てくることはありますか?」

「ええ、一応」

「それは良かった」

「どうしてです?」

「ちょっと見ていただきたいものがあるんです」

 食器を卓のわきに寄せ、二枚目の暗号を広げた。

「もしかして、先生宛に?」

「はい」

「以前ひどいのがありましたよね。さんざん考えさせておいて『解なし』っていう」

 そう言えば、あの時は村山も解読に参加したのだった。

「その節はご迷惑を」

「いえいえ。しかし、今度のこれもいやがらせってことは?」

「恐らくそれはありません。この暗号は今朝届いたものなんですが、実は同じ形式のものが昨日も来ておりまして、そちらは甲賀先生がお解きになったんです。ですから、これも『解なし』ということはないと思います」

「なるほど」

 事件の可能性があるという点には触れないでおくことにした。岩井に嘘をついたのと同じ理屈である。

「ヒントは『鏡』です。少しひびが入っていまして、それにも何か意味があるのかも知れません」

 村山は口もとに拳を当て、黙って紙を見つめている。集中しているようだ。改めて見ると、なかなか男前じゃないか。

 隆太郎は厚揚げを崩し、ジョッキにホッピーを注ぎ足して一口飲んだ。

「どうでしょう、村山さん。解けそうですか」

「いえ、なかなか難しいですね。ちょっとずるいかも知れませんが、一枚目の暗号とその答えがどんなものだったか、教えていただけませんか?」

 説明してやると、村山はまた口もとに拳をやり、少し考えてから言った。

「これも全体から正しい語だけを抜き出す形かも知れませんね」

「それは僕も思います」

「解いてほしいと相手が思っているなら、その線はかなり強いと思います。それから、答えについても、一枚目と同じように、時間や場所を示すものなんじゃないでしょうか」

 それも、既に思っていた。隆太郎の顔を見て村山は笑った。

「すみません。このぐらいのことはとっくにお気づきですよね」

「ええ、まぁ」

 日時の表現に使われそうな字がいくつかある。まず間違いないだろう。

「ところで、この暗号を作った方は、江戸川先生のことが大好きな方なのかも知れませんね」

「何故です?」

「ヒントが『鏡』というのは、先生のご趣味を意識してのことかと」

「ああ、それはあり得ますね」

 乱歩はある雑誌の中で、自身を指して「レンズ嗜好症」といっていた。子供の頃、外の景色が雨戸の節穴を通って障子に映るのを見て以来、レンズというものの魔力にとりつかれてしまったのだという。隆太郎も小学生時代に天体望遠鏡を買ってもらったことがある。趣味が高じて書かれた『鏡地獄』は完全に常軌を逸していて、とうとう気がふれてしまったのではないかと心配した。

 村山の言うように、差出人が父のことを「好き」なのかはわからないが、父について詳しい人物である可能性は確かにあると思えた。

「……いえ、すみません。やはり考え過ぎという気がします」

「そうでしょうか?」

「単なる偶然でしょう。先生は特にそうめんがお好きというわけじゃありません。この二通目だけいわれのあるものをヒントにするというのは、ひどく中途半端です」

「二通目だけでも、ということは?」

「タイピングの仕方を見る限り、差出人はかなり几帳面な性格だと推察されます。暗号を作ろうなんて人は皆、少なからず几帳面さを備えているとは思いますがね」

「なるほど」

 確かに、お行儀よく紙の中央にタイプされている。

「差出人が江戸川先生のご趣味を知っているという可能性が消えるわけではありませんが、暗号のヒントを、ひいては暗号を考えるにあたり、先生のご趣味に合わせたということは多分ありません。どうも失礼しました。何の手がかりにもならないことを長々と」

「いえ、少なくとも差出人の性格というのは、僕にとって新しい視点でした」

 隆太郎は二通目の封筒を開いた時のことを思い出した。鏡を丁寧に包んでいた厚手の布。一度はヒントかと疑い、それはないだろうと判断したが、あれには差出人の人となりが表れていた気がする。読んで字の如く、折り目正しい人間。細やかな神経。

 けれども、差出人に思いを馳せたところで、解読が進むわけではない。横溝が言っていたように、暗号はそれ自体で完結した謎なのだ。仮に、作者は几帳面な人物であるという情報を先に与えられていたとしても、一通目の解読には一切影響しなかっただろう。


 その後は少し違う話をし、勘定を払って店を出た。夜風は日一日と秋の香りを濃くしている。

「うつしよはゆめ、夜の夢こそまこと」

 乱歩がサインを求められた時、決まって書き添える文句である。

 隆太郎の思索は何故か、暗号についてのものから乱歩の執筆をめぐるものへと変わっていった。

 少年探偵団シリーズは、父が本当に書きたいものではない。疎ましむほどではないにせよ、書くことで己を表現できているという手ごたえは感じていないはずだ。父は「夜の夢」を書きたがっている。

 何故か? それは、見たことがあるからだ。丑三つ時の合わせ鏡。魑魅魍魎が跋扈する負の世界。

 チェーホフは言った。

「雨が降ったら雨が降ったと書きなさい」

 この世は闇だから、この世は闇だと書こうとしている。その暗さを、深さを、おぞましさを、父は見たことがあるのだ。いや、まさに今、見ているのかも知れない。

 思考の飛躍を、隆太郎は飛翔と感じた。父がしばしば酒に頼る気持ちを理解した。

 帰り着いた時、幻影城の二階からは灯かりが漏れていた。父は今頃、夢を見ているのだろう。寝ていても醒めていても。


「うつしよはゆめ、夜の夢こそまこと」

 誰だ? 声の方を振り向くと、村山だった。当たり前だ。この場には村山しかいない。だが何故か今、やけに遠くからの声に聞こえた。遥か遠く、闇の向こうからのような。

「隆太郎さん、怒らずに聞いてください」

「何でしょう?」

「実は、僕はあの言葉があまり好きではないんです」

 門を入ったところで、村山は立ち止まった。隆太郎もつられて立ち止まった。月は出ているのに、不思議と村山の姿が見えにくい。黒いもやの中にいるかのように。

 これは、夢か? 自分はもう布団に入って眠っているのか? いや、違う。はっきりと感覚がある。

「別に怒りはしませんよ。でも、何故お嫌いなんですか?」

「夢は夢、うつしよはうつしよです」

「ええ」

「人はうつしよに生きています」

「その通りです。しかし、だからこそ、なのではないですか?」

「だからこそ、何です?」

「一言では言いがたいですが」

「『夜の夢』とはきっと、愉快な夢を指す言葉ではありません。江戸川先生の作品を読めばわかります」

「確かに重苦しいものや不気味な作品は多いですね」

「先生はこの世界の闇の部分を追求しようとしていらっしゃいます。かつて発禁になった『芋虫』など最たるものです」

「父は闇こそが真実、つまり『まこと』だと言っているのはないですか? そして、喜ばしいことではないかも知れませんが、それは的を射た考えなのではないでしょうか」

「ええ、半分の意味では」

「半分?」

「闇が全てではありません」

 そう言う村山の姿こそ、今、闇と同化しているように見える。父が眠る土蔵からの灯かりを跳ね返すかのように。

「確かにこの世界は、闇に覆われています。人は誰しも心に汚いものを抱えていますし、陰惨な事件は毎日のように起こります。けれど、この世界には間違いなく、光も存在します」

 隆太郎は曖昧に相づちを打った。

「人は幸福を求めて生きています。古来より幸福を求め続けてきたからこそ、時には、いえ、常に争い事はありましたが、人の世界はここまで発展してきました。印刷という技術一つをとってもそうです。多くの人に伝えようという目標に対して、研究者たちが諦めずに努力をしたからこそ、今日の文学があるんです。もし研究者たちが、そんなことは不可能だ、面倒くさいと投げ出してしまっていたら、作家が登場することさえなかったはずです。美しいものだけを見ていては世界の半分しか描けませんが、目を背けたくなるようなものばかり見ているのも同じことです」

 酔いに任せて喋っているのではない。日頃考えていることを、村山は本気で吐き出している。父の言葉を否定する内容ではあるが、本心を吐露する相手に自分が選ばれたことを、隆太郎は嬉しく感じた。

 語り続ける村山の目には、微かに痛みを抱えているような気配もあった。自己陶酔のようなものは微塵も見出せない。

「闇がそこにあるからと言って、光から目を逸らしてはならないんです」

「父は少年探偵団シリーズも書いています」

 隆太郎がそう言うと、村山の身体から発せられる黒い粒子が僅かに減った。そのように見えた。

「本当に書きたがっているものは、やはり闇なのでしょう。けれど少年向けの明るい話も書いていることは紛れもない事実です」

 隆太郎は少年探偵団シリーズの第一号『怪人二十面相』に初めて登場した時の、名探偵明智小五郎を思い浮かべた。


 出迎えの人垣の前列に立って、左の方を眺めますと、明智探偵をのせた急行列車の電気機関車は、刻一刻その形を大きくしながら近づいて来ます。

 サーッと空気が振動して、黒い鋼鉄の箱が目の前を掠めました。チロチロと過ぎて行く客車の窓の顔、ブレーキのきしみと共に、やがて列車が停止しますと、一等車の昇降口に、懐かしい懐かしい明智先生の姿が見えました。黒い背広に、黒い外套、黒のソフト帽という、黒ずくめのいでたちで、早くも小林少年に気付いて、ニコニコしながら手招をしているのです。

「先生、お帰りなさい。」

 小林君は嬉しさに、もう無我夢中になって、先生の側へ駆けよりました。

 明智探偵は赤帽に幾つかのトランクを渡すと、プラットフォームへ降り立ち、小林君の方へよって来ました。

「小林君、いろいろ苦労をしたそうだね。新聞ですっかり知っているよ。でも無事でよかった。」

 アア、三月ぶりで聞く先生の声です。小林君は上気した顔で名探偵をじっと見ながら、一層その側へより添いました。そしてどちらからともなく手が延びて、師弟の固い握手が交わされたのでした。(角川ホラー文庫・江戸川乱歩著『黒蜥蜴と怪人二十面相』三一六~三一七頁より引用)


 これこそまさに、光ではないか。悪意、欺瞞、不実、憎しみ……この世を覆う闇の殻を、内側から突き破る強い光。

 本人が望むと望まざるに関わらず、父のペンは光を備えている。

「父は光も書いています」

「はい」

「闇に埋もれてしまってはいません」

「そう思います。ですから、ご自分の人生についても、それが真っ暗なものだなどとは思わず、明るいものの方へ目を向けてほしいのです」

 人生? 隆太郎は村山の話が突然わからなくなった。

「先生には光を感じる義務があります。隆太郎さん、あなたも」

「僕も?」

「生きていれば、苦しいことは必ずあります。それは必ず理解できることなんです。そして、苦しみの中にいると、それを耐えるのに必死で、すぐそこに光があることさえ忘れがちになります。ですから僕は、読者にそれを思い出させるような作品を書きたいと思っています。需要があるならば」

「需要はきっとあります」

「そう信じたいのは山々なんですが、いかんせん僕自身が今、闇の中におりまして」

「村山さんが?」

「仮初めの光に触れてしまったせいで、身の回りの闇が一層強く感じられてしまうんです。泥沼に見事な蓮の花が一輪、咲いているようなものですよ。美しいものが汚いものを際立たせるんです」

「その考え方は、村山さん、あなたの主義に反しています。泥沼だけでなく、蓮の花もまた、『まこと』なのではないですか?」

「いえ、残念ながら、これは造花なのです。呼吸はしていません。種子を結ぶこともありません」

 月に雲がかかり、あたりが暗くなった。

「お許しください。長々と立ち話を」

「いえ」

「それでは、おやすみなさい」

 そう言って村山は、夜の闇の中へと消えていった。

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