第5話

「一昨日の三……」

「一昨日来たお客で、様子のおかしい人はいませんでしたか」

 岩井の言葉を、潤子が遮り、続けた。何をするんだ。

「一昨日、ですか」

 若い女給はそう言って、こめかみに指を当てた。

「特別おかしな人でなくてもいいんです。少しでも印象に残っている人は?」

 潤子が言った。

 女給は懸命に思い出してくれているようだ。しわの寄った眉間がかわいらしい。喫茶「小春」、いい店じゃないか。今度個人的に来よう。

「これといって変わったお客様はいらっしゃいませんでした。私の覚えている限りでは」

「そうですか」

「お役に立てなくて申し訳ありません」

「いえ、ありがとうございました」

 女給はお辞儀をして、仕事に戻っていった。エプロンの結び目が初々しい。

「ちょっと兄さん、鼻の下伸ばしてないで」

「俺がいつ何を伸ばそうと勝手じゃないか」

「目つきが気持ち悪い」

「それがどうした」

「公共の福祉に反する」

「お前近頃口が過ぎるぞ」

 女性の社会進出は大いに結構。古い慣習にとらわれていては経済の発展は見込めない。が、一部、何を勘違いしているのか、必要以上に増長する輩がいるから困る。我が妹のように。

「さっきの女給さん、『この人より変な人はいなかったな』って、比較対象にしてたかもよ」

「そんなことで女給が勤まるか。いいか、何も水商売に限った話じゃない。接客というのは人に見られるのも仕事のうちなんだ」

「人を見るのが探偵」

「それはその通り」

「じゃあ、よく見てよ。遊びに来たんじゃないんだから」

 電話帳を調べたところ、「コハル」という名の喫茶店は、都内に三件あった。「小春日和」も含めると四件になる。その中で江戸川乱歩邸に最も近いこの店は、立教大学のすぐそばにある(というより江戸川乱歩邸が立教大学に接しているのだが)。昨日木曜は定休日であったため、調査は本日金曜となった。大学の隣ということで、客層はやはり、学生が中心である。店内に若さがみなぎっている。めだかの泳ぐせせらぎのように。

「アベックが多いな」

「そうだね。そのことから何が言える?」

「羨ましい」

 ため息が聞こえた。

「こういう雰囲気の中じゃ、取引みたいなことしてたら相当目立つよね」

「それは言えるな」

 恋の駆け引きならこの風景にも溶け込みそうだが。

「あの女給さんの記憶力が悪いってわけじゃなさそうだね。怪しいお客は確かにいなかった」

 そうだろうとも。あの子はきちんと覚えている。あの子、名前は何だろう。

「また鼻の下」

「ときめきは心の栄養だ。そんな調子じゃお前、そのうち餓死するぞ」

「私は兄さんと食生活が違うの」

 ああ言えばこう言う。人が心配してやっているというのに。

「そうだ。お前、さっきなんで割り込んできたんだ」

「え?」

「女給に話を聞く時」

「ああ、あれね。敢えて時間を言わない方がいいかなって思ったの。もし印象に残ってる人がいたら、そのお客が何時頃に来たか訊けばいいでしょ? で、それが三時頃だったらいよいよそいつが怪しい、ってことになるわけ」

「理屈はわかった。悪くない手だ」

「ま、空振りだったけどね」

「だが先に言っとけ」

「あの瞬間に思いついたんだからしょうがないじゃない」

 店の客は学生が多いが学生専門店というほどでもない。中年女性の二人連れや、一人で文庫本を読む初老の紳士もいる。それでもやはり、取引などに相応しい場とは思えない。女給も怪しい人間は見なかったという。となると、一昨日の午後三時、ここで何があった?

「ところで、暗号はどうなった」

「そっちはどうなの?」

「解けていたら言っている」

「同じく」

 珍しく苦戦しているらしい。

「読み方はあれしかないと思うんだけどな」

「最初に言っていたやつか?」

「うん」

「聞こうか」

「え、言っていいの? 自分で解きたいんじゃないの?」

「答えに直結していないならいい」

「じゃあ言うね。あの暗号、全部で何文字だった?」

「ちょっと待て」

 と、岩井は暗号のメモを取り出し、字数を数えた。

「二十六か」

「以上」

「は?」

「それがヒント」

「俺は読み方を訊いているんだが」

「考えてみなよ」

 楽しんでいやがる。この前はさんざん答えを言いたがったくせに。

「なんでわざわざ間違いだとわかっている読み方を考えなきゃいけないんだ」

「ううん。まだ間違いとは決まってない。途中までは合ってるかも」

「どういう意味だ?」

「いいから、はい、二十六と言えば?」

 二十六……ふ、ろ。ふろ。風呂と何か関係が? そうか、風呂場には鏡もある。風呂場の鏡はよく曇る……。

「ちょっと考えてて」

 潤子は席を立ちながら言った。

「どこへ行くんだ」

「ちょっとって言って席を立った女性にそんなこと訊く?」

 岩井は唖然として潤子の背中を見送った。あいつ、女って自覚あったのか。

 それから、風呂について考えた。事務所の近くにある「松の湯」は良い銭湯だ。のれんの趣味の良さに始まり、番台の愛想、脱衣所の清潔感、桶の手ざわり、磨かれたタイル、ペンキ絵の富士、湯加減、誰かの鼻歌、極楽、極楽。

「あの……」

 さっきの女給が声をかけてきた。岩井は弛んだ口もとを引き締めた。

「何かな?」

「思い出したことがあるんです」

「やっぱり一昨日、怪しいお客がいた?」

「お客様ではないんですけど、窓の外から店の中をじろじろと見ている人がいました。男の方で」

「それは何時頃?」

「確か三時頃だったと思います」

 ピタリだ。こいつはどうやら、事が動き出した。岩井の頭の中で風呂の湯気が機関車の煙に変わった。

「どんな奴だった?」

「着流し姿で、背はあまり高くありませんでした」

「顔は覚えている?」

「目がぎょろっとしていて、鼻は低くて、唇が厚ぼったい感じでした」

 いかにも品がなさそうだ。想像上の人物を岩井は嫌悪した。

「その男は何を見ていたんだろう?」

「それはわかりません」

「どっちから来てどっちへ行った?」

「駅の方から来て、また駅の方に戻っていきました」

「通りすがりに覗いたんじゃないってわけだね」

「はい。それで覚えていたんです」

 その時、ドアが開き、男が一人入ってきた。

「あ」

 女給が何か言いかけて、口を手でふさいだ。

「どうしたの?」

「今いらした方です。一昨日の人」

 なんてタイミングだ。探偵小説でもこんな展開はない。

 岩井は自分の挙動が不自然にならないよう注意しながら、男を見た。想像通り、蛇のような顔だ。舌の先が二つに割れていても驚かない。服は着流し。帯に扇子を差している。文豪でも気取っているのだろうか。

「ありがとう。もう結構」

 男を視界の端にとらえたまま、女給をさがらせ、冷めたコーヒーをすすった。しまった、今名前を訊けば良かった。

 とにかく、この機を逃さないことだ。犯人は必ず現場に戻ってくるという法則があるそうだが、本当にそうだった。奴め、こんな近くで探偵が息をひそめているとは夢にも思うまい。

 そこへ潤子が戻ってきた。

「おい、聞け。貴重な情報を仕入れたぞ」

「こっちも」

「そっちも?」

「暗号読めた? やっぱりあれで合ってたみたい」

 風呂と女に気を取られて忘れていた。風呂と女。女と風呂。混浴。

「何その顔。頭大丈夫?」

「いたって健康だ」

「あ、そう。それで、情報って何?」

「そっちの話から聞こう。レディー・ファーストだ」

「似合わない」

 おい、どうしろっていうんだ。

「あれ見て」

 と、潤子が壁を指差した。琴の演奏会を知らせるポスターが貼られていた。

「あれがどうかしたのか」

「内容よく読んで」

 そう言われても、遠い。岩井は席を立ち、近くに行ってポスターを読んだ。特に変わったところはない。この「場所」は……なんと読むのだろう。あした館?

 席に戻ると、潤子が微笑んだ。

「ね?」

「何が?」

「わかんないの? もしかしてまだ暗号の読み方わかってない?」

「わかったとは言ってないだろう」

「ごめんごめん。じゃあもう教えていいよね」

「ああ」

「あ、その前に、そっちの話聞くよ」

「……暗号はもう用済みかも知れんぞ」

「なんで?」

「犯人を見つけた」

 潤子は眉をしかめた。

「何の犯人?」

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