第3話
電話のダイヤルを回しながら、岩井耕治は自分の運命を呪った。探偵なんてろくなもんじゃない。子供が将来なりたい職業の上位に入るそうだが、やめろとは言わない、この道に来るなら覚悟を決めておいてほしい。少し知識のある人間は「ああ、浮気調査員ね」という。けれども浮気調査はまだ気が楽な方だ。
先代はシーメンス事件の解決に寄与するなど、実際にいくつかの華々しい功績をあげたが、自分が受け継いで以来、探偵の「華々しい」活躍はもっぱら小説の中の出来事である。
呼び出し音が鳴る。相手が留守であってほしいと願う。いや、無意味だ。先延ばしにしても何にもならない。まったく、こういう役回りこそ助手が引き受けてくれればいいのに。潤子のやつ、妙な知恵は回るくせに、気配りや言葉の選び方がなっちゃいない。あれでは嫁の貰い手がつかないのも当然だ。
相手が出た。腹をくくるしかない。
「はい、高柳でございます」
「こちら岩井探偵事務所ですが」
「ああ、岩井さん。お待ちしておりました」
高柳夫人の甲高い声が鼓膜を貫く。もう少し受話器から口を離してほしい。
「それで、何かわかりましたでしょうか」
「ええ」
岩井は手元の資料に目をやり、大きく息を吸った。さっさと済ませてしまおう。
「お相手の堂本さんのご家族は……」
「まだ相手とは決まっておりません」
「そうでした。失礼」
「娘は公明正大な家の者にしか嫁がせないと決めております」
「はい、重々承知しております」
公明正大な家とは何だろう。確かに家庭環境が人に及ぼす影響は大きい。岩井自身も家業を継いだのだからよくわかる。しかし、結局のところ個人は個人だ。立派な祖先を持つ悪党もいるし、やくざ者の家から聖人君子が現れることもある。
……などという意見は、口が裂けても顧客に言ってはいけない。潤子にはそういった分別がない。
「堂本さんが現在同居していらっしゃるご家族には、特に目立った前科や病歴はありませんでした」
「特に目立った?」
「いえ、前科は一切ありません。病歴といっても、お父様がリウマチを患っておられるぐらいで」
「リウマチというのは遺伝する病気なのでしょうか?」
「さぁ、それはわかりかねますが」
ある程度歳をとって何の病気もない方が珍しい。高柳夫人は老衰以外認めないつもりなのだろうか。
「……まぁ、いいでしょう。ご家族のことは結構です。それから?」
「えー、義理のお祖父様のお孫さんに当たる方、つまりはとこで、ご本人とは六親等も離れていらっしゃいますが……」
「いいからおっしゃってください」
「そちらの方が一度だけ補導されています。子供の頃に万引きで」
息をのむ音が聞こえた。そんな大袈裟な。
「要するに、犯罪者のいる家系だったわけですね」
「いえ、逮捕ではなく補導ですから」
「同じです! ああ、やっぱり。怪しいとは思っていたんです」
「しかし奥さん、なにぶん子供の頃のことですし、先ほども申し上げました通りご本人とは……」
「ああ、恐ろしい。大変なところへやってしまうところでした」
駄目だ。聞いちゃいない。
「他に凶悪な人物は?」
「私どもの調べた限りでは」
「信用していいんでしょうね?」
「信用していただけませんことには」
「いえ、どちらでも結構です。とにかく犯罪者のいる家系だということははっきりしたのですから」
岩井は心の中で、高柳家の令嬢に頭を下げた。許してくれ。俺に悪気はないんだ。
「ご苦労様でした、岩井さん。代金は明日にでも振り込みますので」
「奥さん、やはり一番大切なものは当人同士の……」
「ありがとうございました」
電話はぶつりと切れた。
受話器を置き、岩井はうなだれた。また一つ、結ばれるはずの縁を引き裂いてしまった。いい相手がいるならさっさとくっつけばいいじゃないか。相手に不自由している人間だっているんだぞ、現にこの狭い事務所の中に二人も。
ところどころ革が破れて綿のはみだしたソファーに腰をおろし、岩井は一枚の紙片を見つめた。目下、これだけが心の慰めだ。
「兄さん、もう答え言っていい?」
潤子の声だった。
「駄目だ。大人しく本の続きを読んでいろ。それかさっさと嫁に行け」
「そればっかり。兄さんって本当に中途半端」
「何だと?」
「家柄を気にする人のことは怒るくせに、女の仕事は結婚だと思ってる。新しいんだか古いんだか」
「女の仕事が結婚だと思っているわけじゃない。厄介払いをしたいだけだ」
「でも私がいなくなったら困るでしょ?」
「別に困りゃしないさ」
仕事の速度は落ちるかも知れないが、多少は。
「困ると思うけどな。その程度の暗号も解けないんだから」
「黙っていろ。集中できない」
「一晩一緒にいて理解できないんじゃもう無理だよ。恋人と同じ」
「お前、語れるほど恋してるのか」
「いえ、してませんけど」
平井隆太郎氏がこの事務所に訪れたのは昨日の夕方だったから、確かに一晩は過ぎた。潤子は隆太郎氏が帰ってすぐ解いてしまった。岩井は慌てて妹の口を塞いだ。日頃気の滅入る依頼ばかりだ。小説のような、胸躍る仕事には滅多にありつけない。
「でもあのおじさん、早い方がいいって言ってなかった?」
「それはそうなんだが」
「早く教えてあげた方がいいんじゃないの?」
「わかっている。いいからあと少し考えさせろ。一人で楽しむな」
「別に楽しいってほどじゃなかったけどね。一瞬だったし」
岩井は潤子に対する苛立ちを必死に意識の外へ追い出しながら、暗号を睨みつけた。穴も開けとばかりに。しかしさっぱりわからない。
何しろ事情もよくわからないのだ。この暗号は隆太郎氏のお父上、かの有名な探偵小説作家、江戸川乱歩氏(本名は平井太郎)が作ったものらしい。どうしてもこれの答えを知りたい。しかし父は教えてくれないので、解いてほしいという。解けなくてもやもやする気持ちは実によくわかるが、だからといって探偵に依頼するようなことだろうか?
「兄さん、お昼、おそうめんでいい?」
「何でもいい」
そう言えばヒントは「そうめん」だった。もしや、そうめんのようにこの紙を茹でると、文字が浮かび上がってくるという仕掛けなのでは? そんなインクは聞いたことがないが。
「おそうめんと目玉焼きどっちがいい?」
「どうして目玉焼きなんだ。それに何でもいいと言っただろう」
「じゃあ目玉焼きね。何かける?」
「何って?」
「醤油かソースか」
「なんで今そんなことを訊くんだ。大体お前わかってるだろう。俺は目玉焼きにはソースだ」
ちょっと待て。ソース? そうす。そすう、素数……。
「そうか、わかったぞ! ということは、つまり……午後三時、喫茶、コハル」
「はい、お疲れ様」
「どうだ! 俺だってやればできるんだ」
潤子はその言葉に何故か豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をしたが、気にすることはない。とにかく急いで依頼人に電話だ。
岩井が受話器を取ろうとした瞬間、ベルが鳴った。
「はい、岩井探偵事務所」
「おはようございます。昨日、暗号の解読をお願いしに伺った者ですが」
「ああ、隆太郎さんですね。ちょうど今お電話しようと思っていたところです。解けましたよ、例の暗号」
「あ、そうですか」
間の抜けた声だった。嬉しくないのか?
「どうしたんです? 何か気がかりなことでも?」
「いえ、それが……」
「どうぞ何なりとおっしゃってください」
「実は……」
「はい」
「こちらでも解けてしまったんです」
「あ、そうですか」
岩井も間の抜けた声になってしまった。
「お待たせしてしまって申し訳ありませんでした。しかし隆太郎さん、大したものですよ、プロと同じだけの時間で解読なさるとは」
潤子が何か言いたげな目でこちらを見たが、無視した。
「いえ、解いたのは私ではないんです。実は岩井さんの他にも解読をお願いしていまして、その方が」
「そうだったんですか」
「無礼な真似をして申し訳ありません。なにぶん早く答えが知りたかったものですから」
まだ解けていない芝居をすることもできたはずだ。それなのに敢えて事実を話し、謝罪する隆太郎に、岩井は敬意を抱いた。
「謝られることはありませんよ。お急ぎならば、尽くせるだけの手を尽くすのは当然のことです。ちなみに、その他の方というのは、探偵さんで?」
「いえ、普通の方です」
なるほど。まぁ、一般市民の中にも勘のいい人間はいる。
「ともかく、良かったですね」
「ええ、ひとまずはそうなんですが……」
また何やら引っかかる言い方だ。
「あ、代金の方はきちんとお支払いしますので」
「いえ、結構です」
「そんな……」
「いいんです。久々に探偵らしい仕事ができて私も嬉しかったんですよ」
「そういうわけにはいきません。確かに労力をかけていただいたんですから。それに、続きもあるんです」
「続き?」
「今朝、父がまた暗号を見せてきました」
「ほう!」
思わず大きな声が出た。
「どうせ私の頭では解けませんから、今度は最初から岩井さんにお願いしたいと思いまして」
「喜んでお引き受けします。ちなみに、今度もまた昨日の暗号を解いた方にも依頼されるんでしょうか?」
「ええ、そうですね……」
「何も気兼ねされることはありません。既に連絡は?」
「いえ、まだです」
「では、この電話を切ったらすぐその方に連絡なさるといい。しかし私も負ける気はありません、先代の面目にかけてもね。ちょうど厄介な案件も片付いたところですし、解読に全力を傾けます」
岩井は隆太郎から新しい暗号の内容を聞き、慎重にメモを取った。
十 土 公 九 地 金 本 分
六 午 茶 四 館 前 時 後
園 天 民 夜 明 三 曜 日
日 月
お宝頂戴つかまつる。
「カタナカが漢字に変わりましたが、つくりは昨日のものとよく似ていますね」
「はい」
「何かヒントのようなものは?」
「今度は『鏡』です」
「鏡」
「少しひびが入っていました。何か意味があるのかはわかりませんが」
「ふむ、ひびの入った鏡ですか」
気付くと潤子がメモを凝視していた。おい、まさかまたすぐ解いてしまうんじゃないだろうな。
「わかりました。ただちに解読にとりかかります」
「よろしくお願いします。昨日も申し上げましたが、この件はくれぐれも内密に」
「ええ、ご心配なく」
依頼人の秘密は守る。探偵にとっては当たり前のことだ。
受話器を置くと、岩井はすぐさま言った。
「潤子」
「解けても言うな、でしょ」
「わかってるならいい」
「まだ解けてないから大丈夫」
当たり前だ。こんな一瞬で解かれてたまるか。
「一応、こうじゃないかなって読み方はあるんだけど」
何だと? どういう頭をしているんだこの女は?
「それだと意味が通らないから、やっぱり違うみたい」
「なんだ、驚かせるな」
「ところでさ、これ本当に江戸川乱歩先生が作った暗号なのかな?」
「そんなことを疑っているのか?」
「だって変じゃない。わざわざお金かけて探偵に相談するなんて」
「何か事情があるんだろう。とにかく解けばいいんだ」
「うち以外にも誰かに相談したんでしょ?」
「ああ、そうらしいが」
「そこまでして答えが知りたいってことは、ただの遊びじゃなさそうじゃない?」
「遊び?」
「お父さんが息子さんに暗号の問題を出した。これって普通に考えたら遊びだよね?」
「そうだな」
偉大な作家にもお茶目なところがあるようだ。
「でもきっと遊びじゃない。お父さんが答えを教えてくれないのも変だし、息子さんがこうまで答えにこだわるのも変」
「遊びじゃなかったら何だっていうんだ」
「例えば、遺産相続とか」
潤子もよく探偵小説を読んでいる。影響は免れないらしい。
「一番早く解けた者に全財産を譲る、みたいな」
「それはないだろう。隆太郎さんは一人息子だ。少なくとも兄弟の争いはない」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「江戸川先生の講演会に行ったことがあるからな」
「そうだったんだ」
岩井は探偵の「現実」を大変よく知っているが、空想の世界に出てくる探偵こそ、「本当の」探偵だと思っている。明智小五郎のような男になることを諦めてはいない。問題はくだらない依頼があまりに多過ぎるということなのだ。
「でも、遺産相続じゃないとしても、何かの事件かも知れない」
「事件?」
想像力が豊かなのは結構だが、いき過ぎだ。
「江戸川先生は事件を作る側の人だぞ、紙の上に」
「だからって本人が事件に巻き込まれないとは限らないじゃない」
それはそうだが。
「昨日の暗号の答え、思い出してみて」
「午後三時、喫茶コハル」
「時間と場所を指定してる。そこで何かの取引があったって感じしない?」
……確かに。
「ねぇ、兄さん、今から喫茶コハルに行ってみない?」
「三時ってのは今日の三時じゃないんじゃないか?」
「うん。もう昨日だったかも知れないけど、とにかく行けば何かわかるかも」
「だいいち喫茶コハルってのはどこのことなんだ。どうせ電話帳で調べてもそんな名前の喫茶店はいくつもあるぞ」
「いくつかあるなら、とりあえず江戸川先生のお宅から近いところ」
「ん? 待て。隆太郎さんに聞けば知っているんじゃないか?」
「それは駄目。まだ彼がシロかどうかわからない」
「シロとかクロがある話か?」
「それもわからないけど、とにかく電話帳で調べて行ってみようよ」
「いや、しかしな……」
「何か気になることでもあるの?」
お前の指図で動くのが気に食わないんだ、とは言えなかった。
「わかった。行こう。だが暗号はどうするんだ」
「道々考えればいいじゃない。あ、兄さん、手鏡持ってきて」
「手鏡?」
「ヒントは鏡なんでしょ?」
岩井は身だしなみに気を遣う人間である。机の引き出しに手鏡やブラシが入っている。それを知られているのは構わないのだが。
「お前は持っていないのか」
「ないから言ってるの。さ、行こうよ」
つくづく年頃の娘とは思えない。
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