第2話
横溝龍介は憂鬱だった。午後は江戸川乱歩の家へ、原稿を取りに行かねばならない。書けていないかも知れない。いや、恐らく書けていないだろう。それでも行くしかない。
光文社の正面口を出た時、強い日差しに横溝は目を細めた。暦の上では秋とは言え、まだ太陽の力は残っている。立ち食いのよく冷えたざるそばを一杯、飲み込むように平らげ、池袋行きのバスに乗った。会社から近いのがせめてもの救いだ。
少年探偵団シリーズは月刊誌『少年』にとって非常に重要な作品である。近頃勢いを増しつつある『少年画報』に対抗する意味でも、乱歩には頑張ってもらわねばならない。編集部では『画報』にならって漫画を載せるのはどうかという声もあったが、横溝は反対だった。漫画には漫画の良さもある。が、いかんせん、想像力を奪う。少年たちには活字を読ませるべきである。
名探偵明智小五郎の活躍は『D坂の殺人事件』に始まる。トレードマークはモジャモジャの髪。頭が切れるだけでなく、柔道は達人の腕前、さらに怪人二十面相とはりあうほどの変装術まで備えている。当初木綿の着物によれよれの兵児帯という服装だったのが、いくつかの作品を経て、少年探偵団シリーズでは背広を着こなす紳士となった。
有能な助手、小林少年に自分自身を投影して、『少年』の読者たちは明智小五郎に憧れる。しかしその名コンビの生みの親、乱歩はシリーズの執筆に対して、あまり精力的ではなかった。惰性で書いているのだ。
戦前、乱歩が初めて少年向けに書いた『怪人二十面相』は大いにヒットし、つづく『少年探偵団』と『妖怪博士』も少年たちの心をがっちりとつかんだ。戦時中は官憲によって中断させられていただけに、戦後、シリーズ復活を望む声は多かった。需要はある。なのに、供給する側に覇気がない。
乱歩に少年向けミステリーを書く才能があることを横溝は確信している。このまま景気が回復していけば、少年探偵団シリーズはきっとラジオドラマや映画になるだろう。そして、後世は恐らく、江戸川乱歩の代表作と言えば少年探偵団シリーズということになるはずだ。
しかし、乱歩自身が欲しているのは少年向けの才能ではない、ということも横溝は理解している。「子供だまし」という言葉がある。少年向けの作品を子供だましと揶揄するのは的はずれだが、子供だましが上手いということは、その逆は言わずもがな、というわけだ。乱暴な意見だけれども、本人がそう言っていた。
池袋駅前でバスを降りた。乱歩の家は駅の反対側だ。
乱歩が本当に書きたがっているのは「本格的な」探偵小説なのである。が、そのつもりで書いたものは比較的評価されていない。支持されているのは、今は少年探偵団シリーズであり、戦前はいわゆるエログロであった。『怪人二十面相』の出る少し前、本格物として書き始めた『悪霊』は、連載わずか三回で終了した。
文才はある。それも極上の。しかしその中身が、本人の希求するものとは微妙にずれている。乱歩はそれを自覚した上で、日々の糧を得るために、また、全国の少年たちのために、明智小五郎と小林少年の活躍を書き続けている。そして、不得手と知りながら、今でも本格的な探偵小説を書こうとしている。決して豊かではない土地を懸命に耕す農夫のように。
仮に本格物の作品が完成しても、それが売れるかどうかはわからない。世間は江戸川乱歩にそんなものを期待していない。それでも横溝は、乱歩が本格物を書くのを応援していた。書きたいものを書くのが本当は一番いい。本を売るのは編集者の仕事だ。
ハンカチで汗を拭いながら家の前まで来ると、甲賀三郎が門を出てくるところだった。近所に住んでいて、ちょくちょく妨害をしに来るのだ。才能はあるのに性根が曲がっている。編集者仲間も皆敬遠していた。
「やぁ、横溝君。無駄足ご苦労さん」
開口一番、これである。作家でなければ張り倒しているところだ。
「こんにちは、甲賀先生。どうして無駄足だとわかるんです」
乱歩が甲賀に真っ白な原稿用紙を見せるはずはない。
「直接見たり聞いたりしたわけじゃないがね。あいつは調子のいい時、インクの瓶を身体の近くに置く。今日は随分遠かったから、それで察したというわけさ」
「なるほど、流石」
観察眼は優れている。いや、そんな上品な表現はこの男に相応しくない。鼻が利くのだ、犬のように。
「甲賀先生、江戸川先生はお忙しいんですから」
「わかっている。しばらくは控えるよ」
甲賀らしからぬ返答に、横溝は面食らった。
「あいつも大変そうだからな、色々と」
「甲賀先生の方こそ、調子はどうなんです」
「僕はいつも通りだ」
「そうでもないでしょう。筆が進まない時の気晴らしにこちらへいらっしゃるんじゃないんですか?」
「ばれていたか。ま、その通りだ」
「甲賀先生」
「しばらくは控えると言っただろう」
「本当ですか?」
「男に二言はない」
甲賀は何故か男気を重んじる。また、愛妻家であることを誇りにしている。それ自体は立派なことだが、しばしばのろけ話を聞かされる方はたまったものではない。横溝はいま現在甲賀の担当についている編集者を憐れんだ。誰か知らないが、頑張れ。それも仕事のうちだ。
「あいつの大変さは仕事ばかりじゃなさそうだからな」
「江戸川先生に何かあったんですか?」
「今どき子供だって知っているぞ」
「何をです?」
「生きていれば色々あるってことをね」
「ですから、江戸川先生の身に、具体的に何かがあったんですか? 甲賀先生が邪魔を控えようと思うほどの何かが」
「失礼な言い方だな」
「何かご存知なら教えてください」
「どうするかな」
一体何なんだ。言いたいことがあるなら、はっきりと言え。あなたのどこが「男」なんだ。
「では、正直に言おう。何かがあったのか、また、それが何なのか、僕にはよくわかっていない。つまり何も知らないのと同じということなんだ」
「意味がわかりません」
「君は何だ?」
「何とは何です?」
「どういう人間だ?」
「横溝龍介です」
「名前は知っている。職業は?」
「江戸川先生の担当の編集者です」
「そうか」
何が「そうか」だ。
「編集者か。微妙な線だな」
「微妙?」
「作家と編集者の関係は実に様々だからな。僕と僕の担当は相当理解し合っている方なんだが」
そう思っているのはきっとあなただけだろう。横溝は名も知らぬ編集者がますます気の毒になった。
「やっぱり何かご存知なんでしょう。少なくとも、何かあるのかも知れないということはご存知のはずです」
「奇怪な一文だね。常に何かあるのが人生だ。故に、何かあるかも知れないということだけなら誰だって知っている。ああ、となれば、その質問の答えは『はい』だ」
「いい加減にしてください」
「すまんすまん。怒らないでくれ。怒りは人体に有害なんだ、お互いにね」
「だったらはぐらかすようなことばかり言わないでください」
「許してくれ。さっき江戸川君とは満足に話ができないまま追い出されてしまってね、鬱憤が溜まっていたんだ」
「それで、僕が気晴らしのお相手ですか」
「ああ、悪かったよ。この通りだ」
どうもまだ釈然としないが、追求しても仕方がない。
「それじゃ」
そう言って甲賀は駅と反対の方向へ歩き出した。
「どちらへ行かれるんです?」
「なに、ちょっとコーヒーでも飲みにね」
「喫茶店なら駅前にもあるでしょう」
「どこでコーヒーを飲もうと僕の勝手じゃないか」
「良からぬことをたくらんでいるんじゃないでしょうね」
「横溝君、君は何が何でも僕を悪人にしたいらしいな」
「そうではありませんが」
「知っての通り、今、僕は不調なんだ。それも、かなり厄介な不調の渦の中にいる。ついつい江戸川君や君に毒気を当ててしまうほどのね」
少しは遠慮してほしい。「毒気」とまでの自覚があるなら。
「だから気晴らしに、いつもと違う店でコーヒーを飲んでみようというわけだ」
「でしたら、止めはしませんが」
「止められちゃたまらないよ」
「ご回復をお祈りします」
「どうもありがとう。期待にこたえてみせるよ」
期待しているとは一言も言っていない。
「ちなみにこの方法はね……」
「どの方法です?」
「いつもと違う場所に身を置いてみるという方法だ。これは村山君から聞いたんだ」
「村山さんから?」
間借り人で小説家志望の村山は、作品を書くにあたり、主に乱歩の指導を受けているが、この甲賀とも交流がある。というより甲賀の方からぐいぐいと関わっていっているのだが。とは言え、甲賀も一応プロだ。村山は幸福な環境にいると言えるだろう……一般的に見れば。本人がどう思っているかはわからない。
「彼の作品はまだ日の目を見てはいないが、彼自身の身体はもうだいぶ物を書くことに慣れている。こちらが勉強させてもらうこともあるよ」
「なるほど」
「乱歩の奴もあんな黴臭い土蔵にこもっていないで、たまには外出すべきなんだよな」
「ええ、それはそうでしょうね」
「そう、外に出るべきなんだ。色んな意味でね……」
また何やら意味ありげなことを言っている。だが、ここで相手にしてしまっては堂々巡りだ。どうせ肝心なことは何ひとつ言いはしまい。
「それでは甲賀先生、お仕事がんばってください」
幻影城はいつも埃が舞っている。時たま鼠が走り抜ける。城主が掃除は自分ですると言って、他の人間に手を入れさせないのだ。きれい好きの横溝には二階までの短い道のりが随分長く感じられる。けれど、作家は日々、深い霧の中をさまよっているのだ。編集者が埃ぐらいで弱音を吐くわけにはいかない。
ドアをノックして書斎に入った。乱歩の髪はボサボサで、着物はもう何日も着っ放しと思われる。帯はだらしなく腰のあたりにただぶらさがっている。初期の明智小五郎のようだ、と横溝は思った。けれども乱歩は現実の世界の人間である。明智小五郎のように四六時中頭が冴えているわけがない。
案の定、原稿はできていなかった。
「すまないね、横溝君」
「いえ」
「けど大丈夫だ。今、筆が乗ってきたところでね」
嘘だ。インクの瓶が遠い。気を遣わせてしまっている。
「甲賀君には会ったかい?」
「ええ、入れ違いに」
「あいつもたまには役に立つ。無駄話のおかげで気持ちが切り替わった。時間はあるかい?」
「はい。二時間ほどなら」
乱歩は腕時計に目をやった。
「三時までか。ちょうどいい」
「三時から何かあるんですか?」
「いや、こちらの話だ。下で茶でも飲みながら待っていてくれ」
「わかりました」
横溝は去りかけて、思い直し、口を開いた。
「いつまで、続けられそうですか?」
「何をだい」
「少年探偵団シリーズです」
「何を言っているんだ。まだ復活したばかりじゃないか」
「それはそうですが」
「心配ご無用。確かにここのところ遅れ気味だが、当分の間書き続けることはできる。何しろ複雑な筋立てや巧妙なトリックはいらないからね」
自嘲は先生の悪い癖だ、と横溝は思っている。口には出さない。
「批評家連中にワンパターンだ何だとそしられたところで、痛くもかゆくもない。子供たちが喜んでくれればそれでいいんだ」
「『少年』の編集者としては大変ありがたく思っております。しかし、先生、本格物を書きたいとは?」
乱歩は少し間を空けて、言った。
「書いているよ。誰に頼まれたわけでもなく、ただ書いている。実はそちらの方に気を取られてしまって、こっちが進まないというわけなんだ。目の前の仕事を優先すべきだと、頭ではわかっているんだが」
「そういうことでしたか」
無論、横溝はとうに勘付いていた。
「書きたいことがあるのでしたら、無理に少年物をお続けにならなくても」
「よせ、横溝君。責任ある編集者としてあるまじき発言だ」
「はい」
「確かに、本当に書きたいものは別にある。けれど僕は少年物を書くのも嫌いじゃないんだ。『実は二十面相の変装でした』、『実は明智小五郎の変装でした』、『実は小林少年の……』、いいじゃないか。読者の予想はただ裏切ればいいというものじゃない。期待に応えることも作家の仕事だよ」
乱歩の表情は穏やかだった。どうやら本心を言っている。惰性というのは横溝の思い込みだったようだ。
「人間は想像をする生き物だ。少年たちもきっと『こいつは誰かの変装じゃないか』と想像しながら読んでいるだろう。当てられていいんだ。お見事、と手拍子を打ってやりたいぐらいだ。現実が想像通りだった時の快感はね、横溝君、なかなかどうして、やみつきになるものなんだ……」
穏やかと思われた顔が、言葉の終わりの方で、一瞬だけ不気味に歪んだ。横溝の背に鳥肌が立った。摘んだシロツメクサの茎から真っ赤な血がしたたり落ちるかのようだった。直に見たことはないけれど、猟奇物を書いていた時の乱歩はこんな顔をしていたのかも知れない。
「先生が今のお仕事を楽しんでくださるなら、私にとっても喜ばしいことです」
「楽しんでいるよ。お心遣いありがとう」
横溝は素早く頭を巡らせた。作家が二つの仕事を同時進行する時、いずれかが捗れば、もう一方にも良い影響を与える。本格物の調子が上がることによって少年物の供給が安定することは、充分に期待できる。
「先生。お時間を取らせて申し訳ないのですが……」
「何だい?」
「今お書きになっている本格物は、どういった作品なんですか? いち読者として興味があるんです」
「嬉しい質問だね」
それは横溝の本音でもあり、作戦でもあった。声に出して他人に話すことで、考えがまとまったり、新しいアイディアが閃いたりすることはよくある。それは作家とて例外ではない。
「筋書きの方はまだなんだが、テーマは決まっているんだ」
「テーマ、ですか」
「僕の主張、あるいは読者へのメッセージと言い換えてもいいだろう」
意外だった。探偵小説と言えばまず謎ありきではないのか。少なくとも横溝の知る作家はほとんどそうだ。
「どんなテーマなんですか?」
「なに、ことさら斬新なものではないよ。僕が以前、エログロと呼ばれるものを書いていた時、無意識にテーマとしていたことについて、今度は意識的に掘り下げてみたいというだけなんだ」
「心の闇、とか、人間の本性、といったものでしょうか」
「ああ、そんなようなものだね」
エログロには根強いファンがいる。それなら今出しても売り上げに期待できる。……いや、そんな計算はよそう。
「是非拝読したいです。でも先生、その作品はまた、いわゆるエログロなのでしょうか?」
本格物を書きたいのではなかったのだろうか?
「どうだろうね。書いた結果、どういう分類を受けるかはわからない。ただ、僕としては、エロティシズムやグロテスクが含まれているだけで、それすなわちエログロなりと決めつけてしまうのは、いささか疑問に思うね」
その通りだ、と横溝は思った。エログロというレッテルのせいで正当な評価を受けていないものが、乱歩の過去の作品にもある。
「世界は闇だよ、横溝君。そうは思わないか」
「私にはわかりかねますが」
「夜になるといつも思う。世界は闇だ。だってそうだろう。昼というのは、たまたま太陽が照らしているところに我々の陸地が来ているに過ぎない。夜のとばりがおりる、という表現は間違っている。昼が通常で、夜が異常なんじゃない。夜こそが本来の有様で、昼は偶然与えられているだけなんだ。宇宙を想像してみたまえ。太陽のように自ら光る星はいくつかある。だが明るいのはその周囲だけだ。圧倒的に闇が制圧している領域の方が広いんだ」
闇について語る口に反して、その目は輝いている。とは言え、健康的な光ではなかった。黒水晶のような、不吉さをたたえた光だ。
「少年物ではまがうことなき勧善懲悪を描いている。それを楽しんでいるのは事実だが、テーマにまで言及するなら、僕は嘘つきだね。正義の話なんてしたくないんだ。地球を覆っているのは闇なんだよ。百鬼蠢く……」
その時、ドアが叩かれ、声がした。
「隆太郎です」
「入りなさい」
隆太郎が盆を持って入ってきた。盆にはそうめんを盛ったガラスの器と、つゆを入れたぐいのみと、黒塗りの箸が置かれていた。……薬味がない。女性の手によるものではなく、隆太郎が支度したのだろう。
「こんにちは、横溝さん」
「どうも」
と、会釈をした。仕事は休みなのだろう。
「昼食をお持ちしました」
「見ればわかる。部屋の外に置いといてくれればいいじゃないか」
「そうめんで良かったですか」
「ああ」
「僕もこれからそうめんを食べます」
急に何を言っている。どういう意味だ?
「構いませんね?」
「好きにすればいい」
「では、そうします」
隆太郎は山積みになった本の上に盆を置き、一礼して去っていった。横溝は混乱していた。今のやりとりは一体何だろう?
「では、横溝君、しばしお待ちを」
乱歩は椅子を回し、こちらに背を向けた。こうなってしまっては立ち去るしかない。
さっきの言葉の意味はわからないけれど、あのそうめんがのびてしまうことは間違いないだろう。そう思いながら、横溝は書斎をあとにした。
本宅の居間で茶をすすりつつ、考えた。書斎でのやりとりについて、隆太郎に尋ねて良いものだろうか? あまり立ち入った話なら憚られるが、抗いがたい好奇心のうずきがあった。この性格は文学に携わる人間として適正なものだと横溝は思っている。
「そうめんを食べます」
そう言った隆太郎の顔には尋常ならざるものが漲っていた。同じく、声の響きにも。何か決意のようなものが感じられた。わざわざ意を決してそうめんを食べる者などあるだろうか? 毒でも入っているなら頷けるが。
毒? その線はあるかも知れない。あくまでも比喩としてだ。そして、隆太郎は「僕も」と言っていた。乱歩は何らかの「毒」を服用した。隆太郎もそれに続くということだろうか?
「冷たいお茶の方が良かったでしょうか」
廊下から隆太郎が声をかけてきた。どうやら自分は湯のみを手にしたまま険しい顔をしていたらしい。
「いえ、大丈夫です」
「あとで冷たいのもお持ちしますよ。ところで、これ、いかがですか」
と、隆太郎は切った梨をテーブルに置いた。
「ニ十世紀です。妻が朝市で買ってきまして」
「ありがとうございます。いただきます」
「どうぞ。僕も一緒にいいですか」
「もちろん。奥様はまたお出かけに?」
「ええ、公民館へ琴を習いに」
そう言えば、乱歩の妻の隆子や、村山の姿も見えない。隆太郎の息子は学校だろう。今この家には男二人、いや、横溝も加えれば三人しかいないというわけだ。
「確か隆子さんも琴がお上手でしたね」
「素人芸ですが、年季は入っていますね。妻があの歳で琴を習い始めたのも母の影響でして」
「そうだったんですか」
それにしても、と横溝は思った。何やら隆太郎の雰囲気がよそよそしい。
「横溝さん、つかぬことをお伺いしますが」
そら来た。この様子なら、そうめんの謎も明らかになるかも知れない。
「推理には自信がおありですか?」
「それは難しい質問ですね。推理の真似事なら、仕事柄、他の人より多く経験していると思いますが」
「では、暗号は?」
「ああ、それなら……好きな題材ではあります」
暗号にはロマンがある、と横溝は考えている。
一般的に言って、探偵小説というものは、いつ謎解きの条件が揃うかが明確でない。探偵が調査したり、別の事件が起きたりすることによって、次々と新しい情報がもたらされるから、どの時点から謎が解けるかわからない。例外もあるが。
暗号は単独で謎解きが可能である。それ自体で完結している。探偵小説を風景画にたとえるなら、暗号は大輪の向日葵だ。風景の中に埋もれてしまうことなく、堂々と咲き誇っている。
そんなことを、いささか熱っぽく横溝は話した。
「とは言っても自力で暗号を解きたがる読者はやはり少数派ですし、僕自身も正解に辿り着いたことは一度もありませんがね」
「そうなんですか」
少し残念がっているような声に聞こえた。
「小説に出てくる暗号は大概難しいですよ。解けるはずというのが味噌ですが、易々と解かれてしまっては困りますからね。作家さん方も読者に解かせようとはあまり考えていないはずです」
「ならば、これはどうでしょう?」
そう言って、隆太郎は一枚の紙片をテーブルに置いた。それは果たして暗号だった。一度投げ出しかけたのか、しわをのばした跡がある。
「これは父の作ったものです。父は『簡単過ぎる。失敗作だ』と言って、丸めて捨ててしまったのですが、僕はふと興味が湧いて拾い上げたんです」
違和感があった。横溝は暗号の内容よりそちらが気になった。乱歩は原稿の出来が思わしくない時、丸めず、折りたたんで処分する。また、失敗作だというのに、きれいにタイプしてあるのもおかしい。そもそも滅多にタイプライターなど使わない。使うとしても、乱歩ならまず手で書いて、気に入ったものだけをタイプするはずだ。隆太郎は何か隠しているのか?
横溝は相手に警戒心を抱かせないため、疑問を顔に出さないよう努めた。微笑みを保つことには慣れている。
「解いてみようとしたのですが、お恥ずかしいことに、僕にはお手上げでした。そして困ったことに、父は答えを教えてくれないんです。気になって気になって、他のことに手がつきません」
「大変ですね」
「いかがでしょう、横溝さん。僕の代わりにこれを解いていただけませんか?」
やはり隆太郎の話はどうも怪しい。答えを教えないなんてことがあるだろうか。「楽しんでほしい」という以外に、答えを隠す理由が思い当たらない。「失敗作」つまり「楽しめない」と思っているなら、何故答えを言ってしまわないのか? ……ともあれ、暗号を解けば何かわかるだろう。
「拝見しましょう」
一見無意味なカタカナの羅列。全三十一文字。即座に「和歌と何か関係が」と思ったが、それは既に検証済みのようだ。鉛筆で五・七・五・七・七の切れ目に線が引かれている。
「その紙とは別に、ヒントがあります。『そうめん』です」
「そうめん? 食べるそうめんですか?」
「はい」
書斎で言っていたのはこのことか。「そうめんを食べます」とは「暗号を解きます」という意味か。いや、しかし「僕も」とはどういう意味だ? 昼食として出しながらの発言だから、まったくの支離滅裂というわけではないが、腑に落ちない。あの時の顔や声も異様だ。
「なるほど、そうめんですか」
横溝は次々に湧きあがる疑問を抑えつつ、そうめん、そうめん、と心の中で繰り返した。
そして、解けた。時間にして一分もかからなかった。
そうめんは漢字で書くと「素麺」だ。これの意味するところはずばり「素数」である。一とそれ自身以外に約数を持たない自然数、すなわち二、三、五、七、十一、十三……。全ての文字に番号を振り、素数の位置にある文字を抜き出せば良い。
1 2 3 4 5 6 7 8 9
バ ゴ ゴ ジ サ リ ン ス ク
10 11 12 13 14 15
ム ジ ゲ キ ン ホ
16 17 18 19 20 21
ウ ッ ヨ サ ウ キ
22 23 24 25 26 27
コ コ ク シ ュ ウ
28 29 30 31
シ ハ ュ ル
――ゴゴサンジキッサコハル
「わかりました。午後三時、喫茶『小春』です」
言いかけて、横溝は思いとどまった。隆太郎が解読に苦戦しているというのは恐らく本当だ。こんなにあっさりと解いてしまっては、彼の誇りを傷つけてしまうのではないだろうか?
解読を続ける振りをしながら、横溝はさらに考えた。そう言えば乱歩の書斎に行くのも三時という約束だ。この時刻について彼は「ちょうどいい」と口走った。この暗号と何か関係があるのだろうか? 加えて、甲賀が「コーヒーを飲む」と言って歩いていったのも喫茶「小春」のある方向だ。こちらは流石に偶然か……?
あふれ出そうになる好奇心に蓋をして、横溝はゆっくりと口を開いた。
「すぐには解けそうもありませんね」
「そうですか」
「じっくり考えてみます。写しを取っても良いでしょうか?」
「勿論です」
横溝は手帳とペンを取り出し、解読済みの暗号を丁寧に書き写した。まるでカタカナの練習だ。それから、末尾に「素麺」と、漢字で大きく書き添えた。隆太郎はじっと見ていたが、何かを発見した様子はない。やれやれ、これを見て気付かないようでは、何時間考えても無理だろう。大学教授ともあろうお方が、まさか素数を知らないなどということはあるまい。
「横溝さん、もし解読できたら、お電話をいただけませんか?」
「ええ、構いませんが」
「どうかお願いします。気がかりでならないのです」
その時、柱時計が二時を告げた。午後三時、喫茶「小春」。何があるのだろう。今や隆太郎よりもずっと多くの「気がかり」を抱えている。現場に行けば何かわかるかも知れないが、乱歩との約束を破るわけにはいかない。横溝は小説に登場する探偵たちを羨んだ。のんきに推理ばかりしやがって。俺には仕事があるんだ。
わざと五分だけ遅れて、横溝は書斎のドアをノックした。こういう時、少々の遅刻はむしろ歓迎される。「あと少し」は作家の決まり文句だ。月曜日の朝、布団を出たがらない子供と同じに。
返事がない。ドアを開けると、乱歩は机に突っ伏して「充電中」だった。苦しそうな寝息が聞こえる。悪い夢を見ているのかも知れない。
右肘の横に、文字の詰まった原稿用紙が揃えて置いてあった。連載中の『青銅の魔人』の続きだ。助かった! 予定の枚数には少し足りないが、これぐらいなら埋め合わせはできる。
「お疲れ様でした、先生」
乱歩の肩にタオルケットをかけてやった時、横溝は何か違和感を覚えた。今日は違和感が大漁だ。帰ったら赤飯でも炊こうか。
あるはずのものがそこにない。何かが足りない。インクの瓶はある。辞書もある。耳かきもラジオもある。一体何だ? 今日、最初にこの部屋に入ってきた時は、確かまだそれがあったはずだ。間違いなく何かが欠けているのだが、わからない。ある日不意に取り壊されてしまった建物のように、どうしても思い出せない。
こういう時、きっと甲賀ならすぐにわかるのだろう。分析力だけでなく、記憶力も優れている。何でもないようなことまで覚えていて、嫌味に利用したりする。あの男の問題はただ一点、性格だけなのだ。もとい、世の中のありとあらゆる問題は、人の性格に起因するものなのかも知れない……。
いや、もうやめにしよう。短い間に色々なことを考え過ぎた。
天才の眠りを妨げないよう、横溝は静かにドアを閉めた。太郎の屋根に降り積む雪のように。
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