乱歩への暗号
森山智仁
第1話
郵便受けを開けるのは隆太郎の役目だ。
不要なものがたくさん届く。住宅の広告、パチンコ屋のビラ、保険の案内、宗教の小冊子。はじかなければならないのは、それら明らかなちり紙ばかりではない。
ファンレターに注意しなければならない。本来は編集部に送られてくるはずのものだが、直接届くこともある。好意的な内容ならば無論「お通し」して構わない。しかし時にさりげなく批判が埋め込まれていたり、ひどいものでは全文が批判だったりする。そういった「熱心な」ファンからの便りを、父は嫌う。誇りを傷つけられたくないのではない。自分の小説の何が悪いか、充分過ぎるほど理解しているからだ。褒められれば、喜びはする。けれども、基本的に父は自分の小説をつまらないと思っている。全集が出た時などは、それぞれの作品の解説に、駄作だの失敗作だのと、ここぞとばかりに書き殴っていた。よく編集が許したものだと隆太郎は思う。
また、いま現在やりとりをしていない出版社からの手紙も「お通し」してはならない。日本の探偵小説の開祖、江戸川乱歩の原稿は誰もが欲しがる。執筆依頼は次々に届く。しかし当人にはそのラブ・コールにいちいち応える余裕がない。目の前の原稿で手一杯なのだ。なまじ上手い口説き文句だったり、待遇が良かったりすれば、大作家も人間であるから、心が揺れ、雑念に支配されないとも限らない。
――というのは戦前の話で、近頃は執筆依頼もぷつりと途絶えていた。来ればはじくが、来ない。頼まれていないものは断りようがない。
「そもそもつまらないのだから当たり前だ。戦前は皆ただ珍しがっていただけだ」
父はきっとそんな風に考えているだろうが、同時に淋しがってもいるだろう。自信がない。自分の小説を悪く言うのは決してポーズではない。だからこそ世間の評価が重要なのだ。他人に認めてもらえないと、自分が何者だかわからなくなってしまう。未熟な精神。だが、少なくとも確かに戦前は、誰もが父に夢中だった。新作が出れば、人が群がった。さながら浅草寺の鳩のように。
戦時中、厳しい検閲のため父は執筆活動を中断せざるを得なかったが、あまりそれを苦にしているとは見えなかった。以前の父は近所づきあいを面倒くさがっていた。ところが、隣組の制度によって強制されると、これが案外しっくりきたらしく、張り切って防火訓練などをやっていた。庭に畑や防火用の池や作り、それを満足げに眺めるなど、不謹慎ではあるが、父は戦時下の暮らしを結構楽しんでいたのかも知れない。
そんな「休暇」が勘を鈍らせたのか、あるいは、いわゆる「才能の泉」が枯れ果ててしまったのか、原因はわからない。いずれにせよ戦後、父の筆はぴたりと止まってしまった。夏の終わり、涼しい日が何日かあって、蝉時雨が聞こえなくなるように。空虚な秋が訪れていた。やがて鈴虫や松虫が鳴き始めてくれるのか、今はまだわからない。静かなまま冬が来てしまうのではないかと、父は焦っている。
だから、絶対に邪魔をしてはいけない。文壇は既に父の復活を期待してはおらず、「後進の育成や探偵小説の普及に力を注ぐ大先生」という扱いだが、父はまだ何かを書こうとしている。書けると信じているわけではない。けれど書くことでしか生きられないのだ。たとえ泳ぎを忘れても、魚は水の中でしか息ができない。
父の書斎は土蔵の二階にある。一階は本で埋め尽くされている。国内外の探偵小説や、江戸時代の版本・写本。きちんと数えたことはないが、恐らく一万冊以上あるだろう。黴の匂い、床の軋み、背表紙の彩り。父はこの空間を愛し、「幻影城」と、いささか大仰な名を与えた。天守閣で孤軍奮闘する城主のもとへ、隆太郎は本当に必要な書状だけを届けなければならない。
隆太郎もいい歳である。大学教授という立派な仕事に就き、妻も子もある。大の男が子供のお使いのようなことをさせられているのを、他人が見たら奇異に思うかも知れないが、ひよこのオス・メスの判別が専門家の仕事であるように、「お通し」すべきか否かの区別は隆太郎にしかつかないのだ。
しかし、その隆太郎の目をも惑わす手紙が届いた。九月のとある水曜日、よく晴れた朝のことだった。
バ ゴ ゴ ジ サ リ ン ス ク
ム ジ ゲ キ ン ホ ウ ッ ヨ
サ ウ キ コ コ ク シ ュ ウ
シ ハ ュ ル
お宝頂戴つかまつる。
自分の書いた小説を読んでくれと送りつけてくるものはたまにある。そういったものも隆太郎が読む。物書きでこそないが、江戸川乱歩の息子である。二、三枚読めば芽が出そうかそうでないかぐらいはわかる。見込みのないものは丸めて捨てる。稀に「将来性があると言えるかも知れない」ぐらいのものもある。そういう時は、乱歩の名で返事を書いてやる。そうしていいことになっている。即刻父にも読ませねばならない、と思えるような小説が届いたことは、今まで一度もない。
今回のように暗号だけが来ることも、決して珍しくはない。はじめの頃は父も面白がって、「お通し」すべきものとしていた。作家とファンの知恵比べ。清らかな交流。それだけなら良かったのだが、ある日難問が届いた。知る限りの解法を試し、さんざこねくりまわしても、さっぱり解けない。ああでもない、こうでもない。父はすっかりとりつかれてしまい、本業に手がつかないのは勿論のこと、食事さえ喉を通らなくなった。ひと月たって、苛立ちの限界を迎えつつある父に、出題者から答えが届いた。
「解なし」
いやがらせだったのである。そうと知らせてくれただけ、まだ親切だったと言えよう。あれ以来、暗号は一切「お通し」してはならないものとなった。
が、その日届いた暗号は何故か隆太郎の心に引っかかった。奇妙なことに、茹でる前のそうめんが一本、同封されていた。まさか誤って混入したのではあるまい。昼食の支度をしながら暗号をしたためる者はいない。解読のヒント、ということなのだろう。
隆太郎の心をとらえたのはそのそうめんばかりではない。言うなれば、気配であった。文字はタイプされたものだったが、不思議と書き手の息づかいを感じる。どこがどのようにと訊かれても説明は難しい。とにかく、少なくとも「解なし」ではなさそうだ。
さて、果たして父に見せるべきだろうか? いやがらせではないにしろ、手間は取らせる。原稿用紙との戦いを中断させて良いものか? 気分転換になるなら何よりだが、もし解読が難航すれば余計に苛立ちを募らせてしまう。そもそも、暗号は持ってくるなという取り決めを破るのだから、父は怒るだろう。何となく引っかかるものがあったと言って、理解してもらえるだろうか。
隆太郎は頭を抱えた。甘露か、毒か、はたまたその両方か。
いや、待て。父よりも、これは警察に届けるべきか? 暗号にばかり気を取られていたが、はっきり「頂戴つかまつる」とある。探偵小説風に言うなら予告状、現実的に言えば脅迫状である。犯人が本当に何かを奪うつもりなら、警察に相談して、しかるべき保護を受けねばならないのでは?
いやいや、駄目だ。「何を」奪うかが書かれていない! 「お宝」だけではわからない。もしかしたらそれも暗号の内容に含まれているのかも知れないが、やはりこの手紙だけではまともに取り合ってもらえないだろう。まして宛先は江戸川乱歩である。ファンのいたずらと見なされるのがオチだ。
隆太郎は考えた。考えに考えた。
「ひたすら考える。諦めなければ、必ず何かが見つかる」
雑誌のインタヴューで、「行き詰った時はどうするか」との問いに、父はそう答えていた。
その時、勝手口から声がした。
「おはようございます」
酒屋が配達に来たのだ。今日は母も妻も朝市に出かけている。隆太郎は自分で勝手口へ行き、日本酒とみりんを受け取って、伝票に判子を捺した。そしてあることに気付き、つぶやいた。
「あ、そうか」
「何です?」
「ああ、いえ、こちらの話です。どうもごくろう様」
「まいど!」
酒屋はバイクにまたがり、颯爽と去っていった。隆太郎は再び暗号とにらみ合った。
簡単なことだった。自分で解けばいいのだ。他愛もない内容ならば、父に見せていい。父が解読に手こずった時は、仕事に支障が出る前にヒントを出す。深刻な内容だったら、警察に届ける。これでいい。
解読に取りかかる前に、隆太郎は暗号以外の郵便物を父のもとへ「お通し」することにした。
土蔵に入り、急な階段を上がった。書斎のドアの前に朝食が置きっ放しになっていた。にぎりめしは海苔が濡れ、味噌汁は冷めてしまっていた。うさぎの形に剥いてあるりんごに蠅が止まっていた。
近頃の父は食事も書斎で取っている。毎朝と昼と夜、母は食事を盆に載せ、書斎のドアの前に置く。その際、声をかけてはいけない。執筆中か充電中(睡眠中ともいう)か、何にせよ邪魔をしてはいけないのだ。父は腹が減ればドアを開け、食べ、食べ終わった食器はドアの外に置く。その食器は次の食事を運んできた時、母が下げる。今のようにまったく手がつけられていないこともしばしばある。もちろん文句を言ってはいけない。母は本当に何も言わないので、隆太郎は感心している。ごく稀に、軽い口調で言うことはあるが。
部屋の中から、机で原稿用紙を揃える音と、声が聞こえてきた。
「君は、肥った女は好きかね」
父の声だった。村山の原稿の評定をしているところらしい。
戦前の一時期、一家で下宿屋を営んでいたことがある。それを商売にする前も後も、父は好んで部屋を他人に貸していた。趣味なのだろう。
村山健次郎は現在この家にいる唯一の間借り人で、小説家を志している。若くはない。隆太郎より六つも上だ。定職には就かず、日雇いで金を稼ぎ、ひたすら小説を書いている。うしろ指をさす人もいたが、隆太郎は好感を抱いていた。温厚。誠実。父とも母とも仲が良い。原稿を読ませてもらったことはないけれども、父が目をかけているのだから、才能はあるのだろう。
「特に好きでも嫌いでもありませんが」
「僕は嫌いだね。肥満は怠慢の結果だ。過剰に食い、充分に動かないから肥る」
「体質もあると思いますが」
「そういうこともあるだろう。とにかく僕は肥った女は嫌いなんだ」
「はぁ」
「いいか、村山君。この作品はまるで肥った女だ。贅肉がつき過ぎている」
「余計なことを書き過ぎている、と」
「そうだ。『雨が降ったら雨が降ったと書きなさい』。誰の言葉かわかるかい?」
「いえ」
チェーホフだ。
「チェーホフだよ。常識じゃないか。少しは海外の文学にも目を向けた方がいい」
「はい」
「無駄な描写は文章の価値を下げる」
「はい」
「原稿の束が厚くなるほど、中身は薄くなる。一般的に必ずしもそうとは言い切れないが、君の場合はそのぐらいの覚悟で装飾をそぎ落とした方がいい」
「わかりました」
「君が目指しているのは本格派の探偵小説だろう?」
「はい」
「だとしたら、なおさらだ。読者が読みたがっているのは情緒じゃない。出来事だ。君は詩人になってはいけない」
今朝の父は饒舌だった。少し酒が入っているのかも知れない。医者からは止められているのだが。
「僕は『本格派』じゃあないからね。少々情景にこだわることはあるが、それでもここまではしないよ」
「はい」
「何から何まで説明してしまったら、文学じゃない。それこそただの説明書きだ。読者には想像力というものがある」
「読者の想像が働くように、書かなければいけない」
「そうだ。読者はいつだって想像をしながら読んでいる。読む、いや、生きること自体、想像することとは切り離せない」
飛躍した。これはいよいよ酒が入っていると見える。
「先生はいつも、想像を?」
「君はしないのか?」
「どうでしょう。あまり意識したことはありませんが」
「じゃあ気付いていないだけだろう。そして人間の想像は大体当たる」
「当たる?」
「想像というか、予想とか想定、かな。当たるものなんだ。だからこそ『意外』という言葉がある」
それから、少しばかり間があった。妙な間だった。単に村山が相づちを打たなかっただけ、か? いや、どうもこの「想像」は外れている気がする。
「一から書き直さなくていい。まずこの原稿の、無駄と思える部分に赤線を引いてみなさい。何が無駄か、気付くことが第一歩だ」
「わかりました。ありがとうございました」
ドアが開き、村山が出てきた。顔色は悪くない。父の評定はもっと辛辣になることもあるが、どんな時でも村山はそれを過不足なく受け止めているらしく、その態度もまた父が村山を買う理由になっていると思われた。
「ああ、すみません。お待たせして」
「いえ、こちらこそすみません。立ち聞きするつもりはなかったんですが」
「聞かれて恥ずかしいことは何もありませんよ。それじゃ」
村山は足取り軽く階段を下りていった。父に言われたことをすぐ実行するのだろう。人並みの運があるなら、村山がデビューする日もきっとそう遠くはない。父の復活と同じぐらい、彼の萌芽についても、隆太郎は本心で願っていた。
「父さん、郵便です」
父はもう机に向かっていた。
「そこに置いといてくれ」
部屋に入ってすぐの、本が積まれた上の小箱が「室内の郵便受け」だ。昨日置いたものがそのままになっている。必要なものだけ選って持ってきているわけだが、それでも実際に読まれるのはいつになるかわからない。
少しためらいながら、隆太郎は父の背中に言った。
「あの、あまり、お酒は」
「すまん。わかっている」
素直な返事だった。昨夜か今朝か、どうしても飲まずにはいられない状態に陥ってしまったのだろう。決してアルコール中毒者ではない。隆太郎が注意すれば、しばらくは控えてくれる。
「じゃあ、失礼します」
そして、そっとドアを閉めた。
自室の引き出しからノートと鉛筆を取り出し、台所で茶を淹れ、縁側に腰を下ろした。今日は仕事も予定もない。一見したところ、それほど複雑な暗号でもなさそうだ。多少手間取ったとしても、今日中に解けるだろう。隆太郎は手紙の端を指ではじいて鳴らし、茶を一口すすった。
将棋や囲碁の戦型に定石があるように、暗号の作り方にもいくつかの基本形がある。ヒントと思しき一本のそうめんについては、とりあえず考えないことにした。基本形に当てはめていく中で、何か思い当たることがあったら、改めて注目すればいい。
まず、置き換え。例えば、全ての文字を五十音順に三つずらす。その場合、「あ」は「え」となり、「け」は「し」となる。濁音や半濁音、拗音にも法則を定める。隆太郎は最初の五文字「バゴゴジサ」に対して、何パターンかの置き換えを試みたが、意味の通る言葉にはならなかった。
次に、並び替え。一般にアナグラムと呼ばれる。例えば「やすみじかん」は「みかんじすや」と並び替えることができる。この手が用いられている場合、暗号を何度も声に出して読むことで、音の響きから解答を類推できることが多い。隆太郎は様々に抑揚をつけて繰り返し音読してみたが、これといった閃きは訪れなかった。
続いて、冗字。特定の「無駄な言葉」をランダムに紛れ込ませる方法である。例えば「あたりがせんとうたたごせんざせんいたますた」という文章には「た」と「せん」が紛れ込んでおり、これを抜き出せば「ありがとうございます」と読める。この手法の場合は文章全体を俯瞰することで「不自然に頻出する語」に気付くことが多い。けれど問題の暗号にはそれらしきものは見当たらない。
暗号と呼ばれるものは概ねこの三つに分類される。先の大戦で猛威を振るったドイツ軍の「エニグマ」も、仕組みこそ複雑だが、置き換えの一種である。恐らく最も多いのが置き換えだろう。並び替えや冗字は、単独では看破されやすいが、置き換えた上で並び替えるなど、組み合わせることで威力を発揮する。隆太郎はその「組み合わせ」の可能性も考慮し、たびたび声に出したり、紙から顔を離して眺めたりしながら、さらに色々な置き換えを試していった。
「何してるの」
妻の静子が隆太郎の肩越しに手紙を覗きこんでいた。いつの間にか随分と時間が経っている。
「驚かすなよ。帰ってきてたのか」
「気付かなかったの?」
「ああ」
「不用心じゃないの。家に誰か入ってきても気付かないなんて」
まったくその通りだ。これでは予告も何も、盗みたいものがあるなら、勝手に入って持って行けてしまう。
「で、それ何?」
「暗号だよ。父さん宛に」
「もう相手にしないんじゃなかったの? この前、ひどかったじゃない」
「そうなんだが、ちょっと気になってな」
「ふうん」
静子は暗号の内容に一切興味を示さない。探偵小説作家の義娘として嘆かわしい知的好奇心の欠如だ。
「解けたの?」
「まだだよ。見ればわかるだろう」
観察力にも深刻な欠損が見られる。
「でも、お義父さん宛の暗号なのに、あなたが解いちゃっていいの?」
「いやがらせじゃないかどうか確かめているんだ」
「ああ、なるほどね」
いや……待てよ。
「父さん宛?」
「え?」
「あ、そうか」
宛先は父なのだ。差出人は十中八九、父の読者だろう。となれば、父がかつて作中で用いた暗号の手法に影響を受けているかも知れない。
「何? どうしたの?」
「何でもない」
隆太郎は本棚から父の全集を取り出してきて、縁側にどさっと置き、自身はどかっと腰を下ろした。柱時計が十一時を告げた。正午までに解いてやる。
デビュー作『二銭銅貨』に早速、暗号が登場する。元の文を点字にし、さらにその点字を「南無阿弥陀仏」の六文字で表すという、二重の置き換えである。
『黒手組』の暗号はもっと複雑だ。漢字の配列の不自然さに気付いた上で、その漢字を「へん」と「つくり」に分割し、画数に着目して、仮名に置き換えねばならない。
一方『日記帳』や『算盤が恋を語る話』は比較的単純である。一定の法則に基づき、数字を仮名に置き換える。手元の暗号に数字は使われていないが、『黒手組』の例を考えれば、数字に置き換えてから再び仮名に置き換える、というのも考えられる。
父の作品を手掛かりにするはずが、ますます混乱してきた。いろんな可能性がある。あり過ぎる。樹海で道に迷い、やっと標識を見つけたと思ったら、無記名の矢印が四方八方に伸びているだけのしろものだった。そんな気分である。
『二銭銅貨』が点字を知らなければ解けないように、もしやこれも何か特別な知識を必要とするものなのだろうか? だとしたら試行錯誤はまったくの徒労である。
それとも、最初に感じた「気配」は単なる思い込みで、これもまた「解なし」のいやがらせなのだろうか? 絶対にないとは言い切れない。いやがらせかも知れないという疑いがいったん浮上すると、疑心暗鬼にとらわれ、同時にあの時の怒りが込み上げてきた。あれで父は一ヶ月間牢獄にいたようなものだ。
しかし、解きたい。どうにか解きたい。解けるものであってほしい。最早そこには祈りが込められていた。ここまで時間をかけたのだから、きちんと対価を得たい。
諦めかけ、奮起し、憤慨し、ため息をつき、爪を噛んだ。完全に能率は落ちていた。
寝転んで『黒手組』を全文読み返した。名探偵明智小五郎の洞察力には目を見張るものがある。けれども、これは作者が解を知った上で彼に解かせたものである。果たして刊行当時、自力で正解に辿り着いた読者は一人でもいたのだろうか? 本職の探偵ならば可能なのか?
悔しいけれど、見なかったことにしてしまおうか。そう思い始めたところで、来客があった。
「あいつ、病気でもしたのかい」
甲賀三郎。父と同じ探偵小説作家である。近所に住んでいて、時々ひょっこり訪ねてくる。
良きライバルではない。天敵と呼ぶに相応しい。二人の作風は対照的である。人間の心理に――しばしば異常なものに――注目する父に対し、甲賀は謎解きそのものを重視する。各々が志すものを勝手に書いていればいいのに、毒舌家の甲賀は父に論戦をふっかけ、父もついついそれに応じてしまうのだ。
隆太郎の中では、無用な郵便物以上に「お通し」してはならない存在だった。適当に世間話をして、丁重にお帰り願おう。
「病気? どうしてです?」
「今頃あいつの全集なんか引っ張り出してきて、難しい顔して読んでるからさ」
「嫌だな、違いますよ。これはただの読書で、父はピンピンしてます」
肝臓は少々弱っているが。
「ただの読書とは見えないね。その紙は?」
「何でもありませんよ」
「何でもないってことはないだろう」
この男は遠慮というものを知らない。
「今日は何か御用ですか」
甲賀はそれに答えず、言った。
「ははあ、読めたぞ。その紙は江戸川君の読者から届いた暗号だろう。ただの手紙を読むのに、わざわざ鉛筆を持ってくる奴はいないからね。そしてその本の山は、江戸川君の作品を解読の参考にしようというわけだ」
ご明察。こうなっては、下手に否定しても長引くだけだ。
「流石ですね、甲賀先生」
「どうだろう隆太郎君、その暗号、ひとつ僕にも見せてくれないかい? 解読の手助けができるかも知れない」
気は進まないが、仕方ない。
「どうぞ」
「では失敬」
甲賀は隆太郎の手からひったくるように手紙を取った。焦っていたのではない。ただただ不遜なのだ。
甲賀はしばらくの間、手紙をためつすがめつしていた。目を近づけたり、遠ざけたり、音読したり、太陽に透かしてみたり。一枚の紙きれに翻弄される様は滑稽だった。今の今まで自分もああしていたわけで、通りかかった人に見られていたかも知れないと思うと、隆太郎は恥ずかしかった。やがて、甲賀が口を開いた。
「駄作だね、これは」
隆太郎は自然と口が開いてしまった。自分本位もここまでくると見上げたものだ。解けないのを暗号のせいにするとは。
「隆太郎君、暗号にはどんな種類があるか知ってるかい?」
「置き換えと、並び替えと、冗字です」
「違う違う。もっと本質的な問題だよ」
「本質?」
「暗号には二種類しかない。すなわち、読ませないための暗号と、読ませるための暗号だ。軍隊なんかが通信に使う暗号は?」
「前者、ですか」
「そう。敵に読ませないためのものだ。読み方は味方だけで共有する。一方、読ませるための暗号と言えば、どんなものがある?」
「そんなものがあるんでしょうか」
「こいつがそうじゃないか」
甲賀は手紙の端をつまんでひらひらと揺らして見せた。
「読んでもらいたいからわざわざ送ってきた。そうだろう?」
「そう言われてみれば、確かにそうですが」
「単に複雑なだけの暗号を作るのはむしろ簡単だ。そんなものは自慢にならない。読み手の興味を引き、きちんと解かせることの方が遥かに難しい」
正論だが、だからといってその暗号を駄作と言い切れるのだろうか。
「だからといってこれを駄作と言い切れるのか、という顔だね」
つくづく嫌な言い方をする。もし自分が小説の世界で犯人役を演じるなら、この男にだけは探偵役をやってほしくない。
「ひたすら時間をかければ解けるかも知れないが、それは推理じゃない。ただの作業だ。解き甲斐のない暗号と格闘するぐらいなら、素人が弾くヴァイオリンのレコードでも聴いていた方がまだましだよ。こちらに推理をしてほしいなら、何かしらヒントを示すべきなんだ」
「ああ、すみません。ヒントならあります」
「何だって?」
すっかり忘れていた。隆太郎は封筒からそうめんを取り出し、甲賀に渡した。
「これが同封されていました」
「そうめん、だね」
「ええ」
「なあんだ、こういうものがあるなら最初から出してくれよ。ふむ、そうめんね。そうめん、そうめん……」
甲賀は『ソーラン節』のメロディを口ずさみつつ、右手でそうめんを指揮棒のように振り回しながら、左手に持った手紙を再び凝視した。そして、歌が止まったかと思うと、甲賀の口もとが不気味に微笑んだ。
「解けた」
馬鹿な!
「わかったわかった。なるほど、そういうことか」
甲賀は気取った手つきで隆太郎に手紙を返した。そうめんはまだ彼の右手にある。
「ちょいと簡単過ぎるが、駄作ではなかったね」
「本当に解けたんですか」
「どうして疑うんだ。答えを言ってやろうか?」
「いえ、それは」
聞きたくない、この男の口からだけは。
「いいかい、隆太郎君。君が苦労しているのはヒントから離れ過ぎてしまったせいだ。灯台の灯かりを無視して夜の海を航行するようなものさ。そりゃ遭難もする」
甲賀はそうめんを隆太郎の鼻先に突きつけ、ぐるぐると回しながら言った。力いっぱい手で払ってやりたかったが、大切なヒントを折ってしまっては事だ。
「考え方が固いんだよ。直感に身を委ねるんだ。もっともそういうものが備わっているなら、だがね」
それから甲賀は、貴婦人に一輪の花でも差し出すように、隆太郎にそうめんを返した。隆太郎も貴婦人のように受け取らざるを得なかった。
「それじゃ、行こうか」
「どこへです?」
「決まっているだろう」
と、甲賀は父の土蔵を顎で指した。
「僕はその手紙とそうめんを見て一分とかけずに解読した。あいつが果たしてどのぐらいの時間で解けるか、試してみようじゃないか」
「父は執筆中です」
「充電中とか言って寝ているだけかも知れんだろう」
だとしてもだ。
「時間を取らせやしないさ。いや、すぐに済むかどうかはあいつ次第ってわけだがね」
「しかし……」
「君は毒見役だったんだろう? そいつが正解を持たないいやがらせじゃないかどうか確かめてたんだ」
隆太郎は歯噛みした。まるで手のひらで転がされているようだ。
「そしてその目的は達せられた。正解は存在する。そうだろう? どうしても自力で解きたいというなら、別に止めはしないが」
この男は一人でもずかずかと父の書斎に入っていくだろう。ここはせめてついていって、被害を最小限に食い止めなければならない。
「一つお尋ねしますが、この暗号、警察に届けないといけないようなものではありませんでしたか?」
「確かに『頂戴する』とあるね。だが心配ない。物騒な内容じゃなかったよ」
ならば、早いところ済ませてしまおう。
「わかりました。行きましょう。でも甲賀さん、そもそも御用は何だったんです?」
「何でもいいじゃないか。さっさと行こう」
用事などなかったのだろう。ちょっかいを出しに来ただけなのだ。いつものことだ。
「わからん」
父はそう言って、手紙をくしゃくしゃに丸め、床に捨てた。さらに、生のそうめんをぽりぽりとかじりながら、こちらに背を向けてしまった。隆太郎は声も出なかった。
「おいおい、江戸川君。それはないだろう。一分も見ていなかったじゃないか」
「興味がない」
「だから、君が今かじっているそのそうめんがヒントだ。難しい暗号じゃない。僕はすぐに解けた」
「ヒントも難易度も関係ない。とにかく興味が湧かないんだ」
妙だ、と隆太郎は思った。あのいやがらせの一件までは、父は読者から届く暗号を割合楽しみにしていた。
「探偵小説を書く身として、その態度はどうかね」
「何故だい?」
父が椅子を回してこちらを向いた。火がついてしまったようだ。まったくこの甲賀という男、人の神経を逆撫ですることにかけては天才的だ。
「甲賀君、勘違いしちゃいけないよ。僕たちの仕事は暗号を解くことじゃない。小説を書くことだ」
「君だって自分で暗号をこしらえることがあるだろう。たまには解く方の身になってみることも大事だとは思わないか?」
「思わないね。君や他の作家がどうかは知らんが、僕にとって小説の中の謎というものは、暗号も含め、読者が自力で解くことを想定していない。何故なら、優れた探偵が登場するからだ。事件は彼が解決してくれる。鮮やかにね。その鮮やかさが大切なんだ。探偵の思考の軌跡を辿ったり、言葉を聞いたりすることで、読者は労せずして自分が賢くなったような気分に浸ることができる」
「ご高説ありがとう。となれば、江戸川君、その『優れた探偵』とやらは君の頭の中に住んでいるというわけだ。彼に尋ねればその程度の暗号はちょいちょいっと解けるはずじゃないのかい?」
「残念ながら、僕の中にいる探偵には秘密がある」
「何だいそれは」
「わかっていて訊いているんだろう?」
「さぁね」
「犯人も同居しているということだ。タネがわかっているから解ける。当たり前じゃないか。あっさり解いてしまったんじゃつまらないから、回り道はさせるがね」
「じゃあ、タネがわからなければ挑みもしないってわけか? 手前勝手な探偵だな」
手前勝手。この男の口からそんな言葉が出るとは。彼は自分の心を鏡に映して見たことはないのだろうか。
「何とでも言いたまえ。時間を無駄にしたくないんだ」
「この議論こそが時間の無駄だよ。江戸川君、悪いことは言わない。五分、いや三分もあれば、君なら必ず解ける」
「だが自分は一分で解いた、と勝ち誇りたいんだろう? 僕は投げたんだ。君の勝ちだ。それでいいじゃないか」
「強情な奴だな」
「君の方こそ」
甲賀に共鳴するわけではないが、隆太郎は違和感を拭い去れなかった。何故父はこうまで拒絶するのだろう? 甲賀は鉛筆も使わずに一分で解いたのだから、この暗号は閃きだけで解ける類のものということだ。感覚的なものについて、父が甲賀に劣るとは思えない。誰より父自身がそうは思わないだろう。だいいち、こんな紙きれ一枚で頭の優劣を競えるはずもない。相手をしてやった方が早く済む。
「僕からヒントを出してやろう。いいか、そのそうめんを……もう食べてしまったようだが」
「くどいぞ。やらないと言ったらやらない」
本当に時間を無駄にしたくないだけなのだろうか? だったら甲賀の話に付き合ってやっているのはおかしい。本当に集中したい時、父は誰であろうと徹底的に無視する。我が子や妻であろうと。身内なればこそ、かも知れないが。
「江戸川君、君はもしかして……」
「何だ」
「いや、いい。これにて退散するよ」
「そうしてくれるとありがたいな」
「最後に一つだけ」
「本当に最後だろうね」
「君はその暗号に一切興味がないらしい。ならば、その暗号を解いた結果に対して、僕がどんな行動を取ろうと、君には関係ないということだね?」
隆太郎の甲賀の言わんとしていることが飲み込めず、その顔を見た。甲賀の目つきはやけに真剣だった。
父は少し考えて、答えた。
「おせっかいが過ぎる。そいつはご遠慮願いたい」
「わかった。余計なことはしないよ。邪魔して悪かったね」
そう言って、甲賀は部屋を出ていった。父はもう机に向かっていた。
隆太郎は床に転がされた暗号を拾った。それから父の背中に一礼して、ドアを閉め、甲賀の後を追った。
土蔵を出ると、ちょうど母と村山が連れ立って出かけていくところだった。文芸坐へ映画を観に行くのだという。父が冷淡な分、村山はよく母の話し相手になってくれている。ありがたいことだ。
「さて隆太郎君、これからどうする?」
「どうって、もう済んだじゃないですか」
「君も兜を脱いでしまうのか?」
隆太郎は丸められた暗号のしわを伸ばしながら考えた。父の態度に疑問は残るが、暗号を見せるという当初の目的を果たした今、その内容への興味は失われつつあった。
「そうですね。降参します。やっぱり甲賀さんにはかないませんよ」
「下手くそなヨイショはしなくていい。そうだ、一つ訊こう。江戸川君は読者から来た暗号に対して、いつもあんな感じなのかい?」
隆太郎はいやがらせのいきさつを話して聞かせた。
「ふむ、ありそうなことだ。それはあちらも考えるだろう。となれば……だ」
甲賀はぶつぶつ言いながら煙草を取り出し、マッチで火をつけた。
「明日か、遅くとも数日のうちに、同じような暗号がまた届くだろう」
「何故そんなことがわかるんです?」
「憶測だ。外れても責任は持たない」
「何か根拠は?」
「ある。そいつの差出人は江戸川君に解読されることを求めている。その点はさっきも言った通りだが、その人物は知恵比べがしたいわけじゃない。別の目的でメッセージを送ってきている」
「どういうことです?」
「詳しく話すには、暗号の答えを言わなきゃならん。それは君もお望みじゃないだろう」
「ええ、まぁ」
「メッセージを送っても、無視されたり、解読してもらえなかったりする可能性がある。君ならどうする?」
「どうしても読んでもらいたいものなら、僕は暗号になんかしませんが」
「何か事情があるんだろう。そこは置いといて、さぁ、どうする」
「そう言われても、せいぜい繰り返し送るぐらいしか……あ、そうか」
「そういうことだ」
甲賀が煙を吐き出した。よく晴れた空に、突如不吉な雲が現れたようだった。
「また同じものが来たら、差出人には何か特別な意思があるということですね」
「同じかも知れないし、同じではないかも知れない」
「というのは?」
「ああ、いや、どうも話しづらいな。もう答えを言ってしまってもいいかい?」
「いえ、聞きたくありません」
「僕だって言いたくない。江戸川君から止められているからね」
「え?」
「君に答えを教えることだって『行動を起こす』ことに含まれるからだ」
ではこうして話をしていることはどうなのだろう。
「そこはギリギリセーフということにさせてもらっている」
心を読まれている。何とも薄気味悪い。だが、今はとにかくこの男の話を聞かねばならない。
「僕も男だ。約束は守る。その暗号について手出しはしない。しかしこれはどうも、本当にまるっきり放っておいてしまったら、後味の悪い結果になってしまうような気がするんだ」
要領を得ないが、仕方ない。
「隆太郎君、君は江戸川君にとって他人じゃない。君にはこの事件に携わる権利がある。少なくとも僕はそう考える」
「事件?」
「そんな大袈裟なものでなければいいんだがね」
「事件なんていう可能性があるなら、やはり警察に」
「気付かなかったのか?」
「何にです?」
「江戸川君は既にその暗号を解いている」
隆太郎は思わず暗号を見た。確かに、そうだとしたら、先ほどの父の態度にも合点が行く。
「答えを口に出したくないから、あれほど突っぱねたんだ」
「何故なんでしょうか」
「解けば、わかるかも知れないね」
甲賀は煙草を石畳に投げ捨て、下駄で踏み消した。腹は立ったが、今はそんなことを咎めている場合ではない。
「そうだな。これぐらいは言ってもいいだろう」
隆太郎は甲賀の目を見た。からかっているわけではなさそうだ。
「今後、それと同様の暗号が届いたら、その時点で古い方がまだ解けていなくても、すぐさま新しい方の解読に取りかかった方がいい。それも、なるべく急いで。手遅れになる可能性がある」
手遅れ? どういう意味だ?
「何故とは聞かないでくれよ。理由は言えないが、とにかくこれは忠告であり、ヒントでもある」
「念のため確認しますが、警察に届ける必要は」
「あるなら、江戸川君がするだろう」
甲賀の言う通りだった。
解くしかない。けれども、自信はなかった。自分より年長の、あけすけに言えば「年寄りの」二人が、揃いも揃って一瞬で解いてしまったことで、隆太郎は戦意を喪失しつつあった。
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