缶一本分の成長録

沢野いずみ

第1話

 クラスに一人や二人ムードメーカーがいるとそのクラスはいいクラスらしい。そしていいクラスらしい私のクラスにはやっぱり人気者がいた。大杉徹。これがうちのクラスのお調子者でありお馬鹿さんであるけれど、実はやれば勉強はできるという憎い一面もある男子だ。この間コーラをめぐってテストの点を男子が競っていたら、普段30点取ればいいほうの彼は平均92点を取っていた。いつもそれくらい力を出せばいいのに。と、友人に言ったら「そこがいいのよ」と言っていた。よくわからない。

 彼は明るかった。だからあまり仲がよくない人にでも平気で話しかけていた。だから友達でもない私も、クラスメイトという共通点だけで話しかけられた。これは私だけではなく、彼はクラス全員、いや、学年全員にそうだった。そんなところは、少しだけ尊敬していた。でも少しだけ、腹立たしくも思った。

 今日も普通に勉強して、友達と話して、大杉くんに話しかけられて、大杉くんは他の子にもいっぱい話しかけててそれをすごいな眺めながら、友達と家路についた。

 家に着くと、すでにお父さんとお母さんが帰宅していて、リビングで向かい合って座っていた。めずらしい、と思いながら「ただいま」と声を出すと、二人は「おかえり」と言ってくれた。お父さんは微笑んでくれた。お母さんは一枚の紙を握ったままこちらを向いてくれなかった。私はもう一度学校に戻りたい衝動に駆られた。

 どうしよう、と思っていると、お母さんが「早苗」と呼んだ。私は顔を上げた。


「早苗、よく聞いてね」


 お母さんは先にそう前置きした。よく聞いてね、と言われたが、本当はお母さんも聞かせたくない内容なのだろうことが強張った表情から読み取れた。


「お母さんね」


 お母さんはさらにそう前置きした。


「家を出ることにしたの」


 いえをでることにしたの。私はとっさに言葉を変換することができなくて、それがただの無意味な羅列に思えた。でも少しするとそれの意味が脳に伝わった。

 家を出る。家を出る。お母さんが、家を出る。

 どうして?

 言葉を理解できてもその理由がわからなくて、ただじっとお母さんを見つめていた。お母さんの横にはスーツケースが置かれていた。

 なんで?


「お母さん」


 声が震えた。お母さんは、なあに、と優しく答えてくれた。近所の人に対する声だった。


「お母さんは、もう帰ってこないの」


 私が言うと、母は苦笑した。


「もう帰ってこないわ」


 意味がわからなくて、私は「どうして」しか言えなかった。


「よく聞いてね」


 お母さんがもう一度言った。


「お母さんとお父さんは離婚することにしたの」


 離婚。この間お昼のニュースで芸能人が離婚した、とニュースで報道していた。それくらい私には遠い言葉で、実感がわかなかった。

 だって昨日まで普通に話をしてた。昨日まで一緒にご飯を食べてた。テレビを見ていたらもう寝なさい、と叱られた。

 いつも通りだった。いつも通りだった。あまりにいつも通りすぎて、この事態すら日常に感じられた。


「そうなんだ」


 だからそんな言葉しか言えなかった。お母さんはスーツケースを引っ張って玄関に向かった。私は呆然と突っ立っていた。考えがまとまらなかった。理解したくなかった。


「早苗」


 お父さんが声を掛けた。


「お母さんを見送ってあげなさい」


 気を使っていることがわかった。お父さんが泣きたい気持ちなのもわかった。だから私は二つ返事でお母さんを見送ることにした。スーツケースをお母さんのかわりに引っ張ると、お母さんは「ありがとう」と言った。










 スーツケースを引っ張って歩いていると、お母さんが休憩しようと言った。丁度真横は公園だった。

 ベンチに腰掛けて二人でしばらくはぼー、っと周りを眺めていた。ブランコに乗る小学生、コンビニでアイスを買って食べてる人、子供を砂場で遊ばせて、井戸端会議をしている母親たち。穏やかな午後だった。


「聞きたいこと、あるでしょう」


 お母さんが言った。私は声が震えないように、慎重に口を動かした。


「どうして離婚するの?」


 離婚の原因は色々ある。家庭内暴力、収入問題、不倫、嫁姑問題。家庭によってそれは様々で、時に人に理解されない原因もある。お母さんはどれだったんだろう。何が原因なんだろう。

 お母さんは困ったように笑った。


「ごめんね」


 それでなんとなく、わかってしまった。お母さんの指にしている指輪を贈ったのは、お母さんにとって大切な人なのだ。

 お母さんは、他を選んだんだ。私でもなく、お父さんでもなく、他の男性を選んだ。


「そっか」


 私が呟くと、お母さんはもう一度ごめんね、と言った。謝ってほしいわけではないのに。私はただ、やり直してほしいだけなのだ。だけど、これはもう決定事項なのだと、事実が告げている。今更私が何を言っても意味がない。なのに、お母さんは私に何か言ってほしいんだと思う。

 言えないよ、お母さん。言えないよ。

 どうして別れるの。どうして一緒にいられないの。どうしてその人を選ぶの。


「私とお父さんを、捨てるんだね」


 お母さんを悲しませるとわかっていても、言わずに言われなかった。


「ごめんね」


 お母さんはもう一度、そう言った。

 もう終わりなのだ。


「うん、わかった」

「ごめんね」

「もういいよ。でもここまでしか送ってあげられない」

「もう十分よ。ありがとう」


 お母さんはスーツケースを片手に持つと、さようなら、と振り返らずに去っていった。その足に迷いはなく、お母さんがまっすぐにその道を選んだことを示していた。

 しばらく何をするでもなく座っていると、頬に冷たいものが押し付けられた。思わず立ち上がると、隣に大杉くんがいた。


「あ、わりい」


 頬に当てていたのはオレンジの缶ジュースだった。どうやらくれるようなので、お礼を言って、ありがたく受け取った。

 一口飲んだところで、「聞く気はなかったんだけど」と切り出された。何となくわかっていたので首を横に振った。


「こんな所で話しているんだもん、誰かに聞かれても当然だよね」


 笑って言うと、大杉くんは困ったように頭をかいた。


「なんて言ったらいいかわからないけど、抱え込むことだけはするなよ」


 本当に困ったように言うので、私は笑いながら「うん」と答えた。


「大丈夫、まだお父さんがいるから。大丈夫」


 自分に言い聞かせたい気持ちもあって口にすると、大杉くんはやっぱり困り顔だった。


「あんまりお母さんに話してなかったけど、ちゃんと聞きたいことは聞けたのか?」

「聞きたいことは、大体」

「すがったりしなくてよかったのか」

「そんなことしても無駄だから」


 お母さんとお父さんの仲はもう修復できなくて、家庭の終わりは決定的だった。私の介入する余地なんてかけらもなかった。ただ、事実は変えられなかったとしても、私に発言をさせてほしかった。二人のことを教えてほしかった。私も家族なのだから。


「菊池は大人だな」

「そんなんじゃないよ」


 大人だったらきっともっとうまくお母さんと話ができた。見送ることが最後までできた。うまくいけば考えを変えさせることもできたかもしれない。でもまだ私は中学一年生で、一生懸命背伸びすることで精一杯だ。余裕なんてない。


「そうだな、俺たちは子供だよな」


 子供だと、言い切れる大杉くんの方が大人だと思った。


「大杉くん、いつからいたの?」


 大杉くんは一瞬言葉に詰まってから、「はじめから」とバツが悪そうに答えた。


「何か、嫌な気持ちにさせちゃったね。ごめんね」


 あんまりに大杉くんに気を使わせていて申し訳なくなって謝ると、大杉くんは慌ててもう一本ジュースをくれた。林檎味だった。


「いいっていいって。俺も勝手に聞いちゃったんだし」


 まだ一本目が飲みきっていないので、ベンチの空いているところに林檎ジュースを置いた。


「いきなりだったのか?」

「うん、家に帰ったらいきなり離婚するって聞かされた」

「そっか」

「うん」


 オレンジジュースを一口口に含むと、大杉くんも自分の飲み物を一気飲みした。コーラだった。飲み干してゲップをするので笑うと、大杉くんは少し嬉しそうだった。


「そうそう、笑いたいときには笑わないとな」


 にか、と人気の秘訣の笑顔を見せるものだから、私もつられて楽しい気分になってきた。


「楽しいときには笑って、悲しいときには泣いて、腹が立ったら怒るんだ。そうやって感情出さないと、いつかどれもできなくなるぞ」


 大杉くんがいうと本当にできなくなりそうな気がして、私はうん、と頷いた。


「あ、そうだ」


 大杉くんがひらめいた、と言うかのように手に平をぽん、と叩いた。


「今日から俺と菊池、いや、早苗は兄妹だ」

「え?」


 突然のことに驚いて大杉くんを見つめると、彼は歯を見せて笑った。


「今日から俺と早苗は家族だ。うん、それがいい。俺も妹ほしかったし」

「え、え?」

「てわけ、おーけー?」


 オーケーじゃない、と思って否定しようとすると、大杉くんが私の顔に接近してきたので、慌てて口をつぐんだ。


「返事はイエス!」

「は、はい!」


 あ、と思ったときには遅かった。大杉くんはやはりにか、と笑った。八重歯が見えた。


「うん。よし。じゃあこれから俺のことお兄ちゃんだと思ってくれよ」


 胸を張って言う大杉くんにどうしようかと思っていると、彼はいきなり立ち上がり、門限だ、と言って帰り支度を始めた。眺めていると、大杉くんに手を握られた。


「ほら、早苗帰るぞ。ちゃんと送るから」


 どうやら大杉くんの中ですでに私は妹らしく、少し心細い気持ちもあったので、そのまま送ってもらうことにした。

 中学生にもなって手をつないで帰るなんて恥ずかしかったけど、頼もしかった。大杉くんは笑顔で話しかけてくれて、それもまた私の気分を向上させてくれた。

 家の前に着くと、大杉くんは自分の胸を叩いた。


「泣きたくなったらいつでも兄ちゃんの胸を貸してやるからな」


 本当にお兄ちゃんみたいに思えてきて、じゃあ機会があったら、と答えると、大杉くんは嬉しそうな顔をした。



 そうして別れてから、ああ、慰めてくれていたんだと気づいて、無性に泣きたくなった。




「ただいま」

「おかえり」


 お父さんは家を出たときのまま、リビングのイスに座っていた。家を出たときと同じように、泣きたそうな顔をしていたので、大杉くんのくれた林檎ジュースをお父さんに差し出した。お父さんはきょとんとしたかと思うと、嬉しそうに缶を受け取った。ありがとうと言ってくれた。


「明日から私がお味噌汁作るね」


 そういうと、みるみるうちにお父さんの目から水分があふれ出てきたので、私も一緒になってわんわん泣いた。

 今度お母さんにあったら、今までありがとうと言える気がした。









缶一本分の成長録









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