第7話 牙乞山
温泉街のバス停を出てから、どれくらい経っただろうか。またうつらうつらとしている凛太郎の耳に、車内アナウンスが届いた。
「お次は、石尾村前。石尾村前。降りるお客様はいませんか?」
ハッとしたように、凛太郎は起き上がった。急いで降車ボタンを押す。まだ間に合ったようで、問題なく赤く光った。
隣を見れば、正樹が気持ちよさそうな顔で寝入っていた。その横顔は整っていて、大学ではモテるのだろうな、などと考える。
「正樹先輩、起きてください」
「ん……」
一瞬顔をしかめた正樹は、何度か瞬きをする。ちょっと状況が理解できていないのか、呆けた顔で周囲を見渡していた。
凛太郎と目が合うと、ようやく思い出したらしい。
「あぁ、凛太郎君」
「正樹先輩、もうすぐ着きますから」
「あぁ、ありがとう」
正樹は鞄を抱え直すと、中から財布を取り出した。その状態のまま、しばらく揺られている。まだ正樹は少し眠いのか、たまに目を擦っていた。
そうしているうちに、バスは停留所に着く。
「石尾村前。石尾村前。気を付けてお降りください」
二人は料金を払うと、ステップを降りる。時計を見ると、もうすぐ五時になろうとしていた。夏だから日はまだ出ているが、どことなく寂しげな雰囲気が漂っている。周りに人がいないからだろうか。
「正樹先輩、こっちです」
凛太郎は、林へと続く一本道を指さして言った。林の中は薄暗かったが、凛太郎は慣れた様に進んでいく。正樹は黙ってそれに従った。
林は意外と早く抜け、そこからは細い道路が続いて行く。たまにトラックが通ることはあったが、乗用車はほぼ通らなかった。
右手には山の裾野が広がり、もう反対側には田んぼが広がっている。それを珍しそうに正樹は眺めていた。するとちょっとした窪みに足を取られ、体勢を崩す。
「うおっ」
「大丈夫ですか?」
「あぁ」
転びはしなかったものの、一歩間違えれば田んぼに真っ逆さまだ。正樹は少し気もが冷え、できるだけよそ見をしないようにした。
そこから十五分ほど歩くと、凛太郎が急に立ち止まった。
「正樹先輩」
振り返ると、少し遅れて正樹が同じ場所に立つ。
「どうかしたのかい?」
「あれが牙乞山です」
指さした先を見れば、見上げるほどの山が見えた。正樹は手で日の光を遮り、その頂上を見上げる。
「思っていたより結構高いね」
「そうですか?」
牙乞山は、標高五百メートルはありそうな山だった。木々の葉は青々と茂り、僅かに風にそよいでいる。
「ちょっと、寄り道をしてもいいかい?」
正樹は時計を見ながら言った。
「まさか、登るんですか?」
「そうだよ」
凛太郎は、一瞬嫌そうな顔をする。それから控えめながら、正樹を止めるように説得を始めた。
「正樹先輩、登山の経験は?」
「あぁ、少しあるよ」
都内にある、牙乞山と同じくらいの山なら何回か上った経験がある。体力にも自信はあるし、足手まといにはならないつもりだった。
「そんなにキツイ山なのかい?」
「それもありますが、時間が……」
牙乞山は、上りだけでも一時間半はかかる。行って帰ってくる頃には、日はすっかり落ちて暗くなっている頃だろう。そんな中を、灯りもなしに歩きたくはない。
「一本道だとはいえ、足元の悪い道です。もし何かに躓いて転がり落ちたら……」
自分がその状況になるのを想像して、凛太郎は自身の腕を擦る。それを見て思い直したのか、正樹は今日は諦めることにした。
牙乞山を右側に眺めながらもう少し歩くと、ポツリポツリと民家が見えてきた。電気がついている家が大半で、きっと夕飯の支度をしているのだろう。換気扇がカラカラと回っている音が聞こえてきた。
「田舎だとお隣が数キロ先とか聞いたことがあるけど、この村では違うんだね」
「はい、小さい村ですから。中心部はもっと密集してますよ。商店街とかありますし」
「ちなみに、旅館とかはどこら辺にあったのかな?」
「さっき、道が左右に分かれてたの覚えてます?」
確かに、ここに来る前に分岐した道があった。正樹たちは右側を通って来たのだが、反対の左側の道はやけに広かったことを覚えている。
「あそこを左に曲がったところです。昔は専用のバスとかは走らせてたみたいで、あんなに道幅が広いんだそうです」
「今は入れないのかい?」
「別にそんな事ないですよ。俺たちが子供のときなんか、肝試しに行ったくらいですし」
昼間に行と、ただ寂れた建物がいくつか放っておかれているだけである。しかし夜に向かえば、雰囲気は抜群であった。
ガラスが割れているせいか、風は嫌な音を立てて吹いていく。闇の中に白くはためくものがあると思えば、暖簾だったなんてこともよくあった。
「幽霊は出たかい?」
「いろんなものが幽霊に見えて仕方がなかったですよ。ビビッて確かめるなんてできませんでしたけど」
正樹は声をひそめて笑った。凛太郎も幼いころの自分に思いを馳せて、苦笑いを返す。
「気になるなら、正樹先輩も行ってみたらどうです?」
「君も来てくれるならね」
断る口実にされてしまったが、存外悪い気分ではなかった。そのまま二人は民家を突き進む。かと思えば、どんどん山が近付いているように思えた。
「君の家は、中心部ではないのかい?」
「はい。どっちかと言えば、山の麓付近ですね」
望月の家からは山の麓までは、五百メートル程。時間にして約五分。対して中心部にある商店街からはニ十分近くかかった。
「父の職場は商店街の向こう側にあるんですよね。まぁスクーターがあるので、まだマシな方なんですが」
「マシじゃないのは、徒歩とか?」
「自転車もなかなか。グネグネ曲がってる道も多いですし、坂が多いので」
商店街は小高い丘の上にあり、どこから行くにしても坂を上らなければいけない。それだけなら凛太郎にはあまり関係がないことだったが、小学校も商店街の近くにあったのだ。
「小学生の時、重いランドセルしょって登校するのがつらかったなぁ」
誰に言うでもなく、凛太郎はつぶやく。正樹はそれを聞いていなかったのが、観察するように周囲を見渡していた。
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