第1話

 寝坊してしまった。

 昨夜、睦音から電話を受けた来浪はその場にいた宍戸、蒔絵に事情を話し、その場で解散しようとしたのだが、宍戸に捕まり、とにかく一度家に帰るぞ。と、声を掛けられた。

 そうして、蒔絵と別れ、事情を察したクラス・アイスの店長も、音子を見かけたらすぐに連絡を入れる。と、約束してくれたのである。

 睦音のいる家に辿り着くまで、着いて来てくれた宍戸に何度も落ち着くように言われ、友人の警官――つまり、司馬にも連絡を入れるように言われた。

 そんなすぐに思いつきそうなことを来浪は一切思いつかなかったこともあり、相当焦っていたのだろう。と、こうして夜が明けて起き上がってから理解できたのである。

 来浪は昨日の出来事を思い出す。の前に――まずは朝食を作り始める。何かから手を付けようにも食事はとるべきである。

 バゲットを切り、タマゴ、牛乳、砂糖の液に切ったバゲットを浸す。そして、液がバゲットに浸透するまでの間、適当に切ったキャベツ、玉ねぎ、にんじん、ベーコンを炒め、程よく油が回ったところで小麦粉を振りかける。そして、ある程度炒めたら牛乳を注ぎ、塩コショウで味を整える。そこまで出来たら液に浸しておいたバゲットをオーブンに入れ、焼き色が付くまで焼いていく。あとはコーヒーをポットに淹れ、ヨーグルト、ジャムを用意し、皿に盛りつけて朝食の準備完了である。

 来浪はそれを隣の家――睦音たちに持って行くことに決めた。

 昨日、家に着いて、最初に見たのは目に涙を貯めた睦音であった。そこから先はあまり記憶にはない。司馬がやってきて、睦音の旦那である石黒 花音(かのん)が帰ってきて――しかも、あろうことかその場にいた誰よりも狼狽していたらしく、宍戸を始めとした全員に慰められた。ことまでは来浪は覚えていた。その後、どうやって自分の部屋に帰ったかもわからず、しかも、目覚めてみると時計が10時を回っており、大学の1限目には出られない。

 来浪は盛大に息を吐くと、睦音のいる家のチャイムを鳴らした。

「おはようございます」

「……ああ、クロくん、おはよう」

「これ、朝食をとっていないと思って」

「わぁ、ありがとぅ。うん、作る元気もなくて」

 家の中に案内されると少し疲れた表情の花音がいた。来浪は一言二言交え、朝食を机に並べる。部屋を見渡してみても、どこにもフワフワと花が咲いているのではないかと思うほどの雰囲気はなく、飛びついてくる影もない。一体、音子はどこに消えてしまったのだろうか? そして、誰が連れて行ってしまったのだろうか。いや、ここで考えるのは『何故か』である。

「クロくんありがとね、ご飯は良いかなって思っちゃって」

「朝は食べないとですよ。待つにしろ、行動するにしろ、体力がないと」

「うん……クロくんは大丈夫ぅ?」

「……ええ、睦音さんと花音さんに比べればずっと大丈夫です」

 少し嘘を吐いた。睦音の大丈夫。という問いは誰かよりも。ではなく、個人の容量から溢れていないか。という意味での問いであることは理解しているが、今この場で、この夫婦に気を遣わせるわけにはいかない。自分が我慢すれば2人は音子のことだけを考えられるだろう。来浪は精一杯に笑顔を浮かべてみせる。

「えっと、それで、賢くんはなんて?」

「うん、警察全てが動けるわけじゃないけれど、ワンちゃんが人を集めてくれるって。今日もお昼頃から来てくれるって言っていたわよぅ」

 来浪は安堵の息を漏らすと返事をした。ただ、警察が動かないのは理解出来る。まだ誘拐事件と決まったわけでもなく、大袈裟に動けないのは当然である。だが、事故などの可能性もあるために、司馬が動いているのだろう。

 来浪は司馬にちゃんと礼をしようと決めた。

 少し話をしたら空腹感を覚えた。安心しきったわけではないが、2人の声に気が緩んだのだろう。来浪は睦音と花音に冷めない内に食べるように勧め、断りを入れ、自分も席に腰を下ろす。

 そうすると、睦音も花音も「いただきます」と、声を揃え、食事に手を付けてくれた。来浪は一安心し、食事に手を伸ばした。

 普段よりも静かな食事。普段の食事もとりわけ騒がしいわけではないが、今日は寂しさが表立って浮き出ているように来浪は感じていた。

 すると、スプーンを口に運んだ花音が顔を伏せ、小さく呟いた。10年前の犯人が戻って来たのではないか。と。

 そんな言葉に、せっかく進んでいた食事の手が止まってしまう。

 花音の言うこともわかる。そうではないと考えることが出来るのは、そもそも事件について調べたからであり、さらに言うと『マリアと一緒に関わった』から得られた結論で、まったくこの事件に関わっていなかった花音がそう怯えるのも仕方がないだろう。

 しかも、この推察、結論も正しいかは未だに不明なのである。所詮は推測でしかなく、睦音と花音を安心させるだけの説得力もない――のだが、来浪は引き攣っているが笑みを浮かべ、極めて明るい声で花音に声を放つ。

「大丈夫です。魔女さんは言っていました、音子ちゃんは抜けているけれど猫並みの警戒心も持っているし、害のある人間には懐かないって。事件のことを調べましたが、10年前と今回の犯人も、標的に選んだ子は家に1人でいて、尚且つ両親にあまり愛情を注いでもらえなかった子です。睦音さんも、花音さんも、音子ちゃんのことちゃんと愛してるじゃないですか」

 来浪は声を震わせるが、それでも睦音と花音には安心してほしかった。2人が悲しんでしまえば音子も悲しむ。来浪はそれが堪らなく嫌だった。家族が揃って悲しんでいる光景が嫌だった。大きく息を吸い、真っ直ぐと睦音と花音の瞳を見つめるが、やはりその瞳は潤んでいた。

「そ、それに、僕も今、事件について調べています。もしかしたら警察よりも……」

 しかし、言葉に詰まってしまう。当然である、来浪は自意識過剰でもなければ、ただの大学生だと理解もしている。ここで安心させるためとはいえ、その約束だけは出来なかった。その慰めだけは許容を超えている。だが……これは自分で動かなければならないとも理解している。

 と、次の言葉を躊躇していると突然頭に手が伸びてきた。来浪は驚き、頭を撫でてくれる睦音と花音を見た。

「ごめんねぇクロくん、あと、ありがとぅ」

 睦音の言葉の後に、花音も続く。こういう時だからこそ、両親である自分たちが気丈に振る舞わなくてはならない。それなのに、自分たちより無理をさせて申し訳ない。と、花音が言い、見せつけるようにバゲットのフレンチトーストを大口開けて頬張った。

 元気になろうとしてくれた睦音と花音に来浪は頬を緩ませる。この2人には笑っていてほしい。自分にはないものだから尚更、理想とも言える幸せな家庭をいつまでも続けていてほしい。来浪は小さく息を吸い、食器を重ね、睦音たちに頭を下げた。

「それじゃあ、ちょっといってきます」

「うん――ああ、クロくん」

「はい?」

「音子ちゃんも心配だけれどね、クロくんも陽女ちゃんも大事だから、あんまり無茶なことしちゃだめだよぅ」

 来浪は小さく笑い、返事をした。

 そして、石黒宅から出た来浪はまずはマリアを捜そうと考えた。彼女であるのならこの事件の真相に近づいているかもしれず、音子がいなくなったと知れば、多少は力を貸してくれる……と、信じたい。魔女なのである、いくら親しい相手といえ、本人がやる気がないといえばそれっきりであるのは明白。しかし、そこまで非道な魔女であってほしくない来浪はマリアに協力を仰ごうと思っているのである。

 来浪はアパートの前で煙草に火を点けた。すると、近くのバス停にバスが停まり、そこから司馬が降りてくるのが見えた。

「ありゃ、来浪くん、もう大丈夫?」

「ええ、はい、おはようございます。昨日はありがとう」

「おはよう。いえいえ、自分は警官っすから、友人が困ってたら力になる程度の正義感は持ち合わせてるっすよ。それより、家にいなくても大丈夫? 一応、何人かに捜してもらうように頼んだし、連絡の付く場所にいたらすぐに会えるかもっすよ」

「……ううん、僕は大丈夫。今睦音さんたちも家にいるし、僕は僕の出来ることをするから」

「まだ事件について調べてるっすか?」

「そうだね、今僕が思う最悪が起きたから、とりあえずはやり直し。まずは魔女さんを捜そうと思ってるの」

「あ~……モニカさん、やっぱりここにいないっすか」

 司馬が考え込んでいる。マリアを捜していたのだろうか、どうにも表情が優れないように思う。

「魔女さんに用事?」

「そっす、龍壬さんが呼んでこいって」

 美虎 龍壬はこの事件をどう思っているのか。音子がいなくなったことについて何と思っているのか……いや、聞くまでもないことだろう。こうして動いているのが司馬だけなのだ、美虎が事件性を見出していないのは明白だろう。

 しかし、マリアを捜しており、司馬の表情から急を要する事態なのだろう。

「あ、そうだ、ねぇ賢くん、美虎さんは音子ちゃんのこと何か言ってた?」

「え? あ~……と、特には」

 目を逸らしていることから、美虎が何かしらを言ったのだろう。

「賢くん、教えて」

「え~……い、一応、あれっすよ? 弁明しとくっすけど、龍壬さんは刑事として――」

「わかってるから。僕が聞きたいのは美虎さんがそう結論付けた理由だよ」

「あ、そうなんっすか? それなら――龍壬さんは音子ちゃんが誘拐されたとは思ってないっす。何より、以前と違う。だ、そうです」

「以前と違う?」

「自分、音子ちゃんのことを知ってたっすから、そのことも含めて美虎さんに報告したんですが、まず美虎さんは、音子ちゃんは今までの子のように不幸ではない。それと今までの被害者と同じ1人っ子だが、近くに大人がいるために狙う意味がわからない。とのことでした」

「……なるほど。うん、僕もそう思う――けれど、実際いなくなったのは確かだからね、捜す……? あれ」

 ふと、来浪は言葉を止めた。司馬の発言に違和感を覚えた。

「賢くん、ちょっと聞きたいんだけれど、被害者の子って1人っ子だったの?」

「そっすよ」

 来浪は考える。それはおかしい。音子は1人っ子であるが、ほとんど大人が連れ添っている場合が多い。犯人が兄妹に限定せず、発覚を遅らせるために1人っ子を選んでいるのであれば、音子がそこに含まれるのは違和感がある。そもそも、津田 沙羅がいる。彼女には兄がいた。しかも、その兄は事件当時、周辺からそこそこの知名度があったはずである。

 否、その例外になる可能性を秘めているのも沙羅だけであるが、やはり納得は出来ない。いや、納得が出来ないのは音子を攫ったことに関してであるが……。

「ああ、だから美虎さんは津田さんを怪しんでいるのか」

 兄がいた沙羅、他の被害者と異なる環境であるために、美虎は違和感を覚えたのだろう。そうなると、やはり美虎は音子がいなくなったことに関しては興味も示さないだろう。

 10年前と今回の事件、それぞれに共通点はあるものの、やはり別物に思える。では、もう10年前の事件を調べることは無意味なのだろうか? 音子を見つけるのなら今回の事件に的を絞り、探索をした方が見つかる……のだろうか。

 そもそも今回の事件、10年前と同様、犯人がまったく表に出てこない。1週間経った今、金銭の要求もなければ、保護者にコンタクトもない。だからこそ、警察も手を焼いているだろうし、知っている事件を当てはめて捜査をしているのだろう。

 と、なると、10年前を調べている警察ですら何も進展がないというのに、大学生である自分に何が出来るというのか……来浪は顔を伏せ、頭を抱えながらポケットから煙草を取り出し、咥えて火を点ける。

「わ、来浪くん、やっぱ休んだ方が……」

「いえ……大丈夫です」

 違う――また、思考の仕方を忘れていた。すでに最悪な出来事が起こっているが、脳を回転させるのに必要な材料はまだある。この状況から捜査における最悪を想定し、対処する。

 音子が誘拐された。疑問1・誰に。疑問2・今までの事件と関係しているか。音子を見つけ出す。対処1・音子が誘拐されていないというのであれば街中を捜す。対処2・10年前、今回の誘拐に関係しているのなら犯人を見つけ出す。

 まだやれることはある。それにやはり釈然としない。今回と10年前の事件、別物であるのは間違いないと思われる。まずは津田 沙羅がほとんど動いていないのも理由に挙げられる。もし、10年前の犯人であるのなら接触があってもおかしくないと思うのだが、それがない。なんらかの伝で彼女が10年前のことを覚えていないと知ったとしても、ある程度は接触するのではないか。それと、10年前は下校中の犯行と思われるが、今回の事件では途中からいなくなった。もっとも、これは誘拐された生徒が途中で学校から出て行ってしまったためとも思われるが、どうにも、そうでないような気がする。

 来浪は司馬に、今回の誘拐、バスの運転手や周囲の人間への聞き込みで被害者の生徒を目撃した人間がいないかを尋ねる。

 しかし、案の定いないとのことであった。今回の事件、どうにも学校関係者が怪しく思えるが、10年前はそうではなかったはずである。

 今回の事件は目撃者が誰もいないことから、誘拐されたのは学校内部。しかも顔見知りだった可能性がある。そうでなければ学校の途中で連れて行くことはほぼ不可能であろう。

「……? あれ、そういえば――」

 そして、ふと思いつく。今回の事件で怪しい人物が1人いる。来浪はマリアの顔を思い出す。どうして――その理由が今回の事件でのことであるのなら、彼女の行動にも納得がいく。

「……賢くん、ちょっと無理言っても良い?」

「へ? なんですか?」

「ちょっと調べてほしい人がいて……多分、魔女さんもマークしてる」

 何故その結論に至らなかったのか。怪しい人間なら1人いる。無償で提供し、何も対価を払わせない胡散臭い人物――否、対価はあった。それが大きくなりすぎ、今回の事件を引き起こしたのだろう。

 そもそも、怪しいとマリア発信で理解していたはずである。

 さらに言うと学校関係者で生徒にも近い。そんな人物がいたことを。

 そこまでの思考をして、来浪は思いつく。そして、今まで使っていなかった可能性を思考回路に組み込むのだが……足りなかったのはそれであった。

 思考する時、常に大前提にあったのが、自分が我慢すれば円滑に進められる。であり、故に誰かにそれを向けて考えることが多くなかった。誰かを貶める。誰かが悲しむ。そうならないための思考であるために、来浪はどうしても、そこに行きつかなかった。

 どこか遠くから眺めているような思考――フィクションにしか思っていなかった現実。だが、それが崩れた。今回起きた事件の真相が彼女ではないかと疑った時、初めて目の前で起きている脅威だと理解することが出来た。で、あるから、来浪はそこに辿り着いた。身近な人間、目の前にいるそうであってほしくない人物……そうして、来浪は思考を抑制していた――否、そもそも組み込んでいなかったのである。

 どうして。何故――頭の中にはそれだけがグルグルと回っている。だが、それでも、今回の優先順位は石黒 音子である。彼女がそこにいる可能性が高い。そのために、確かめなければならないことがある。

 悪意か善意、それだけはどうしても知っておかなければならない。そして、それを知った上で、来浪はその後の行動を決めようと考えた。

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