第四章 魔女のいない平日
来浪は宍戸の研究室に訪れていた。昨日浮かんだ疑問を塚田に尋ねようと思ったからである。もちろん、宍戸を通し、塚田から許可を貰っており、小学校の授業が終わる16時過ぎに宍戸の研究室で待ち合わせを約束し、そこで話を聞く手筈である。
来浪は研究室で待っている間、宍戸から貰ったコーヒーを片手に今日の講義の予習をしており、暫し無言の時間が続いた。
すると、そんな空気に耐えられなかったのか、宍戸が頭を指で数回つついてきた。
「なぁ~、構ってくれよぉ」
「……」
来浪は呆れ、宍戸をいつもより小ばかにしたような表情で見る。そして、一度息を吐くと机に置かれていた輪ゴムを指に引っかけ、それを宍戸に向かって撃った。来浪は何事もなかったかのようなすまし顔で再度ノートにペンを走らせていく。
「いや! それ構ったにカウントされねぇからな!」
「そんなのだからフラれるのでは?」
鬱陶しく思った来浪は少し意地悪をしようと考え、マリアが言いそうなことを口に出してみた。すると、宍戸が目に見えて落胆しており、さすがに悪いことをしたな。と、慰めようとしたところで、研究室の扉が開いていることに気が付く。塚田が苦笑いで立っていた。
「塚田先生、こんにちは」
「ええ、こんにちは――宍戸くん、またフラれたの?」
「またとか言わないでください……来浪、まさかお前の口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった」
「マリアさんの真似をしてみました」
「あの隣人の真似だけは絶対にするんじゃないぞ! 俺が傷つく」
来浪は宍戸を宥めつつ、承諾したと返事を伝えると、立ちっぱなしの塚田を椅子に座らせ、研究室のコーヒーメーカーからコーヒーをカップに淹れ、彼女に手渡す。
「ありがとう。本当、よく出来た子ね、宍戸くんは見習いなさいよ」
居心地の悪そうに宍戸が顔を逸らしたが、来浪は2人の関係にさほど興味はなく、ただ褒められたことは素直に礼を言い、塚田の向かいに腰を下ろした。
「さて……宍戸くんから連絡をもらったけれど、満祇くん、貴方、事件についてまだ調べているのね」
少し咎めるような口調で塚田が言った。しかし、来浪は叱られるのを承知で塚田に話を聞きに来たために、しっかりとした口調で返事をし、塚田の目をジッと見ながら謝罪の言葉を放ち、頭を下げる。
「ごめんなさい。けれど、どうしても自分の中ではっきりさせておきたいんです」
「……」
塚田が考え込むような表情を浮かべているのだが、横から宍戸が入ってきて手を上げた。
「あ~……先輩、俺からも頼んで良いっすか? 来浪、先週はきっと事件のことを考えないようにしていたんだと思うんですが、どうにも集中出来ないみたいで、俺の講義をちゃんと受けてくれないんですよ。こいつは優秀だし、俺の講義の単位をあげたい。だが、このままじゃそれをあげられなくなっちゃうっすよ」
そこまで酷い授業態度だったのだろうか。来浪は反省し、小さく宍戸に頭を下げた。
宍戸の言う通り、先週ほとんどの講義の内容が頭から抜け落ちている。このままこの状態が続けば勉強にも手が付かなくなり、単位も危ういだろう。
もちろん、塚田が思い出したくもない。話したくない。と、言うのであれば彼女から話を聞くのは止め、警察でもない一介の大学生が事件を調べることを野次馬根性だと言われれば手を引く。しかし、いくら約束事を心に決めても、来浪は塚田に話してほしいと願うのである。
「……わかりました」
塚田がコーヒーを口に運び、一息吐くと目を細め、どこか呆れたような顔で「どうぞ」と、質問をすることを許してくれた。
「まずはありがとうございます。それと、ごめんなさい、少し失礼なことを聞くのですがよろしいですか?」
「ええ、構わないわよ」
「あの、10年前の新聞を見て気になったのですが、沙羅さん……津田さんが誘拐された時、学校側は気が付いていなかったのですか?」
「……痛いところを付くのね。ええ、そうね、私たち教師は沙羅ちゃんが誘拐されたことにも気が付いていなかったわ」
「え? 先輩、それって結構ヤバくないですか?」
「うん、でも……学校に来ないのも仕方がないって思ってたから」
「他3名と兄の津田 恭平さんですね」
「驚いた――本当、よく調べているのね。ええ、その通りよ。沙羅ちゃんの友だちだった誘拐事件の被害者3名、それと同じ時期に亡くなった恭平くん。家族と友だちを一気に失くしてしまったから、無理に学校に来るよりは時間をかけた方が良いと私も、他の教師も思ってしまっていたわ」
「うわ、それはキッツいな。子どもの頃に出来たトラウマっつうのは長引くからなぁ」
幼児期や児童の頃に出来た心の傷は大人になっても引きずることがある。
来浪はそれについて思うことがある。子どもの頃の心はまだ発達しておらず、どうあってもその時に受け入れることは難しい。
子どもが感じる『勝てない』と、大人の感じる『勝てない』には差があり、児童の頃は心を傷つける存在が大きく見えるため、目の前の脅威に子どもはどうしても苦手意識を持ってしまう。子どもが大人になった際、その勝てない。が大きいままであった場合、自分の心が成長していない、過去のはずなのに心が成長していないからどうにも出来ない。と、追い詰められてしまう。
そもそも、勝てない。と、感じるのが間違いであることは知っているが、どうしてもトラウマを負っている人間というのは、目の前の脅威をどうあっても排除しようとするために受け入れようとはしない。何故なら、自分の心がその脅威をあまりにも大きいと思っているために受け入れられる容量からそれがはみ出ると諦めてしまうからである。
とはいえ、津田 沙羅が持つトラウマというのは宍戸が言ったような身近の誰かが亡くなったからではなく、誘拐犯に向けてであるが、塚田に言うならまだしも、宍戸に話す必要もないために来浪は何も言わず、塚田の言葉を待つ。
「しっかし、ヤなことは続くもんですね。友だちだけじゃなく、兄貴まで失くすなんて」
「……いいえ、笹原さん――刑事さんは誘拐犯に殺されたんじゃないかとみているって言っていたわ」
「それまたどうして?」
「3人が遺棄されていた現場の近くに遺体があったからですよ」
「そうなのか? というか、お前よく調べたな」
「ええ、少し伝が」
司馬に口止めされていたが、塚田が「そうみたいね」と、言っていることから笹原から聞いて知っていたのだろう。
「あ~、そういやぁその沙羅って子、両親と上手くいっていなかったんだったか?」
「ええ、そうみたいです」
「ふ~ん……なぁ来浪、その兄貴、どんな人物だったんだ? 調べたんだろう?」
「はい?」
宍戸のその真剣な表情を来浪は知っていた。講義や生徒に向かう表情ではなく、傷ついているだろう人間を知ろうとする表情である。以前、講義の中で見た彼が持ってきた映像教材を見ていた時の顔。傷つけられた人間、傷つけた人間に質問をしている映像であった。
「とても良い人柄だったそうですよ。近所の人間からの評価も良く、保護者や子ども会のメンバーにも慕われていたとか」
「……なぁ」
「はい」
窓を開け、体を乗り出し、煙草に火を点けた宍戸が遠くを見ていた。来浪は塚田に訳を聞こうと視線を向けるが、彼女も考え込んでいた。
「先輩、俺はその沙羅って子の家庭環境がどういうものか知らないですが、その子、兄貴から虐待されてませんでした?」
振り返った宍戸が塚田に尋ねた。来浪は何故彼がそんなことを聞くかわからず、つい聞き返してしまう。
「え? どうしてですか?」
「う~ん……親の虐待っていうのは結構すぐ明るみに出るんだが、兄弟からの虐待っつうのはあんまり表に出ないんだよ。ていうか、気付かれないことが多い。親から見ればジャレてるだけ。周囲から見たら子どものやること。そうやって気付かれないで虐待を繰り返している兄弟って人の喜ぶツボっていうのをしっかり押さえている節がある。しかもな、被害を受けた子って言うのは誰もそれを聞いてくれない、信じてくれないから助けを求めることも出来ず、ついには環境に心を慣らしちまうんだよ」
つまり、恭平が周囲に良い印象を与えていたのは沙羅に何かをしてもジャレていると思わせるためであると宍戸は言っているのである。しかし――ふと、来浪は塚田が顔を伏せているのに気が付き、声を掛ける。
「ええ、ごめんなさい……宍戸くんの言う通り――かもしれないわ。私がそれを確認する前に、沙羅ちゃんが転校しちゃったからわからないけれど」
「えっと、どういう?」
「……沙羅ちゃんのご両親ってね、一切家に帰らない人で、沙羅ちゃんの世話は恭平くんがしていたの。でも、私が違和感を持ったのは彼女が体育の授業をほとんど出ないこと、夏でも長袖に長ズボン。最初から気が付いていれば良かったんだけれど、恭平くんは満祇くんが言ったように良い子だったし、友だちとも上手くいっていたから彼女を傷つける人がいるなんて思ってもいなかったのよ。でも、3人が誘拐されてから何だか沙羅ちゃんの元気がなくて……私、彼女に話を聞こうと思ったんだけれど――いいえ、違うわね、聞けなかった。教師としての職務を果たせなかったのよ」
「両親が家に帰ってこなかった? そういう事例、あるっすよ、子ども……特に年上の兄弟は両親に構ってほしくてわざと暴力的になったり、問題を起こしたりするんすよ。学校でカウンセラーは――10年前は今ほどそういうのが表立っていませんでしたね」
来浪は少し考える。そして、宍戸と塚田に断りを入れ、煙草に火を点した。
津田 沙羅が兄の恭平から虐待を受けていた? しかし、これが事件に関係するとも……来浪は喫茶店での司馬の言葉を思い出した。時間がズレている。もしかしたら、沙羅が怯えていたのは虐待もされていたからであり、誘拐事件とそれがごっちゃになったのではないか。
そして、ふと気が付くのだが、そもそも本当に津田 沙羅は誘拐されたのだろうか? 何故なら、もし若い男性にトラウマを持っているというのなら、それは誘拐犯ではなく、兄である恭平の所為ではないのだろうか? 彼女の言葉から、誘拐犯に傷ついていたとは思えない。
全てが善意とは思えない。それが恭平に向けての言葉なら納得が出来る。
ただ、何故そうしたか。の、疑問が残る。沙羅が誘拐されていないのならそれでいいのではないだろうか? しかし、彼女はそうしなかった、出来なかった理由があるはずである。誰かを庇っている。そうとも考えた。だが、誰を――。
「……津田 恭平?」
「ん? どうかしたか?」
「い、いえ――あ、ああ、そうだ、塚田先生、津田さんは一体いつから登校しなくなったか覚えていますか?」
塚田に質問しながらも津田 恭平について考えていた。マリアが言ったように犯人が死んでいるとしたら、今のところ最も怪しいのは恭平である。しかし――何故、それを沙羅が庇っているかが問題である。仮に虐待されたとする、そもそも彼女が虐待を経験していないというのであれば、この考えはそもそも無意味なものになり、来浪は一度、そうではない。を考えないようにする。
虐待された。そんな相手を庇うものだろうか? 家族だから――そういう理由もあるだろう。しかし、数回会っただけだが、あの沙羅という女性がそんな理由で庇うようにも思えない。そもそも、すでに殺害されているのである。誰の名誉を守るためなのか、それが一切思い浮かばない。
「登校しなくなったのは事件が終わって2週間……28日からはもう来ていなかったわ」
「え? じゃあ津田さんは1週間の間、誘拐されていたということですか?」
「え、ええ、多分そうよ」
来浪は煙を大きく吸う。
1週間の間、しかも誰も誘拐されたと気が付かなかったのに、笹原は何故彼女が誘拐されたと思ったのだろうか? 来浪は次々と湧いて出る疑問に頭を痛める。
「来浪、何か難しい顔ばっかしてるが、甘いもんでも食うか? ほれ、チョコをやろう」
「……ありがとうございます」
来浪は一度頭を落ち着かせる。そもそもの前提で、マリアから犯人が死んでいるのでは? と、いうものがあったために津田 恭平が第一候補に挙がってしまったが、そこに明白な根拠などなく、沙羅が彼を庇うとも思えなかった。
そして、1週間の間で沙羅が誘拐されたと思ったのかについてだが、笹原が言っていたボロボロの姿というもので理由付けられているのではないか。沙羅が見てわかるほど傷ついており、保護した際、誘拐されたのだと話していたならば何も疑問に思うことでもない。
そうして、少し考えるのを止めようとチョコを口に放り込む。口の中にチョコレートの甘さが広がるのだが、その甘さにお腹の中が反応したのか、妙に空腹感を覚える。よくよく考えると、今日は考え事で忙しかったこととマリアもいなかったために昼食を作ってすらいなかった。
来浪は行きを吐き、塚田に聞きたいことは全て聞けた。と、少し暗くなりかけていた空気を払拭するように、明るめの声で告げた。
「塚田先生、今日はわざわざありがとうございました」
「いいえ、それより、私はお役に立てたのかしら?」
「はい、知りたかったことも聞けたので、あとは纏めて安心出来るような結論に持って行くだけです」
「そう……ねえ満祇くん、1つ聞いても良い?」
「ええ、大丈夫ですよ」
塚田がどこかおずおずとした様子で声を発していた。
「満祇くん、もしかして沙羅ちゃんとお話した?」
「はい――とはいっても、面と向かって話をしたわけではないんですけど、どこにいるかはわかりますよ」
きっと塚田は津田に会いたいのだろう。来浪はそれを察することができ、どこにいるのかを彼女に教えようとするのだが、塚田の表情が優れない。
「えっと」
「ええ、ごめんなさい。ただ、さっきも言った通り、私は沙羅ちゃんに対して何も出来なかったのよ。もちろん、元気でやっているのならそれに越したことはないわ……だけれど、私が会っても良いのかしら? それが不安で」
塚田は津田に対して何も出来なかったという負い目を感じているのだろう。来浪は微笑みを返し、これから津田のいる場所まで行かないか。と、提案してみる。
「ちょうど僕もそちらに行く用事があったので送りますよ」
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