第4話

 夕食を終えた後、司馬を送り、帰ってきた来浪なのだが……先ほど別れたはずのマリアが部屋でくつろいでいた。

「おかえりなさい」

「ええ、ただいま戻りました。さっき部屋に戻ったと思いましたよ」

「こうして戻ってきているじゃない」

 来浪は適当に返事し、紅茶を淹れる準備とコーヒーの準備を始める。司馬を送ったために1時間経ったほどの時間なのだが、その間、マリアはずっとこの部屋にいたのだろう。そして、机にカップが出ていないことから何もせずここにいただけなのである。こういう時、彼女は大抵、話を聞きたいか、悪戯を企てた時か、紅茶を飲みたいかである。

 自惚れるつもりはないのだが、こうしてジッと待っていてくれたということは自分の淹れた紅茶が飲みたいのだろう。と、来浪は稀に顔を出すマリアの少女のような可愛らしさに頬を緩めるのである。

「何かしら?」

「いえ、紅茶、もう少し待っていてください」

「ええ、ゆっくり待たせてもらうわ」

 このアパートに入居し始めた頃、マリアに紅茶の淹れ方を教えてもらった。あの頃は……今でも変な人だと思っているが、初めて会った時も今もずっと彼女に惹かれている。もちろん、恋愛的な思惑は一切ないが、こうして、初めて淹れた紅茶を不味いと言われてからも度々飲んでくれたマリアに、来浪は少しだけ感謝をしていた。

 お湯の温度を測り、適温になったところで茶葉をポットに入れ、お湯を注ぐ。紅茶を抽出、蒸らしている間にコーヒーの準備を――と、言っても来浪は別段、コーヒーにこだわりがあるわけでもないために、ポーションを挿し込んでスイッチオンの機械にカップを置くのである。

 そうして、紅茶とコーヒーが淹れられたカップをお盆に乗せ、机に持って行こうとするのだが、マリアがある一点をジッと見つめて動きを止めていた。それは履修表が張られた一角、つまり、『宝物』を隠している個所である。

「そこにあるのは紙ですよ」

「大事な?」

「……いえ、大したものではないですよ」

「私はカラスにとって大事か? って聞いたのよ。貴方にとってそれが大事な大事な宝物なら、私はそれを貶さないし、奪おうともしないわ」

「本当、大した言葉でもないんですけれどね」

 と、来浪は口にするのだが、口元が緩んでおり、宝物を認められた嬉しさを隠せていない。やれやれと声に出しながら履修表をめくり、下に隠していた1枚の封筒に入れられた手紙を取り出した。

 来浪の両親は今回の事件の被害者たちの両親ように家に帰って来ない人であった。父親は仕事を理由に家庭にはほとんど顔を出さず、母親はそんな父親に呆れ、余所で家庭を持っている。そんな、今では別に珍しくもない子に興味を持っていない家庭に産まれただけである。

 しかし、来浪には近くに住んでいた父方の祖父がいた。祖父がいたからこそ、来浪は今まで両親を恨まずにいられたのである。

 もちろん、祖父に両親を好きでいろ。と、教えられたわけではないが、彼から教わったのはただ1つ――何でも良い。人間何かに楽しいことに夢中になっていれば、暗くもならんし、人間性が黒くなることもない。来浪、何でも良いから好きなことを夢中になってやりなさい。私はそのための対価を厭わない。

 と、教えられた。今思えば両親がいないことを悲しんでいたことに対する慰めだったのかもしれない。嫌なことが忘れられるくらいに何かに夢中になれ。ただそれだけだったのかもしれない。しかし、来浪はそれで救われた。よく笑う祖父に釣られ、次第に笑顔の浮かべ方を覚え、楽しいことであるのならそれを否定しなかった。

「魔女さんに僕の家の事情について、話しましたっけ?」

「いえ、聞いていないわ。ええ、聞きたいわね」

「まだ聞いていないですよ……」

 来浪はマリアの向かいに腰を下ろし、コーヒーを一口飲む。そして、手紙を開くとポツポツと言葉を放つのである。

「僕の両親は、それはもう勝手な人でした。母親は父ではない男性の子どもを育て、父は自分の籍に傷が付くのを嫌って離婚はせず、母の子どもを籍に入れたまま養育費を払っています。小学生の頃から僕は1人だったんです」

「……カラスがどうして音子やその手の子どもの面倒を見ているのか。それが発端なのね」

「そうかもしれません。でも、小学生の高学年になった頃、僕を心配してなのか祖父が近くに引っ越して来てくれたんです。そこからは楽しい。と思える思い出がたくさん出来たんです。ですから、祖父の遺した物は宝物なんですよ」

 来浪はマリアに祖父が遺した手紙を手渡す。

 封筒の中には折りたたまれた手紙と――幼い来浪と老人が満面の笑みを浮かべている写真であった。

 体中ペンキまみれで、顔にも及んでいる赤青黄色――これは来浪と祖父である満祇 大雅(はるつね)が大雅の家を大きなキャンパスとし、一日中家の中を塗って遊んでいた時の写真である。

 これの発端なのだが、学校で絵を上手く書けなかった来浪は帰ってきて早々、不貞腐れていた。そして、大雅に絵が嫌い。と、宣言したところ、次の日の昼には大雅がペンキとローラーや刷毛などなどの絵を描く道具一式を手にニッと笑い「絵を描くぞい」と、宣言したのだった。しかも、用意周到にキッチンやトイレ、電化製品や大事なものには養生シートを被せ、家に落書きする準備を全て整えていたのである。

 何を書いたらわからないという言葉に、大雅は自分の体にペンキをかけ、壁にへばりついたり、これは悪いことじゃないの、という質問には両手いっぱいに付いたペンキを向けて追いかけてきたり――いつの間にか不安や嫌なことは忘れ、楽しんでいたのを来浪は昨日の時のように思い出す。

 そして、手紙には一言。

『ちゃんと思い出しなさい』

 だけであった。

「何かある度に、僕はこの手紙を見ています。少し、幼稚でしょうか?」

「いいえ、素敵なことだと思うわよ。それにしても……」

 マリアが手を伸ばし、頬を摘まんできた。柔らかく捏ね、時には引っ張ったり、突いたり、どこか不満そうな顔を浮かべているのである。

「まひょさん?」

「カラスのおじいさまのように私は笑うことはないけれど、見たこともない笑顔を写真越しにしか拝められないのは妬けるわね」

 拗ねたようにマリアが手を離すと来浪は驚く。

「いえ、魔女さんよく笑ってますよね? ホラー映画で何もない部屋で聞こえる子どものような笑い声。クスクスクスクス――みたいな」

「……そこを否定してもしょうがないでしょう?」

「ええ、わかってますよ。ただの照れ隠しです」

「貴方が私に軽い皮肉を言う時は全て照れていると思っても良いわけね」

「ご自由に。魔女さんに照れているのが見つかっても今更感がありますし」

「失礼しちゃうわ」

 そうして、来浪とマリアは揃って噴き出すのである。

「本当のことを言うと、僕はただ、背伸びして笑ってます。あんな風に大口開けてではなく、出来るだけ大人っぽく。そうしているだけですよ」

「たまには子どもっぽく甘えても良いのよ」

「睦音さんは大人ですが雰囲気が子どもっぽいですし、音子ちゃんはまんま子どもですし……」

「何故私は候補から外れているのかしらね?」

「甘えられたいのなら、甘えたいと思うような大人になってくださいよ」

 マリアが頬を小さく膨らませ、そっぽを向いた。しかし、次の瞬間には普段通り、お淑やかな笑顔を浮かべており、突然来浪の手を引っ張るのである。

「そうだ、ちょっと見せたいものがあるのよ」

「なんですか?」

 マリアがそう言って手を引っ張ってくるのだが、向かっている先がどう考えてもベランダであり、来浪は訝しむ。

 そして、やはりベランダの窓を開け、ベランダ用のサンダルに履き替えるとマリアとの部屋を隔てている一枚の壁を『開けた』のである。

 いつの間にかその壁がシャッターのように開く仕組みになっており、来浪は目眩を起こしたかのようにフラついてみせた。

「どうかした?」

「……いえ、ええ、もう何も言いません」

 この魔女に度々驚かされるようなことをされてきたが、もう何を言っても聞かないだろうと来浪は諦めた。

 そして、マリアの部屋のベランダには幾つもの鉢植えがあった。植物に詳しくはないがハーブなのだろう。と、来浪は以前彼女が見せてくれたことのあるハーブがあることに気が付いた。

「これ、ハーブですか?」

「ええ、ちゃんと見せたことなかったでしょう」

「まぁ、そうです――全部血で育てているんですか?」

「いいえ、全部ではないわよ」

 鉢植えには『私』と書かれた棒アイスの串が刺さっている物が幾つかあり、来浪はその札の意味を確信し、ジト目でマリアを覗いた。しかし、マリアが「またハーブティーをご馳走してあげるわ」と、返してきたために来浪はため息を吐くしかなかった。

「ん?」

 来浪は気が付く。鉢植えのそこそこな数に『カラス』と、書かれていることを。だが、その鉢植えには何も植えられておらず、交互にそれとマリアを指差すのであった。

「ああそれ? いつかカラスの血を貰おうかと思って」

「あげませんからね」

「まぁ、いつかカラスが跪いて血をくれるまで待つわ。あ、それとそこの鉢植えの……どれでも良いけれど収穫してもらって良いかしら?」

「ええ、良いですけれど。どれでも良いって……じゃあ、これを」

「ありがとう」

 置いてあったハサミで来浪はハーブを収穫するのだが、こんな時間に何かするのだろうか。と、不思議がる。するとマリアがハーブを持って自分の部屋に入っていき、それを洗ったり切ったりするとオーブンに突っ込んだのが見えた。

 乾燥ハーブでも作っているのだろうか。

「魔女さん、乾燥させるのなら自然乾燥の方が良いと聞いたことがありますよ」

「良いのよ、別にカラスや音子、睦音に食べさせるわけじゃないし、私が食べるわけでもないもの」

 真っ先に頭に浮かんだのは司馬と宍戸であった。そもそも、身近な人間に食べさせないのならばちゃんとした物を渡すはずではないだろうか。来浪はこの魔女にはもう少し礼儀を教えるべきではないかと思った。

「使わないに越したことはないのだけれどね」

「使わなければいいのでは?」

「一応、ね。そういえば、カラスは今日、ワンコと一緒に調査でもしていたの?」

「え? ええ、気になったことがありましてちょっと図書館まで」

「何かわかった?」

 来浪は今日得た情報を頭の中で纏めようとするが……一先ず煙草をチラつかせながら鉢植えから離れ、自分の部屋のベランダから灰皿を引っ張ってくると火を点けた。

 まずは今日わかった情報――誘拐された少女たちは2か月間、発見されなかった。その間、4人目の少女が誘拐されたという記事が一切なかった。

 司馬の話では、4人目の少女が誘拐されたという時期が明白ではない。

 そして重要なのが、誘拐された4人目の少女が津田 沙羅であったことである。彼女が関わっているというのであれば犯人は若い人間で間違いないだろう。

 警察――今日であった美虎 龍壬という刑事は沙羅が犯人を庇っている可能性を考えている。ストックホルム症候群……あり得ない話ではないが、沙羅があれだけ懐いている笹原を裏切る真似をしないと思う。いや、しないでいてほしいという願望ではあるが。と、来浪は脱線した思考を元に戻す。

 そして、沙羅は事件のことをよく覚えていない。先ほど挙げた情報と被るのだが、美虎は彼女が覚えていないのではなく、隠しているのだという。

「魔女さん」

「何かしら?」

「津田さんはいつ誘拐されたのでしょうか?」

 次に疑問である。何度も情報として出てきているが、何故沙羅が誘拐されたことに誰も気が付かなかったのか。いつ頃から登校していなかったのか。司馬はそういう空気が出来ていたと話していたが、教育者もそこまでは無能ではない。事件があったのだからある程度は警戒するはずである。学校にはそういうことに目を光らせている塚田がいたのである、それは考え難い。

「それは難しい質問ね。いつか。と、聞かれたらいつでも。いつまで。と、聞かれたのならいつまでも――あの子の闇はそれくらい深いはずよ」

「また難しいことを。と、いうか、やっぱり津田さんが10年前の被害者だと知っていたんですね」

「当然でしょう。そもそもあの店に行ったのもカラスが興味を持っていたからよ。私からしてみればやっと気が付いたの。って感じだけれど、誰に聞いたのかしら? ワンコ? 笹原のお爺さん?」

「笹原さんと美虎という刑事さんからです」

「あら、雪村(せっそん)、沙羅の所に行ったのね」

「それは作者では?」

 隣に来たマリアが煙管の火皿を向けてきたために、来浪は煙草の種火を押し付けた。

「ああ、なるほど。雪村はあの子が犯人を庇っていると思っているのね」

「ええ、そのようです」

「ふ~ん……それで、カラスはそうじゃないと?」

「思いたいです。笹原さんにあれだけ懐いている津田さんですから、彼を裏切るような真似はしてほしくないです」

「なるほど。それで? 他にも気になったことは?」

「そうですね……あとは明日確かめようと思います」

「あら? 私じゃ不満?」

「どうせ教えてくれないじゃないですか。というか、魔女さん、解決できるのなら解決してくれませんか?」

「嫌よ。だって私は正義の味方でもなければ、警察官でもないもの。だからこそ自由な発想が出来るし、間違っていても私には関係ないもの。でもそうね、私は悪人を捕らえる権限はないけれど、捕らえられる瞬間を目撃することは出来るわ」

「僕にでも出来ますよ」

「そう、じゃあやってちょうだい」

 また、意味深である。マリアはこの事件の真相を知っているのだろうか? 彼女は自分を正義の味方ではないと言った。それは当然だろう、魔女なのだから正義であるはずがない。では、魔の付くように悪人の味方なのだろうか。そういうわけでもないだろう。では、一体何の――。

「カラス」

「え?」

 少し呆けていると、鼻がくっ付くのではないかという距離までマリアが顔を寄せてきたのである。来浪は一瞬驚いたが、すぐに彼女の両眼を見つめた。

「なんですか?」

「もう少し顔を赤らめるなり、何かしらの反応を期待していたのだけれど」

「今さらですよ」

「そうだったわね――カラス、考え過ぎよ。私は私のためでしかないわ」

「……そうでしたね。僕はそういう魔女さん、わりと好きですよ」

「ええ、ありがとう。さて……」

 すると、部屋に入ったマリアがクローゼットを開け、いつもよりも黒増し増しなドレスを取り出した。あれもゴシックアンドロリータと言われるファッションなのだろうか? 海外のドラマでよく見る喪服にしか見えないのだが……と、来浪は黒一色なマリアにげんなりした。

「お出かけですか? 送りますよ」

「いいえ、大丈夫よ。少し散歩と……そうね、カラスが安心できるように。ね」

「はい? その恰好で散歩ですか? 通報されますよ」

「心配いらないわ。通報されたら困るのは私じゃないもの」

 そう言って、マリアが脱衣所に入っていった。この部屋の中は妙に静かで、マリアが服を脱ぐ布が擦れる音と脱ぎ辛いのか「んっ」や「ぅん」などの声である。来浪はやはり脱皮か。という感想と脱ぎ辛いのならもっと簡単な服を着れば良いのに。と、素直な感想を扉越しのマリアに伝えた。

「もう少し色っぽい感想が口から出ないものかしら。あ、カラス、戸締りをお願い。私、多分今日明日帰ってこないから」

「え、ええ、わかりました。あ、それなら――」

 来浪はマリアに待ってもらうように頼むと、自分の部屋に戻り炊飯器に残っていた米でおにぎりを握り始める。そして、粗熱を取っている間、マリアが苦笑いを浮かべていたが気にせず、出来上がったおにぎりをアルミホイルで包み、無糖の紅茶の入った水筒を手渡し、見送るのである。

「いってらっしゃい」

「ええ、いってきます」

 そうして、来浪はマリアの部屋の戸締りをし、部屋に戻るのであった。

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