第2話
図書館から喫茶店までは車であるのならそれほど離れているように感じないのだが、ビルが建ち並ぶ、所謂街と呼ばれる場所であるため道が複雑になっており、距離がある目的地に向かうよりもストレスが多く、何より有料駐車場を探すのが手間である。
そして、やっと見つけた駐車場……目的地である喫茶店から少し離れてしまったが、体力作りのための運動。と、来浪は割り切ることにした。
この間喫茶店に行った時とは別の駐車場だが、この辺りの土地情報は1年で大分頭に入っており、迷うこともないだろう。と、来浪は特に急ぎもせずに足を進めた。
ふと、来浪は辺りを見回した。先週、マリアと音子と来た時もここを通った。華やかな看板にトゥインクルフェアリーの文字。少し、嫌なことを思い出す。
この服屋に特に用はなく、来浪は早々とここを通り抜けようと思ったのだが――。
「――わ」
突然走った腰への衝撃。覚えのある柔らかな引っ付き攻撃に来浪は頬を緩ませ、その人懐っこい笑みを浮かべているだろう子に視線を向けた。
「こんにちは、音子ちゃん」
「こんにちはだよぅ」
そこにいたのは案の定、石黒 音子であった。
来浪は音子を抱き上げるとチラリと腕時計に目をやった。時刻は16時を近く、学校も終わっており、ここに音子がいることも不思議ではないが。
「あれ、音子ちゃん1人?」
「ううん、みんなとお散歩さんと一緒だよぅ」
「お散歩さん?」
来浪が不思議がるとトゥインクルフェアリーから腕を組んだ男女が出てきた。片方は津田で、もう1人が笹原であった。
「笹原さん?」
津田には軽く会釈をしただけで、来浪は笹原に視線を向けた。
「おや、え~……ああ、満祇さん、だったかな?」
「はい、先週は失礼しました」
「いえいえ、彼女の言葉は変わっているが、悪意はないように思えるから気にしなくても大丈夫ですよ」
マリアの存在がほとんど悪だと思うが。と、言うのは飲み込み、来浪は笹原に再度礼を述べた。そして、チラリと津田に一瞥を投げると一歩下がり、音子を地面に下ろした。
「……おや、沙羅さんと顔見知りですか?」
「沙羅さん? え、ええ、津田さん、でしたよね? 彼女とは先週この店で音子ちゃんの服を買った時に」
沙羅。と、笹原が言った。彼女が10年前誘拐された4人目なのだろうか。来浪は思案顔を浮かべるが、音子に袖を引っ張られたことで思考を止めた。
音子が指さす先、そこには彼女の同級生らしき子どもたちがおり、一人一人来浪に紹介してくれるのである。
来浪は音子から言葉が発される度に笑みで返し、彼らに会釈し、自分の名前を名乗る。その際、やはり津田からは良い表情をされず、来浪は少し呆れるのだが子どもと笹原の手前、あからさまに表情は変えずにいた。
すると、笹原が申し訳なさそうに小さく手を上げた。視線を集めているのだろう。来浪は彼に視線を向ける。
「いや、失礼」
そう言って、笹原が津田に子どもたちの相手をするように頼んだ後、灰皿が置かれている場所に向かって1人歩き出した。
来浪はそれに着いて行くと笹原が息を吐いた。そして「煙草を一本いただけないでしょうか」と、彼が声を発したために煙草を一本、ライターを手渡し、隣に並ぶ。
「煙草、吸うんですね」
「ええ、10年前に止めたんですが、少し吸いたくなって」
10年前の事件の日に止めたのだろうか? 来浪にはそれが後悔や何かの決意のために止めたのだと思えた。
「……10年前、私は奴を捕まえられなかった。その結果がこれです」
煙草に火を点した笹原の顔は悲し気で……だが、子どもたちと楽しそうに会話をしている津田を見る目は優し気で。来浪はこの男性がどれほどの苦悩を抱えているのか、想像でも測れないが、悪人ではない。そう思った。マリアの言うように正義の味方なのだろう。
「沙羅さん、津田 沙羅さんは10年前、私が保護した子なんですよ……そういえば、君は教育者志望だったかな?」
「はい、そのための勉強を今しているところです」
「私も以前は教育に携わる人間になりたかったんですが、どうにも私は人に物を教える才能がなくてね、こうして守れる仕事を選んだんですよ」
笹原がどこか羨望の眼差しを向けており、来浪は多少照れながら向けられたその視線をしっかりと返した。
それに満足したのか笹原が大きく頷いたのだが、一呼吸置いた後、顔を伏せたのである。
「彼女は不幸だと思います……満祇さん、貴方は親に愛されない子どもと出会ったことがありますか?」
来浪は一考し、鞄から先ほどコピーした新聞を取り出した。笹原には赤心であろうと決めたために、津田が不幸だということは新聞で読んだ。と、伝えた。
そして、笹原の問いに頷いて返事をし、来浪は苦笑いを浮かべ、少し間をおいて自分を指差す。
「……これはこれは。いえ、失礼しました」
「いいえ、ただ僕の場合は恵まれていたんだと思います。実の両親から愛情を感じたことはありませんが、祖父がいましたから」
「そうですか……満祇さんにも、沙羅さんにも申し訳ないですが、私は子を愛せない親など信じられないのです。私たちに子どもがいなかったから余計そう思うのかもしれませんが」
笹原がそれを信じられないというのは彼自身、そういう両親と接したことがない。もしくは近くではなくまるでフィクションドラマを見ているような立ち位置にいるからだろう。この笹原という男が津田を信用していないのではなく、遠くにある故にそういう人間を信じられないだけなのだろう。
やはり、笹原は恵まれている。来浪はそう思った。だからこそ、子どもたちも懐き、自分自身も好んで接していることを理解出来た。子を愛さない親を知らないということは彼の両親がそうではないことは確実であり、さらにそんな両親や身近な人がいたからこそ子を愛す方法しか知らないのである。
子がないと彼は言ったが、今でもこうして子どもたちを守るように行動している笹原はきっと、誰かにとって親に近い存在なのではないか。来浪は横目で音子たちを見た。
「笹原さん、僕は津田さんにあの日何が起きたか知りません。新聞に書いてあるように親からの愛情がなかったかもしれません。事件の影響で、僕のような男性が苦手になったのも仕方がないことだと思います。それが癪に障ったこともありましたし。でも、笹原さんが言うように、この結果。それは彼女が幸せかどうかですよね? 僕はあの事件が痛ましいとも思いますし、二度と起こってほしくはありません。でも、そのおかげで、笹原さんと出会った彼女は救われたんじゃないかと思います」
「……」
「え~っと、だからその――あまり自分を責めないでください。大事な方が悲しんでいるのは嫌だと思います」
笹原が一驚した表情を浮かべたのだが、すぐに目を細め、その手を来浪の頭に伸ばした。来浪はその手を少し照れた様子で受け止めた。
「あ、でもすみません、なんか知ったようなことを言ってしまって」
「いえいえ、満祇さんが言った通りですから。私は……沙羅さんに恨まれている。そう思っていますから」
「そんなことは――」
新聞の通りであり、さらに津田を笹原が救ったというなら、感謝こそされても恨まれることはない。来浪は何故、彼がそのような結論に至ったのかがわからなかった。
「満祇さん、私はね、善意を持って生きてきたつもりです。それが子どもたちを守ることに繋がるからね」
笹原は言う。善意の見える人間だからこそ、小学校の先生、その小学校に通う生徒の保護者、それらの人たちが自分に期待し、任せてくれる。このご時世、いくら元警察官だろうと子どもたちに付き纏っていたら不快感を煽ってしまう。だから、それを理由にそのように生きてきたつもりであり、警察官になったその日から、自分を見たら全ての人間ではなく、せめて子どもだけでも安心出来る警官になりたかったのだ。と、笹原が話す。のだが、しかし――。と、続けた。
「どれだけ子どもたちの為にあろうとね、子どもは両親が好きなんですよ。自分のお父さんとお母さん、私から見て酷い両親でも、子どもは私や別の大人でもなく、両親を選ぶんです。そういう子どもをたくさん見てきました。そして、酷いと思っていた両親がちゃんと接し方を改善した姿も。です。ですから思うのです……私は、沙羅さんの両親のそういう機会も奪ってしまったのではないか。あの日、傷ついた沙羅さんのために私は色々行動しました。児童相談所への連絡、その後の処遇まで全て私が用意しました。今でも思うのです、それが本当に正しかったのだろうか。と」
来浪は笹原の後悔に関する返答の言葉を持てなかった。正しかったのか――それはわからない。彼の言うように津田の両親が彼女に愛情を持って接しようとする機会がもしかしたらあったかもしれない。だが……。
「あったかもしれない。そうかもしれません。僕はどちらが正しいかなんてわかりませんけれど……両親に愛され始めた津田さんも、笹原さんが守っている津田さんも、どちらも幸せにやっていけると思いますよ」
先ほど、笹原と一緒にトゥインクルフェアリーから出てきた津田の顔は少なくても不幸だと思っている人間の顔ではなかった。
「……ありがとう、満祇さん」
来浪は笹原の礼に笑みで返すと煙草を取り出し、火を点けようとする。しかし、ふと横目で音子たちの方を向くと見覚えのある顔が反対側から歩いてきたことに気が付く。
「賢くん?」
そこには少し厳つい大きな男性と司馬 賢であった。その2人が津田に近づいていくのだが、話しかけようとしているのが司馬であった。
「あ――」
来浪が制止の声を放とうとしたが間に合わず、司馬が津田に声を掛けたのである。その瞬間、津田が体を固まらせてしまい、口をパクパクしながら司馬を凝視していた。心なしか彼女の体が震えているようにも見えた。
そして、それに気が付いた笹原が煙草をもみ消し、早足で彼らに近づいていき、津田を庇うように前に立った。その際、津田はぴったりと笹原の背中に引っ付き、顔を伏せている。
「うぇ? あ、あの~?」
「申し訳ありません、彼女、あまり若い男性の方とは」
司馬の困惑した声に笹原が答えた。すると、大柄の男が笹原に頭を下げた。
「お久しぶりです。すみません、笹原さん、俺のこと覚えていますか?」
「……ええ、龍壬くん、覚えていますよ。これは捜査ですか?」
笹原が鋭い目をした。来浪はこれが本来、警察だった笹原の目なのだと少し戦く。
「ええ、詳しくは言えませ……いえ、今起きている誘拐事件の捜査です」
「でしょうね。ですが、それと沙羅さんとなんの関係が?」
「この事件、10年前と同じ犯人だと思っている奴がいましてね、もしそうなら彼女にあの日の出来事を思い出してほしいんですよ」
「彼女が傷ついてでも思い出してほしいことですか?」
「正直に言うとその通りです」
「わ、ちょ、龍壬さん――」
「傷つくと言いましたが、もし犯人が野放しにされていると、これからもそのように傷つく人間が増えるんですよ。ですから彼女には意志を強く持ち、犯人を捕まえるために協力してほしいんですよ。そのために彼女には乗り越えてもらわなくては」
圧倒するようにどこか高圧的で冷たく、龍壬と呼ばれている男が言い放った。笹原も司馬も反論できないのか、黙り込んでいる。しかし、来浪はこの龍壬という男にむっと顔を浮かべた。そして、その大男に近づいていき。
「あれ、来浪くん――」
「僕は貴方がどのような立場か知りませんが言わせてもらいます。逆に聞きますが、津田さんが何故、その傷つくだろう人のために傷つかなければならないのか、答えてもらえませんか?」
「……君は?」
「満祇 来浪です。それでどうなんですか? 津田さんは警察官でもないですし、正義の味方でもないと思います」
「美虎(みとら) 龍壬(たつみ)だ。それで答えだが、犯罪者は一般市民の敵だろう? 自分の身を守るために――」
「自分の身を守るために自分を傷つけるんですか? それはあまりにも珍無類な人間ですね?」
「君は犯人が捕まらなくても良いと?」
「いえ、津田さんを傷つけないで頑張ってください、刑事さん。それと、強い意志を持ってとか、乗り越えるとか、簡単に言いますけれど、幼少時のトラウマがどれだけ本人を蝕むか知っていますか?」
来浪は強気に、美虎から目を離すことなく言い放つのだが、美虎もまた、視線を一切逸らさず、来浪を睨みつけている。一触即発な雰囲気である。
すると、青い顔をしていた司馬が美虎に耳打ちをする。内容は聞こえず、来浪が首を傾げると。
「……マリア=モニカの? クソ……」
「マリアさんが何か?」
「いや……今日のところは帰ります。ですが、津田さん、貴女の記憶が誰かを救う。それを忘れないでください。では、笹原さんもまた」
そう言って、美虎が去って行くのだが、司馬が盛大に息を吐くのが見え、来浪は苦笑いで彼の背中をさすった。
「いや、自分が安心したのは来浪くんが何もされなかったからっすよ。龍壬さん、優しいんですけど、こういう時は容赦ないからなぁ」
「それは警察官としてどうかと思うけれど」
「いやいや、中々の胆力。やはり警察に向いていますよ」
「そうですか?」
来浪は複雑だったが、素直に褒められておこうとはにかんだ笑みを浮かべた。
「しかし、彼もああやって犯人を捕まえてきた実績がありますからね、あまり嫌わないであげてください」
来浪は頷き、美虎が去って行った方向を見るのだが、ふと視線を感じ、そちらに顔を向けると、津田がジッと見ていたのである。来浪は柔らかく微笑むと呆けている音子を呼び、ちゃんと5時までには家に帰ることを約束すると笹原に頭を軽く下げた。
「笹原さん、僕は少し用事があるので、音子ちゃんたちのことをお願いしても良いですか?」
「ええ、もちろんです。満祇さん、ありがとうございます」
そうして、来浪は司馬の腕を取り、笹原たちと別れようとするのだが、振り返り、津田を見た。
「あの、津田さん、この間は睨んですみませんでした。僕のことを嫌ってくれてもかまいませんが、音子ちゃんとは仲良くしてあげてください」
来浪は頭を下げた。彼女に起きたことは確かに不幸だと思う。それによって男性にあのような態度を取るようになってしまったのは理解できる。来浪は津田 沙羅という人物を知らなかった、だからこそ知った今だから謝罪しようと思っただけである。
来浪はそのまま喫茶店へ向かうのだが、司馬が困惑しており「え? 用事って自分もですか?」などと言っており、来浪は笑顔で頷く。
丁度捜査の状況も聞きたかったこともあるが、それ以上に気になったこともあり、こうして司馬を引っ張っているのである。
時刻は16時を半分過ぎた辺り、今日も夕食を睦音が作ってくれると言っていたために、準備をする必要もないのだが、夕食に遅れるとマリアが拗ね、夕食を作っている時に帰らなくては睦音も拗ねるために、早足である。
そして、来浪は喫茶店に辿り着いたのだが、この間と同じく、客が1人もいない。少し経営状況が心配になったが、構わず司馬と一緒に店に入り、席に着く。
すると、席についた途端、司馬がわざとらしく目を逸らし、メニューを開いた。
「賢くん?」
「あれっすよ、自分は捜査状況とかは話さないですよ」
「あ~、僕はただ、ここで調べ物のまとめをしようとしただけですよ。賢くんを連れてきたのはお腹空いていそうだったから」
「え? そうなんっすか?」
「1人だと退屈ですから、ここは奢りますよ」
そう言った途端、司馬がパッと明るい表情を浮かべた。来浪は見えない犬耳と尻尾を司馬の頭と背後に見て、小さく笑う。しかし、少しだけ申し訳なく思う。
来浪は喫茶店の店主である初老の男性にコーヒーを注文すると、司馬に、自分はこれだけだからあとは好きな物を頼んでください。と、鞄からノートを取り出した。
来浪は今日大学でやったことをノートで確認し、重要なところなどに赤丸を入れたり、誤字脱字を確認したりしているのだが、司馬が注文したカツサンドが運ばれてきたタイミングで、鞄から別の資料――図書館でコピーした10年前の新聞を取り出した。
司馬があからさまに顔を引き攣らせたが、来浪は気にも留めていない風に机に新聞を広げる。
「ああ、気にしないでください。さっき図書館でコピーしてもらったものなので、汚れても大丈夫ですよ」
「そ、そうっすか」
新聞を見ないようにカツサンドを頬張る司馬が可笑しく、来浪は噴き出しそうになるがそれを抑え、わざとらしく思案顔を浮かべ、小さな声で唸るのである。
「……それ、10年前の記事っすか?」
「え? ええ、知らないことが多かったので。ところで――この新聞、詳細がほとんど抜けているんですが、やっぱり、津田さんはほとんど覚えていなかったんですか? さっきも思い出させるとか言っていましたし」
「やっぱり聞く気満々じゃないっすかぁ!」
来浪は笑みだけで返事した。
「う~……モニカさんとは違う感じで攻めてくるっす~」
「まぁまぁ、それに今の状況が知りたいわけじゃないんです。僕も魔女さんと同じように10年前の事件とは別と結論付けましたし」
「ありゃ、そうなんっすか? それなら――」
「でも、その人がいないとは限らないでしょう? だから調べているんです」
「……なるほ、ど?」
10年前と今回の事件は別であると結論付けたが、それが正しいという証明もないための予防である。
「それで、彼女はやっぱり覚えてないの? 事件のこと」
「まぁ、うん、10年前のことだし、いっか……ええ、そうっす。自分が聞いた話じゃ、津田 沙羅さんは10年前、一切のことを話さず、保護された時には犯人の特徴も、どこから逃げてきたのかも覚えていなかったそうっすよ」
酷いトラウマから、その時の記憶を閉ざしてしまうことがあるとは聞いたことがあったが、津田もそれなのだろうか。そして、そのトラウマが若い男性を恐怖し――。
「あれ、犯人って若い男性なんですか?」
「まぁそうでしょうね、当時も若い人に警戒心を露わにして大変だったそうっすよ。笹原さんにすぐにくっ付きに行ったとか」
犯人のことを忘れていても、若い。男性。というキーワードで苦しんでいたのだろうか? そんなに正確に判断出来る頭を当時津田は持っていたということになる。覚えていないのなら、相手がどうあれ、若い。などというだけを判断素材に加えるだろうか……いや、来浪は首を振る。精神医学には詳しくない手前、知らないからという理由で勝手に判断は出来ない。津田は犯人を覚えておらず、トラウマから若い男性だけを怖がるようになってしまった。それだけである。
「事件後、カウンセラーが付いたと思うんですが、その人は何て?」
「あ~、う~ん、自分専門じゃないんでよくわかんないんっすが、一時的な記憶障害が何とか、でも時間が合わないだとか?」
「時間?」
「そっす、彼女が誘拐されたと思われる日付は11月14日以降だと思われてたんっすけど、なんか話を聞いてるとそれ以降にも怯えていたとか。先生は記憶が錯乱してるからごっちゃになったって言ってたっすけど」
図書館で来浪が疑問に思ったことである。津田が誘拐された時期が明確ではないのである。しかも、1か月誘拐されたという証言もなく、学校側がそれに気が付いていないのも違和感がある。登校していたのだろうか。
「ねぇ賢くん、学校側は津田さんが誘拐された時期に気づいてなかったの?」
「う~ん、どうだったっすかねぇ……何か、殺された3人が友だちだったこととお兄さんが亡くなったこともあって、学校を休むのも仕方がないって空気があったそうっす」
「お兄さん?」
「そっす、なんでも高校生のお兄さんがいて……あ~、誰にも言っちゃ駄目っすよ?」
「ええ」
「誘拐された子が遺棄されていた場所の近くで発見されたみたいっす。誘拐犯が死体を遺棄する現場をお兄さんが見たから殺された。なんて言われてたんっすけれどね」
津田(つだ) 恭平(きょうへい)高校1年生で、帰って来ない両親の代わりに沙羅の面倒を見ており、周囲の聞き込みから兄弟仲が良く、恭平は近所の人間にも挨拶をしたり、子ども会や区の催しには積極的に参加したり、周囲の評価が高い人間であり、子どもたちともよく遊び、面倒を見ていて、亡くなった3人とも仲が良かった。と、司馬が話す。
「最初に3人の子どもを見つけ、現場の保存をしている時にお兄さんが見つかったっす」
「ご両親は?」
「……その時からもう連絡が取れなかったそうっす」
「そう……」
来浪は表情に影を落とすのだが、あまり気落ちしていても仕方がないと思い、コーヒーを口に運んだ後、煙草に火を点した。やり切れないこととはいえ、教育職に就こうとしている人間としてはこのような状況、環境を冷静に対処しなくてはならない。来浪は天窓に伸びる紫煙を追いながらそれらについて熟考する。
「ありゃ? 来浪く~ん?」
「ん? ああ、ごめんなさい」
呆けていたことを司馬に謝り、来浪は苦笑いを浮かべる。
「まぁ、何よりも津田さんが色々思い出してくれれば、少なくとも犯人が1人捕まるっすからねぇ。龍壬さんじゃないですけど、被害者の両親は救われると思いますし」
「それが簡単に出来れば僕もその方が良いと思いますよ。でも、やっぱりそれは津田さんだけの負担になっちゃいますから」
「……来浪くん、少し聞きたいことがあるんすけど、いいっすか?」
司馬が突然小声になった。来浪は首を傾げるが、手招きされたために彼の傍に耳を寄せる。大事な話なのだろうか。と、身構えるが、司馬の表情がどこか恥ずかしそうである。
「あ、あの、龍壬さんが話してて、その時には聞けなかったんすけれど、誘拐された人って言うのは誘拐犯に、こう、なんていうか、あの、ほ、惚れちゃうって、本当っすか?」
来浪は困惑する。惚れる? つまり、好きになるということだろうか。悪人に惹かれる人間が多少なりともいるかもしれないが、それは稀であり――来浪は合点がいき、手を叩いた。
「ストックホルム症候群?」
「あ? あ~、なんかそんな横文字を言ってたような……」
警察官としてそれを知らないのはどうなのだろうか。来浪は純粋に司馬の頭の出来が心配になった。
「あ! 来浪くんもしかして今馬鹿にしてるっすよね? 目が語ってるっす!」
「いえ、たった今洞察力の優れた刑事さんなんだなって感心したところですよ」
「え? 本当っすか? そ、そんなに褒められると照れるっすね」
司馬の頭を撫でたくなったのは心の底に仕舞おうと決意し、来浪はコーヒーを一口。そして、煙を深く吸うと、美虎 龍壬の顔が浮かんだ。
彼は何故、ストックホルム症候群の話を出したのか。簡単なことである。あの男は沙羅の記憶が消えていないと思っているのだろう。彼女が犯人を庇っており、今も尚、関係を持っているのではないかと疑っているからだろう。つまり、美虎はそもそも今回の事件に関心を持っていないのだろう。今回の事件を出しに10年前の事件を解決、それが目的。
「で――それってどんな病気? なんっすか?」
「僕もよく知らないけれど……監禁生活の中で行動を制限されたり、非現実な環境の中で生活したりする内に被害者が加害者に共感してしまい、そのような事件を引き起こした理由とかにも同情してしまって、加害者に信頼や好意を抱くとか。だから、犯人を庇うなんてことが起きうるみたいだよ」
「う、う~ん? それって変じゃないっすか? 相手は自分を誘拐したんすよ」
「極限状態の中で自分の心を守るための防衛本能だとも聞くね。そういう状況の中で、環境に適合させないと壊れちゃう。だからこれは合理的なことで、生き残るための当然の戦略だとか」
「つまり、嘘?」
「嘘とは言えないと思いますよ。自分が生き残るために心が動いたことは本当ですから」
「ふむふむ――何となくわかったっす」
「あ、中にはこれを病気なんて呼ぶのはおかしいって言う人もいるから、病気扱いには気を付けましょうね」
ちゃんとメモを取る司馬に今度こそ我慢できず、来浪は手を伸ばし、頭を撫でてしまった。そして、一しきり撫でた後、司馬が思いついたように手を叩いたのを見て、小さく微笑むのである。
「あっ、つまり龍壬さんは10年前の事件を調べてるってことっすね」
「だと思いますよ。しかも10年前と今回の事件は別だとも考えてますよね?」
「そうなんすか?」
「10年前の事件と今回の事件が同じ犯人だと思っているなら、少なくとも共通点くらいは話すものじゃない? 納得させたいのは笹原さんじゃなくて津田さんなんだから」
「あ~……」
「あの美虎さんって人、今回の事件一切調べてないでしょう? それらの捜査は全部賢くんにやらせてるとか」
「エスパーっすか!」
司馬が瞳をキラキラさせ、まるで尻尾を振っているが如く、食いついた。美虎から荒い扱いを受けている。聞き込みは全て自分――等々のエトセトラ。来浪は話が長くなりそうだ。と、時計をこまめに覗きながら司馬の話に耳を傾けた。
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