第三章 思考し、結論を探す
来浪はふと、講堂の大きな窓から覗く中庭に目を向けた。
昨日は雨だったか、春が終わり、命の始まりでもある緑へと変わっていったシナノキが瑞々しく青々と照っていた。
どことなく、頭が回らない。
普段の来浪であるのなら、物思いに耽っていても周囲に視線を向けることはなく、ましてや自然の皮を被った不自然に想いを馳せることもしない。だが、今日……ここ数日は違った。思考が、脳が落ち着かない。考えろ。と、警鐘のように脳から信号が発せられ、本来学生の身分として考えなければならない事柄が頭の隅に追いやられてしまう。しかし、来浪はそれを良しとせず、無理矢理思考を元の回路に戻そうとするのだが、上手くいかず、こうして悶々と過ごしているのである。
来浪が最初に誘拐事件のことを知って1週間が経った。経過としては、やはり誘拐の線が強いと結論付けられたこと。2人の小学生が姿を見せないこと。2人の両親がやっと事態を把握出来たのか、街に出てはビラを配ったり、小学校周辺や2人がよく行く場所を見回ったりと行動していること。
一体、消えた子どもたちはどこへ消えたのだろうか。
来浪は大きくため息を吐いた。すると、突然真上から体に影が差し、何者かが見下ろしている。
「――?」
来浪は顔を上げるのだが、目に映ったのは宍戸 昴であった。今は教育心理の講義中である。
「大丈夫か?」
「え? ええ、あ、すみません。あの、何か?」
「ああいや、ちょっと呆けてたみたいだったからな、気になっただけだ。さて、そんじゃあちょっくら今やった講義についての質問でも――って、もう時間だな」
宍戸のその言葉と同時に、講義の終わりを告げるチャイムが鳴った。
来浪は少し安堵する。何故なら講義のほとんどを覚えていないため、例え質問されても何も答えられなかったからである。
少し、反省する。集中力が欠けているのは確かであり、戒めのために禁煙しているのを来浪は後悔し始める。
机に出されていた教科書、ノートなどを鞄に戻すのだが、不意に声を掛けられたことで来浪は小さく肩を跳ねさせる。
「あ、ごめんね」
「……いえ」
優男に見える男がニヘら。と、緩い笑みを浮かべて声をかけてきた。この男は学友なのだろう。何の用なのかわからないが、来浪は男の眼鏡の奥に見える瞳をジッと見据えた。何故か顔を赤められているが、さっさと要件を聞きたいために話の続きを促す。
「あ、あのね、ほら、先週は断られちゃったけれど、もしこう、なんていうか、あの――」
「――?」
「なんかこう思い詰めてるというか、普段より3割増しで不機嫌そうというか……そ、そのままなのは良くないと思うんだ!」
「はぁ」
と、来浪は気のない返事をするが、この男の言う通りでもある。そのままなのも良くない。来浪は悩んでいた。しかし、一介の大学生の許容を超えているのは確かであり、これ以上進むのは理性と常識が許してはくれない。
「だ、だから今からみんなで遊びに――」
でもでもだって……どれだけその欲求を抑え込もうとも心が心を否定する。
「………………」
来浪は深呼吸をすると男の瞳をジッと見据えた。
「うん?」
「ごめんなさい、ちょっとやることが出来ました。ちょっと吹っ切れました、ありがとうございます」
「え? あ、いや……うん、満祇くんが元気なら……うん」
男がトボトボとした足取りで、別の学友たちに声を掛けられながら教室から出て行った。
来浪は最早男に視線を向けてもいないが、息を吐き、決意新たに思考を切り替える。この間マリアが言っていたように肯定から始めよう。と、思ったところで、来浪の後頭部に軽い衝撃が走った。
「――?」
「こ~ら。お前さんはもう少し他の奴にも愛想よくすべきだぞ? 桐生、落ち込んでただろうが」
「桐生?」
「……ああ、うん、すまん」
宍戸が呆れていた。もっとも、来浪は呆れられる理由もない。と、鞄を肩に掛け、教室から出ようとする。
すると、宍戸が並んで歩き出し、来浪は理由を尋ねようとするのだが。
「来浪、まだ事件のこと気になってんのか? そういうのは警察と……あの隣人に任せた方が良いだろう」
「魔女さん?」
何故マリアに任せなければならないのか。来浪はムッとした。
「え? あれ探偵かなんかじゃねぇのか? この間、警官連れて小学校に来てたぞ」
「……魔女さん曰く、ペットだそうです。賢くんがちょっとかわいそうです」
マリアを連れて小学校に行った。それはすでに司馬から聞いており、その時の収穫についても尋ねたのだが、やはり何も出てこなかった。とのことである。しかし……来浪は1つ解せないことがあった。それはマリアの行動である。司馬曰く、誰かに会いたいのだそうだが、それが誰か教えてももらえず、ただ後ろを着いて来ているだけなのだそうだ。司馬は「大人し過ぎて逆に怖いっす」と、話していた。
「まぁ、止めろとは言わないが、危ないことはしない。満足したのなら一切から手を引く。それは約束してくれよ」
「はい、ありがとうございます」
来浪は宍戸に別れを告げるとその足で大学の屋上に向かった。喫煙所はそこにしかないのである。
屋上についてみると人はまばらで、喫煙所には誰もいなかった。
来浪はすでに禁煙していたことも忘れ、思考の海に潜る。
マリアが言っていたように肯定してみよう。
まずは10年前の事件の肯定――10年前の犯人は極悪人であり、極々一般的な人間が思う罪悪感が皆無であった場合、きっと同じ場所、同じ状況で同じ犯行を繰り返す。その場合、浮かび上がる疑問、何故10年空けたのか。である。そこまで一般人と違う感性を持っているのなら次の年、それどころかこの場所で亡くなった子どもは3人では済まなかっただろう。それならば、この推察は消える。では別の理由か――いや、10年間空けたのは空けざるを得ない理由があったから。考えられるのは引っ越し、それに近い家庭の事情や社会人であるのなら職場の都合……いや、考えるとしたらそういう一般的なものではなく、仮に異常者だった場合、その異常者がその狂気を隅に置くほどの出来事である。それは何か……。
来浪は煙草に火を点す。
「……死亡した?」
不意にマリアの言葉を思い出し、呟いた。
しかし、来浪は首を振る……が、マリアの言葉を思い出し『そうじゃない』ことの肯定を探す。
司馬が言っていたように、今回のような犯罪を行なった者が死亡した場合、それについての照合なりなんなりをしたのだと思うが、来浪はその手の知識には疎く、想像になってしまうが、それでも。と、頭に言い訳を残し、思考を進める。
後ではない? 10年前の事件に近く、元から事件と関係のなかった。所謂、捜査の穴から見事に抜け出た者。
もしそうであるのなら10年前の事件の犯人は今回、一切関係がない。マリアもその結論に辿り着いたから来浪が思いつかないような考えで捜査を進めているのではないか。
来浪は乱暴に煙草を推し消すと逸る気持ちを抑え、駆け出そうとするのだが。
「……」
ふと冷静になる。
この結論であるのなら、最早来浪が悩むことではないのではないか。何故なら別人であるのなら繋がりもなく、一介の大学生が捜査できるものなどとっくに警察が手を付けているだろうし、最初の動機がマリアや音子を含めた日常を脅かす者を排除するためであった。その理由に辿り着いたのはそもそも、10年前の犯行に嫌悪を抱いたからであり、そうじゃないとわかったのなら、満祇 来浪としての調査は無意味だろう。
しかし、やはり引っかかる。
マリアからの助言を受けてもなお、来浪は否定から始めてしまうのを止められていない。この推察は間違っている。死亡しているなんてありえない。そもそも、別の人間が10年前と同じような事件など起こすはずがない。10年前の事件の犯人が異常者であるはずがない――頭で否定するごとにどこからどこまでも同じ否定が頭を回り、真実への道のりを朧のように、霧のように霞ませた。
「――っ!」
来浪は大きく息を吸うと頬を叩き、再度煙草に火を点けた。そして、思い切り吸い込むと頭の中のモヤモヤも一緒に吐き出すように煙を空へと伸ばした。
「違う、そうじゃない」
来浪は目を瞑り吐いた煙を、しっかりと開いた瞳で追いかけた。そうじゃない。そもそも来浪はそこまで器用な思考回路を持っていない。否定だの肯定だのそれはここ一週間で突然湧いた仮面のようなもの。
ならば本物は――満祇 来浪が考えるのはいつだって『最悪』である。その最悪な事柄から対処を思案し、それを行動していく。
ならば――今回の最悪は大前提にマリアと音子、周囲の人間が巻き込まれること。そして、そうならないためには真実を追求する必要がある。
今までの思考も、推測の枠から出ていない。つまり、その推測が正しくない場合、それが最悪となり、大前提の周囲の安寧、それが脅かされる場合があるのである。
対処――簡単な話。10年前と関連があろうとなかろうと、それを確固たる確信に変えればいいだけである。
来浪は脚を進める。そして、学校を出て自宅へ戻った……のだが、普段は部屋にいるはずのマリアがいない。いや、別にいない時が1割はあるために不思議なことではないが、突然連絡もなしに部屋にいないと心配にもなるのである。もっとも、連絡を来浪は受けたことがないが。
来浪は車に乗ると少し思案する。
この事件について調べることは決めた。次はその方法なのだが……そもそも、来浪は10年前の事件をよく知らない。こんな状況では何から手を付ければいいのかわからなくて当然である。それならば、まずはそれを調べようと決める。
来浪は車を県立図書館に向けて走らせた。
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