第2話
笹原との会話の後、マリアは部屋に籠ってしまった。そして、そのまま出てこなかったためにサンドウィッチを彼女のお昼ご飯にと自分の部屋に残し、来浪は大学に戻った。
そうして、来浪は普段通りに大学で講義を受け、普段通りに学校を終えたのだが……。
笹原との会話で見たマリアが頭から離れなかった。
恐怖……先ほどまではそういう感情があったことは確かである。が、あのようなマリアの表情は普段一緒に生活していれば、信号に一度も停まらずに家に帰れる程度には珍しくはない。
では、来浪は何に引っかかっているのか。
それはマリアの発言である。黄昏と逢魔が時、夕暮れの別名が一体笹原に何の関係があるのか。そもそも、マリアは一体何を知っているのだろうか。10年前と今回の事件が気になったから彼と知り合ったのか。いや、違うだろう。マリアは笹原と疾うに知人であったのである。事件が起こる前からで、今回の事件とはまったく交わらない偶然……本当にそうなのだろうか? 来浪が知る限り、彼女は知人友人を多くは作りたがらない。そのほとんどの関係は有用か愉快かのどちらかであるように思える。
しかし、来浪は自分と音子を愉快に分類するのだが、笹原はどう考えてもこちらではない。では有用だからだろうか。警察にいた頃のコネ――いや、それはあり得ない。マリアにはすでにその伝はある。では笹原は一体、マリアにとって何の欲求を満たすための存在なのか。
来浪はあまりにも馬鹿馬鹿し過ぎるその思考を大きく息を吸うことで閉じた。例外なのだろう。自分が知る全てがマリアの全てではない。何らかの理由と偶然が重なり、彼女は笹原と知人になったのだろう。あまりマリアの内を覗くようなことは控えるべきだ。と、足を進ませる速さはそのままに、来浪は自宅へ向かって歩き出した。
そうして、アパートの自室へたどり着くのだが……誰かが部屋にいる。来浪はまたか。と、思うのだが、今回は少し警戒する。何故なら話し声が聞こえるからである。
もし万が一、いつも通りマリアがいて、仮にテレビやラジオと会話を繰り広げているのならすぐに精神科医に相談することを勧めるところだが、これが鏡やぬいぐるみと会話をしているのなら今すぐ無言で電話をかけるだろう。
しかし、きっとそうではないのである。
考えられることは2つ。見ず知らずの強盗がいるかマリアの知人の強盗がいるかである。
少しも恐れてはいないが、来浪は人並みの警戒心を持って扉に手を掛けた。そして一言、ただいま。と、声を発し、リビングへ足を鳴らして進んだ。
リビングへ着くといつも通り、マリアが足を組みティーカップを口に運んでいる光景と呆けた顔で来浪に視線を向けている若い男性の姿があった。
「……」
その男性がハッとした表情を浮かべると、口をパクパクさせながらあちらこちらを指差し、マリアに視線を向けては顔を青白く染めていた。
「……あ、あのぅ、モニカさん、つかぬ事を聞きますが、この家はモニカさんの家っすか?」
「いいえ、そこのカラスが借りている部屋よ。私は隣」
男が頭を抱えながらフラついた。そして、視線を合わせるや否や物凄い勢いで頭を下げたのである。
「す、すんません! 自分、知らなかったとはいえ、見ず知らずのあなたの家に4回もお邪魔してしまいました!」
来浪は首を横に振ると横目で腹を抱えて笑うのを耐えているマリアを軽く睨み、男を座らせるとお茶を淹れる準備をする。マリアだけ茶を飲んでおり、男には何も出していないのである。
「ほ、ほっんとうにすんませんでした」
「いえいえ、慣れてるので気にしないでください。そもそも責められるべきはマリアさんです。あなた――え~っと」
「あ、自分は県警の一課……えっと、よくテレビで殺人とかを捜査してるような刑事の司馬 賢です。よろしく」
差し出された手を来浪は握り返すと司馬(しば) 賢(まさる)と名乗った男……に自己紹介をしようと思ったが、マリアが突然横から声を発したのである。
「ねぇカラス、その子の名前、中々面白いのよ。司馬の後の名前、『賢い』でまさるなのよ。別の読み方をして、さらに捻くれると――」
「しばいぬ?」
しばけんからしばいぬである。
それをバラされたからか、司馬が泣きそうな顔をしていた。いやはや確かに。と、来浪はコロコロと構ってほしそうに表情を変える彼が柴犬に見えてきたのである。
来浪は一言謝罪の言葉を投げると自己紹介をし、茶を司馬の前に置き、ゆっくりするように言うのであった。
すると、どこか司馬が申し訳なさそうにしていることから、来浪は自分が邪魔なのだろう。と、考えた。そして、2人に一言断りを入れ、部屋を出ようとするのだが、司馬がぶんぶんと首を振り、それなら自分たちが出て行くというのである。しかし、マリアが動く気配も見せない。
「ほ、ほら、モニカさん、ここは来浪くんの家ですよ。どう考えても邪魔になってるのは自分たちっす。早く出ましょう」
「嫌よ。私はここが気に入っているの、何者であろうとも私を動かすことは出来ないわ」
「家主がいるっすよ!」
来浪は苦笑いを浮かべ、外に出ようとする。まだ大学は開いており、時間が来るまで図書館にでもいれば良いと考えた。しかし、マリアが――。
「カラス、中々頭が回るわよ。それに学校から正式に要請されたんでしょう? いなくなった生徒は誘拐された。貴方たちもそう結論付けた。違う?」
「ちょちょ、一般の方がいる前で――」
来浪は扉に伸ばした手を引っ込めた。そして、振り返ってマリアと視線を交わらせると彼女の向かいに腰を下ろし、尋ねる。
「魔女さん、ちなみにですが魔女さんは何を知っているんですか?」
「……今回の事件、知らないことが多いわ。だからこうして犬を招集したわけだし」
「……やけに積極的ですね。僕の知っている魔女さんは人のために何かをするような人ではないのですが」
「あら、失礼しちゃうわね。私だってたまには、貴方の言葉を借りるなら『善意』で体を動かすことはあるわ」
「僕の言う善意というのは、自分の勝手が誰かにとって優しさに見える。と、いうやつですが、それで良いのですか?」
「ええ、その通りよ」
つまり、マリアはこう言ったのである。2つ目の問いで、人のために。その部分を肯定しておらず善意だと。そして、その善意は自分勝手な欲望を満たすための物であり、誰かのためになんて動いていない。
来浪はクスり。と、笑みをこぼした。つまりはこの捜査も自分のためなのである。それならば何も責めることはない。今身近な人間で音子と同じくらいに信用しているマリアが、マリアのために動いているのである。隣にいる国家機関よりもこの上なく信頼出来る。
来浪は司馬のいる方へ体を向け、笑顔を見せた。
「あ、なんか嫌な予感が……」
「ねぇ司馬さん、今警察は10年前の事件と今回の事件、同一で見てます?」
「え? いやそんなこと――って、ダメダメ! あ、あんまり外に漏らすと怒られちゃいますよ!」
警察はまだ別で考えている。しかし、この若そうに見える司馬ですら10年前の事件の情報を聞いていることから、警察内部でも同一犯であると見ている人間が少なからずいるということである。
とはいえ、マリアの口ぶりと午前中の小学校の様子では学校側から誘拐事件の可能性を持ち出されたのはついさっきのことだろう。そして、この司馬という男は誘拐の知らせを受け、学校に事情を聞きに来たところ、マリアに捕まったのでは。と、推察できる。
来浪はすっと立ち上がり、普段からマリアのために用意してあるお茶請けを司馬のために皿に盛り、彼に差し出した。手作りのアップルパイとバニラのアイスクリームである。
司馬が嬉しそうに来浪に礼を言うのだが、来浪は彼に同情した。故に優しくしよう。と、アップルパイを出したのである。マリアと付き合いがあって日々安寧に過ごせるわけがないのだ。来浪はマリアの空になったティーカップにおかわりの紅茶を注いだ。
「それでカラス、貴方はどうなの?」
「……どう、ですか?」
マリアの問い。それは今回の事件と10年前の事件、同一の人物か。ということだろうか。確かに今まで話を聞いて来て散々悩んだのだが、ここいらでこれまでを整理しがてら今の結論を出すのも良いかもしれない。来浪はティーカップを口に運んだ。
「そうですね……小学校で話を聞いたのですが、その話をしてくれた方が10年前の事件は犯人が生徒の事情を知っていたと話してくれました。そして、今回の事件でも同じような境遇の子どもがいなくなった故に同一犯だと――ですが、僕が思うに普通の脳を持った人間が、同じ場所、そして同じ状況をわざわざ作って犯行に及ぶとは考えられません。警察や学校関係者、保護者を挑発、等々それらに快楽を見出すにしてはリスクがあり過ぎるような気がします。だから、僕は別人だと思いますが」
「あら、今カラスが言った否定、全て肯定にしても面白いと思うわよ。同一犯だったら――思考出来る箇所が多いでしょう? カラスが言ったようにどのようなことで快楽を得られるのか。どうやってこれまで身を隠していたのか。とかね」
「……魔女さんは同一犯だと?」
「まさか。もし同じ人物ならその犯人はとんでもない大馬鹿者よ。10年前に捕まっているわ」
「思考が止まっていませんか?」
「い~え、だって考えてもなさいよ。そんな世間では大馬鹿と捉えられる人間が今までどうやって逃げ延びたのか、どんな奇跡があったのか。それだけでその人間には価値があるわよ」
するとマリアが小さく息を吸い、どこか上品に髪をかき上げた。
「それとね、カラス」
「なんですか?」
「何かの答えを求める時、否定しては駄目よ。結果を話すのなら肯定しなくちゃ、納得のいく答えは出ないわ。だって否定から生まれた答えなんて堂々と巡っていくものだもの。1+1=2の『1』を否定したって何も生まれないでしょう。1であることを肯定して、初めてその結果が生まれるの」
「えっと……」
「1+1=2に2以上の数字はそもそも必要ないわ。貴方は思考全てに名前をつけるけれど、数字ならもっと簡単よ」
来浪は自分が話した犯人が別人であるという説を思い出した。根拠が全て否定から入っており、これでは確かにマリアの言う通りである。だから彼女は肯定したら。の話をしたのだろう。肯定できるということはその可能性はあり得るのである。しかし、否定はそうもいかない。『ない』の証明は難しい。そうじゃない根拠などいくらでも覆せる。
マリアが言うように同じ場所、同じ状況を作る人間がいるかもしれない。快楽にリスクを度外視する人間もいるかもしれない。結論付けていながら曖昧、納得は出来る結論に至れるのも肯定だけである。
「それじゃあ、魔女さんはどう思うんですか?」
「そうねぇ……」
わざとらしく髪を弄るマリアに来浪は違和感を覚えたが、とりあえず彼女の考えを聞く。
「こういうのはどうかしら? 10年前の犯人はすでに死んでいる」
「……はい?」
来浪は口を開けたまま固まった。司馬と同じように体の動きを止めたのである。
いや、その結論は確かに10年前から影も形も現さないという点のみはクリアしているが、それでは先ほどマリアが話していた思考の面白味などないのではないだろうか。そもそもその結論だと一体、どれだけの人間が何も知らずに苦しんでいるのか、被害者たちは納得いかないだろう。
「魔女さん、それはあんまりじゃ?」
「そうかしら? あんまりなんて言うけれど、この事件でどれだけ苦を味わっている人間がいようとそれが事実ならその他の今までなんて無意味よ。そもそも誰かの苦しみは免罪符にはなり得ないわ」
「……それで楽しめるんですか?」
この質問は少し不謹慎にも思えたが、相手は魔女である。彼女にその質問をしても不快には思わないだろう。
「ええ、だって次の疑問はどう死んだか。になるじゃない。逃げ切った人間の奇跡を想像するよりは刺激的よ」
喉を鳴らし笑うマリアを見ていた来浪だったが、司馬がおずおずと手を上げているのに気が付いた。
「死亡している……ないわけじゃないと思いますが、そもそもこういう事件の犯人ってまたやらかすもんっすよ。だから、何もせずに10年間潜伏した挙句、死亡したって言うのはちょっと。似たような誘拐や強姦をしてどっかで死んだ人間なら調べるっすよ」
「その結果いなかったんでしょう?」
「え、ええ、そうっす。だからきっとどこかに逃げてると思いますよ」
「そうかもしれないわね」
マリアがやけにあっさりと引き下がったために来浪はそれを聞こうと思ったが、彼女が小さく欠伸をしたのを見て、何も語ってはくれない。むしろこの会話に飽きているのだと諦め、空のティーポットに新しくお茶を淹れる準備を始める。
そして、2人のカップにおかわりを注いだ時、司馬がそろそろ戻る。と、断りを入れてきた。
来浪は彼に包んだアップルパイを持たせると外まで送ると言い、部屋から出ようとするのだが、相変わらずマリアは動く気配も見せず、司馬に一言謝罪を投げた。
しかし、いざ扉に手を掛けると――。
「ああ、わんこ、1つ良いかしら?」
「わんこじゃないっす――なんですか?」
「10年前に生き残った子、どのように保護されたか聞いている?」
「へ? ええ、聞いてますよ。確かぁ……当時担当刑事だった人が保護したから自宅で休ませていたそうっす」
「その前は?」
「う~ん、2人とも要領の得ない答えで……それがどうかしたっすか?」
「いいえ――ええ、ありがとう。ああ、さっきその刑事には会ったわよ、その前はふらふらだった子どもがいたから保護したって言っていたわ」
「あ~、2人とも必死だったんですねぇ、聞いた話じゃその刑事、大の子ども好きらしいですからねぇ」
「子ども好き。ね」
マリアが意味深に呟くと、今度こそ本当に興味が失せたのか手をヒラヒラと振り、来浪と司馬に視線を向けることはなかった。
来浪は司馬を連れ、アパートの外に出る。
すると、外には音子と睦音がおり、こちらに気が付くと2人揃って懐っこい笑みを浮かべて近づいてきたのである。
「あ、じゃあ自分はこれで」
「司馬さん、ちょっと待って」
空いている車庫に停まっている車に乗ろうとする司馬を来浪は制し、最後に。と、前置きをし、尋ねてみる。
「誘拐事件だとして、すぐに捕まえられますか?」
「……正直、それはちょっとわかんないです。10年前、犯人からの要求は一切なかったって聞いてます。それだとこっちは動きようがないっす。今回、10年前と同じ、もしくはそれを模倣している人間だったなら……すんません、あんまり期待させるようなことも言えないっす」
警察側としてもあまり期待させてそうでなかった時、落差から心に傷を負わせるのを避けたいのだろう。それがよくわかっているのだと来浪は司馬のことを評価できた。
来浪は首を振り、礼を告げると笑顔を向けた。大丈夫。わかっています。と。
「……あ~、来浪くん、自分のことは司馬じゃなくて、賢で良いっすよ。ワンコ……は、ちょっと傷つくので、先輩とモニカさんだけでいっぱいいっぱいっすけれど、来浪くんはこう、なんていうか、ええ、モニカさんたちとは違う意味で信頼出来そうなんで」
司馬が自分も二十代で年齢が近いと思う。というのを教えてくれたために、来浪は小さく笑い、それを承諾する。そして、連絡先を交換し、別れた。
来浪は小さく頭を下げ、司馬を送るとそれを見ていたのか、音子が抱き着いてきた。
「クロちゃんクロちゃん、新しいお友だちぃ?」
「うん、魔女さんに振り回される二十隊の同士だよ」
「う~んぅ?」
来浪は音子を持ち上げると睦音と向かい合った。
「今日も早いですね」
「うん、今の状況が落ち着くまで家にはいようと思ってぇ。だから、有休消化がてらお休み取っちゃったぁ」
音子が嬉しそうに頷いているのを見て、来浪は彼女に良かったね。と、声をかけてあげた。そして、睦音がいるなら食事はどうするべきかを考えた。
「睦音さん、もしかして今日もいました? 言ってくれればお昼持って行ったのに」
「もぅ、クロくん、あたしだってちゃんとご飯作れるんだよぅ。今日はあたしが作るからクロくんも陽女ちゃん連れて家に来てね」
来浪は了解の返事をするのだが、音子が腕に抱っこされながらどこかに手を振っていた。
音子が手を振るその先、そこには一台の車が停まっており、夕陽をバックに女性が立っていた。その女性は真っ白なフリル――ロリータ調の衣服に身を包んでおり、どことなく誰かを彷彿とさせ、来浪はつい目を奪われてしまった。
しかし、違う。遠目からでもわかる。あれはまったくの別物。ほんの一瞬見ただけの印象だが、基盤としている魔女のせいで、偽物。と、いう言葉しか思いつかず、そもそも先ほどまで部屋で傍若無人を働いた女性はあそこまで凹凸が顕著ではない。
「あれねぇ、林檎ちゃんだよぅ」
音子がそう言った。
林檎……雪平 林檎。マリアに連れて行かれた服屋でその名前を聞いたことを来浪は思いだした。つまり、彼女がレプリカマリアの皮膚をデザインしている人間なのだろう。そして、無償で小学校に服を提供しているきな臭い人物。
来浪はつい、音子に彼女と仲が良いのかを尋ねてしまった。
すると音子は、彼女は女の子みんなと仲が良く、新しい服をデザインするとみんなに見せてくれるのだと教えてくれた。
「服を作るのがとっても好きで、皆に着てもらうのがとっても嬉しいんだって言ってたよぅ」
「へ~……」
どこか遠くで聞こえた声――来浪は夕暮れで朧になっている林檎をジッと見つめていた。
何かに吸い寄せられるように、魔女ではないただの人間に魅了されるように――黄昏、逢魔が時に魅入られた。来浪はマリアが笹原に放った言葉を思い出していた。
自分が自分ではなくなる感覚、誰そ彼もわからなくなる曖昧、茜色に融ける様に――。
「クロちゃん?」
「え? あ、うん」
「お話聞いてくれないクロちゃんはこうだよぅ」
胸に頭をぐりぐりと押し付けてくる音子に来浪は苦笑いを浮かべた。
そして、再度林檎の方を見た時、先ほどのように心が奪われてしまうことはなかった。
来浪は今のはほんの気の迷いだと一蹴し、音子を抱き上げたまま、アパートに戻るのであった。
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