第1話

 来浪は宍戸に別れを告げた後、時間が空いたためにブラブラとキャンパスから時間をかけて自宅へと歩いていた。

 先ほどの塚田の話――何故、誘拐犯は被害者の生徒の事情を知っていたのだろうか。身近な人間? いや、それなら警察は周囲の人間を調べ上げているだろう。日本の警察組織はそこまで無能でもない。

 だが、調べた上で犯人が挙がっていないのである。相当周到な用意をしていたか、全ての人間を守ってくれる神様が幸運を与えたかである。

 今回の事件もそうだ、未だ連絡の付かない生徒の家庭の事情を知っていた。親が家に帰って来ず、子どもが1人で家にいることが多い。その上で連れて行ったのだろうか。確かに10年前と状況は似ている。しかし、偶然だと言われればそれも納得出来る。本当に今回は10年前の事件と同一犯の仕業なのだろうか?

 来浪は首を振る。宍戸が言っていた通り、自分は探偵でもなければ警察でもない。ただ、周囲の人間の安全を確保出来れば良いだけなのである。

 思考を切り替える。

 忘れなくてはならない。これ以上は大学生である自分には過ぎた考察である。と……しかし、いくら頭を振ろうとも脳の隅から事件についての情報が顔を出すのである。

 来浪は、今日は控えようと思っていた煙草を取り出すと火を点け、目を閉じて深く煙を吸う。

 そうして頭の中を入れ替えようとすると――。

「あらカラス、そんなところに突っ立っていると悪い魔女が魂を持って行っちゃうわよ」

「………………」

 来浪はゆっくり目を開けた。そして、初見であるのなら心奪われそうな笑みを浮かべているマリアと優し気な笑みで小さく会釈した中老の男性を見た。

「こんにちは魔女さん。えっと、それと――」

「はじめまして。笹原と言います」

「……はじめまして。満祇です」

 笹原……あの笹原だろうか。老人によく見かける柔らかい笑みでの自己紹介。来浪は横目でマリアを覗くのだが、髪を弄っているだけで目を合わせてくれない。同じ名前の人間なのだろうか? 思案しているとマリアが笹原に手を向けた。

「カラス、このおじいさん、10年前の事件を担当していた刑事なのだそうよ。気になっているんでしょう? 今回の事件共々聞いてみたら」

「……」

 来浪は絶句した。塚田がせっかくこの笹原という男に配慮して悩んでいたのに、この魔女はそれを横側からかっさらい、さも当然のようにその情報を伝えたのである。来浪は頭を抱えると同時に、小学校の方角を向き、小さく頭を下げた。

「えっと、その……笹原さん、すみません。マリアさんが失礼なことをしませんでしたか?」

「カラス、最初にする会話がそれなのは何故かしら?」

 今までの行いを思い出すため、胸に手を当てて考えてもらいたいと来浪は思った。

「残念ながら、私の胸は脳と直結していないのよ」

「僕は魔女さんの良心に訴えかけたので間違えてはいません」

「それも残念、私の善の心は口にあるのよ。どれだけ悪意に心を委ねても口からなら善意が出てくるわ」

 人はそれをペテンという。来浪が呆れていると笹原が小さく笑っていた。

「ああ、失礼。お二人のやり取りが面白くてつい」

 来浪は笹原に頭を下げ、煙草を携帯灰皿に仕舞い込むと視線を彼に向け、言葉を出そうとするのだが、一体何を話せばいいのだろうか。10年前の事件が気になっています。良かったら教えてくれませんか? いきなり過ぎ、そもそもこの笹原があまり話したくないかもしれないことを無遠慮に聞いて良いものか。

「カラスは本当に考え過ぎよ。というか、今私が聞こうと思っていたから大丈夫よ」

「一体何が大丈夫なのかわからないのですが?」

「ここ最近、散歩している時によく話すから多少の無礼もへっちゃらよ」

 大丈夫な要素が見つからないことに来浪は頭を抱える。すると笹原が頷いていた。

「ええ、ええ、大丈夫ですよ。マリアさん、私が色々話していたらいきなり、貴方の血、少しくれない? と、言ってきたのでそれ以上でなければ大抵のことは――」

「……魔女さん、迷惑かけていない。って言いませんでした?」

「言っていないわよ。私の善意は口にあるけれど、善意ばかりを話したりはしないわ」

 来浪は何度も笹原に頭を下げた。その際、来浪は彼に血を与えていないかを確認するのだが、マリアが持っていた注射器で抜かれたとのこと。マリアに医療の免許を持っているのか尋ねるのだが、彼女は「知識だけよ」と答えるだけであった。

 犯罪である。来浪は深く頭を下げ、何度も笹原に許しを請おうとするのである。

「まぁまぁ、私が合意しましたし、それに――20年そこそこ警察をやっていて、久々に悪いことをしてしまいたいと思ったのですよ。だからあまり彼女を責めないであげてください。大半は私の責任です」

 来浪は半目でマリアを睨むと盛大にため息を吐き、最後に深く頭を下げることでその話を終わらせた。

 笹原――名前を聞いたところ、笹原(ささはら) 幸喜(こうき)とのことである。幸せな喜び。名前の通り、どこか恵まれている雰囲気のする男性。物腰は柔らかで茶目っ気も窺えた。しかし、警察にいたからか不意に見せる鋭い目線もあり、来浪はこの笹原という男性には誠実でいようと素直に思った。不誠実を見せたら最後、年の功と警察官の経験ですぐに見破られてしまうだろう。

「さて、それじゃあそろそろ質問しても良いかしら?」

「ええ、構いませんよ。私で答えられることなら」

「まずは今回の事件のことなんだけれど、何か知っている?」

「……難しい質問ですね。そもそも、まだ事件にすらなっていないのでは?」

「そうね、学校側はまだ渋っているみたいだけれど」

 マリアが視線を向けてきた。

 来浪はその視線に対して呆れたように視線をぶつけると、今日塚田から聞いた話をしようと考えた。

「先ほど……笹原さん、塚田先生をご存知ですか?」

「ええ、彼女、良い先生ですよね」

「はい、その塚田先生と先ほどお話したんですが、塚田先生、笹原さんを気にかけていて、事件だと知ったら無茶をするんじゃないか。と」

「……ああ、なるほど」

 笹原が首を振った。そして、大丈夫。と言った。

「それなら――10年前、家に帰っても誰もいないという生徒が狙われたとのことですが、今回行方がわからなくなった生徒も家庭の事情により、家に帰っても1人になることが多かったようです。笹原先生は状況が似ていることから10年前の事件の犯人ではないかと危惧していました」

「なるほど。今回もし誘拐だとするのなら、その犯人は学校に限りなく近くにいるのね」

 マリアの言う通りである。10年前の事件もそうだが、生徒のことを知れる機会など然う然うない。しかし、犯人はどうしてか生徒の家庭を知っており、その生徒に絞って誘拐を決行したのだ。近所の人間か、保護者の知人か……否、生徒間に交流があっても保護者間での交流など疾うに調べられているだろう。つまり、その線は薄いだろう。ならば教師……来浪は首を振る。その可能性はあまり考えたくはないが、昨今ではその類の事件が増えているのも確かであり、10年前の事件もそうだが、今回のことも教育関係者が10年前の犯人を模倣したとも考えられる。

 考えれば考えるほど、全てが疑わしく思える。

「カラス、人間全てを疑ってかかったら目つきが悪くなるのよ」

「……目つき、悪かったですか?」

「ええ、せっかく可愛い顔をしているのに台無しだわ」

 来浪は笹原に断りを入れ、少し距離を取ると煙草に火を点した。そして、頭の中を真っ白にするために煙を深く吸い、大きく吐いた。

「あれ、カラスの精神防衛の方法なのよ」

「彼は良い刑事になれそうですね」

「残念ながら教育者志望なのよ」

「それはそれは――さて、では私も」

 笹原が手を上げた。話を始める合図なのだろう。ああやって視線を集め、会話をする。癖なのだろうか。来浪は煙草を口から離し、笹原に視線と耳を向けた。

「マリアさんの言う通り、10年前、私たち警察も近くの者だろうと考えていました。しかし、どれだけ調査を進めても手掛かりどころか影も形も出てこなかったのですよ……」

 笹原の表情には悔しさのようなものが浮かんでいた。目を鋭く細め、右側の奥歯を噛みしめているようにも見えた。塚田の言う通り、彼は犯人を捕まえられなかったことを悔いているのだろう。

「ふ~ん、貴方、影も形も出なかった事件でよく1人救出できたわね」

 ふ~ん。とは――明らかに沈んでいる人間に対して、その言葉だけで済ますのはどうかと来浪は思ったが……何故、笹原が生徒を救出したことをマリアが知っているのだろうか。

「おや、知っていましたか。ええ、あれは偶然だったのですよ。私が捜査で色々と足を運んでいる時、ボロボロの状態の沙羅ちゃんを発見したのですよ」

「……発見? つまり貴方は犯人が潜伏していた場所に辿り着いたわけね?」

「……え、ええ――いえ、どうなんでしょう。付近を調べても犯人らしき人間は見つからなかったので。沙羅ちゃんがフラフラと歩いてきたのを私は保護しただけですから」

「そう――ちなみに、3人の生徒が殺された後、その沙羅という子が出てきたのはどうしてだと思う? その子だけが生きていたのはどうして?」

「魔女さん――」

 その質問は少し酷いのではないだろうか。せっかく生きていたのにマリアは死んでいないのが不審だと言ったのだ。沙羅という少女は被害者なのである、どういう意図の質問かはわからないが、あまりにも不躾ではないか。来浪はマリアの袖を小さく引っ張り、自重するように目で訴えてみた。

 しかし、マリアの表情は勝気そのもので、これを覆す気はないのだろう。

「……随分と詳しいですね、警察組織に伝でも?」

「ええ、何度か巻き込まれたことがあって、その縁で中々面白い情報を貰えるのよ」

 来浪は、そういえば。と、呟き、マリアの元へ訪れた数人の人間を思い出していた。その際、小耳に挟んだ程度だが、その人物が警察関係者だと示唆するような発言がいくつかあった。しかし来浪はこれをプラスには捉えなかった。巻き込まれたと言ったが、それは疑われたからではないだろうか。と、マリアをジト目で見つめた。

「カラス、貴方は私を一体何だと思っているのかしら?」

「魔女と自分で言いましたよね?」

「そうよ、でも今のご時世、魔女を裁く法はないのよ。人権を侵害したとあちこちから糾弾されるわ」

 魔女が人権だというのを初めて知った来浪は、とりあえずマリアの頬を引っ張ってみることにした。

「……それじゃあ撫でているだけだわ。私の頬は音子みたいにモチモチしていないのよ」

「十分手触りの良い頬ですよ。ずっとは嫌ですが、数年に一度行ければいい高級料理店程度には価値のある頬だと思いますよ」

「食べてみる?」

「毒を食す趣味はないです」

「皿まで食べるべきよ」

 来浪は小さく噴き出す。マリアの言う通り、彼女と隣人になったからには最後まで面倒を見るべきなのだ。と、その頬から手を離した。

 マリアとプライベートな空間を展開していると笹原が苦笑し、手を上げていた。

「もし――まだ質問を続けますか? 私としては、若い御2人を見ているだけでエネルギーを貰えるのですが」

 来浪は咳こんだ。ほんの一瞬だが、笹原がいることを忘れていたのである。所謂、魔女に魅入られたというやつだろうか。

「ええそうね。これ以上貴方の散歩を邪魔するのは気が咎めるわ」

 一体どの口が言うのだろうか。そこで来浪はマリアの口から善意が出てくることを思いだし、これが一般的に言う心にもない言葉というのだろう。と、笹原に頭を下げ、礼を告げようとするが。

「ああ、最後に」

「……何でしょう?」

「貴方、私寄りよね。まるで黄昏――誰も彼もがわからないように、貴方は貴方を失くすことが出来たのかしら?」

「――? どういう」

 笹原がマリアの言葉の真意を探ろうと疑問を発したが、来浪も首を傾げた。しかし、マリアもまた驚いたような表情をしており……。

 そして、弾けたようにマリアが声を上げて笑い出した。

「嗚呼、嗚呼! そうだったわね、貴方は私とは違った。ええ、正義の味方だもの――本当に黄昏だったのね。そういう風に在ろうとしたのではなくて、そう在らなくては壊れてしまうから、貴方は黄昏に、逢魔が時に心を奪われたのね」

 喉を鳴らし、心底愉快そうにマリアが笑っている。

 黄昏、逢魔が時――確か夕方の別名だったと来浪は記憶している。しかし、一体それが何を意味しているのか。来浪には心底わからなかった。ただ言えるのは、ああして笑っているマリアがとても恐ろしく見えるくらいである。

 そして、マリアが笑いを絶やさないまま、笹原に一言礼を告げただけでアパートに戻ろうとしたのを来浪は気が付き、彼に頭を下げ、彼女を追うのであった。

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