第5話
来浪は行きと同じようにアパート前に車を着けると日傘を差し、手を引いてマリアが車から降りるのを促し――と、どこかのお姫様を扱うが如く、来浪は丁寧に彼女らをアパート内まで送り届けた。
車をガレージに戻した来浪は小さく息を吐き、自分も部屋に戻ろうとするのだが、2階に上がる階段の踊り場でマリアと音子が立ち止っていることに気が付く。
「魔女さん――?」
「カラス、お客様よ」
来浪はマリアが顎で指した方を見上げてみると。
「……よっ」
「………………」
今あまり会いたくない部類に分類される人間――来浪たちに教育心理を教えている講師、宍戸(ししど) 昴(すばる)が頭を掻きながら空いた手を上げていた。
「……」
「……」
来浪は宍戸に茶を出すと彼の向かいに座り、顔を見た段階では罪悪感を覚えていたのだが、ジッと見ている内に疑問が湧いてきたために、どこか睨むような目つきになってしまっていた。
その疑問とは勿論、何故宍戸がここに訪れたか。である。
午後の講義を休んだことに対するお叱りをしに来たのかと来浪は思ったが、マリアが音子を連れて自分の部屋に戻った段階で言葉にすればいいはずである。しかし、それをしないどころか、この男から罪の意識がその表情から窺えるように見えた。所謂、極り悪いような表情。
では、それ以外の理由とは何なのだろうか、来浪には一切覚えがなかった。
故に、こうして男2人、黙りこくってしまったのである。
「な、なぁ――」
すると沈黙に耐えられなかったのか、宍戸が深刻そうな表情で口を開いた。
「……?」
「すまなかった!」
突然、宍戸が勢いよく頭を下げたのである。
来浪はこれに驚き、表情があからさまに変わることはないが、狼狽え、思考をショートさせたように宍戸 昴の経歴を思い出す。
その思考にまったく意味はないが、来浪は困惑しているのである。謝るべきは自分で、宍戸ではない。しかし、彼は謝ったのだ。これは想定していなかったことであり、それ故に脳が対応出来ず、まるでそれを司る脳の働きの一部が自身の落ち度を隠すように関係があるようでまったく関係のない物事を思案し「私は脳として働いているのだ」と、隠匿行為のようなものを働いたために起きた精神防衛である。
「え? あ、え――」
「ああうん、怒ってるよなぁ、そうだよなぁ……今まで講義をサボったこと来浪はなかったもんなぁ」
この男は助教……講師だったかもしれない。いや、そもそも幾つだったか、年は40はいっていないはずである。では30代? もしかしたら20代――来浪は頭を小さく振り、宍戸の後ろを通ってベランダへ出る。そして、外用のサンダルを履くとカチカチとオイルライターを回しながら火を点け、ポケットから煙草を取り出して火を点した。
来浪は煙を深く吸い、大きく煙を吐いた後、小さな深呼吸を数回繰り返した。すると頭が落ち着いたのか、目を閉じて普段のペースで煙草を咥え、煙を吸い込んだ。呼吸は落ち着き、およそ正常に戻った。
「だ、大丈夫か?」
「……ええ、大丈夫です。それで、何故先生が謝るんですか?」
「は? いや、お前さんわかってたから俺を睨んでたんだろ?」
「睨んでいません、考えていただけです」
「考えてたって……ほら、その、昨日」
「昨日?」
昨日の出来事だというのなら尚更、謝るのは自分であろう。来浪は再度宍戸を睨むようにジッと見た。
「ほれ睨んでる。来浪、もしかしてどっかで頭打ってないか?」
「……先生こそ、昨日か今日、宇宙人に攫われて脳でも弄られたのでは?」
「せめて頭と言ってくれ」
来浪は息を吐くと煙草の火をもみ消し、宍戸の向かいに足を進めた。そして頭を下げるのである。
「今日、講義を無断で休んでごめんなさい」
「お? あ、ああ――いや、俺の方こそすまんかった」
互いに頭を下げている光景があるだろうことが来浪には可笑しく、小さく噴き出したのだが、やはり解せない。来浪は宍戸に謝った理由を尋ねる。
「だから何で謝るんですか?」
「……俺さ、今日来浪が講義に来なくて嫌われたか。とか考えたんだよ。でもよ、よく考えなくてもお前さんは高が叱った程度で講義を休むような奴じゃない。そう思って昨日のことを思い出してたんだが……何で叱ったのかの理由を話してなかった」
来浪は宍戸の評価について、買い被りでは。と、思ったが口には出さなかった。次に、確かに理由がわからず苛立っていたが、だからと言ってそれが謝られる理由でもないだろう。
「あん時さ、少し苛立ってたんだよ。もちろんお前にじゃないぞ、ちょっと大人の付き合いでな。そんで、俺は来浪を叱ったつもりだった。だが、実際はただ感情に任せて怒りを発散させてただけだったんだなって思ってよ、こうして謝りに来たわけよ」
来浪は宍戸のことを律儀だなと思った。そんなの、次の日平気な顔をして話しかけたのなら終わっていたはずである。しかし、この男はそれをしなかった。教育心理は2年になってから履修した科目であるために、彼とは付き合いがまだ長くはないが、誰にでも近い距離感を保ち、とっつきやすいその性格がそこそこ有り難いと思っている。
「……ええ、いえ、ありがとうございます。それじゃあ聞いて良いですか?」
「ん? ああ」
それならば、あとは何故叱ったかについての理由である。それを聞けてこの話は初めて終わりを迎える。不完全だった言葉に理由が取り付けられ、あとは手打ち――もう、先ほどのように講義をサボることもないのである。
すると、宍戸が煙草を取り出し、ベランダを指差した。来浪はそれに頷き、揃って外に出ると、彼が煙草を咥えたのを見届け、自分も煙草に火を点けた。
「あ~、そんでな、レポート読んだよ、よく書けてた」
そもそもの発端なのだが、実習の終わった来浪はレポートを宍戸に出し、それについて彼に叱られたからである。
先ほど宍戸が話していた通り、その叱りの中に一切の理由がなく、来浪自身、何故叱られたのかわかっていなかった。
「来浪、お前さん今は読解力の向上に興味持ってるみたいだな」
「え、ええ」
「レポートに書かれていた読み聞かせの企画、それをどのくらい続けるかの考察、保護者、教員たちがどう向き合っていくか。読んでいて納得出来るものも多かった」
「……」
「でもな、お前さんはまだ2年で初めての実習だ。俺が言いたかったのはな、最初の実習は研究者じゃなく、教育者として受けてほしかったんだよ」
ああ。と、来浪は頷いた。そして、言われて初めて実習に対する姿勢が教育者のそれではなかったことも理解出来た。
「とはいえ、声を荒げて言うことでもなかった。お前は賢い、一言二言で理解は出来るだろうし、そもそも迷惑を誰かにかけたわけでもない。先方からの来浪の評価、良かったみたいだぞ、良くやってくれてる。子どもたちが慕っていた。保護者も褒めていたってな」
その評価は純粋に嬉しい。と、来浪は小さくだが頬を赤らめた。しかし、少しの罪悪感があった。何故ならそれも、来浪の、良い教育者がおり、子どもたちがその心理に合うような教育を受けている環境であり、教育心理を保護者が理解している。その上で教育心理というのは発揮される。という思想が前提にあるからである。
故に来浪は教育心理を検証しやすい環境作りを意識し、それがたまたま周囲に褒められただけなのである。
宍戸の言うように、これでは教育者ではなく、研究者であるのは明らかである。
宍戸が「結果良い評価が得られても、そこは少し汲んでほしかった」というように思ったと口にした。しかし、口うるさく言ったのは確かであり、自分が思うような実習をしていなかったことを咎めようとは思ったが、傷つけるつもりで言ったわけではない。それだけはわかってくれ。と、宍戸が再度頭を下げるために、来浪は首を振り、頭を上げるように頼んだ。
しかし、この状況、互いに罪悪感があるからかどうにも終わりが見えない。来浪はもちろんだが、宍戸も許されたいと思っているはずであり、どちらがそれを許すまでこれは続くようにも思える。
だが、その許すという行為が意外と難しい。何故なら人間誰しも優先順位を考えるものであり、優先順位が高ければそれを率先して行なうのだが、今来浪も宍戸も罪悪感から卑屈になっており、優先順位が最低値まで引き下げられている。故にどちらが先か。で、互いに譲ろうとすることが出来ず、頭を下げ合う光景が生まれるのである。
そんなやり取りを宍戸と続けていたのだが、玄関の方からあからさまなため息が聞こえてきたことで来浪は視線を動かした。
「ねぇカラス、戦争ってどうやって終わるか知っている?」
「魔女さん」
来浪は頭を掻いた。見てみると、宍戸も申し訳なさそうにしていた。しかし、マリアの言う通りである。このままではいつまで経っても話が終わらないのである。
すると、宍戸が手を上げており、首を傾げて「魔女? カラス?」と、声を出していた。
「ああ、この方は隣人の――」
「マリア=モニカよ。よろしく」
「隣人……あ、ああ、よろしく」
マリアに差し出された手を宍戸が握り返したのだが「鍵閉めてなかったか?」と、尋ねるのである。
来浪は首を振り、それは自分も知りたいのだ。と、肩を竦める。
「ところで魔女さん、音子ちゃんは?」
「眠たそうだったから部屋で休ませているわ。私が部屋を出た時には可愛らしい寝息を立てていたけれど」
つまり、今マリアの部屋で音子が眠っているのである。来浪は考える……マリアの部屋に音子を1人にして大丈夫なのだろうか? いや、大丈夫ではないだろう、唯でさえ怪しいものが溢れているのだ、スピリチュアル的な意味でも近くにはいてほしくはなく、有害物質的な意味でも近くにいてほしくはない。
来浪はマリアにニコリ。と、笑みを向けると早足でマリアの部屋まで行き、いつも通り戸締りをしないマリアを咎めようとも考えながら、彼女の部屋に入り、音子を抱き上げ、自分の部屋に戻るのである。
そして、音子をベッドに寝かせた後、マリアに茶を淹れる。
「……行動に一切の迷いがねぇな」
「ええ、カラスったら私が音子に関わると普段の数倍行動が速いのよ。そして、その後私にしてくれるフォローも完璧。こんなに能力を向上させられる私は素敵な隣人だと思わない?」
「え? あ、はい」
「魔女さん、先生が困惑していますよ」
「あら、だって私、彼のことを知らないもの。知っている人間ならまだしも、知らない人間なら恥も外聞もないでしょう」
「……ええ、ああはい、僕がちゃんと名前を伝えなかったのが悪いですね。だからそんなに拗ねないでください」
実際にマリアが拗ねているかどうか、来浪は聞いたこともない故に確証はないのだが、いくら初対面の人間でも彼女がこうやって他人を突き放すことを言うのは稀であり、そういう発言をした後のマリアは大抵機嫌が悪い。そういう場面をいくつか見たことがある来浪はこれを拗ねているのだ。と、認識しているのである。
「……なんだか最近、カラスに丸裸にされる光景をよく思い出すわ」
「もう少し言い方を何とか出来ませんか?」
すると、席に戻り茶を飲んでいた宍戸がガタッ。と、体を上下させ、どこか引き攣った表情で額から脂汗を流していた。
「……? 先生――」
「え? あ、ああ! うん、そうだよなぁ、うん、だよなぁ――ああ、うん、来浪はそうだよなぁ」
要領の得ないというより、まったく意味がわからない宍戸の納得に来浪は首を傾げた。
「あいや、うん、そういう年頃だもんなぁ、大学生だもんなぁ……1人や2人彼女くらいいるよなぁ、だよなぁ、ああうん、気にすんな、俺もつい最近まではイチャついてたし――」
何か盛大な勘違いをしているのだろう。来浪はすでに何度もされた誤解であると慣れた風にため息を吐き、宍戸に弁明をしようとするのだが。
「貴方、つい最近フラれたんでしょう? フラれた原因、当ててあげましょうか? そうね……付き合う前と距離感が変わっていない、誰も彼とも距離感が同じ、特別ではない。とかそんなところかしら?」
「ぐぁ!」
図星なのだろう。宍戸が勢いよくうな垂れた。その際、彼が「これが魔女か」と、呟いており、正しくイジワルな魔女そのものであるのは言い得て妙だろう。
しかし、来浪はそんなことより、マリアの恋人であることを撤回することの方が優先するべきことであり、うな垂れた宍戸の頬を掴み、顔を上げさせた。
「先生、それは誤解ですから、僕と魔女さんが恋人同士などというノストラダムスの予言ほど恐ろしいそれを撤回してはくれませんか?」
「え? あ、そうなの? え? じゃあなんで俺、いきなりフラれた理由を暴露されて泣かされてんだ?」
「魔女さんに気に入られたからじゃないですか?」
「別に気に入ったわけでは……いえ、いいえ違うわね、ええそうね、気に入ったわ。貴方、カラスや音子には出来ない、言えないことを言わせてもらえそうだし、これからも重宝させてもらうわ」
それは所謂、玩具。と、いう括りではないだろうか。来浪は宍戸を不憫に思いながらも、マリアがある程度こちらに気を遣ってくれていてくれたことを申し訳なく感じ、小さく微笑むと茶のおかわりを彼女のカップに注いだのである。
そうして、暫くの間、来浪は件のレポートについての改善点や指摘がないかを宍戸に尋ね、時間を過ごした。しかしふと、宍戸に時間があったかどうかを聞いていないことを思い出し、それを尋ねるのだが、彼が爽やかな笑みで「んぁ? いや、今日はもう何もないから大丈夫だぞ。まぁ腹は減ってるが」と、答えた。
来浪が思案顔を浮かべているとチャイムが鳴ったことに気が付く。すると、いつ起きたのかわからないが、マリアの膝で本を読んでいた音子が飛び跳ね、扉に直行した。
「お母さんおかえりぃ」
「は~い、ただいまぁ」
来浪は喉まで出かかった声を飲み込んだ。貴女たちの家はこのアパートの隣……いや、そもそも招待した手前、言うべきことではない。
「なぁ来浪、ここって共同アパートだったりすんのか?」
「……いえ、招待したのは僕です。自分の家のようにくつろいでもらえるのなら、家主冥利に尽きますよ」
「クロくんただいまぁ、今日もありがとぅだよ」
「いえ、というか思ったより早いですね」
来浪は時計を見てまだ17時にもなっていないことに驚いた。
普段であれば彼女、彼女こそが音子の母親である、どこからどう見ても歳の離れた姉妹にしか見えないほど若々しく、大人にしては小柄、肩より長い髪を片方に纏め、体の前に流している。そんな女性――石黒 睦音は普段であれば夕食時、つまり19時ごろ、早くても18時に帰ってくるのだが、今日はそれよりも2時間早いのである。
「陽女ちゃんもありがとぅ」
「いいえ。それと睦音、私のことはマリアと呼びなさい」
「う~ん、あたし、陽女ちゃんって響きが好きよぅ。それに陽女ちゃん純和製よねぇ?」
「母がクォーターよ。それに今どき、マリアなんて名前の日本人、珍しくもないでしょう?」
マリアに駆け寄った睦音が頬を摘ままれていた。魔女が不得意な相手は本当に清らかな心の持ち主なのだろう。と、来浪は噴き出した。
「やぁふぁ、ひめひゃんいふぁいふぉ~」
これが一児の母なのである、いくらなんでも可愛すぎるとは来浪の弁――父親が、2人ともいつまでも目が離せなくて、面倒を見てもらえて本当に助かる。と、話していたことを来浪は思い出していた。
「ねぇねぇお母さん、今日ねぇマリアちゃんにたくさん撫でてもらったんだよぅ」
「ひょうにゃにょぅ? ひょれにゃらあひゃひみょひめひゃんふぉなふなふぁ」
そうなの? それならあたしも陽女ちゃんを撫でなきゃ――およそそう言っているだろう睦音の傍に来浪はお茶の入ったカップを置き、宍戸に断りを入れた後、夕食の準備を始める。
すると、睦音が頬を摘ままれながらもマリアの頭を満面の笑顔で撫で始めた。
それを見てなのか、音子がマリアに頭を向け、期待の籠った視線で見つめており、マリアが渋々ため息を吐きながら睦音から手を離し、ソファーに戻り、音子を抱き上げ、膝に乗せて頭を撫でるのである。
石黒家が最強なのだ。来浪はその結論に至った。
「……カラス、和んでいないで貴方もこっちに混ざったらどうかしら?」
「すみません、夕食の支度があるのでもう少しだけ遊んでいてくださいね」
「まるでお母さんだな」
宍戸のどこか呆れたような感心したような声を聞き流し、来浪は夕食の支度を始めた。
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