第1話

「あら、早いわね」

「ええ、ただいま戻りました」

 案の定、来浪の部屋にマリアはいた。

 最早言って聞かないことは理解しており、来浪は特に理由を聞くわけでもなく鞄を鞄掛けに掛けた。

「カラスがスレてしまったわ……」

 マリアが泣き真似をした。

 嘘泣きだとは状況からわかりきっている。これが泣き真似だということはここ1年かで嫌でも学習出来たこと。しかし、マリアの泣き真似は人の心を揺さぶるのだ、弱点を理解しているのだ。来浪はチラり。と、マリアを横目で見た。

 大人らしいマリアからは想像できないほど、少女のようなまるで本当に悲しんでいるかのように大粒の涙を流し、いつもは色っぽい声の出る喉がどんなバグを起こしたのか、とても高い声で嗚咽を漏らしていた。

 来浪は後ずさる。子どもらしい泣き声には弱いのだ。しかし、このように何度も騙され、痛い目に遭ってきたのである、今度こそは心を強く持とう。と、思ったのだが、マリアの視線が扉の方に向けられていることに気が付く。そして、気が付いたと同時に扉から音子が入ってきてしまった。

「あ――」

 来浪は気が付く。マリアに嵌められたのである。

 入って来た音子はマリアに気が付くと驚いた表情で駆け寄ったのである。

 マズい、来浪は直感した。このままではマリアは音子を仲間に引き入れ、さらに自分を責めたてるだろう。それは今受けるダメージで最も大きいものだ。マリアではなく、音子に悲しまれるのだけは耐えられない。

 来浪は音子が声を出すより早く、マリアに視線を向け。

「クロちゃ――」

「魔女さん、今日はどうして僕の部屋に?」

「あら、やっぱり気になるのね」

 マリアが涙を袖で拭った後、あっけらかんとしていつも通りソファーで足を組み、テーブルに置いてあったティーカップを口元に運んだ。優雅な彼女に戻ったのだ。

 あまりにもあからさまな切り替えの早さに音子が困惑しており、頻りに「あれ?」と、口に出していた。

 そんな音子をマリアが手招きすると隣に座らせ、頭を撫で始めた。

「今日は新作のお茶が出来たから、貴方に飲んでもらおうと思ったのよ」

「……え? なんですって」

 珍しくまともな理由で来浪は聞き返してしまった。そもそも、ここに訪れた理由はまともだが、それは勝手に部屋に入っても良い理由にはならないが、それを忘れるほどには驚いた。

 来浪は疑心の目をマリアに向ける。

「せっかくカラスにお茶をご馳走しようと思ったのだけれど……そんな目を向けるなんて」

 来浪はまた泣かれるのか。と、身構えたが、彼女が見せたのは口元をプルプル震わせながら満面の笑顔――否、魔女の妖しい笑みに似たそれを浮かべた。

「そんなに飲みたかったのね、嗚呼、これならもっと早くに持ってくるべきだったわ」

「……怪しい薬なんて入ってませんよね?」

 来浪はウォーターサーバーからお湯をお茶っ葉の入った急須に注ぐと、ハート柄の入った湯呑にお茶を淹れ、柿の種と一緒にそれを音子に渡した。彼女にマリアが作ったというお茶を飲ませないためである。

「まさか、そんなものは入っていないわ」

 マリアが立ち上がると茶を淹れる準備をし始めた。しかもそれはどこか本格的、ティーポットを湯で温めたり、お湯の温度を測ったりなどである。

 そうして準備が終わり、マリアが紙の包みから乾燥したシワシワの葉をティーポットに入れた。

 来浪は香ってくる匂いからハーブティー? と思ったが、芳しいそれは紅茶にも思えた。

 案外まともそうで胸を撫で下ろしたが、笑みを浮かべるマリアに落ち着かず、心中穏やかではない。

「さぁ、出来たわ」

「……」

 見た目普通の紅茶が出てきた。しかし、匂いはレモングラスのようで紅茶の茶葉とハーブのブレンドなのだろう、それは別に珍しいことでもない。

 来浪は一から茶を淹れる動作を見ていたが、怪しい点はなく、むしろ素晴らしく優雅な動作だったと言える。

 マリアが嘘を吐くことはない。つまり、薬は入っていないだろう。だが、彼女は嘘を吐かないが、真実を隠す悪癖があり、詐欺師の思考のそれに度々苦しめられたことのある来浪は思考をフル稼働させ、彼女から真実を引き出す言葉を考える。

「……これは変わったお茶ですか?」

「見て、嗅いでの通りよ、ブレンド、試したかったの」

 これでは尻尾を出さない。来浪は息を呑んだ、先ほどの件もあり今この場で飲まない。と、いう選択をすることは出来ない。また泣き真似でもされて音子を味方に付けられたら困るのである。そもそも、音子を人質に取られている時点で来浪はマリアの言いなりになるしかない。

「……」

 どれだけティーカップを眺めても普通のお茶である。そして、来浪は深呼吸をすると意を決しカップを口に運んだ。

「あれ?」

 驚きが声に出た。来浪はもう一度レモングラスと紅茶のブレンドである茶で唇を潤し、首を傾げる。

 美味しい。紅茶の芳醇な香りとレモングラスの爽やかな香りが鼻から抜け、まさに香茶であった。

「……美味しいです」

「でしょう? 何を期待していたのかわからないけれど、そのレモングラス、私が育てたのよ、紅茶は取り寄せたけれど中々のものが出来上がったと思うわ」

「ええ、ええ――魔女さん、まともなものを作れたんですね」

「どういう意味かしら? まぁでも、頑張りが報われる感覚は良いものね、水やりをする時、血が少なくて怠い日々を過ごしたけれど、その辛かった日々も報われるわ」

「――?」

 来浪はティーカップを口に当てたまま小さく首を傾げた。

「レモングラスを育てる水に私の血を混ぜたのよ、これこそまさに『紅』茶よね」

「――――」

 来浪は茶を噴き出した。そして何度も咽せ、涙目でマリアを睨んだ。

「あら可愛い。でも、そこまで嫌がることないじゃないの、失礼しちゃうわ」

「だ、誰だってこうなりますよ、え? 血でレモングラスを育てたんですか」

「水で薄めた血をかけただけよ、大袈裟ね」

 来浪は頭を抱えた。そして、ポリポリと柿の種を口に放りながらやり取りを眺めている音子に、これは絶対に飲んではいけない。と、釘を刺した。

「音子には飲ませないわよ、この子は優しい子だもの」

「……僕に優しさがあったからこのお茶も飲みましたし、隣人が勝手に部屋に入っていようとも怒らないんですよ」

「貴方、それを自分で優しさだって言うの?」

 ニヤケ顔のマリアから来浪は視線を外した。確かにこれは優しさではない。服従する奴隷が奴隷を殺すように命令されて殺害してもそれは奴隷の優しさではないのだ。

「でも良かったじゃない、処女の血で育ったハーブが貴方の体を巡っているのよ、吸血鬼だったのなら諸手を上げて大喜びしているところよ」

 来浪はチラり。と、音子に視線を向け、小声でマリアに尋ねる。

「……処女なんですか?」

「ええ、純真潔白純粋無垢な真っ白よ。誰にも汚されていない穢れなき魂の象徴よ」

 魂は汚れていなくても心が汚れるという事例があることを来浪は学んだ。

 来浪は渋々に残った茶を飲み干すとティーポットに入った残りを台所に持っていく。

 しかし、マリアがそれをジッと見ており、来浪は逃げ場が塞がれていることを理解した。

「……魔女さん、これからも絶対台所に入らないでくださいね」

「あら、物を頼むのなら対価が必要よ、今日私に台所に入ってほしくないのならぜひお願いを聞いてほしいわ」

 これは恐喝である。犯罪の共犯にされた挙句、バラされたくなかったら金を払え。と何度も強請られる状況と同じ。来浪は大きく息を吐くと小さく頷いた。

「ありがとう」

 来浪はマリアの魅力的な笑顔が対価であることを強制的に決められた。

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