第一章 苦労に苦渋を掛けて人は何処へ
カリカリカリ――シャープペンシルで机を叩く音がどこか心地良い。学校特有の段々畑のような講堂で、その音だけしか聞こえないかのような錯覚。
否、実はそうではない。
大学の講堂という場所であり、尚且つノートに文字を書くという行動――この場にいるのは来浪1人ではない。ペンの音だけが聞こえるというのはあり得ない。
そして、今の心情になった理由なのだが……通っている大学の必須単位の1つに数学がある。その数学の講義の最終目標が実用数学技能検定――数検の準2級なのであるが、来浪は数検の準1級を持っており、この講義を受ける価値を見出していない。
そもそも、来浪はここに幼児児童教育――つまり、保育士や幼稚園、小学校の先生になるための資格を取るために学びにきているのである、今やっている高校までの数学のおさらい程度であればどこでも出来る。
だが、そんな講義でも単位だけは取らなくてはならず、この数学を教えている人間が講義を受ける態度で単位を与える与えない。を考える教師であるために、来浪は渋々、こうして真面目に見えるようホワイトボードに書かれた文字の羅列をノートに書いているのである。
そして、そんな意味のないことであるために、来浪は意図的に周囲の音を聞かないようにし、ペンの走る音だけに意識を集中させているのであった。
「………………」
来浪はチラり。と、時計に目をやった。
すると、もうすぐ講義が始まってから90分経とうとしており、この講義が終わるまで数秒を切った。来浪はホワイトボードに書かれた最後の文章を書き終えるとそのままペンとノートを肩に掛ける鞄にしまい込んだ。
それと同時に丁度鳴るチャイム――来浪はいの一番に講堂から出ようとする。のだが、その行動は何者かの声により遮られた。
「あ、満祇くん、ちょっと待って」
待つ理由を考えていると先にその声の主が歩んできた。
その声の主を来浪は訝しがるのだが、優男に見える彼はどこか申し訳なさそうにニヘら。と、笑みを浮かべ、眼鏡の奥の瞳で視線を向けてきている。
「ごめんねぇ引き留めちゃって」
「いえ、では――」
「待って、待って――引き留めるだけが目的じゃないよ!」
それなら何故、引き留めたことを謝罪したのだろうか。来浪は他に謝られる理由に幾つか候補を絞ってみたが、どれもしっくりこず、視線を眼鏡の男に向けた。
「あ~えっと」
「――?」
来浪は首を傾げると、何故か男が頬を赤めているように見えた。
「あの?」
「あ、ああ、ごめんごめん――あのさ、満祇くんも実習終わったでしょう?」
昨日まで来浪は幼稚園へ実習に出ていた。この男はそのことを言っているのだろうが、実習の期間は決まっているのである、ここで終わっていないというのはまずあり得ないだろう。だが、この男はそれを確認した――つまり、期間中に終れない特例を知っているということ。来浪は、つまり彼は自分に終わっていないと思われる特例を見出したのだ。と、結論付けた。
「実習は真面目にやりましたよ、期間中に終わらせました」
「え?」
「それでは」
「待って待って待って。実習が終わったかの確認をしたかったわけでもないから」
この男は話が長い。来浪はあからさまに表情を歪めた。
「ああうんごめん、さっさと要件を言った方が良いよね」
どうでも良いが、この男は何故、自分と目を合わせる度に顔を赤らめるのか。来浪は終始ジッと男の眼鏡の奥を見据えていた。
「――っ! あ、あのね、今みんなと話していたんだけれど」
みんな――と、いうのは同じ講義を受け、同じ単位を求めている学生たちのことである。来浪はそれを瞬時に察せることが出来た。
「せっかく実習も終わったし、今夜みんなでご飯でも食べに行かないかなぁって――」
「ごめんなさい、家にはお腹を空かせた隣人が居座っているので、夜は出られません」
「え?」
「では――」
その発言に思考が追いつかなかったのだろう、男が固まってしまった。しかし、話は終えた。と、来浪はさっさと講堂から出るために扉に手を掛ける。
その際、あの男の友人なのかはわからないが、彼に数人の学生が近づいていき「だから言ったじゃん」や「私たちとは遊んでくれないって」などなどが聞こえてきたが、特に振り返ることもなく、来浪は講堂から出て行った。
そして、現在の時刻は丁度1限目が終わったところであるのだが、次の時間は講義もなく90分+昼休みの時間の後に次の講義があるため、どこかで時間を潰さなくてはならないのだが……来浪は、早いが部屋に戻ろうか。とも考えたが、マリアがくつろいでいるだろう部屋に戻ってもやることはない。とも思ったが、大学でもやることはないだろうとも思い、それならば帰ってしまおう。と、結論が出た。
「あ、そういえば――」
しかし、来浪はふと、ノートがもうすぐでいっぱいになることを思い出し、購買に行ってノートを買いに行こうと考えた。そしてついでに、シャープペンシルの芯やボールペンなどの筆記用具も新調しよう。と、足を進める。
そうして、来浪は講堂のあった校舎から出てキャンパスを歩むのだが、普段より声が少ないことに気が付く。
「――?」
時計を見る。この時間、キャンパスはもう少し賑やかなのである。だが、今日は普段聞こえてくる児童の声が極端に少ないのである。
今通っている大学は、敷地内に大学の校舎以外に附属の小学校がある。そして、今の時間小学校は25分の中休みであり、子どもたちの楽しげな声が聞こえていた。のだが、楽しそうにボール遊びをする様も、追いかけっこをする様も息を潜めていた。
来浪は不思議に思ったが、暑くなってくる季節も近づいており、外で遊ぶのを控えているだけかも。と、大人じみた思考をした。
暫くキャンパスを歩いていると、外よりは人の集まりがある建物が見えた。
それこそがこの学校内にある購買なのだが、Dマートという名称で、おにぎりやパン、菓子類や弁当が売っており、購買というよりはコンビニエンスストアであった。
来浪はDマートの中に入り、駆け足気味にノート、ボールペンのインク、シャープペンシルの芯などを素早く手に取り、いざ会計へ――と、思ったところで、腰辺りに衝撃が走ったことに気が付いた。
来浪はその衝撃の原因に視線を向けるのだが。
「『クロちゃん』こんにちはぁ」
幼い顔つき、幼い体の少女が来浪にひっつき見上げていた。
「こなみ。だよ」
「クロウ?」
来浪はその少女の頭を何度か撫でた後、人差し指を自分の口に添えた。
「音子ちゃん、魔女の言うことは聞いちゃいけないんだよ、悪い魔法でカエルに変えられてしまう」
クロちゃんと呼ばれる元凶を作った魔女に仕返しのつもりで、来浪はそれの話を真に受けてはいけない。と、少女に話した。
「う~んぅ? クロちゃんはあたしのお世話してくれるぅ?」
しかし、帰ってきた答えはカエルになった場合、誰が面倒を見てくれるかであり、その表情はどこか楽しげで、来浪は頭を抱える。あの魔女の悪影響がこんなところにも出ているのだ、これには何か対策の必要がある。と、ため息を吐いた。
そして、どこかズレているこの小柄な少女――石黒(いしぐろ) 音子(ねね)は大学付属の小学4年生で、来浪が住んでいる天辺ハイツの大家夫婦の1人娘である。
この少女は度々、来浪の部屋に遊びに来てはマリアと同じようにくつろいで帰っていくのだが、内容は全く違う。
マリアは一切家事を手伝わないが、音子は「お手伝いするよぅ」と、言って食器を運んでは転び食器類を割り「わ、わ、ごめんなさい――」と、言って立ち上がろうとした拍子にテーブルに置かれていた醤油さしを掴んでは中身を床にぶちまけ……等々のetc。
マリアには家事を少しは手伝ってくれてもいいのに。と、来浪は思うが、音子はその気持ちだけで十分。と言い聞かせ、大人しく座らせているのである。
そんな音子のことをマリアは、マスコット的ペルシャネコ。と、評価している。
名前から猫なのだろうが、音子は、どこか家から出たことがないような箱入りの雰囲気がある。しかし、その中身は高級感がないにも等しく、故にマスコットなのだろう、来浪も概ね、その意見には賛成している。
「音子ちゃん、休み時間?」
人懐っこい笑みの音子を来浪は抱き上げる。
そして、普段音子は休み時間でもあまり外に出ない。と、いうことを本人から聞いて知っていた来浪はこうしてキャンパスで、しかもDマートで出会ったことに疑問を覚え、その理由を尋ねた。
「ううん、お掃除の時間」
「掃除?」
彼女の言う掃除の時間というのは、普段であれば放課後に行なわれるはずのものであろう。しかし、この時間にやるということは何かあったのではないか。来浪は不安に思った。
「あ、音子――あたし、お掃除休んでるわけじゃないんだよぅ、みんなが、音子は掃除しなくて良いよぅって」
「え? ああうん、そうだね、音子ちゃんは率先して掃除するもんね」
そして壊す。しかもそれがわざとではないことは誰でも察せられる。それが尚、彼女を叱ることの出来ない理由となっている。全てが事故なのである、まるでそういう星の元に生まれたかのように何かしら壊し、彼女自身無傷で謝罪するのである。
来浪は音子を抱っこしたまま、カゴにノート等の筆記用具を入れ、彼女に何か欲しいものはないか。と、尋ねる。
すると、音子は柿の種を指差し、あれが食べたい。と、言うのであった。
相変わらず食べ物の趣向が渋いと来浪は思ったが、それを飲み込み、学校が終わったらお茶と一緒に出すことを約束した。
「ねぇ音子ちゃん」
商品をレジに持っていき、会計をし、おつりが帰ってきたところで来浪は音子に尋ねる。
「今日はどうして、こんなに早くに掃除してるの?」
「えぅ? う~ん……わかんない。ただ、センセが誰かと誰かがいないんだぁ。って」
「いない?」
来浪は思案顔を浮かべた。そして、Dマートの傍にあるベンチに腰を下ろし、音子を膝に乗せるとポケットから煙草を出す……が、膝に乗っている少女のことを思い出し、それを仕舞った。そもそも喫煙所以外の喫煙は禁止されており、考え事をすると煙草を取り出す癖があるのをなんとかしなければ、と、反省する。
「って、肝心なことを聞いてなかった。音子ちゃん、つまり学校がもう終わるんだよね?」
「うん、これから帰ってマリアちゃんと遊ぶのぅ」
音子の言葉に来浪はワンテンポ遅れて頷くと鞄から手帳を取り出し、次の講義を確認する。
『教育心理』
次の講義はそれであるが……来浪は頬を小さく膨らませた。あまりあの教師には会いたくない。別に嫌いな人間ではないのだが、昨日不機嫌になる元凶、つまり、理由もわからずに叱られた教師の講義である。
「うん……僕も帰るよ」
「わ、クロちゃんも一緒に遊ぶぅ?」
「うん、魔女さんと2人きりにするのは心配だからね」
「う~ん?」
膝に乗った音子が振り返って首を傾げているのが可笑しく、来浪は片腕で彼女を柔らかく抱きしめ、空いた手で頭を撫でた。
そうしていると、小学生らしき数人がこちらを見て話しているのが見え、来浪はあれが音子と一緒に掃除をしているグループなのだ。と、察し、彼女に迎えが来たことを教えてあげた。
すると、音子は嬉しそうにそのグループに手を振る……のだが、膝から動こうとしない。
来浪は苦笑いを浮かべると、音子に掃除が終わったから教室へと戻らなくちゃ。と、教えてあげた。
音子が「そうだったよぅ」と、呑気に声を上げると膝から下り、来浪に手を振ると小学校の校舎に戻って行った。その際、一度転んだが、慣れているからかすぐに立ち上がり、はにかんだ笑みを向けてくれたのである。
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