10 慈愛の天使と女装した下痢野郎! 答えは得た
「えっと……あれ?」
「……?」
土下座の姿勢で顔を上げた中途半端な体勢で、玲は硬直した。
我ながら見事な土下座だったという自負があった。
事前にハゲ鷹の土下座を見せてもらったから、それを完全にトレースしたような、それはそれは見事な土下座だった。
だが、この目の前の少女──
『下痢野郎』等という汚名を受け、しかも女装してこんな場所にやって来て、とどめと言わんばかりのいきなりの土下座。
そんな奇妙キテレツな奴が相部屋だというのに、まるで嫌な顔一つせずに、にこやかにこちらを見ている。
(天使だ……)
そう思った。だって、そうだろう。
普通だったら、きっとこうだ。
『うわー、マジ引くんですけどー…』
とか
『キモ……。近寄らないでくれる?』
とか
『マジ息止めろよ。私の吐いた空気吸うなよクソ』
とかだろう。
それなのに、この子と来たら、一切の嫌悪感無く、優しく微笑んで、その上「今日からよろしくね」なんて言ってくれる。
天使──まさしく天使だ。それ以外にどう表現しろというのか。
(ああ…本当に天使っていたんだなぁ…!)
感極まってそう思う玲。だがすぐに、頭上からツッコミがはいる。
『おい玲よ、そもそもに、天使は実際にいるだろうが。というか、私は階級的にも天使の上だぞ!』
(あ、そっか)
言われてみれば、その通りである。
というか、この子の『
じゃあ、ならば、この素晴らしい女の子をなんと表現すればいいのか。
ああ、わからない。天使以外に言葉が見つからない!
いや──。
(女神だ! そうだ女神だ! これならどうだ!)
『だから女神もいるだろうに。というか、私は半分第一級神なのだから、私こそ女神だろうが』
(あ、そっか)
リィエル・エリミオール。天界の王と魔界の王の娘。半第一級神にして半第一位階魔族。則ち、半分は神で女性なのだから、女神であった。
じゃあ、他の何だと言うのだ。
玲の貧困なボキャブラリーでは、最早それ以上の言葉は出てこなかった。
「えっと、あの、赤月くん……いつまでそうしてるの?」
「えっ?」
そんなどうでもいい考えに頭を抱えそうになっていた玲を、璃由の言葉が引き戻す。
そう言えば、未だにリビングの入り口で土下座。
かれこれもう数分はそのままだろうか。
とりあえずそのまま、というわけにもいかずに立ち上がった玲は、手招きされるがまま、テーブルを挟んで、璃由の正面に座る。
ちょうど座ったところで、ふとある考えが頭を過った。
この天使の微笑み──。これは、単に玲のあの不名誉極まる汚名を知らないから、とかなのかもしれない。
もしかしたら、それを知った瞬間、この天使の微笑みは汚物を見るようなそれに変わるやもしれない。
(それに、まさかオレのことを実は女の子だと思ってる…とか?)
『それはないだろう。さっきお前のことを赤月
(……ですよねー)
わからない。全然わからない。
いったい何が、この子をこうまで笑顔にしているのか。
その対象たる玲に、そんなポイントは皆無の筈なのに。
「えーっと、そのぉ……あの、相部屋…オレなんだけど…」
そんな考えのもと、玲はそう口にした。のだが……。
「うん? それがどうかしたの?」
「いや、ほら……オレ…『下痢野郎』とか言われてるじゃん? 汚物じゃん?」
「汚物って……。まあ、そんな風に言われてるみたいね。だいぶ有名人よ? 元々有名だっただけに余計に」
「うぐ……。しかも女装して、今こうして女子寮に入ってきてるじゃん?」
「うん、そうね。あんまりにもよく似合っていて、最初本当に女の子なんじゃないかって思っちゃった」
「え……いいの? え、オレだよ!? ねぇ大丈夫なの!? 『下痢野郎』と同じ部屋なんだよ!? 女装して女子棟に忍び込んでくるような変態なんだよ!?」
捲し立てるようにそう言ったが、もう自分でも言っていて情けなくなる思いだった。
だが……だが、どれも事実だから仕方がない。
確かに彼は、『
──盛大な下痢だった。この世全ての下痢を出し尽くすかのような、圧倒的なまでの下痢であった。
知っていようか。短期間に連発した時の最後の方──ないしは、その一発が恐ろしい猛威を振るった時の終盤戦。最後に尻から出てくるのは、まっさらな水であるということを。
もうこれ以上出るものが無いのに、それでも腹痛が収まずに踏ん張り続けると、まるで飲めるのではないかと思うほどに澄んだ液体が出るのだ。
そして、玲はこの日、初めてそれを経験した。30分は籠っていただろう。
トイレからは、彼の苦悶の叫び声と、そして排便の音が盛大に響き渡った。
『下痢野郎』なる汚名は、そのあまりのトイレの長さと、学校のトイレだというのにまるで気にした様子もなく悶絶しまくっていたが故である。
自分でも納得の汚名だった。
そして、確かに彼は、女装して女子棟に潜入している。
事情はある。確かに事情はあるが、それでも男子である玲が、女装をして女子棟にいるという事実に変わりはない。
仮に事情を知らなければ、変態の異常性癖の変質者にしか映らない。
いや、事情があっても、この事態を甘んじて受け入れてしまっている時点で言い訳のしようもない変態である。
「えっと…私は別に気にしないよ」
「え?」
そんな玲の、最早自暴自棄とも取れる自虐のオンパレードを聞いてなお、璃由は笑顔でそう答えた。
「お腹……痛かったんでしょ? 相当酷くお腹を壊したんだろうし、生理現象じゃない。何がいけないの?」
「……」
「それに、この相部屋の件。ここまで来ようとしたら、女装でもしないと無理だもの。それに、この部屋にされたのも、たぶん校長のせいでしょ? 赤月くんは悪くないじゃない。それに、私は赤月くんが喜び勇んで女子棟に来たようには思えないもの。その格好だって、仕方なく着ているだけで、したくてしている訳じゃないでしょう?」
「そりゃあ……」
「なら、赤月くんは全然問題ないじゃない」
本当に、なんて優しい子なんだ。
この子は全てを知った上で、あんな優しい笑みを浮かべてくれていたのか。
他の男子共が騒ぎ立てるのも納得だ。ルックスも抜群。おまけに性格までいいときている。
これで人気がない訳がない。
そして、深く説明したわけでもないのにこちらの事情をわかってくれて……。
ああ、そりゃあ天使の『
本人が天使のように、慈愛に満ちているのだから。
「桜宮さん……」
「璃由でいいよ。これから一緒に住むんだしね。私も玲くんって呼んでもいい?」
「オレは全然いいけど……えっと、いいの?」
「うん? どうして?」
「いやさ、ほら…さっきも言ったけど、オレ周りからは『『
この少女が本当に優しい子であることに疑う余地はない。
だからこそ、心配になったのだ。
現在の赤月 玲への周囲からの評判は、およそ最悪である。
勝手な話ではあるが、とんでもない奴が入学してきたと騒ぎ立てられて一躍有名になっていた。
どんな『
だが実際は、召喚拒否──正確には、途中で玲が魔法陣から出てしまったために、現界しかけていたリィエルの魔力が誤作動を起こしたのだが──。
前評判が異常に高かったがため、玲の評価はだだ下がり。最早底抜けである。
しかも『下痢野郎』…。
そんなあだ名をつけられた人間が、第二級天使を召喚した美少女に親しげに接しているのを見たら、周囲はどう思うだろうか。
汚物にまで優しく接する慈愛の女神か。はたまた同じく汚らわしいとでも思われるか。
前者ならまだいい。だが、後者はダメだ。
少なくとも玲は、この素晴らしい少女に、周囲がそんな視線を向けることを望まない。
「やっぱり赤月くんは、優しいね」
「え?」
だが、そんな玲の心配をよそに、返ってきたのはそんな言葉だった。
「だって、本当に辛い立場なのは赤月くんなのに、赤月くん、ずっと私のことを考えてくれてる。私は赤月くんのそういうところ、凄いと思う。そんな赤月くんを勝手な評判で悪く見るような人達にどう見られても、私は構わないわ」
「桜宮さん……」
「それに、正直私もうんざりしてたの。第二級天使を召喚したからかな……男の人に異常に言い寄られて……。それに、ほら……」
そう言って、彼女は足元に置いていた鞄に手を伸ばし、中から何らかを探り当てるようにして、そしてそれらをテーブルに置いた。
「……これ全部ラブレター? 凄い数だな…」
「うん…」
10や20ではない。これが全部ラブレターならば、いったいどれだけの数の男子生徒が、彼女に告白をしたのか。
それに、璃由の語り口から考えれば、これ以外にも、実際に言い寄ってくる場合もあった訳だ。
彼女も彼女で、大変な1日を過ごしたようだった。
「この手紙もそうだけど、言い寄ってきたりする人達も……そういう人って、結局は私が第二級天使を召喚した、とか見た目が好みだとか、それだけの理由で近づいて来ているわけでしょう? そんなの、全然嬉しくないよ。だから、赤月くんが親しくしてくれれば、そういう手合いの人達はいなくなるでしょう?」
「ああ、まあそれはあるかも」
「私は赤月くんのお陰で、そういう人達を遠ざけられる。逆に赤月くんは、私が親しげにしてれば多少は周りの視線もマイルドになるかもだし、一石二鳥でしょ? まあ、これは飽くまでついでだけどね。実際は、単に私が仲良くしたいからってだけ。これから3年間、一緒に暮らすんだもの。……ダメかな?」
そう言って苦笑する璃由。
これでダメなんて言える奴が、果たしているだろうか。
いいや、いない。いてたまるか。
そうだ、中にはこんな人もいるんだ。伝聞や前情報に流されず、本人の中身をちゃんと見て、判断してくれる人が。
大事なのは、周りに付与されたステータスでもその時々の格好でもない。中身だ。その人がどういう人物なのか、そういった人間の内側にこそ、目を向けるべきなのだ。
外見や他人に与えられた印象に惑わされず、相手に真正面から向き合うこと。それが大切なのだ。
この子は、玲を伝聞や外面で判断せず、しっかりと玲と、本当の意味で向き合おうとしてくれている。
それがどれほど素晴らしいことなのか。
今日、玲はそれを学んだような気がした。
(──答えは得た。大丈夫だよリィエル。オレも、これから頑張っていくから)
『いやそんな格好のいい台詞を言えるような悩みも問題も抱えておらんだろうに…。そんなことを言うのは、少なくとも正義の味方を志してからにしろ』
(すげぇなお前! 台詞だけでもわかるとか、どんだけだよ!)
『いやな、私はずっと天界か魔界かにしか行けなかったからな……。おまけにどちらも娯楽には疎い。その点人間は素晴らしい! アニメに漫画、ゲームにラノベ…。実に多くの娯楽が存在する! いつも、『
(……暇だったんだな…)
『ちなみに最近やったゲームは、日本で有名な某RPGゲームの15番目だ。武器召喚とか剣を投げてワープとか、中二心を擽るシステムではあったな』
(……プレイしての感想は?)
『……まあ色々言いたいことはある内容だったが。それ以前に……実はやらかしてしまってな……。『旅の思い出がこれしかねぇ!』等ということになった。お陰でその日は無性にカップ麺が食べたくはなったな』
(ちゃんとカップヌードルの写真以外も残しとけよ!)
「あの、赤月くん?」
「あ、ああ…ごめんごめん!」
自分の『
従って、表面上は無言なのに、あれこれ表情だけが変わる、なんていう、端から見れば「何だコイツ?」というふうに映る。
「えっと、桜宮さん──じゃなかった、璃由。うん、これからよろしくな」
「こちらこそよろしくね、玲くん」
惜し気もなく差し出された右手。本当にこの子は、自分を真っ直ぐに見てくれているのだと思って、嬉しかった。
だから、少しだけ照れ臭かったけれど、玲は笑って彼女の手を握り返した。
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