音楽室はエリーゼのために③

 真藤しんどう 百合子ゆりこ

 透き通るような白い肌と、『姫』を冠するにふさわしいその美しい容姿。

 切れ長の漆黒の瞳は、まるでそこに映るものすべてを見通すようであり、図らずとも人々に畏怖の念を抱かせる。腰までまっすぐに伸びた艶やかな黒髪は、まるで日本人形のそれである。


 その存在は魅惑的であり、恐ろしくもある。この世のものとは思えないほどに完成された彼女は、その名の通り触れてはいけない禁忌の花としてこう呼ばれるようになった―――『黒百合姫くろゆりひめ』と―――。


***


 紅葉たちが通う私立松院学園高校は、今年で創立70年を迎えるそれなりに歴史のある高校である。

 全校生徒は902人で、1学年につき9クラスで構成されている。いわゆる進学校というやつで、有名大学に進学する生徒も多い。

 「松院しょういん」という名前は創立者である起業家、山本大五郎が愛人である松子の為に創ったという、なんとも突っ込みづらい由来である。松子は病気がちで、37歳の若さで亡くなったが、近所の子供を集めて勉強を教え、生涯を教育者として過ごしたらしい。


 この学園は小高い丘の上にあり、駅から徒歩15分、バスで6分の場所に位置する。

 県内でも有数の地獄坂を上らなければたどり着けない高校として有名で、自転車通学の生徒の不満は常日頃から学園内で蔓延している。


 彼らの不満を解消するため、一時期スクールバスを導入する計画が立てられたが、施設の老朽化に伴う改修工事の経費が嵩んでしまったために中止になったことは、記憶に新しい。


 名前の由来以外は極めて普通な当校であるが、ひとつ大きな特徴がある。それは、非常に部活動が盛んだということである。

 「さかん」といえば全国大会出場や、音楽コンクール優勝といった華々しいものを想起するだろう。

 しかしこの学校においては、変わった部活動が多いことを指す。それはハンドスピナー部であったり、e-sports部であったり、フィギュア制作部であったりさまざまである。

 制作だけでなく、フィギュア鑑賞部なんてものもあるから驚きだ。一緒でいいのではないか?と首を傾げる者も多いが、その質問を投げかけると「見るのと作るのではまったく話が違う!」と部員が激しく激怒するので要注意だ。


 さて、先ほど記した『黒百合姫』の話をしよう。

 彼女のその怪しくも美しすぎる容姿からこの別称が自然と使われるようになったわけだが、本名は真藤 百合子という。


 松院学園高校2年B組で、成績は常にトップの秀才な美少女である。

 しかし、それとは相反する噂が彼女の別称をより魅力的に引き立てているのもまた事実であり、入学したばかりの生徒にはバラ色の高校生活への期待をより高める一要因にもなっている。


 曰く、彼女は「未知の探求者」であり、「問題やトラブルを食す死神」であり、「望みを叶える代わりに代価を要求する魔女」であると。

 どれもミステリアスなものばかりなので、思春期真っ盛りで夢見る少年少女の興味の的になるのは必然と言える。

 学校の怪談や七不思議に胸をワクワクさせた少年少女も少なくないだろう。


 彼女の住処へ向かう美沙が、先ほどからそわそわと落ち着きなくしているのも、そういったことに起因する。だが、それと同時に要求される「代価」が、その人の「命」であったり「最も大切なもの」であったり、それこそおとぎ話のように理不尽な噂が絶えないため、実際に接触しようというものはほとんどいない。

 

 紅葉が初めて彼女に出合ったのは、ほとんど事故のようなものなのだが、それはまた別のお話。


 さて、紅葉と美沙が向かっているのは噂の「黒百合姫」の住処だが、そこは彼らの所属するクラスの教室とは別の棟にある。

 松院学園はヨの字に3つの棟で分かれており、それぞれの1階奥の通路でつながっている形である。


 校門から見て手前から、部室棟、実習棟、学生棟の順である。

 部室棟とはその名の通りであり、学生棟は各学級の教室として使われているが、実習棟は少し複雑な構造となっている。

 

 職員室や校長室、応接室が1階に、主に授業で使う音楽室や科学室等が2階に、運動部が室内練習で使うトレーニングルームが3階に、4階は物置と化した教室と、屋上を使用する天文学部室、そしていくつかの使われていない教室がある。


 紅葉たちが向かう教室は、その4階の奥にある。

 突き当り左側に位置するその教室には名前がない。教室札はあるが、そこは無記名のままである。

 入学したての新入生は物置部屋と勘違いするだろうが、多くの生徒はそこを「黒百合姫」の住処と認識している。

 手続き上は「究明部室」として扱われているようだが、それを知っている者は少ない。「黒百合姫の住処」としての印象が強いためである。


 彼らは実習棟4階の廊下を歩く。右側からは夕焼けになりかけの太陽光が、廊下を照らしている。少しまぶしそうにしながら、紅葉は右側を見つめる。つられて美沙もそちらに視線を移すと、件の第2音楽室が見えた。かつて生徒の手で弾かれていたであろうグランドピアノが、薄いカーテン越しに覗ける。


 幽霊がそれを弾いたと考えると、美沙は胸の高鳴りを感じた。どうやら彼女は、常人とは少々ズレた感性の持ち主のようだ。

 本人によると遭遇するのは苦手だが、語るのは好きらしい。紅葉は心の中でそっと、彼女に変態のレッテルを貼りつけておいた。


 彼らはようやく、死神、魔女と称される姫の住処へたどり着いた。

 紅葉が引き戸にコンコン、と2度ノックをすると、コン、と扉の向こうから何かを打ち付けた音がした。紅葉が扉に手を掛けた。慣れてるなーと諸動作に感心した美沙は、紅葉の後ろで噂の黒百合姫との対面に、胸を躍らせていた。



 扉が引かれる。


 向かいの窓から後光のように太陽光が刺す。


 光源は反対側にあるのに、という常識的な疑問も、彼女の放つ神秘的なオーラともいうべき雰囲気から、思考に浮かぶことさえなかった。


 眉のあたりで横にまっすぐ切りそろえられた漆黒の黒髪から覗くその瞳は、美沙を捕らえ、一切の動きを封じた。


 その容姿は、一つ一つのパーツが熟練の職人が創り出した陶人形のようで、美少女を通り越し、もはや芸術の域に達していた。額に入れて飾りたい、そう思わせるほどに。


 制服である黒のセーラーと、右手に持つおそらく小説であろう文庫本から、文学少女を想起させるが、なぜか左手には缶コーヒーが握られていた。


 どうやって持ち込んだのか皮張りの椅子で足を組んでいる彼女は、左手を乗せている生徒用の机に缶を置き、瞳を伏せた。さっきの音は缶を机に打ち付けた音らしい。


美しく、妖艶で、芸術的な彼女は、すっと瞳を閉じる。


 視線から外れた美沙は、身体を弛緩させ、一歩後ずさった。

 

 改めて見ると、その教室の光景は異様だった。構造自体は普通の小教室である。

 奥にはどの教室にも備えられている片引き窓があり、その左側の壁には2m近い高さの本棚がそびえたつ。

 窓の手前には皮張りの椅子が置かれ、そこに黒百合姫は座っている。どこかで見たことがあると思えば、校長先生が使用しているものと全く同じものである。一体どうやって手に入れたのか。

 その傍右側には生徒用の机があり、右側の壁にはなぜか1mちょっとの小型冷蔵庫が置かれている。

 冷蔵庫の上にはポットと紅茶のティーバッグの箱が置かれていた。紅葉たち―扉付近左側、本棚の手前には長机とパイプ椅子が立てかけられている。右側、冷蔵庫の手前には木製の食器棚が置かれており、これはかなり高そうな一品である。


 一生徒が使用するには無駄に配慮された教室に、美沙は開いた口が塞がらなかった。

 また、学校用の粗雑な家具と、中世ヨーロッパ風な豪奢な食器棚、一般的な冷蔵庫やポットが置かれているこの空間は、統一性が取れていないはずなのに、なぜか違和感を感じなかった。


黒百合姫は、手に持っていた文庫本に栞を挟み、ぱんっと勢いよくそれを閉じた。

周りの景色に思考を巡らせていた美沙は、その音で頭から水を掛けられたようにビクッと跳ね、視線を前へ戻した。


「で?」


「『で?』とは?」


 良く通る黒百合姫の一声に、紅葉は疑問形で素早く返す。


「巻き込まれ体質のトラブルメーカー紅葉くんが、何の用事もなく女の子を連れてくるわけがないでしょう? それともなに、新しい彼女が出来たから僕と別れてくださいって?お姉さん傷付いちゃうわよ」


 からかうような声音で、妖艶な笑みを伴って答える彼女。


「いやいや!巻き込まれ体質なのは認めますけど、トラブルは起こした覚えはないですよ? あと、彼女でもないですし。彼女とは付き合ってもないです!」

 必死に抗議する紅葉。

 その顔は、まるで名は体を表すという言葉を如実に再現しており…、要するに顔真っ赤っかである。耳まで。プルプル震えていらっしゃる。


「じゃあ、私とは付き合ってることでいいのね?やったー、年下彼氏ゲットー!」


「ああ言えばこう言う…。百合子先輩ともまだ付き合ってないですよ」


「『まだ』なのね。――望みはあるって解釈でいいかしら?」


 紅葉の言葉を繰り返し、揚げ足を取ってひと満足してから、本気かどうか悟らせない口調で尋ねる。その口元には、三日月を貼りつけている。


「…もう勝手にしてください。今日は彼女の相談を聞いて、先輩にご助力をお願いしに来ました」


 失言した!と思った紅葉だが、これ以上は無駄に疲れるだけだと諦め、後ろにいる美沙を視線で示しながら本題に入る。


「お願いねぇ…。まあいいわ、とりあえずお話は聞こうかしら。あなた、お名前は?」


 少し残念な表情をしてから、今まで居ないもの扱いで一言も声を発していなかった美沙に視線を移す。

 当の少女は、びくっと身体を跳ねさせ、震える口を如何にか広げ、声帯に空気を通す。


「ふぁ、はい!」


勢い余って変な声を出してしまい、恥ずかしさから赤面してしまう。


「大丈夫、怖くないから安心して?私、怖くないわよね??」


 紅葉に尋ねるが視線を逸らされる。返事がない、ただの屍のようだ。

 それを見た百合子は、少し落ち込んだ表情を見せる。彼女は周りのイメージにコンプレックスがあるのかもしれない。

 突如訪れた重い空気を、息を整えた美沙の声が断ち切る。


「はい、大丈夫です。阿加井くんと同じクラスの、佐伯 美沙っていいます。」


 それでも少し緊張気味に、美沙は自己紹介をする。


「美沙ちゃんね。私は、2年B組の真藤 百合子です。こんな遠いところにわざわざ来てくれてありがとう。何か飲む?」


 先ほどとは打って変わって優しい雰囲気で答える百合子に、『ありがとうございます、頂きます』と緊張を解く美沙。

 もしかしたら彼女は、噂よりもずっといい人なのかもしれない、そんな風に思えた。


 ニコニコしながら冷蔵庫の扉を開ける百合子だが、その中身は缶コーヒーばかりが沢山詰まっていた。

 『何か飲む?』とは、『どの缶コーヒーを飲む?』という意味らしい。

 どう反応していいかわからない美沙は紅葉の方に助けを求めるが、彼はそれに苦笑で答えた。

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