体犬談
大久保
体犬談
――猫の目を見る。 犬の目を見る。
私の心の濁りを見られている。
西岡光秋――
ある朝目覚めると、私は犬になっていた。
初めに思った事は二つ、まずこれは夢ではないか、と言う事。 次に毒虫じゃなくてよかった、と言う事。 そしてあとから思い付いた極めつけが、なぜ最も嫌いな動物たる犬になったか、である。
私は幼い頃、もちもち肌の童子として親戚一同から全幅の愛情を受けて育った。 この世の有象無象に愛されていると阿呆で荒唐無稽な過信を抱いて育った私は、言葉も交わせない犬でさえ私の事を愛して止まないと強かな不遜を抱いてしまい、親の諫言も顧みず近所の犬に近づいた。
近所の犬は怒号のような咆哮で突然飛びかかり、瞬く間にマウントポジションを取られたかく言う私は、これが弱肉強食の定めかと我が身をもって痛感するとともに、恐怖に駆られ、嘆き慟哭した。
世界と言う監獄の無秩序を体感した六歳の頃だ。
それから大学に入って三年を迎えた私は、大小構わず犬と言う犬を見るだけで、恐怖に竦み上がる始末であった。
犬は最良の友、だなんて誰が言ったのだろうか……。
私から言わせてもらえれば、あれは猛獣以外のなにものでもなく、決して友と呼ぶに相応しい存在ではないのだ。
私は涌き上がる邪悪な記憶に一旦封をし、なぜ突然このような変異に見舞われたのかと脳裏を巡らせた。
それは昨日、中学校の同窓会から帰ってみると、どうしたことか、私の家で彼が焼き油揚げをつまみに熱燗を啜っていたのだ。
「おい、きさま、なにしにきたんだ」 私は彼に向って叫んだ。
「なにって、お酒を舐めているんですよ、先輩」 彼はへらへらした生意気な顔でお酒を舐めた。
「うるさい。 どうして私の家にいるんだと聞いている」
「いえね、なんだかとっても面白そうな予感がしたので、こうして先輩の家に上がり込んだ次第であります――」
そうだ、思い出した。
私は彼とお酒を飲んでいたのだった。
中学高校と暗い仲間達と鬱屈した学園生活を過ごしてきた私は一念発起の思いで都内の大学に進学、上京した。 土臭い田舎の青春に唾を吐き、輝かしい桃色の青春を新たに胸ときめかせた私は、興奮半ば朦朧としていた。
学内に舞い散る桜の花弁が軽快な第一歩を踏み入れる私を迎え入れているようだった。
目映い世界の幕開けに昂揚を禁じ得ない私に悪魔のような笑みで歓迎の挨拶を述べたのが、彼である。
今にして思えば、彼と出会ってしまった事を後悔しない日はない。
彼のせいで私の青春がどぶに流され、もはや私の青春が沈殿されたどぶと言っても過言ではない。 いや、過言であった。
兎にも角にも奇怪の一言に尽きる男なのである。 例えるなら、総戦力値を限りなく零にした墓場鬼太郎と形容すれば分かるだろうか、いや分かるはずがない。 そもそもなにかに例えられないから彼は奇怪なのだから。
彼を奇怪と形容するに至らしめる武勇伝ならぬ奇怪伝は、枚挙に暇がないほど存在するのだが、なぜかどうしてか、今回彼の奇怪伝を語り明かすとなると本筋(課題)から限りなく逸脱する懸念がいくら拭っても拭えきれないため、この話はまたの機会に移そうと考える。
とにかく、奇怪の権化が服を着た彼とは、昨晩からずっと私の部屋で桃色談義に花咲かせながら酒をあおり、その無意味な会話のやり取りは夜が明けるまで続いていた。
すっかり酩酊状態になって呂律も回らなく、視界も覚束なくなったとき、彼のスチールウールを思わせる口髭がグニャグニャと蠢いて、なにを喋っているのか、どんな野生の小動物を食べているのか、はたまた下卑た笑みを浮かべているのか私の頭を悩ましていた辺りで、ぷつんと記憶が途切れた事を、今になって思い出した。
それから私は、鼻孔に鋭く突き刺さる悪臭たる酒の臭いに目を覚まし、ベッドから這い上がろうといつものように上体を起こすと、かわゆい二本の茶色い足が私の眼に入り、今に至ったのだ。
心臓を掴まれた恐怖の思いに反して恐いもの見たさに私は自分の手の平を見下ろした。
これは……、
なんとかわゆい肉球ではないか……。
ベッドからフローリングにゆっくり降りる。 正面にある小さなテレビ画面に映っているのは、二人で遊んだマリオカートのレース途中画面のまま、BGMが室内に流れていた。 彼はクッパと言うキャラクタを選択しながら、これは飲酒運転だなあとぼやいていた。
私は部屋を見渡した。 目に留まるものがやたら大きく、洋服棚や本棚が日本遺産さながらの荘厳な迫力で私を圧していくように感じた。
物ひとつとっても遠近感が掴みづらく、違和感を引き摺ったまま私はとてとて玄関まで歩いた。 そこには備え付けの全面鏡があり、私自身がどういった風貌であるかを明確にしようと恐る恐る鏡を覗き込んだ。
そこに映るのは……、
なんとかわゆいダックスフンドさん……。
そのとき、間を置かずして背後のトイレの扉の中から排水音が聞こえ、扉が開いた。
私を見つけるや否や、おお、と一驚する声を上げたのはスチールウールの口髭がごっそり剃り上げられた精悍な顔つきの彼であった。
「これはまあ……、引くほどの犬ですね」 彼はそう感想をこぼすと、にんまり顔を歪めた。
「まったく笑えないぞ――」 と私は彼に言い放った直後、人語を話せる事に驚きの声を上げた。 「あああ、喋れてるうっ」
「初めて見ましたよ。 犬語と人語のバイリンガルダックスフンド」
彼は首筋に捲いたマフラの位置をぞんざいにずらしながら玄関へ向う。
「おい、ちょっと待て、どこへ行くんだ?」
「あれ、言いませんでしたか、これからアルバイトですよう」 彼は顔と同じくふざけた態度で語尾を伸ばした。
「私を見て、お前はなんて悠長にしているんだ。 これは、これは……、なんなんだ?」
「僕に聞かないで下さいよ。 昔は空を飛べるなんて誰も思わなかったでしょう? それが今やほら、宇宙にだって行ける時代です。 文明と言うのは日々進化していっているんです。 先輩が突然犬になったところで、僕はなにも不思議に思いはしませんよ」
「これはどちらかと言ったら退化の文明だろう」
「創造と言うのは、破壊あっての誕生ですよ。 それにこれは犬を嫌う先輩に神様が与えたもうた罪なのかもしれませんよ」
「罪だって?」
「ヒトは背負った罪の重さで道を選ぶのではなく、選んだ道で罪を背負うものなんです」 彼はグフフと不気味に微笑んだ。
「お前はいったいなにものなんだ?」 私は眉を顰めた。
「なにをおっしゃいます。 僕はしがない貧乏学生ですよう」 彼は汚れた瞳をぎらぎら輝かせた。
「ばかばかしい。 私は少しも納得できていないぞ。 犬のままなんてまっぴらごめんだ。 おい、早くなんとかしろ」
「もう、横暴だなあ」
彼は溜め息を吐くとベランダの窓ガラスをほんの少しだけ開けた。 ちょうど、犬が一匹通り抜けられる幅である。 「散歩でもして少し頭を冷やしてはいかがですか?」
「ちょっと待て、二人でお酒を飲んだあと、私だけがこうしてかわゆいダックスフンドになってしまった。 どう考えてもおかしいだろう? なぜ私だけなんだ?」
「尾を振る犬は叩かれず、と言うことわざをご存知で?」
従順なものには誰もひどいことをしない、と言う意味だった気がしたが、私には無縁の教訓である。
「犬だけにまったく面白くもないぞ……、それに仮にそうだとしたら、むしろお前の方こそこうなる宿命だろう。 いや、お前はこれほどかわゆくはないだろうが」
私は無意識に鏡に映るかわゆいダックスフンドを見つめた。
なんてことだろう、このかわゆい生き物は私だ……。
「いいですね、散歩でもするんですよ。 僕はもうそろそろ時間なので、お暇させていただきます」 玄関で靴を履き終えていた彼は、逃げるように、ばいばーいと手を振って扉を閉めた。
私は小さな四本足で呆然と立ち尽くした。
これほどニンゲンが高位な生き物であったことを認識せざるを得ない日はないであろう。 私は食べ物を得る事にひどく困難していた。 フローリングの床には粉々になったポテチぐらいしか食べるものがなく、あとは冷蔵庫の中である。
私のお腹が空腹の音を鳴らした。
なんてことだろう、私はわんわん泣いてやろうかと床をころころ転がっていると、先ほど彼が開けた窓ガラスの隙間から、豊潤な香りが鼻孔の隅々まで包み込んだ。
この匂いを、私は知っている。
警戒心など一顧だにせず、私はその隙間から外へと抜け出し、甘い誘惑の彼方へと邁進して行った。
決断力と行動力に押されて遮二無二走り回った私は道路の隅っこで立ち往生していた。 途中で匂いが途切れてしまったためである。
それでも右往左往を繰り返しながら、小さい頃何度も通った近所の住宅街をとにかく駆けて行った。
走るととにかく咽喉が渇き、食べる事よりまずは水を確保と言うサバイバルの基本中の基本が遅蒔きながら頭に去来した。
ぜえぜえ息を荒げながら、私はふと、昼時であると言うのに路地や道路には人っ子一人姿が見えず、巨大で無機質な建物や自動車、塔のように聳える電信柱が私を孤独に誘い込んだと錯覚し、産まれたての子鹿のようにぷるぷる身震いをし、あわや失禁の半歩手前まで差し迫っていたそのとき、天啓の導きが私を孤独から救ってくれる気がした。
神社の境内の手水である。
私が幼気な天使と寵愛を受けていた頃、同じ年頃の子と境内でかくれんぼをしていた事を思い出した。 私は子供の頃からかくれんぼが大の得意で、屋台の店主に頼んで足許に隠れていた無邪気さを追憶する。
そのとき浅黒く焼けた顔の店主からなにか食べ物を分けてくれた覚えがある。
あれは、なんだったのだろうか……。
もう十年近くも鳥居をくぐっていなかったが、神社は時が止まったような静謐さに包み込まれていた。
境内は鬱蒼と生い茂る杉の木に覆われ、ヒトを寄せ付けない粛然な空気が私のキューティクルの毛並みをぞわぞわ逆立てさせた。
そういえば子供の頃、絵馬にロケットになりたい、と書いた記憶がふと蘇る。 神様が決して全知全能ではないことに世界が落胆しようとも私一人だけは味方であると伝えたい。
境内に入ると、隅っこに赤い暖簾を掲げた小さな屋台があるだけで、辺りは森閑としていた。
冴え切った静かな神域で、私は幼い頃の記憶の尾を慎重に手繰り寄せながら、拝殿脇にポツンと古びた屋根の手水舎を発見し、マリリン・モンローも嫉妬するかわゆい胴長短足の躯を駆使して、小さな舌で冷たい水を舐めたときには、さすがの私も安堵と達成感を感じずにはいられなかった。
桃のようなプリチーなお尻をぷりぷり振って古色蒼然な境内を巡りながら懐古の思いにあっさり浸っていたとき、なにか軽くて木片のようなものが当たる音が本殿の方からかすかに聞こえた気がした私は、漫然とした足取りで四本足を動かした。
石畳の参道に向って進んでいくと、古びた本殿には二匹の犬がいた。
犬だ、と私は軽い発作を覚えたが、現状の私も誰がどう見ても犬と答えると思うと不思議と胸を撫で下ろす。
階段上に、乱れ髪ならぬ乱れ毛の土埃で汚れた老犬と、本殿に威風堂堂と座す白い犬が私を離れたところから見下ろしていた。
老犬の方は種類が分からないが、白い犬の方は偶然にも私と同じダックスフンドであった。
老犬の一段下の階段にはまるっこいどんぐりが一つ転がっており、先ほどの物音の正体がなんとなく分かった気がした。
私がそちらに近づこうとすると、目許まで毛で覆われている老犬が突然私を階段上から威嚇しはじめた。
「――大丈夫よ」 白い犬が勇み立つ老犬を優しい声で収めた。
白い犬からは女の声がした。
彼女の毛並みはとても丁寧に整っており、双眸は宝石のような輝きを放っていた。 彼女のところだけ陽の光が射し、まるで本当に神様が舞い降りたのではないかと思わざるを得ないほどの絶大な存在感を放っていた。
老犬は彼女の一言で私への威嚇をすんなり解いた。
「もしかして、貴方は困っているのではありませんか?」 彼女のやおらに放ったその優しい一声が、私にどれだけの安心感をもたらしただろうか。
「なぜそう思うのですか?」 暗闇に突如開いた幸福の間隙を見つけた私は、彼女の次に放つ言葉に全幅の信頼を寄せていた。
「だって私もそうなの」 彼女はふふっと目許を綻ばせ、白い尻尾を振った。 「気付いたらここにいたんです」
私は否定できない失望感と絶望感の相乗効果に嘖まれながら、それでも意思疎通できる存在に出会えた事に爪の先ほど心を震わせた。
私は階段に転がっていたどんぐりを咥えて老犬の前にそれを差し出すと、階段板を見つめていた老犬が小さな瞳で私を見つめるのだった。
「このお爺さまは雀たちから私を助けてくれたんです」 白い犬の彼女が滑らかに語る。 「目があまり視えず、鼻もあまり利かないと言うのに」
老犬は私が置いたまるっこいどんぐりを、ゆっくりと前足で転がして遊んでいる。
私は彼女のいる大床まで近づいて、これまでの情況をできるだけ丁寧に説いた。
実はニンゲンで、目が覚めるといきなり犬になっていた、と言う事。
後輩の男が非常に怪しいが、魔法でもない限り、ヒトを犬に変えることなど到底不可能であり、だとするならば、なぜ私は犬になったのか、と言う事。
子供の頃、犬に襲われてから苦手になった、と言う事。
箇条書きにまとめるととても単純であるが、私はこの単純さからの打開策と言うものが何一つ思い付かなかった。
「これは私の友人が言うように犬を嫌う私自身に、神様が与えた純然たる罪なのでしょうか?」 私は心の奥底にこびりついた幼少期の翳りを出会ったばかりの彼女に吐露していた。
「犬は嫌い?」 彼女は落ち着き払った声で私に訊ねた。
「正直、苦手です」
「じゃあ私も嫌い?」
「あ、いいえ、それは……」
「どうして?」 彼女は小さな首を傾げる。
「なぜでしょう、貴女と話すと安心するから、でしょうか?」
「私は貴方に聞いているのよ」 彼女は嫣然と小さく微笑んだ。
「どうしてでしょう、いいヒト――、いい犬、だと感じたから、です」
「仮にそうだとしたら、それは感情の問題ではないでしょうか。 つまり、形骸は関係ない、と言う事です」
形骸、と言う言葉を犬が知っている事はこの際棚上げにした。
そして棚に上げてしまったものはもう元には戻せない。
「ニンゲンだってそうです。 いいニンゲンもいれば悪いニンゲンだって大勢います。 犬にだって、鳥にだって、猿にだって、鬼にだって。 外見で容易に判断できないから、生命と言うものは興味深く、甚く尊いものなんです」
彼女はそう言うと流し目で階下の老犬を見つめた。
老犬は先ほどまで遊んでいたのにも関わらず、かすかな鼻息を立てて眠り込んでいた。
「本当は鈴カステラをお礼に差し上げたかったのです」
私は彼女を見つめ、次に老犬、最後にどんぐりを見つめるに至り、彼女が鈴カステラをどんぐりと見立てたことが薄らぼんやり理解できた。
「そう言えば、貴方は犬が嫌いと言うのに、どうしてお爺さまが落としたどんぐりを拾って届けてくれたの?」
「それは……」
私が返答に窮していると、彼女は愛らしい眼差しで微笑んだ。
「好き嫌いなんて、それだけのことなんですよ」
風が吹き、枯れ葉が地面をさらさら音を立てて流れていく。
長い年月私を嘖ませていた過去の翳りが彼女の一言でどんどん摩耗していく音のように聞こえた。
「貴方が犬を嫌うきっかけとなったその近所の犬は、ただ純粋に貴方と遊びたかっただけなのでは?」
いまとなっては根拠のないただの憶測ではあるが、けっしてそれが間違いであると言う根拠もやはり持ち合わせてはいないのだ。
彼女は大床から勢いよく砂利道へ飛び降りた。
「神様にでも祈ってはどうですか?」
「貴女もなにかお困り事があったのでは? 私だけ祈っては不公平です」
「いいえ。 もう平気です」 彼女は私を見上げながら首を振った。 チャーミングな平べったいもふもふした耳が揺れ動く。 「夢の中ではね、私の願いに際限なんてないんです。 そう、まるで神様になった気分なんです。 頭の中に神様を飼っている気分。 案外簡単なんですよ。 神様になるのって」
私は生まれて初めて神様にあったのだとほんの一瞬でも錯覚してしまった己自身に戦慄する一方で、なんだかもうこの犬の神様に全権を委ねてしかるべきと半ば自暴自棄な軽率さ加減で彼女同様大床から飛び降り、後光の射す彼女に有らん限りの願いを込めてマシュマロのようなやわらかい肉球と肉球を合わせた。
「なむなむ」
――世に生き物というのは、人間も犬も虫も
みな同じ衆生で、上下などはない。
司馬遼太郎――
ある朝目覚めると、私はヒトの姿のままだった。
カーテン越しから差す日差しが心地よい朝であった。
ベッドから起き上がると、スチールウールのような口髭が特徴の奇怪の彼が、フローリングの床で涎を垂らしていた。
昨日中学校の同窓会から帰ってみると、どうしたことか、私の家で彼が焼き油揚げをつまみに熱燗を啜っていたのだ。
「おい、きさま、なにしにきたんだ」
「なにって、お酒を舐めているんですよ、先輩」
「うるさい。 どうして私の家にいるんだと聞いている」
「いえね、なんだかとっても面白そうな予感がしたので、こうして先輩の家に上がり込んだ次第であります――」
そうだ、思い出した。 私は彼とお酒を飲んでいたのだった。
私は窓を全開に開け放ち、爽やかな空気を取り込んだ。
しばらくして、弱々しい眼差しで躯を擦る彼が呻き声を上げてきた。
「ううう、寒いですよお」
「早く起きろ、飯作ってやる」
彼は私の科白を聞いた途端、瞠目して口をぽかんと開いた。
「急にどうしたんですか先輩、いままでこんなに優しくなんてしてくれなかったのに」
「うるさいぞ、喰うのか、喰わんのか」
「いただきますともっ」 彼はすぐさま起き上がった。
少し遅い朝飯を腹一杯食べた彼は、その足でアルバイト先へ向っていった。
私はゆっくり珈琲を啜って有意義な時間をこの上なく堪能した昼頃、あの神社へと向った。
境内に入ると、隅っこに赤い暖簾を掲げた小さな屋台があるだけで、辺りは森閑としていた。
なにもかもが夢のなかと同じ光景であった。
屋台の方でなにやらいい匂いがした。 そうだこの匂いにつられて私は彷徨ったのだと感じると同時に、あれ先輩、と言う嫌な声が聞こえた気がした。
恐る恐る振り返ると、そこにいたのは、なんとあの男であった。
「先輩こんなところでなにやっているんですか?」 彼はスチールウールのような口髭をもぞもぞさせながら下卑た笑いを浮かべている。
「それはこっちの科白だ」 私は眉をひそめて彼を睨んだ。 「まさか、これもお前のしわざなのか?」
「しわざ? いったいなんのことやら?」
認めたくないがこの悪友とは長い付き合いだ。 長い分騙されているのは事実だが長い分ある種の連帯感が芽生えてくる。 だからと言って彼が私を騙す事に何ら変化はないのだが。
「お前はいったいなにものなんだ?」 私は眉を顰めた。
「なにをおっしゃいます。 僕はしがない貧乏学生ですよう」 彼は汚れた瞳をぎらぎら輝かせた。
彼を無言で睨みつけているとだんだんそれが阿呆らしく思えた私は重い溜め息をついた。
「もういい。 ところでなにを売っているんだ?」
「鈴カステラです」 彼は意味深長に微笑んだ。
私は屋台で働く彼から鈴カステラを一袋買い、砂利を鳴らしながら石畳の参道を進んで本殿へと足を向けていった。
なぜいまこのタイミングで彼がこんなひと気のない神社で働いているのかと言う最たる疑問も、この際棚に上げる事にした。
参道に沿って進んで行くと、本殿の階段に乱れ髪ならぬ乱れ毛の土埃で汚れた老犬と、その乱れ毛を丁寧に撫で付ける黒髪の女性が穏やかな表情のまましっとりと木漏れ日を浴びていた。
私は彼女の許まで歩を進め、ゆっくりとした口調で挨拶をした。
彼女は親しみのある笑顔で挨拶を返してくれた。
「あら、それは鈴カステラですか?」 彼女は私が手に持った豊潤な香りの鈴カステラに瞳を輝かせていた。
「ええそうです。 もし良ければ、そこの犬と半分ずつ分けて下さい」
「あら、どうして私に下さるんですか?」 首を傾げる彼女はどこか微笑んでいるようにも見えた。
私は紙の袋から一番大きいのを取り出し、階段上の老犬の前にそっと置いた。 すると老犬はしばらくしてからハッと驚いた眼差しで、口を開いたまま私を見上げた。
それから私は、日差しの加減で後光を射した彼女を見上げた。
「私の願いを聞いてくれたお礼です」
体犬談 大久保 @hukurou1001
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