1-3

 ミラーカ・オルロックの一日の予定は、従者に服を脱がせてもらうことから始まる。

 ミラーカの寝室。窓は頭上にこじんまりと丸いのが一つ。だから、どんなに屋外が明るいときでも、室内はやや薄暗い。私はこの部屋にいると、覆いの布に虫食い穴が空いた鳥かごをいつも連想する。

 私とミラーカが対峙している。

 私が、真っ白なネグリジェからミラーカの肩と腕を両方外させて、手を離すと、服は自然と床に落ちる。露わになるのは、肌理きめが細かくて、血管が透き通って見えそうに感じる色素の薄い肌で覆われた裸身。それは、挑戦的に前に張り出した鎖骨、私の拳一つでは包みきれないくらい膨らんだ乳房ちぶさ、不健康にくびれたもはや作りものめいたウェスト、お腹の窪みを品良く閉じているお臍、大腿骨の小さな出っ張り、しなやかでほっそりとした柔らかな素足、そういう構成要素が集まって形作られている。何度見ても惚れ惚れする。ミラーカを照らす朝日はとぼしい。しかし、乏しいからこそ、ミラーカの魔力が彼女の周囲でなけなしの光を散乱させることによって、かえって彼女に神秘的な魅力を与えている。芸術作品みたいだ。私しか見ることが許されていない彼女の姿。触れると、ひんやりした土のように冷たい。

 足をどけてもらい、ネグリジェを畳んで、わきにひとまずどけて、まずは長い靴下を履かせる。一度ドレスを着たならば、貴人の着衣をベッドなどに触れさせるのはもってのほかだから、あとでもたつかないよう靴下をこのタイミングで履いてもらうのは合理的だ。他の貴族には、朝の着替えの際に、寝間着を着たまま召使いに靴下を履かせてもらう者もいるらしいのだが、女王であるミラーカの場合、衣服の着脱には聖と俗との行き来という宗教的儀礼の側面がある。そのため、着替える前と着替えたあとの明確な区別として、寝ていたときの衣類を脱がせて、裸にまずは靴下を履かせることが規則として徹底されている。

 ドレス専用の下着をつけてもらう。デザインで言えばネグリジェと大差はない。次にコルセットをとりつける。私は、ミラーカの後ろからコルセットの留め穴に一つずつゆっくりと順繰りに紐を通してきつく締める。それが終われば、大きなお椀の形にドレスの裾を膨らませるためパニエを身に着けさせ、いよいよ本命であるドレスを被せて、全体の膨らんだ形を整えれば着替えは完了。最後に細かなアクセサリなどを全身に足しながら髪を弄る。

 私にとって至福のひとときが終わった。

 そして、ミラーカの公務の時間が始まる。

 ここでも、他の貴族とミラーカには違いがある。普通他の貴族なら、公務の前に朝食を摂るらしい。けれども、食物を体内に取り込むことは、ミラーカの公務にとってふさわしくない穢れだと見なされる。したがって、ミラーカの朝食は後回しになる。

 城内を二人で歩く。華奢なガラスの靴。ドレスも含めてとても歩きにくい格好のはずなのに、ミラーカの歩調は速い。私は斜め後ろを続く。その途中誰かと顔を合わせると、誰しもが床に片膝立ちをし、こうべを垂れて、そのままの姿勢でミラーカが通り過ぎるまで彼女に敬意を示す。

 私は、ミラーカの後ろで堂々とそれらを受ける。ミラーカの従者となって最初の数日は、頭を下げる全員にお辞儀を返さないよう自分を律することで苦労したものだが。

 目的地への具体的な経路。寝室の扉を開け放ち、手すりが付いた長い長い螺旋階段を地上まで降り、二人庭に出て、ミラーカの寝室のためだけに設けられた塔を背に敷地の反対側、同じような形、高さの塔を目指す。ミラーカの寝室の塔と、目的地の塔は、大雑把に長方形と形容できる城の敷地の隅、対角の位置にそれぞれ存在している。ミラーカが毎日通るのは三パターンのどれか。最短経路で庭と城の大広間などをまっすぐ突っ切るか、左にぐるりと回りこむか、右にぐるりと回りこむか。その日の気分でそれは決まった。

 女王の寝室といわゆる仕事場を、どう見ても意図的に引き離すことで、わざわざ彼女の歩行距離を増やしている。なぜだろう、と首を捻ったこともあった。今では、城内の誰でも決まった時間、三つのパターンのうちどれかを通れば、女王の御身おんみを視界に捉えられることにこの配置の意味があるらしい、と知っている。

 私とミラーカは、目的地の塔で、また螺旋階段、今度はのぼり、最上階へ。

 そこに【天球の間】がある。

 城門を除けば多分城内で一番重たくて、一人で動かすのはかなりしんどい巨大な両開きの扉。

 それを開けると、窓の形、大きさなど、扉の枠の圧倒的な大きさを除いて、ミラーカの寝室とまったく同じ構造の部屋の中央に、手の込んだ装飾が彫り込まれた平たい台座が設置されている。

 その上に、大体の直径が人間の大人の男性約十人ぶんはあろうかという巨大な青い球体が浮いている。

 【天球】。神そのもの。そして、この国の政治まつりごとの全てを司る干渉装置インターフェース

 ミラーカの日々の役割は、煎じ詰めればたった一つだけ。

 

 どのような願いが叶うか。それは、ミラーカの魔力の使い方次第だが、実際にどうやって願いを叶えるかの手続きは、全て【天球】が代行してくれる。

 そうやって、この国の政治は、建国以来王の手により代々行われてきた。

 ――王とはすなわち【天球】をし、国にあらゆる恵みをもたらす者を指す。

「クラリモンド。帰ろっか」

 ミラーカが言った。彼女が台座に歩み寄り、【天球】に手をかざし始めてから約三分、あるいは、目も眩むほどの無限の輝きが【天球】の全方位に照射され始めてから約三分、手をかざすのをやめて、ミラーカは、扉のそばに控える私に振り向いた。約三分。これでは着替えどころか移動時間よりも断然短い。

「も、もう少し、時間をかけてもよろしいのではないでしょうか……。【天球】のの意味は、実利的な意味にとどまるものではありません。城外の者、庶民たちは、女王の威光を唯一肌に感じられる毎日この時間、キラキラと輝き出す城に憧れと、希望を――」

「ヤダ。だってつまんないもん」

 にべもなくはねつけられる。【天球の間】を一切の未練なく立ち去るミラーカ。私はため息をつき、後に続く。

 城内を歩く私たち。

 これでミラーカの一日の公務は、全て、滞りなく終了した。

 終了したのだ。

 寝室に戻ったミラーカは、二度寝をする。

 そのあいだに私が遅めの朝食を厨房で作り、完成したら盆に載せ、ミラーカの寝室まで螺旋階段を上がり、彼女の目前に供する。

 ミラーカは朝食を摂り、これまた私が作った昼食が運ばれて来るまでぐうぐう寝るか、何か公務以外の活動をするかを選び、昼食のあと、寝るか、活動するかを選び、ただし昼は必ずどこかのタイミングで私の血を吸い、夕食を摂り、私の血を吸う以外昼食のあととほぼ以下同文。どの空き時間も、活動するより寝ていることの方が多い気がする。

 私にも、食事、掃除、洗濯、等のミラーカの細かな身の回りのお世話のあいだ以外はすべて、自由時間が与えられている。「図書館」に行くのも、いつ行くか迷ってしまうくらいの自由さ。

 だから、正直めちゃくちゃ楽な仕事だ。

 あのままミラーカに出会わず学園で過ごして、最優秀の成績で卒業しても、この待遇は絶対に期待できない。

 出来過ぎだった。

 幸運、と簡単に呼べれば私も気が楽なのだが、いくらなんでもあまりにも都合が良すぎて、正直日々不安になる。私に、この待遇で迎えてもらえる価値があるとは到底思えない。思えないのだが、女王の決定に、私ごときが意見を差し挟むのもどうかと思うし、というか私は現状何も損をしていないから、不安だけれども、結局日々の惰性に流されて、ミラーカが与えてくれる楽な人生を享受している。

 背筋がピンと張るのは、朝の着替えの時間、彼女と【天球の間】までを歩く時間。せいぜいそれくらいか。

 いや、もう一つあった。毎日のお決まり事項。

 ――その日一日の公務が滞りなく行われたか、祭司長への報告。

 朝食を終えたミラーカの食器を下げて、洗って、片付けてから、私は展望台に向かう。展望台は、城の敷地の真ん中、地上階では大広間の役割を果たす威風堂々たる建造物、言い換えれば、様々な城の機能を部屋ごとに凝集した城の本体とでも言うべき建物の最上階に位置していて、これより上が、【万能紙】などでの飛行の制限速度が一番ゆるい空となっている。要はだ。

 だから、階段は、寝室あるいは【天球の間】を目指して二つの塔を上り下りする苦労を足したものよりなおキツい。

 ミラーカの昼食の用意もあるし、そうでなくても時間は有限だ。こんな用事を済ませるために一々ゆっくりしてはいられない。私は毎日走る。階段を。その日の体調に配慮して。きっとこの生活を続けたら相当健脚になる。そんな気がする。

 展望台には、でっぷりと顎にしわしわの肉が垂れ下がる黒いローブのお婆さん――祭司長がいて、悠然と事務机を前に座椅子に腰掛けている。ここが彼女の根城なのだ。

 ノスフェラトゥは、人間と比べて、身体能力に優れている。だがそれを加味したとしても、どう見たって祭司長はここまでの階段を毎日上り下りできる身体ではないのだが、だからといって何も問題はない。彼女は外に出るとき箒を使うし、用事がある者は、普通【万能紙】で空を飛び、展望台の窓から彼女を訪れる。

 じゃあ、どうして私は毎日走っているのかと言えば、話は簡単で、私がノスフェラトゥではなく人間だから。よく覚えていないが、人間が【万能紙】を使ってこの場まで飛んできたら、空気が穢れる、みたいな話を祭司長本人から直接聞いた。

 ぶっ殺すぞ、ババア、と私もその場で思わないではなかったかもしれない。思わないではなかったかもしれないが、ミラーカに頼んでそういう面倒を取っ払ってもらうと、お城のなかで悪目立ちしていずれ大変面倒なことになりそうなのが嫌だったから、仕方なく走ることに甘んじている。祭司長は、国の政治まつりごとにおいて女王に次ぐ地位にある。そんな人物と要らぬ軋轢を起こしたくないのだ。ただでさえ、ミラーカのただ一人の従僕として抜擢された私は、強烈なやっかみや憎悪を向けられるというのに。

 憎悪といえば、祭司長本人がまさにその憎悪グループの代表的な人物で、この報告、時間の無駄だよなぁ、と思いながらも懸命に階段を上り下りする健気な私に、あるとき、彼女がドス黒い感情を向けたことがあった。

「――血袋が」

 聞き間違えたかと思った。それは、私がミラーカの従者として登用されて、まだ数日しか経たない日の話だ。私が「今日も滞りなく公務は終わりました」と口頭で報告をして、さて帰ろうと踵を返して、部屋を横切って、扉を開けて出て行こうとしたその瞬間だった。血袋が。聞き間違いかと思ったから、思わず振り返ってしまった。実際、ひょっとすると聞き間違いだったのかもしれないが、祭司長の目を見て、私は、少なくとも、彼女が私に抱く憎悪は本物だと思った。

「女王陛下にふさわしい健康な血を持っているとは思えない……人間……穢れた血……ああ……なぜ女王陛下はこのような下賤な……下賤な……」

 ぶつぶつと、つぶやいていた。はっきりと聞こえなかった部分もあったが、多分そう言っていたはずだ。悪口を、私に聞かせるつもりがあったのかどうかは定かではない。祭司長はだいぶ年だから、目が悪い。相当悪い。私が自分の方に振り向いたことを、しょぼしょぼした目で、そのとき視認できていなかったのかもしれない。独り言が、自分で思っていたよりもだいぶ大きくて、たまたま、私に聞かれてしまった。そういうことかもしれない。ただ、事実がどうであったとしても、私が振り返ったのに悪罵あくばを止めなかった、私が部屋を出る前にそれを吐き捨てていた、という二つの状況は、聞かれてもいいと思っていたのではないか、と私が推測する有力な根拠にはなるだろう。

 ともあれ、日々のストレスになるようなことはまあどうせこの程度だ。

 あとは気楽に、悠々自適に、自由時間、ミラーカと過ごしたり、あるいは「図書館」に赴いたりしているというわけ。

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