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 そこで夢は唐突に断たれて、私は目を覚ました。ふわふわと柔らかすぎるベッドの感触。朝だ。直感的にわかった。しかし、天蓋てんがいの分厚いビロードが明かり取りの丸窓から差す朝日を遮っているせいで、ベッドを囲むとばりの下はまだ夜のように暗い。隣を見る。そこにはミラーカがいて、安らかに寝息を立てている。幕の隙間からか細い一条の光線が入り込み、彼女の顔かたちを闇の中から浮かび上がらせていた。

 私は微笑む。その寝顔に。

 私の王女様。みんなの王女様。

 ミラーカの顔は、身体とともに私の方へ向いている。投げ出された左腕が、私の脇腹に乗っかっている。この腕が、寝がえりによってスウィングされることで、私のお腹に落ちてきた。だから私の夢は途切れたのだ、と目が覚めた原因に思い至る。

 もしも将来、ミラーカの自伝、もしくは伝記が出版されることになって、その執筆の一環で、私がミラーカについて訊かれたら、それを書くことになる誰かに必ずこう答えてやることにしよう。

 彼女は、この世界が誕生してから最も完璧に近い誠に素晴らしい女王ですが、昔から唯一の欠点がありました。それは、寝相です。

 彼女の寝相の悪さで、多分いつもより早めに起こされた。

 だからといって、特別腹を立てることもなく――ミラーカの無意識のかわいらしいちょっとした運動に、いったい誰が腹を立てることなどできるだろう――私は、起きがけの気怠さに身を任せながら、それまで私が浸っていた夢の中身をひとり反芻する。

 いつもの夢だった。

 ここに来てから、日々、何度も何度も見た夢。

 私の過去。

 はじまりの夢。

 私と彼女の出会いの夢。

 朝、遅刻遅刻と大慌てで入学式めざして「龍」をかっ飛ばし、学生の群れに混ざって安心していたら、実は彼らは全員上級生で、私は大遅刻をかまして怒られて、落ち込んで、それから全校生徒及び先生みんなで仲良く講堂に集まって、学長の長い長い話を聞かされて、退屈で、眠くて、にもかかわらず、これからの生活への期待と焦燥は私の中からぬぐいがたくて、クラスで学生生活に関する色々な説明を受けて、初日だから授業もなく早く帰宅させられて、だけど私はまだ帰りたくなくて、発散されないエネルギーを散々持て余して、なんとなく学校の敷地の隅の草木茂る休憩スペースでごろんと地面に寝転んでいたら、不意に目が合った。

 たまたま通りすがったミラーカ・オルロックと。

 私と彼女、視線と視線が交差した。

 私は、夢を見ているのかと思った。

 ミラーカ・オルロック。

 この国の女王、最高権力者。歴史上もっとも偉大な王と評される彼女。

 一目でわかった。

 彼女のことは、可能な限り調べていたから。

 だって私は、彼女の存在を知ったその日から、彼女のことを毎日想って、いつか彼女に近づきたいという一心で、一日一日を懸命にやり過ごしてきた。

 自らの首筋にそっと手を当てる。

 あのとき彼女の指先が触れた場所。

 私の過去。

 甘い喜びで震えた。

 そのときの喜びが、忘れられなくて、忘れたくなくて、だから私は夢を見る。

 何度も、何度も。

 同じ夢を見る。

 遅刻しそうになって、入学式に出て、彼女と出会う。

 ただそれだけの夢を。

 夢は、彼女の指に触れられたところで終わる。

 そして、朝になって目が覚めるまで、私はまた、遅刻遅刻と大慌てで入学式めざして「龍」をかっ飛ばす過去に戻り全てを一からやり直す。

 あの喜びを感じるところまで。

 何度も、何度も。

 私は、飽きもせずに同じ夢を見続けている。

 何度も、何度も。

 あの甘い喜びに、震えている。

 私は―― 

 目が覚めたのに、そうやってだらだらと夢の反芻、過去の物思いに耽っている無防備な私に、

「クラリモンド」

 と鋭い声が突如投げかけられた。それは、私の名前を呼んだだけで、暗闇が真っ二つに切り裂かれるような圧倒的な存在感を私に意識させる声だ。ミラーカの肉声。美しく、整った声。力溢れる声。でも、いつもの起床時間よりはまだ早いはずなのに。私の呼吸がうるさかったとか、シーツを少し動かしてしまったとか、何かを理由に起こしてしまったのか。ああ、なんてこと。私が、起こしてしまったんだ。私は内心焦りながら、努めて平常な声音で

「起こしてしまいましたか、女王陛下。申し訳ございません」

 と口にする。思わず、おはようございます、を言い忘れた。再チャレンジ。おはようございます、のタイミングを計るが、

「別に謝ることじゃない。というか、女王陛下という他人行儀すぎる呼び方は、できればやめてほしいと初日から言ってるんだけどなぁ……」

 と返されているあいだに、自分なりのいい感じだと思う挨拶のタイミングを完全に逃す。ちょっと落ち込む。

 ミラーカが、上半身を起こして、両手の指を重ね合わせながらまっすぐ両腕を上げて、ぐんと背中を伸ばす。一息つき、まぶたをこすり、眠そうに薄目を開けた状態で、私に鼻息がかかるくらいの至近距離までにじり寄ってくる。そして、まだ、お行儀よくベッドにじっと横たわったままの私に覆いかぶさる。

「じょ、女王陛下……?」

「ミラーカ様」

「ミ、ミラーカ様は、どうしてそこまで私の近くに……?」

「知れたこと。これからあなたの血を吸うのよ」

 彼女の指が、何気ない手つきで私の首を軽く撫でる。

 それだけでもう私は抑えがたい恍惚を覚えるが、理性が、いけない、と叫ぶ。私は己の理性に従う。

「いけません、ミラーカ様。吸血は、本日公務が終わった午後に予定されております。こらえてくださいませ。一日における人間との必要以上のは、ミラーカ様の聖性を穢し、高貴な御身の尊厳を――」

「毎日同じベッドで寝ていて、今更必要以上の接触もないわ。バカね」

 身も蓋もない反論で会話は断ち切られ、あっと思う間もなく首の後ろに手をまわされて、ちょっとの力で折れてしまいそうなミラーカの細くて可憐な腕が私の枕になる。

 私は、首元の大きく開いたゆったりとしたドレープドレスを寝間着として着せられている。だから、服を脱がさなくても手軽に血を吸うことができる。

 肩甲骨のあたり。

 私の肌に、ミラーカがぐりぐりと牙を押し付けた。

 吸血衝動を発散しようとするノスフェラトゥの牙から分泌される体液には、人間の痛みの感覚を抑制する物質が含まれていると言われている。

 ノスフェラトゥの上顎に生えた、一対の牙。

 はじめて、ミラーカに血を吸われたときのことを思い出す。

 ゆっくりと迫ってきたミラーカの顔。

 ミラーカは、笑っていた。ノスフェラトゥが笑うと、口の中で他の歯よりも長い二本の牙が、驚くほど存在を主張する。

 ミラーカから見て右。牙が、もう片方よりも明らかに大きくて、なんで大きさに違いがあるのだろう、と私は不思議だった。

 あのときのように、今、彼女の牙の鋭利な尖端が、私の皮膚を針のようにわずかに突き破って、止まった。

「あっ……」

 声が漏れた。私の口から。はしたない。口を右手で押さえようとしたら、ミラーカの手が私の腕をつかんできた。疑う余地がない邪魔をする意図。

 声を止められない。

「うあ……はぁ……わ……は……あ……」

 ミラーカは、首を動かして口の角度を少しずつ変えることで、牙の位置をじわじわと動かす。深く、浅く。右に、左に。前に、後ろに。それらが刺激となって、形容しがたい感覚が、私の中で起こる。

 吸血には、個々のノスフェラトゥによって色々な楽しみ方があると言う。

 例えば、自らの牙を人間の体内に根元まで差し込むことに深い喜びを感じる者、短く勢いよく人間の血を吸い上げることにこだわりがある者、一度の吸血が短いのは同じだが、血を吸う勢いよりも皮膚に牙を突き立て牙を抜く、その瞬間の感触にこだわりがある者。

 ミラーカはどうか。

 彼女は、牙の先端で私の体内を味わうのが好きだ。長時間、私の体内に牙を差し込み続けるのが好きだ。血も吸わずに、牙を私の体内に埋めたまま、牙を動かしたり、動かさなかったり、とにかく牙で私の中をじわじわと感じるのが好きだ。三十分、私の中に牙を差し込んだまま抜かないことはざらで、一時間半を超える長丁場に達するときだってある。そんなとき私は決まって、汗みずくで、意識を失う寸前、精も根も尽きてヘロヘロになっている。

 けれども今日はいつもとまるで違った。牙を差し込んで一、二分楽しんだあと、ミラーカはあっさり牙を引き抜いて、私の耳に顔を寄せ、囁いた。

「ねえ、クラリモンド。血を吸ってください、って私にお願いしてよ……」

 そして、返答を求めて沈黙。ミラーカは待っている。

 しかし、私は何も言わない。

 何も言えないのだ。

 顔がゆだったように真っ赤になっているのが自分でもわかる。

 思い出す。

 出会った日の約束を。

 彼女は言った。

 あなたに、私のモノになって欲しいの。

 その対価として、私が、あなたの願いをなんでも叶えてあげる。

 私が、あなたに望むのは一つだけ。それは、あなたが私を裏切らないこと。

 以上があの日のミラーカの発言の要点。

 そう。確かに彼女はこう言っていた。

 ――私の願いを、なんでも叶えてあげる、と。

 それは約束だ。今、私とミラーカを繋げてくれている言葉の鎖の一部だ。

 だから、私がミラーカに願いを伝えることには、特別な意味がある。

 容易く、言葉にして、甘えてはいけない。

 それは、特別なことだから。

 鎖だから。

 私はそう思っている。

 私がそう思っていることを、ミラーカは重々承知している。

 だからこそ、血を吸ってほしい、と私が本気で思っていなければ、断っていいよ、と暗に告げている。

 今更、ここまでおぜん立てをしておいて。

 私が本当はどう思っているのかを知ったうえで、そう言っているのだ。

 ミラーカは、私がどんなにはしたない女であるかを知っている。

 ミラーカのモノを見る冷たい目つき。

 見透かされている。

 恥ずかしくて、たまらなかった。 

 羞恥の熱。

 深く、深く、息を吐き出した。

 唾を飲む。

 無情に時間は過ぎる。

 私は――

「…………ださい」

「え? なんだって?」

「――私の血を、吸ってくださいッ!」

 意思の力を振り絞って叫んだ。恥ずかしさを、その場の勢いと気合で振り切るために。ミラーカの起床予定時刻までもうろくに猶予がないはずだったし、何よりこれ以上うじうじ迷っていたら、きっと、彼女は本当に私から血を吸わずにスケジュール通り午後まで待つだろう。私を生殺しにするだろう。

 ミラーカは、そういう人だから。

「よくできました」

 満足そうな表情を意地悪く私に一度見せつけてから、ミラーカが、また、私の肌に牙を突き立てた。いつもよりも、深く、深く。そのせいで、大きなあられもない声が出て、私は愕然とする。どんどんはしたない女にされている気がする。

 そんな動揺が、みるみる溶けてゆく。心がフラットになる。そして、ミラーカが、落ちてくる。落ちてくるのだ。血を吸われているあいだ、ほんの十数秒くらいの短い時間、ミラーカの感情、思考、記憶、そういうミラーカをミラーカ足らしめている精神的な何もかもが、私の中に流れ込んでくる。そう感じる。ああ、落ちてくる。流れ込んで、私と溶け合う。私は、自分の中で欠けていたピースが上手くハマったことを理解する。落ちてくる。最後の数秒、私は加速する。一秒、一秒、という区切りがふにゃふにゃと曖昧になる。てが見えない。心でミラーカを感じ、反対に、ミラーカが私を感じていることを感じ、その反対に――

 溶け合っている。

 気持ちがいい。

 私は、今、ミラーカに求められている。

 それが、言葉よりも、態度よりも、仕草、他のどんな行動でも比較できないくらいありありとわかるから、だから私は、本当は、

 ――生きていて、ミラーカに血を吸われている時間が一番安心できるのだ。

「ありがと。ごちそうさま」

 束の間の幸福が終わった。ぜいぜいと、獣のように息を吐く私を、まるで路傍ろぼうの石みたいな目で見下みおろしながら、彼女が離れる。私に背中を向けて、横になる。私に隙あれば、二度寝をするつもりだ。絶対そうはさせない、と思うのだが、今日はいきなりいつもと違うパターンで仕掛けられたせいで、無駄な体力を消耗、吸血にかかった時間はいつもより断然短かったにもかかわらず、ドッと疲労に襲われていて、もう少し深呼吸で身体を整えないと活動できそうにない。

 一日は、始まったばかりなのに。

 しかも吸血は、今日、あともう一回ある。

 初体験の一日二回。

 ミラーカは、やる。そういう人だから。

 あー、なんかもう寝たい。

 気分のブレ。投げやりな気持ち。幸福な時間が過ぎると、喜びは褪せ、本気で思ってはいなくても、ついつい後悔がにじみ出す。そんな瞬間。

 断ろうと思えば、断れたのに。

 わかってたのに。

 まったくなんで朝っぱらから、こんなに疲れなくちゃいけないんだ。

「朝から疲れたくないならさ」

 ミラーカがぽつりと言った。背中を向けた状態で、こちらを見てすらいないのに、まさに思っていたことそのままを言葉にされて、心臓がドキンと跳ねる。見透かされるのにも、限度ってものがあるんじゃないか。ちょっと怖いんだけど。そう思いながら、おそるおそるく。

「朝から疲れたくないなら、なんですか」

「んー、だったら起きて早々そうそう、おいしそうなにおいぷんぷんさせるの、やめてよね」

 変わらない背中。

 話はそこで打ち止め。

 そういう気配だった。

 で、おいしそうなにおいって、つまりどういう意味なんだ。

 考えて、考えて、私は思った。

 相手が自分に向けている感情をにおいで察知できる、とかそんな感じの特性が、ノスフェラトゥにないのかどうか、あとで「図書館」で調べないといけないな。

 また、考える。

 じゃあ今日のいつごろ「図書館」に行こうか。

 ぼんやりと天蓋を見つめる。

 今日も変わらず、ミラーカと出会ってから私の「いつも通り」となった一日が、新しく始まろうとしていた。

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