1-あさ目が覚めて

1-1


 ――寝坊した。それもよりにもよって初日に。

 私は、戸口をまたいだほぼその瞬間、後ろ手にドアを閉める。勢いが強すぎて、バタァン、とやたらやかましい音が鳴る。自分でびっくりする。だけど私は悪くない。ドアの立て付けがどうやら最近ガタガタで、ちょっと力を入れないと重くてなかなか動かないのが悪い。だから、私は悪くない。悪くないったら悪くない。出来事を都合よくそう解釈して、早歩きで立ち去ろうとする私の後ろ姿に、

「バカぁ! 朝っぱらからうるさいんだよッ! 考えろ! チビたちが起きちまうだろ!」

 と朝っぱらからの怒鳴り声。

 声がした方を振り向くと、むやみに横に長い家屋の前庭と面する開け放たれた一階の大窓から、オバさんが洗濯かごを両手に抱えてこちらを睨みつけていた。細くてひょろひょろとした人並み外れの長身がなぜだか自慢なオバさんは、いつも通り窓から背伸びをして、洗濯物を一枚一枚干そうとしている。長大な物干しざおが、窓のそばの前庭には設置されている。オバさんは、ドアから一度出て、外から回り込むというちょっとした手間を惜しんでいる。短気でしかも極端なものぐさなのだ。

「ごめんなさ~~~~い!」

 負けじと大きな声で謝って、それでもう事は済んだ、と勝手に判断した私は、それ以上何も聞こえないフリをしながら通りまでと玄関を結ぶ砂利道を歩いた。そして、門扉の柵を支えて門構えを形作っているレンガ壁にひっそりと立てかけてあった正方形の【万能紙】を手に取り、する。隣に置かれた専用のカゴに突っ込んであったドギツく明るい黄色の防護服を鞄と制服の上から着込む。そのあいだに【万能紙】は変形を終えていて、私にとってもはやおなじみの「龍」の形になった。

 「龍」。想像上の生き物。私を遠くまで運んでくれるもの。

 【万能紙】。このたびの入学祝いに買ってもらったプレゼントで、私の宝物。通学のための交通手段。買ってもらった日から今日まで散々乗り回し、おかげでまだ入学していないのに、まるで私の一部みたいに私はその存在を身近に感じている。

 私は、防護服のポケットから、入りの小ビンを取り出して、わずかな量「龍」に振りかける。

 ちょっと振りかけただけなのにその反応はめざましく、「龍」の体表は全身薄い黄色から青色に一変する。

 つまり、準備完了というわけだ。

 「龍」がひとりでに、多分拳五個ぶんくらい地面から宙に浮く。

 湾曲した「龍」の体躯の座席として想定されている位置に座って、両足でしっかり「龍」の胴を挟み、その首を抱きしめる。

 そして、する。

 「龍」のヒゲが伸びて、自らの首ごと私の身体をぐるぐると包囲して締め付けた。決して離れないように。

 ――「龍」が飛んだ。

 ほぼ垂直に舞い上がり、門をふわりと飛び越えて、初速こそ穏やかだったものの、上空、【万能紙】などによる飛行の速度制限が一番緩くなる高さまで到達すると、急加速した。

 遅刻しかけているからだ。入学初日、つまりは入学式に。

 私は「龍」を制御しながら前方、左右、細心の注意を払う。仮に誰かと衝突したとしても、どちらかが法定速度を逸脱してさえいなければ、防護服が痛みすらなくわが身を守ってくれるはずだが、どのような事故であれ事故を起こしたことによる時間のロスは痛い。一刻を争うのだ。

 あっという間にオルロック城が近づき、その外観の威容が私を緊張させる。

 この国唯一の巨大な建造物であるオルロック城は、この高さなら、これくらいの速さで飛んで構わない、あの高さからは、それよりも速いこれくらいの速さで飛んで構わない、とこのような調子で、空を利用する人々に飛行速度の制限を示す客観的な基準となっており、それゆえに、城の頂点、展望台からうえが最も速度を出して飛行可能な区域であると法によって定められている。

 だから法に逸脱しない最高速度で空を突っ走ってきた今の私は、オルロック城を「龍」に乗って近づきながら、斜め下に見下ろしている。

 感傷的な気分に襲われた。

 小さいころ、私は、決まった時間にキラキラと輝き出すあの城の、キラキラと輝くどこかの部屋を飽きることなく見上げていた。

 今、私はその城を見下ろしている。

 あのころには、想像もしなかった光景だ。

 私の周りで、たくさんのことが変わった。

 今日は入学式。

 私は、ここまで来た。

 昔の自分に、そう教えてやりたくなった。

 無性に懐かしい気分だった。

 しかしそんな気分にのんきに浸っている場合ではない。

 遅刻してしまう。

 なるべく急いで、しかしスピードと高度は下げながら、城からほど近い学校占有の空域に近づくと、辺りには「龍」にまたがったたくさんの生徒たちがいる。一人、また一人と地面に「龍」を着地させている。

 彼らの様子は、誰一人として、別に遅刻を焦っているようには見えない。

 どうやら私が思っていたほど遅刻ギリギリではなかったようだ。

 安堵の気持ちで胸をいっぱいにしながら、私は、これから日々を過ごすことになる学舎を空から見下ろし、そして、胸いっぱいに朝の清涼な空気を吸い込んで――

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